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日常の違和感はすぐそばに  作者: ノアキ光


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20/25

観客のいるスポーツ

運動不足を解消しようとジョギングを始めた日のことを、俺はいまでも後悔している。


住宅街の小さな公園の周りを走り始めた初日、すれ違った老人と目が合った。

老人は公園のベンチで、小さな金属製のカウンターをカチリと鳴らしていた。

「いまので千五百十二」

老人は呟いた。

ただの趣味だろうと気に留めなかった。


だが、三日後。

俺が息を切らして一キロを走り終えた瞬間、後ろから歩いてきたスーツ姿の男が、胸のポケットからやはり小さなカウンターを取り出し、カチリと鳴らした。

「五千三百二」


背中に冷や汗が伝った。

なぜ見知らぬ他人が、俺の周囲で数字を数えているのか。

気になり出すと、街のあちこちにいることに気づいた。

スーパーのレジ打ちの女性が、俺が店を出る瞬間に指先でカチリ。

バスの運転手が、俺が降車口に向かう歩調に合わせてカチリ。

彼らは決して俺と目を合わせない。

ただ、俺の「動作」に合わせて無心で数字を刻んでいる。


恐怖で発狂しそうになり、俺は走るのをやめた。

自室に引きこもり、息をひそめた。

しかし、部屋の中でも違和感は消えなかった。

隣の部屋から、かすかな音が聞こえるのだ。

俺がベッドから立ち上がると、壁の向こうで「カチリ」。

コップを持ち上げると「カチリ」。


「俺を監視して、何の数字を数えているんだ!」

耐えかねた俺は、ついに隣室のドアを激しく叩いた。

出てきたのは、どこにでもいそうな眼鏡をかけた青年だった。

彼は怯えた様子もなく、ただ淡々と俺を見つめた。


「頼むから教えてくれ。あなたたちは俺の何を数えているんだ? 歩数か? 呼吸の数か?」


青年は不思議そうな顔をして、ポケットから銀色のカウンターを取り出した。

そこには『89,201,405』という途方もない数字が表示されていた。


「歩数? 呼吸? そんなくだらないもの、誰も興味ありませんよ」

青年は静かに言った。

「私たちが記録しているのは、あなたが生まれてからこれまでに『消費したエネルギー』……つまり、カロリーです」


「カロリー……?」

「ええ。この世界は巨大なスタジアムであり、人類は全員、無給の選手なんです。ですが、観客席にいる方々は、だらだらと生きている人間のプレイなんて見たくない。だから、一定の運動量を下回った選手は、試合放棄とみなされて退場――つまり存在を消去されるルールになっている」


青年の言葉に、血の気が引いた。

「じゃあ、俺がジョギングを始めたのは……」

「命拾いでしたね。あのまま室内で寝そべっていたら、昨日あたりで退場させられていた。

あなたが必死で走る姿を見て、観客の賭け率も上がったんですよ」


青年はカウンターを愛おしそうに撫でた。

「私たちは審判兼、あなたという選手のマネージャーのようなものです。あなたのカロリー消費量が記録されるたび、私たちにも報酬が入る」


俺は全身の毛穴がひらくような戦慄を覚えた。

俺が健康のために始めたスポーツは、自分の命を投げ打つ「生存をかけたデスゲーム」そのものだったのだ。

走らなければ殺される。

体を動かし続けなければ、存在を消される。


それ以来、俺の生活は一変した。

俺は一秒も無駄にせず、運動をし続けている。

朝から晩まで全力で走り、室内ではバーピージャンプを繰り返し、倒れ込むように眠っては、また限界まで腕立て伏せをする。

汗が床に染み込み、筋肉が悲鳴を上げてもやめられない。

街のあちこちで、俺を囲む「観客」たちが熱狂的にカウンターをカチカチと連打する音が聞こえる。


「素晴らしいぞ! もっと動け!」

「過去最高のペースだ!」


筋肉は引き締まり、体脂肪率は極限まで落ちた。

俺は街一番の「アスリート」になった。

周囲の視線は賞賛へと変わり、俺自身もどこかで誇らしさを感じ始めていた。

生き残るために始めた運動が、俺のすべてになったのだ。


今日も俺は、限界を超えてグラウンドを全力疾走している。

心臓が破裂しそうだ。足の感覚がない。

だが、誰よりもカロリーを消費しているという全能感が、俺の体を突き動かす。


その時、あの青年が、慌てた様子でトラックの脇に走り込んできた。

彼の手に握られたカウンターが、激しいアラーム音を鳴らしている。


「今すぐ走るのをやめてください!」


青年は青ざめた顔で叫んだ。

俺は走りながら息を切らして問い返す。

「なぜだ! 俺は運動しているぞ! 命がけでカロリーを消費しているんだ!」


青年は絶望に満ちた目で、叫び返した。


「ルールが変わって、今日からシーズンオフ! 今期のテーマは『 Eスポーツ 』です!」

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