思い出の千羽鶴
放課後、陸が向かうのは、決まって隣のよしえおばあちゃんの家だった。
八十歳を過ぎたよしえさんは、いつも古い和室の真ん中で、静かに折り紙を折っていた。
線香と乾いた畳の匂いが漂うその部屋で、陸は出された麦茶を飲みながら、おばあちゃんの手元を眺めるのが好きだった。
母からは
「よしえさんは来月、家を畳んで施設に入るのよ」
と聞かされていた。
「家を畳む」というのが引っ越しの片付けを指す慣用句なのだと、十歳の陸は思っていた。
だが、その部屋にはいくつかの小さな違和感があった。
一つ目は、おばあちゃんが折る紙だった。
市販の折り紙のような鮮やかさはなく、どれもかすれた茶色や、くすんだ緑色をしている。
よく見ると、柱の木目や障子の桟、畳の縁のような模様が印刷されているみたいだった。
二つ目は、部屋の広さだった。
昔はもっと広い八畳間だったはずなのに、最近はどういうわけか、押し入れや床の間までの距離が妙に近く感じる。
自分が成長して背が伸びたせいだろうと陸は納得させていたが、正座した膝の先に迫る壁の威圧感は、日ごとに増していた。
そして何より奇妙なのは、完成した鶴の「重さ」だった。
「持ってみるかい?」
手渡された一羽の鶴を手に載せた瞬間、陸の手首がガクンと沈んだ。
見た目はただの紙なのに、まるで鉄の塊かリンゴでも握っているようにズシリと重い。
「おばあちゃん、これ、なんでこんなに重いの?」
「ふふ、中にいろいろ閉じ込めているからねぇ」
おばあちゃんはそう言って、細い指先でカサリと音を立て、また新しい紙を折った。
引っ越しの前日。和室からは家具が一切消えていた。
だが部屋は、まるで四畳半ほどにまで縮んでいるように見えた。
おばあちゃんは直に畳へ座り、最後の千羽目となる鶴を折っていた。
その手にある紙は、どこか見覚えのある緑色——いま陸たちが座っている畳の縁と、地続きになっているように見えた。
「千羽鶴って、願いごとが叶うんだよね? 病気が治るとか」
陸が尋ねると、おばあちゃんは優しく目を細めた。
「そう言われているねぇ。でも私はね、この家を丸ごと持って行きたかっただけなんだよ。思い出の詰まった、大切な空間だからね」
カサリ。紙の角と角が合わされる。
その瞬間、陸の視界が歪んだ。
部屋の四隅が、まるで透明な手に引っ張られたかのように、内側へぐにゃりと折れ曲がったのだ。
「あ……」
カサリ。もう一度、折る音。
柱が傾き、天井がなだらかに下がり、部屋全体がパタン、パタンと対角線に沿って幾重にも折りたたまれていく。
ひやりとした風が頬を撫でた。
気がつくと、陸は青空の下、更地にぽつんと座っていた。
そこには家のかけらもない。
目の前には、小さなスーツケースを持ったおばあちゃんが立っていた。
その手には、千羽の鶴が繋がれた鮮やかな束。
一羽一羽の小さな羽の折れ目に、和室の欄間や床の間、かつての光景がぎっしりと小さく圧縮されていた。
「驚かせてごめんね、陸ちゃん」
やってきたタクシーに乗り込む際、おばあちゃんは陸のポケットに何かを押し入れた。
「あげるよ。いつも遊びに来てくれたお礼」
去っていく車を見送りながら、陸はポケットの中のものを握りしめた。
それは一羽の鶴だった。
てのひらの中でガクンと沈むその重みは、あの日々を過ごしたあの和室の、温かな空気そのものだった。




