第6話 追えない背中
翌日の昼近く。今日は暑い日になるようで、窓という窓と、部屋の扉を開けっ放しにして過ごしていた。そよそよと吹く風は心地よく、ウトウトとし始めた時だった。
ガシャン!
この音はバケツだろうか。続いて水の流れる音が聞こえた。誰かが掃除用のバケツでも倒したのかもしれない。
「グズ! そんなところに置いておくから悪いのよ!」
大きな声で怒鳴るのは、俺に背中を向けて逃げた聖女見習いの声だな。ここからは見えないが、やはりバケツを蹴飛ばした音だったようだ。
「申し訳ありません」
この声は、最近では聞き慣れた、いつも痛みを取ってくれるセレナの声だ。
「まったく、邪魔なのよ」
「気を付けます」
見えていないから断定できないが、今のは故意なのか?
そうだったとしても、証拠は無い。扉を開けていたから聞こえてきた『音』でしかないのだ。
これは事実を確かめるしかないだろうと、セレナが痛みを取りに来てくれた時に聞いてみることにした。
「さっきの音は何だった?」
「水をこぼしてしまっただけです」
「バケツの水をか?」
「私の不注意です」
聞きたいのはそこではない。水の入ったバケツを使っていたのがこの子だとしたら? 掃除までやらされているのか!?
実際に見たわけではない。だから断定はできないが、彼女は高位司祭ローレンツ以外の、他の聖女見習いにも酷い扱いを受けているのだろうか。
彼女は自分の不注意だと言う。だが、どうしてもそうは思えなかった。見たわけではない。証拠もない。それでも胸の奥に残る違和感だけは、消えてくれなかった。たとえそうだったとしても……彼女は誰一人として悪く言わないのだろうと思えた。
「お嬢ちゃんは、相変わらず損な役回りだな」
トーマスがポツリとつぶやく。相変わらずということは、前からそうだったということだ。まあ、彼は追い出される可能性があるから助けられないと言っていたから、皆も周知の事実なのだろう。
俺は知らないうちに顔をしかめていたらしく、苦笑いしたトーマスに小声で謝られてしまった。
「すまんなあ、儂らではどうにもできなくてな。困ったことに、神殿側に味方がいないのだなあ」
「味方がいないとは?」
俺が問い返すと、トーマスは困ったように頭を掻いた。
「見習い同士でも、あの子は浮いておるからなあ」
「浮いている?」
「あの子だけ仕事量が違うんじゃよ」
トーマスは周囲を気にするように声を潜める。
「本来なら聖女見習いがやる必要のない雑用まで、全部あの子に回ってくる。洗濯も掃除も使い走りもじゃ」
思わず眉を寄せる。
「誰も止めないのか」
「止めても無駄なんじゃろうな。上が見て見ぬふりをしておる」
俺は無意識に拳を握り締めた。
想像していたこととはいえ、実際に聞かされると気分の良いものではない。
「それでも、あの子は文句一つ言わん」
トーマスは苦笑した。
「だから余計に損をするんじゃろうな」
俺は開け放たれた扉の向こうへ視線を向ける。
遠くの廊下を、小さな背中が重そうな洗濯籠を抱えて歩いていた。
あれだけの人数の世話をしているというのに、まだ働かされるのか。
胸の奥が、わずかにざわつく。
だが今の俺には、その背中を追うことすらできなかった。




