観客のいるスポーツ
運動不足を解消しようとジョギングを始めた日のことを、俺はいまでも後悔している。
住宅街の小さな公園の周りを走り始めた初日、すれ違った老人と目が合った。
老人は公園のベンチで、小さな金属製のカウンターをカチリと鳴らしていた。
「いまので千五百十二」
老人は呟いた。
ただの趣味だろうと気に留めなかった。
だが、三日後。
俺が息を切らして一キロを走り終えた瞬間、後ろから歩いてきたスーツ姿の男が、胸のポケットからやはり小さなカウンターを取り出し、カチリと鳴らした。
「五千三百二」
背中に冷や汗が伝った。
なぜ見知らぬ他人が、俺の周囲で数字を数えているのか。
気になり出すと、街のあちこちにいることに気づいた。
スーパーのレジ打ちの女性が、俺が店を出る瞬間に指先でカチリ。
バスの運転手が、俺が降車口に向かう歩調に合わせてカチリ。
彼らは決して俺と目を合わせない。
ただ、俺の「動作」に合わせて無心で数字を刻んでいる。
恐怖で発狂しそうになり、俺は走るのをやめた。
自室に引きこもり、息をひそめた。
しかし、部屋の中でも違和感は消えなかった。
隣の部屋から、かすかな音が聞こえるのだ。
俺がベッドから立ち上がると、壁の向こうで「カチリ」。
コップを持ち上げると「カチリ」。
「俺を監視して、何の数字を数えているんだ!」
耐えかねた俺は、ついに隣室のドアを激しく叩いた。
出てきたのは、どこにでもいそうな眼鏡をかけた青年だった。
彼は怯えた様子もなく、ただ淡々と俺を見つめた。
「頼むから教えてくれ。あなたたちは俺の何を数えているんだ? 歩数か? 呼吸の数か?」
青年は不思議そうな顔をして、ポケットから銀色のカウンターを取り出した。
そこには『89,201,405』という途方もない数字が表示されていた。
「歩数? 呼吸? そんなくだらないもの、誰も興味ありませんよ」
青年は静かに言った。
「私たちが記録しているのは、あなたが生まれてからこれまでに『消費したエネルギー』……つまり、カロリーです」
「カロリー……?」
「ええ。この世界は巨大なスタジアムであり、人類は全員、無給の選手なんです。ですが、観客席にいる方々は、だらだらと生きている人間のプレイなんて見たくない。だから、一定の運動量を下回った選手は、試合放棄とみなされて退場――つまり存在を消去されるルールになっている」
青年の言葉に、血の気が引いた。
「じゃあ、俺がジョギングを始めたのは……」
「命拾いでしたね。あのまま室内で寝そべっていたら、昨日あたりで退場させられていた。
あなたが必死で走る姿を見て、観客の賭け率も上がったんですよ」
青年はカウンターを愛おしそうに撫でた。
「私たちは審判兼、あなたという選手のマネージャーのようなものです。あなたのカロリー消費量が記録されるたび、私たちにも報酬が入る」
俺は全身の毛穴がひらくような戦慄を覚えた。
俺が健康のために始めたスポーツは、自分の命を投げ打つ「生存をかけたデスゲーム」そのものだったのだ。
走らなければ殺される。
体を動かし続けなければ、存在を消される。
それ以来、俺の生活は一変した。
俺は一秒も無駄にせず、運動をし続けている。
朝から晩まで全力で走り、室内ではバーピージャンプを繰り返し、倒れ込むように眠っては、また限界まで腕立て伏せをする。
汗が床に染み込み、筋肉が悲鳴を上げてもやめられない。
街のあちこちで、俺を囲む「観客」たちが熱狂的にカウンターをカチカチと連打する音が聞こえる。
「素晴らしいぞ! もっと動け!」
「過去最高のペースだ!」
筋肉は引き締まり、体脂肪率は極限まで落ちた。
俺は街一番の「アスリート」になった。
周囲の視線は賞賛へと変わり、俺自身もどこかで誇らしさを感じ始めていた。
生き残るために始めた運動が、俺のすべてになったのだ。
今日も俺は、限界を超えてグラウンドを全力疾走している。
心臓が破裂しそうだ。足の感覚がない。
だが、誰よりもカロリーを消費しているという全能感が、俺の体を突き動かす。
その時、あの青年が、慌てた様子でトラックの脇に走り込んできた。
彼の手に握られたカウンターが、激しいアラーム音を鳴らしている。
「今すぐ走るのをやめてください!」
青年は青ざめた顔で叫んだ。
俺は走りながら息を切らして問い返す。
「なぜだ! 俺は運動しているぞ! 命がけでカロリーを消費しているんだ!」
青年は絶望に満ちた目で、叫び返した。
「ルールが変わって、今日からシーズンオフ! 今期のテーマは『 Eスポーツ 』です!」




