『気まぐれな女神たち』
すべてが乳白色の濃淡で描かれているようなそこは、このミレニアム期に起きた異変に静かな混乱に陥っていた。
その世界の中心であろうところには、四つの丸っこい屋根をした建物が向かい合うようにして並び、周囲にはおとぎの国で語られるような明るい木立が取り囲み、小鳥や小動物がなんの警戒心もなくさえずり、飛び回っていた。時折、透明な羽根をぱたぱたとはばたかせて飛び交うは、普通の人間には見ることのできない精霊たちである。
ここは、『世界樹』が支える9つの世界のうちの一つ、精霊族が住まう、人から見れば楽園のような場所であった。
とは言え、今現在、ここがかつてのように完全な状態にあるかと言えば、そうではない。
前述してきたとおり、『世界樹』は先史時代の巨人族たちの戦いで打ち倒され、今はわずかな根幹だけでこの多重世界の軸を保っており、少なからず、その影響はこの平和以外にあり得ない世界にも降りかかっていた。
このような危機は、ちょうど1000年前にも起きた。人間界で生じた人間と異種族との戦いのときのことである。
この時、決して少なくない精霊たちが抹殺、あるいは捕獲されて標本のような扱いを受けて獄死した。そのせいで精霊界のバランスが崩れかけたのであるが、この世界を保つ四柱の女神の力でなんとか立て直すことができた。
このような弊害が起きるのであれば、人間界との接触を断てばよいと考えるのが筋であるが、この多重世界はそう簡単な仕組みにはなっていなかった。
おぞましくも苛烈な罰を与える冥界の存在が欠かせないように、精霊界も、人間界とのつながりは欠かせないのである。むしろ、人間の存在がなければ、そもそも精霊も存在しえないとも言えた。大地を耕し、命をはぐくみ、様々な感情の中で一喜一憂し、そして死んでいく人間。それがなければ、精霊の居場所はない。大地も木々も風も冷たい雪も、無人の空虚な世界では全く無用だからである。
そんなジレンマに陥るような現象がまた1000年ぶりに起きてしまったこと、それもかなり深刻であることに、精霊界の四柱は常になく冬の宮殿の一室で顔を突き合わせていた。
〈このところ身体が傾いているような不快さでゆっくり休むこともできない。私が受け持つ時節は終わったのよ。説明してくれないかしら〉
と人間の感覚からすると非常に長身の、オレンジ色の短髪に目にもきらびやかな銀色の髪留めをいくつも止めている夏のポーリーンがじろりと視線を向けて言った。
その視線の先にいるのは、小麦色の豊かな髪をふわふわと肩に垂らし、ふくよかな秋のフォーリアと、真っ白な髪をきっちりと後頭部で結い上げ、雪の結晶のような形をした大きな飾りを耳の上に差し込んでいる冬のウィンダミアであった。
フォーリアはポーリーンの批判的な口ぶりをそのままウィンダミアに放り投げるように言った。
〈あたくしこそ迷惑してますのよ。今はまだ実りの季節なのに、人間界は猛吹雪。これでは春の到来に合わせて種を残せませんわ。ウィンダミア、これはあなたが何か怠慢したのではなくて?〉
冬の女神は他人事のように首をかしげ、とぼけているようにも聞こえる口調で言い返した。
〈このことはわたくしの預かり知らぬことよ。勝手に人間界で無茶をしたのですわ〉
すると、ストロベリーブロンドの髪をさやさやと背中に垂らした春のプリシラが、その穏やかな顔立ちからは想像できない手厳しさで指摘した。
〈あなた、こっそり何か企ててはいないでしょうね? この傾きは、私の力が強まる時節になっても戻らないほどになっていると思うわ。そんなことになったらどうなるかくらい、四季の四柱の一人のあなたがわからないはずはないわよね?〉
冬のウィンダミアはしらっとした様子で応えた。
〈これはあくまで人間界で起きたことよ。わたくしは何もしていません。1000年前と同じですわ。人間はこの世界がどのようにつながっているかなど知る頭を持っていないのですからね。ただやみくもに自分の利益のために精霊界に影響するような何かをしたのでしょう〉
〈だったら、なぜあなたが統括する影の軍勢に動きがあるのかしら? とぼけてもだめよ。私はリュミエール、あなたが何かこそこそとノワールに働きかけていることは薄々わかっているんだから〉
