逆転した泥棒
最初に消えたのは、冷蔵庫のプリンだった。
駅前の店の限定品。金曜に買って大事に取っておいたのに、土曜の朝には空の棚だけが残っていた。
「ねえ、食べたでしょう」
夫の聡は新聞から顔を上げない。まだ怒っているのだ、と私は思った。
あの雨の夜に口論して以来、彼は私の声が聞こえないふりを続けている。
次の日は、お気に入りのマグカップ。
その次は読みかけの文庫本、そして老眼鏡。
どれも私が毎日使うものばかりだった。
「泥棒よ。絶対そう」
訴えても、夫は黙って味噌汁をすするだけだ。
二人分の茶碗を並べるくせに、箸をつけるのは自分の分だけ。
私はこのところ不思議と空腹を感じないので、気にしなかった。
家の中では、妙なことが続いた。
玄関に黒い靴がずらりと並んだ日があった。白い封筒を手にした人たちが、夫に深々と頭を下げて帰っていった。
毎朝、奥の和室から、ちりん、と小さな鈴の音がする。
あの部屋の前に立つと、なぜか足がすくむので、中を見たことはなかった。
今朝、最後に取っておいた羊羹がなくなった。
もう許せない。私は台所に座り込み、犯人を待った。
深夜、廊下がきしんだ。夫だった。羊羹を手に、足音を忍ばせて和室へ向かっていく。浮気相手でも隠しているのか。
私は初めて、襖の隙間から中をのぞいた。
仏壇の前に、夫が正座していた。
灯りの中に、写真が見える。旅先で笑っている、私だ。
その前に、プリン、マグカップ、文庫本、老眼鏡が、行儀よく並べられている。
夫は羊羹をそっと置き、鈴を鳴らして、肩を震わせた。
「ごめんな。意地張って、傘も持たせずに行かせて……。好きだっただろ、これ」
ああ、そうか。
口をきいてくれなかったのは、怒っていたからではなかった。二人分の茶碗は、嫌がらせではなかった。
その瞬間、甘い香りがふわりと私を満たした。忘れていた空腹が、胸の奥で小さく鳴った。
盗まれたのではない。夫は毎晩、私の物を、私のところへ届けていたのだ。
翌朝、仏壇には羊羹が一切れと、スプーンが二つ並んでいた。




