引き延ばされる秋の夜長
秋の夜長とはよく言ったものだが、今夜の集中力は自分でも恐ろしいほどだった。
「ねえ……もう、頑張らなくていいのよ」
妻の由香が、マグカップを書斎のデスクに置いた。
長年連れ添った彼女の仕草だが、カップから立ち上る湯気が、まるで時間が止まったかのようにピタリと空気中に留まっている。
置いた指先も、痛々しいほど震えていた。
「あと少しなんだ。この資料さえ終われば、明日の納期に間に合う」
キーボードを叩き続けながら答えると、由香は僕の肩に手を置いた。
その手は氷のように冷たく、すがりつくように力が込められている。
目元は真っ赤に腫れ上がっていた。
「本当に……今まで、ありがとうね」
「大げさだな。たかが一週間の繁忙期だよ」
苦笑したものの、胸の奥に不穏なざわめきが残る。
部屋のどこかから、小さく規則的な音が響いていた。
……いち……に……さん……。
壁の柱時計の音だろうか。
だが、そのテンポは異様なほど遅く、低く掠れていた。
それなのに僕の頭は冴え渡り、指先は軽快にキーを叩き続けている。
窓の外で鳴く虫の声も、スロー再生のように低く歪んでいた。
「秋の夜長だからかな。時間が引き延ばされているみたいだ」
呟く僕に応えず、由香は書斎の隅へ歩くと、クローゼットから僕の黒いジャケットを取り出した。
それを愛おしそうに胸に抱きしめ、じっと僕を見つめる。
その瞳から、大きな涙がこぼれ落ちた。
違和感は、それだけでは終わらなかった。
画面右下の時刻は「02:14」。何千文字も打ち込み、会話を交わしている間も、数字は「02:14」から一度も動いていない。
胸に手を当てる。鼓動がない。
呼吸をしようとしても肺が動かない。
なのに苦しくなかった。
「ねえ、和也さん」
由香が近づいてくる。
だが、彼女の痛切な視線は僕の顔ではなく——足元の床に向けられていた。
僕がつられて視線を落とすと、そこには。
デスクの下で胸を押さえ、苦しそうに目を見開いたまま倒れている、僕自身の肉体があった。
その胸元で、髪を振り乱した現実の由香が両手を重ね、必死の形相で心臓マッサージを繰り返している。
「いち……に……さん……お願い、戻ってきて……!」
掠れた声でカウントを刻む彼女の傍らで、床のスマホから119番のオペレーターの声が響いていた。
僕が耳にしていた音は、彼女が命がけで刻んでいたカウントの残響だったのだ。
心停止から脳死に至る、わずかの間。
遮断されゆく意識の中で、僕の主観時間だけが無限に引き延ばされていた。
「お願い……私を置いていかないで……!」
現実の由香の叫びが遠ざかる。
幻の由香が優しく僕の目を塞ぐように、冷たい手を伸ばしてきた。
ああ、なるほど。
これが、僕の人生で一番長い、秋の夜か。
暗闇が、静かに僕を飲み込んでいった。