と夏のポーリーンが険悪に追及したが、ウィンダミアは無表情のまま言い返した。
〈それも人間たちが影響させたからでしょうよ。とにかく、わたくしは無関係です。いい加減、わたくしに責任を押し付けるようなことをいうのはやめていただけませんこと?〉
夏のポーリーンは納得がいかないように大きく嘆息をした。夏と冬の二人のそりが合わないのは周知のことだったので、仲裁に入るように秋のフォーリアが言った。
〈いずれにしても、人間界の四季にあたくしたちが関りを持っていることは確実です。このことの原因がどこにあるか突き止めることも大切でしょうけれど、ウィンダミアの言うように、あたくしたちの影響下ではないところで冬の勢力が異常に高まっているとしても、その事実は無視できませんわ。むしろ、ウィンダミアが関わっていない場合の方が深刻かもしれませんわよ〉
〈どういうことかしら? 精霊界の存在は人間の存外のことですわ〉
と春のプリシラが驚いたように尋ねると、秋のフォーリアは四人の中で一番考えが深い様子で続けた。
〈人間の中にも、この世界をつなぐ『世界樹』の存在を知っている者がいるかもしれないということですよ。あたくし、少し前にふいっと感じたんですのよ。世界をつないでいる「流れ」の中に異質な何かが混じっていると。それはすぐにわからなくなってしまったんですけれど、それはずっと下の方…そうですわね…たぶん、冥界の辺りで〉
〈あの辺りは追放された亜人間やらが住み着いているでしょう? それに巨神の生き残りもいますわ。きっとそのものたちですよ〉
と楽観的にプリシラは言ったが、フォーリアの危惧は晴れないようだった。
〈それ自体はあまり気にならなかったのですけど、そのあと、気がかりになったことがあるのですわ。あたくしたちに伝わるほど強い「何か」とは、ひょっとすると、『世界樹の欠片』がかかわっているのではないかと…〉
その言葉を聞くと、その場の女神たちの表情が一様に緊迫した。
〈では、人間たちが『世界樹の欠片』を手に入れるために…?〉
夏のポーリーンが厳しいしわを眉間に寄せて呟くのを、冬のウィンダミアは笑殺しながら立ち上がり、女神たちを見回して一方的に言った。
〈ばかばかしい。愚かな人間にそのような大それたことができるはずもない。わかりました。今度のことは多少わたくしにも責任があることを認めましょう。人間界にいるノワールたちに働きかけてみます。確かに、人間界が崩れれば、わたくしたちも天地がひっくり返ってしまうでしょうからね。さあ、話し合いはこれでおしまいにしましょう。どうぞみなさん、お引き取りを〉
三人の女神たちはウィンダミアに追い払われるように退出させられた。
一人、室内に残ったウィンダミアは、しばらくいらいらとした様子で行きつ戻りつしていたが、はた、と立ち止まり、きゅ、と唇を引き結んでつぶやいた。
〈…危なかった…フォーリアめ…こざかしい女…わたくしの長年の思いをここで終わらせてなるものか〉
そして足早に自室へと続く扉を通り抜けたウィンダミアの表情は、冬と言う季節の負の面を前面に押し出したように酷薄で、四季を司る女神と言うより災厄をもたらす悪神のようであった。
確かに、人間界ではそんな災厄がまさに猛威を振るっていたのである。
*****
エルフの里が近い『緑霧の森』の端のあたりでも、重々しい風雪が吹き荒れていた。その上空を、二羽のサイズの違う鳥がはばたき、見下ろしていた。
〈光の力が強いこの場所までこのようなことに見舞われているとは思いもよらなかった〉
とオオワシのジグムントが驚きを隠さず、傍らのワタリガラスに話しかけた。
〈俺もここまでとはさすがに予測してなかったな…どうする、ジグムント?〉
北の光の一族の長は、わずかに黙考するように沈黙を返したが、この異常事態で混乱させられてしまうような脆弱な精神の持ち主ではなかった。彼は精霊界を支える地上における要のひとつであることの意味を十分に心得ていた。
ジグムントはなんの迷いも感じさせず、応えた。
