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日常の違和感はすぐそばに  作者: ノアキ光


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15/25

アイドルとファン


土曜の午後四時。

下北沢のライブハウスの楽屋は、制汗スプレーと冷めたコンビニ弁当の匂いがした。


「ミオ、リップ曲がってる」

キャプテンのカナさんが、私の顎をつまんで直してくれる。

二十五歳。ステージ前に必ずバナナを半分だけ食べ、残りを私に押しつける人だ。

「顔、こわばりすぎ。どうせ今日も四十人だよ。緊張するだけ損」

笑ってしまった。

結成十年、五人組「ミルキー・ステップ」の動員は四十人。

それが現実だった。


私は二十二歳、三年目。

母からは「そろそろ帰っておいで」とメッセージが来ている。

既読のまま、返していない。

センターに立ちたい。一度でいいから、いちばん愛される場所に。

そう思っていることを、誰にも言えずにいた。


ステージから見ると、最前列にはいつも十二人の女性がいる。

二十代から四十代、服装はばらばらなのに、ペンライトを掲げる角度だけが揃っている。

物販には並ばず、チェキも撮らない。

ただ、コールが完璧だ。

私たちが振りを間違えても、彼女たちは間違えない。

最前列の右端には、なぜか一人ぶんの空白があって、誰もそこに入らなかった。


入口で人数を数えるのは、マネージャー野島さんの癖だ。

「最前、十二。よし。うちの財産だ」

ありがたい。

なのに、少し怖かった。

ライブが終わると、彼女たちの顔がどうしても思い出せないのだ。

残るのはペンライトの色と、丸っこい字で名前を書いたうちわだけ。

「ユキ」「ミサキ」「あかり」。

知らない名前のコールまで混じる。

「昔のメンバーの名前だよ」とカナさんは言った。

「古参って、そういうの大事にするから」


新メンバーのひなたは、今月入ったばかりの十八歳だ。

初日の帰り際、彼女は私の袖をそっと引いた。

「ミオさん。最前列の人たちって、ずっと同じ顔じゃないですか?」

「顔、覚えてるの?」

「覚えてないです。覚えてないのに、同じ顔だって、思うんです」

私は笑って流した。

「疲れてるんだよ。そのうち慣れるって」。


その秋、カナさんが卒業を発表した。

楽屋で泣く私に、彼女は笑った。

「やっと楽になれるんだよ。あっち側に行けば、ただ好きでいればいいんだもん」

「あっち側?」

「ファン側。卒業したら、みんなそっちに回るの。あんたもそのうち分かる」

よくある、あたたかい話だと思った。私は涙を拭いて頷いた。


最後の日、カナさんはバナナを食べなかった。

丸ごと私の手に載せて、

「今日から、あんたの係ね」

とだけ言った。


ライブで、私は初めてセンターに立った。

スポットライトは熱く、眩しかった。

愛される場所は、こんなにも明るいのか。

願いが叶ったのに、カナさんの背中を押して手に入れたような気がして、胸の奥がちくりとした。

新メンバーのひなたは、隣で過呼吸になるほど泣いていた。


アンコールの最後、カナさんは客席へ降りた。

ファンの最前列の十二人が、一斉に両手を広げる。

「おかえり」

十二の声が、ぴったり重なった。

カナさんは泣き笑いで、右端の空白に収まった。

その瞬間、彼女の顔がふっと薄くなったように見えた。照明のせいだ。きっと。

入口で野島さんが数えた。

「最前、十三。いい財産だ」


数年後の土曜の夜。

下北沢の地下は、今日もあたたかい。

もはや卒業した私は、最前列の、左から十四番目に立っている。

ここがいちばん好きだ。

ステージの子の汗が見える。息づかいが聞こえる。

今日のセンターは、ひなたちゃん。

初めての大役に、緊張で唇を噛んでいるのが、愛しくてたまらない。


どうして私は、こんなに彼女たちを愛しているんだろう。

いつからだったか、思い出せない。

家族のことも、昔のことも、霞がかかったように遠い。けれど、それでいい。愛していれば、満たされる。


ふと、ひなたちゃんが客席を見た。

その瞳に、小さな恐怖が走ったのを、私は見逃さなかった。どうしてだろう。

こんなに優しく見つめているのに。


彼女はあわてて目をそらし、サビの振りを一拍遅らせた。

隣の誰かが、私の肩を叩く。顔は、よく見えない。でも、いつもそこにいる人だ。

「コール、いくよ」

私は手にしたうちわを高く掲げた。丸っこい字で、名前が書いてある。

「ミオ」

誰の名前だろう。思い出せない。

ただ、自分で書いた字だという気がした。

息を吸い、私はその名前を叫んだ。

「ミオーーーッ!」

胸の奥が、あたたかくなる。

左隣の十三人も、それぞれ知らない名前を叫んでいる。

ああ、みんな、昔の子がほんとうに大好きなんだ。

気づくと私は、ポケットのバナナを半分に割って、右隣の空白に差し出していた。

誰もいないのに。まだ、いないのに。

入口で、野島さんが数えている。


「最前、十四。……いい財産だ」

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