謎の夜の声
キーボードを叩く乾いた音だけが、深夜二時の自室に響いている。
五年前、声帯の神経疾患で発声能力を失って以来、私にとって夜の静寂は静かな伴走者だった。
会話はすべて画面上のテキストで済む。
声のない生活にも、もうすっかり慣れたつもりだった。
耳に装着しているのは、音響エンジニアの友人からテストを頼まれた試作型の補聴イヤホンだ。
周囲の極小な空気振動をAIがリアルタイムで解析し、環境ノイズを消し去りながら「人間の声」の周波数だけを抽出・補正して届けるという優れものである。
締め切り前の翻訳作業に集中するため、私はこれを高性能な耳栓代わりに重用していた。
最初の違和感が訪れたのは、ぬるくなったハーブティーを一口飲んだときだった。
無音のはずのイヤホンの奥から、砂嵐のようなノイズに混じって掠れた音が届いたのだ。
『……あ……つ……い……』
私は打鍵する手を止めた。背筋に冷たいものが走る。
一人暮らしのマンション七階。窓は二重サッシで固く閉ざされている。
イヤホンを耳から外すと、部屋は完璧な静寂に包まれた。
だが、再び装着すると、また微かに聞こえる。
『……喉が、乾いた……苦しい……』
痛切な、懇願するような低音。
気味が悪くなり、私はスマートフォンでイヤホンの管理アプリを開いた。
音源追跡レーダーの画面には、「音声認識率:89%」という表示とともに、部屋のどこから音が発せられているかを示す赤く光る波形が浮かんでいた。
赤点は、私の目の前——デスクの端を指している。
そこにあるのは、仕事の合間に目を楽しませてくれる小さなガジュマルの鉢植えだけだった。
「……まさか」
私は脳裏に浮かんだある科学記事を思い出した。
植物は極度の水不足に陥ると、導管の中で気泡が弾け、人間には聞こえない超音波の破壊音を発する。
この超高性能イヤホンのAIは、ガジュマルが上げる微小な悲鳴を拾い、勝手に「人間の言葉」へと変換・強調してしまっているのではないか。
怪異ではなくテクノロジーの不細工な誤作動だと分かり、私は深く胸を撫で下ろした。
連日の徹夜で水やりを忘れていたことを思い出し、申し訳なさからジョウロを取って、たっぷり水を注いだ。
土がゴクゴクと水を吸い上げていく。これで「声」は消えるはずだ。
しかし、イヤホンから聞こえる掠れ声は止まらなかった。
『……助けて……私を見つけて……』
なぜだ。水はやったはずなのに。
混乱しながらスマホの画面に目を落とした私は、息を飲んだ。
音源を示す赤点が、レーダーの上をゆっくりと移動していたのだ。
デスクの上の鉢植えを離れ、空気を滑るようにして——私自身の胸元へ。
赤点が完全に合致したのは、私の「喉元」だった。
『……ここにいるよ……叫んでいるんだ……』
喉に手を当てると、指先に微かな、本当に微かな震えが伝わってきた。
声を失ったあの日から、私は一度も取り乱さず、物分かりの良い諦めを演じてきた。
だが、脳は、心は、決して諦めてなどいなかったのだ。
表に出ることのなかった叫びや感情が、脳からの微弱な神経信号となり、麻痺したはずの喉の筋肉をミクロの単位で揺らし続けていた。
最新のテクノロジーが拾い上げたのは、幽霊の囁きでも植物の悲鳴でもない。
私が五年間、暗闇の底に閉じ込め続けていた、自分自身の血の通った「夜の声」だった。
静寂の中、私は喉を震わせながら、ぽろぽろと温かい涙をこぼした。




