好奇心の向こう側
夕暮れの二組の教室。
放課後の掃除が終わった後も、同級生の藤村は自分のデスクの隅をじっと見つめていた。
人差し指の爪を立て、何かをカリカリと必死に擦っている。
「藤村、なにしてんの?」
声をかけると、藤村は肩を大きく跳ねさせ、赤く腫れた指先を慌てて制服のポケットへ隠した。
「……なんでもない」
と低く答え、逃げるように去っていく。
その指には、痛々しい絆創膏が何重にも巻かれていた。
悠太の胸に、小さな棘のような好奇心が刺さった。
藤村の机に近づき、天板の端を指でなぞる。
使い古された木の質感の中に、一箇所だけ、ほんのわずかな「引っかかり」があった。
爪先を差し込み、慎重に持ち上げる。カリッ。
シールを剥がすような手応え。
目に見えないほど透明で極薄のフィルムが、ペリペリと音を立てて捲れた。
木の塗膜ではない。
しなやかで、生き物の皮膚のような何か。
捲れた隙間から、ひんやりとした風が吹いた。
見たこともない色彩の微光、甘い香木の匂い、耳奥を揺らす涼やかな鈴の音――日常の裏側に潜む異常な世界が、一瞬だけ鮮やかに溢れ出す。
――なんだ、これ。
胸が激しく脈打った。
もっと剥がしたい。この「下」に何があるのか確かめたい。
それから悠太は、学校中で「まくれた部分」を探した。
図書室の書架、階段の踊り場の柱。世界の表面には、至る所に目立たない「縫い目」があった。
少し剥がすたび、圧倒的な美しさが隙間から覗く。指先が擦り切れ、爪が割れても作業をやめられなかった。
一週間後、放課後の廊下で藤村に呼び止められた。
藤村の顔はげっそりと削げ、両手は包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「悠太……お前も、剥がしてるんだろ。やめろ、あれは人間を守る『保護膜』なんだ。剥がしすぎると、もう日常に戻れなくなる!」
藤村の目は底知れぬ恐怖に怯えていた。
「僕にはもう、親の顔も自分の部屋も、意味不明な光と音の暴力にしか見えない。人の言葉すらノイズなんだよ……!」
悲痛な警告に一瞬恐怖が首をもたげたが、去っていく藤村の背中を見送りながら、悠太の胸を狂おしい問いが満たした。
(藤村の見ている『その先の景色』は、どれほど凄いんだろう?)
その夜、悠太は自室の闇の中で右手を見た。
皮が捲れ、赤く腫れた指先。
ふと、左腕の肘の内側に、かすかな「引っかかり」を見つける。
悠太は息をのんだ。
人間という存在の表面にも、膜があったのだ。
引き返せない恐怖を、暴走する好奇心が容易く塗り潰す。
悠太は迷わず、自分の腕の皮膜に爪を立てた。
ペリ、と気持ちのいい音が響く。
人間としての自分が捲れていく。隙間から溢れ出したのは、世界を形作るあまりに強烈な「真実」だった。
もう、日常の言葉も、自分の名前すら思い出せない。
ただ、耐えがたいほどの美しさに、自分が溶けていくのを感じていた。




