聖少女は声を聞く
回覧板の最後に、手書きの一行があった。
〈十月の聖少女当番 三〇二号室 小春ちゃん〉。
「ごみ当番みたいなものよ」
と、世話役の浜田さんは黒糖まんじゅうを手に笑った。
「日曜の夜、集会所で白い服を着て座るの。みんなが順番に耳元で囁くから、『いいよ』って答える。それだけ」
手引きの隅に小さな字があった。
〈当番期間中、ご家族は愚痴・独り言をお控えください〉。
吹き出した私に浜田さんも笑い返したが、目だけが笑っていなかった。
越してきて半年、町内の輪にはまだ入れていない。
壁の向こうからは毎朝、同じ時刻に同じ間隔で、包丁の音がする。
お隣は朝が早い、と思っていた。
選ばれたことが、正直、少し嬉しかった。
日曜の夜、白いシャツの小春は、足をぶらつかせないよう膝を押さえて座っていた。
九歳の背中が、いつもより小さい。
列ができた。
八百屋の主人、独り暮らしのおばあさん、背広のままの男性。
みな小春の耳に口を寄せて短く囁き、小春は「いいよ」と答える。
そのたびに相手の肩から力が抜けるのが分かった。懺悔のようなものだろう。
人の気持ちが軽くなって帰っていく光景は、悪くなかった。
その週から、小春は何を言っても「いいよ」と返すようになった。
プリンを取られても、ノートを破られても。
「えらいね」と撫でながら、胸の奥が少しざわついた。
水曜の夜、皿を洗いながら私はぼやいた。
上の階の足音で、半年も眠れない。誰かどうにかしてくれないかな、と。
「いいよ」
宿題をしていた小春が、顔も上げずに言った。
木曜の朝、天井が静かだった。
「上の方、夜中に急に引っ越されたんですって」
と浜田さんが言った。
安堵した。
そして、安堵した自分にひやりとした。
玄関の小春の運動靴は泥まみれだった。
最後の日曜、片づけをする私に、中学生くらいの少女が紙袋を押しつけて早口で言った。
去年の当番の、麻衣ちゃんだ。
「おうちでは、疲れたとか、やめたいとか、言わないほうがいいです。うちのお母さんは、まだ、うちにいます」
訊き返す前に、彼女はもう行ってしまった。
その夜、夫の寝息を聞きながら洗い物を終え、ベランダに出る。
静かすぎて、一日分の疲れが押し寄せた。
毎朝のお弁当も、夫の靴下も、誰にも知られない半年の孤独も。
ああ、もう、全部やめたい。
うっかりつぶやいてしまったようだ。
背後で、床が小さく鳴った。
「いいよ」
小さな両手が背中に触れた。温かくて、少しも迷いのない手だった。
気づくと朝で、私は台所に立っていた。
包丁がまな板を叩く。卵が割れる。弁当箱に白いご飯が詰まっていく。
すべて私の手がやっている。見たこともないほど美しい手際で。
止めようとした。指一本動かない。
叫ぼうとした。喉は震えもしない。
意識だけが水底の石のように、体の奥に沈んでいる。
やめたのは、私だけだ。
手は、いつまでも働く。
「最近の君、いいね」
と夫が新聞を広げた。
「溜息も愚痴もなくなって。静かで助かるよ」
私の口が、ありがとう、と笑った。
足元で小春が見上げ、小さな手で私の頭を撫でる。
「おかあさん、えらいね」
チャイムが鳴り、足が玄関へ向かった。
浜田さんが満足そうに私の顔を覗き込む。
「手のかからないお母さんって、いいわよねえ。お隣の奥さんもそうなの。ほら」
壁の向こうで、包丁の音がした。
半年間、私が「朝が早い」としか思わなかった音。
まだ、うちにいます。
いるだけだ。
ずっと。
心の中で叫び続けた。
たすけて。もうやめたい。
けれど願いを聞き届ける子は、目の前で微笑んでいるだけだった。




