海辺の少女の忘れられた記憶
私は、海で拾ったものには必ず名前を書く。
貝殻なら「白い貝殻」。
錆びた缶なら「赤い缶」。
誰かの落としたボタンなら「青いボタン」。
そうしておかないと、忘れてしまうからだ。
「変な趣味だよね」
同級生の美咲は、防波堤に座りながら笑った。
「普通は捨てるものを、わざわざ残すなんて」
「でも、誰かが大事にしてたものかもしれないでしょ」
私は答えた。
昔からそうだった。
人が気づかない小さな変化によく気づく。机の傷、友達の無理した笑顔、先生のため息。
そのせいで、私は少し疲れやすい。
みんなが忘れることを、私だけ覚えているから。
だから海が好きだった。
海は、誰かが忘れたものを毎日届けてくれる。
最初の異変は、一枚の写真だった。
砂浜に落ちていた古い写真。
そこには、幼い私が写っていた。
隣には知らない女の子。
裏を見ると、日付と文字があった。
『十年前、海辺にて。姉妹』
私は一人っ子だった。
そう、母から聞いていた。
二日後、また海に写真が流れ着いた。
今度は高校生の私。
そして隣には、あの女の子。
裏にはこう書かれていた。
『今年の夏、また会おう』
胸がざわついた。
私は誰かを忘れている。
そう思った。
家に帰り、母に写真を見せた。
母はしばらく黙っていた。
そして、小さく笑った。
「やっぱり海は返してくるのね」
「……何を?」
母は答えなかった。
翌日、私は海へ向かった。
そこには一人の少女が立っていた。
私と同じ制服。
私と同じ髪型。
でも、顔色だけが違った。
死人のように白かった。
「久しぶり」
少女は言った。
「やっと思い出してくれたんだね」
「あなたは誰?」
少女は少し寂しそうに笑った。
「あなたが捨てたもの」
その言葉で、頭の奥に眠っていた記憶が開いた。
十年前。
海で事故があった。
私には姉がいた。
双子の姉。
泳ぎが苦手な私を助けようとして、姉は帰ってこなかった。
でも母は言った。
「あなたは一人っ子よ」
私は信じた。
信じなければ、生きられなかったから。
「あなたは私を忘れたんじゃない」
少女は言った。
「家族全員で、私を忘れたことにしたんだよ」
私は何も言えなかった。
悲しかった。
悔しかった。
でも、それ以上に怖かった。
だって母は、姉を消した代わりに、私を守った。
そして私は、その嘘の中で幸せに育った。
「じゃあ、あなたは幽霊なの?」
聞くと、少女は首を横に振った。
「違うよ」
「じゃあ何?」
少女は海を指差した。
「この海岸で拾われたもの」
私は気づいた。
貝殻。
写真。
古い鍵。
全部、失ったものではなかった。
誰かが、忘れたかったものだった。
海は失せ物を返す場所じゃない。
人間が捨てた罪悪感を、一時保管している場所だった。
翌日、私は母に聞いた。
「お姉ちゃんのこと、どうして隠したの?」
母は泣いた。
そして言った。
「あなたが笑ってくれたから」
その言葉を聞いて、私は許すことも責めることもできなかった。
ただ、その日から私は海で拾ったものを名前付きで保存するのをやめた。
代わりに、全部写真に撮ることにした。
証拠を残すためではない。
忘れるためだ。
数年後、私は海岸で小さな瓶を拾った。
中には一枚の紙が入っていた。
『この海で拾った記憶は、返却期限を過ぎています』
私は笑った。
海も意地悪になったものだ。
昔は忘れたものを返してくれた。
今は、忘れたいものまで返してくる。
でも一番困るのは、海ではない。
本当に怖いのは――
人間が、忘れることに慣れすぎていることだ。
だから私は今日も海へ行く。
落とし物を拾うためではない。
誰かが捨てた「都合の悪い真実」が、まだ漂っていないか確かめるために。