〈これは我々だけではどうにもならなくなり始めていると思われる。幸い、ここからエルフの里は近い。我々の行動は少なからずエルフにも影響が及ぶはず。西のエルフに伺いをたてよう〉
この意見に、ワタリガラスのクラウドはやや懐疑的に言った。
〈それはどうかな…俺はあまり期待してないぜ。定例の報告にも、この何百年、積極的な取り計らいをしてくれた試しはないからな。エルフは1000年戦争以来、変わっちまったのさ〉
〈たとえそうだったとしても、エルフの存在の上にある私たちだ。些細な問題であれば我々だけで対処してもよいだろうが、この事態は異常すぎる〉
〈あんたがそうしたいならすればいいさ。だが、がっかりするなよ。あんたは身近にエルフを見ていない。連中の変わりようはあんたの知ってるエルフとは思えないほどだぜ〉
ジグムントは、クラウドの、光の一族の中では少々異質な性質を知っていたので、こうした疑り深い物言いを聞き流したのだが、広葉樹が一晩で葉を落とし、そこにずっしりとのしかかるように雪が積もり、枝を折り、中には幹ごと倒れてしまっている木々の上を飛びぬけて西のエルフの隠れ里の入り口に降り立った時、クラウドの言った言葉が真実であることを思い知らされた。
人間の魔道士ならば相当上位の魔法を操るものでなければ見つけられない魔封印のされた入り口には、さらに厳重にエルフの高度な封印が重ね掛けされていた。
普段ならば、光の一族の到来に合わせて扉は彼らの精霊力に感応して開かれたものだが、二人が並んでその封印された、傍目には木々が茂っているだけのその場所で待っていても、あちら側からの対応は一向に返ってこなかった。
〈ほらな? だから言っただろ? エルフはこの事態にかかわりたくないんだよ〉
ジグムントはこの情けない事実を認めつつも、まだ心のどこかで信じられないように白けた顔をし、封印されたその地点に背を向けているクラウドに言った。
〈しかし、妖精界の住人だけが防衛線を張ったとしても、精霊界が破綻すれば、その影響は多岐にわたることを知らぬはずがない〉
〈あんたも見ただろ? 極星があんなに傾いてるんだぜ? 俺の方向感覚も何度狂いかけたかわからねえ。これはエルフの知識や魔法で解決できる範囲を超えてる。それに、たとえこの事態にエルフが協力してくれたとしても、もし奴らの力が及ばなかったとしたら? 余計に闇の比重を大きくすることになってしまう。それじゃミイラ取りがミイラだ〉
ジグムントはさすがにその凛々しく勇壮な顔に落胆の色を隠せず、大きく慨嘆した。
〈このような闇の波動に満ちた中では、我々の力も半減してしまう。どうすればいいのだ…〉
するとクラウドは見切りをつけたように完全にエルフの里の入り口から顔を背け、
〈この世界は俺たちだけのものじゃない。だがそれは逆に返せば、互いに助け合い、補い合える可能性があることを示している。俺は人間界とのコネが深い。ここから遠くない王国には、今西の里の長の息子が王族の姫君の魔力の指導をするために滞在している。どうしてもエルフの力が必要になった時の保険として、そいつにエルフの石頭を説得してもらえないか、頼んでみるのはどうだい?〉
〈悩むだけの余裕はなさそうだな。私は人間界との接触はほとんどない。すべてお前に任せる〉
とジグムントがリーダーらしい迷いのなさで言うと、クラウドはパッとカラスの姿に戻り、薄情なものに愛想をつかしたような様子でさっさと上空に舞い上がった。
〈残念なこととは思うが、やはりエルフはもう過去の遺物なのさ。そして俺たちもいずれ…ま、とにかく先を急ごう。この天気は俺たちの体力を相当に奪う〉
二羽の鳥がその場から飛び去ったのを、外界の悪天候とは打って変わっての夢物語にでも登場するような、清水が流れ落ち、睡蓮のような花々が咲き誇る水面に張り出したベランダにたたずんでいたやや年かさの外見をした長身のエルフがわずかに表情を曇らせて感じ取っていた。
その背後から、黒髪もつやつやとした完璧な美貌の若い女エルフがしずしずと近づき、エルフにしては感情豊かそうな音楽的な口調で話しかけた。
〈叔父様…あまりお心をお悩ませなさいませぬよう。わたくしたちの存亡もこの事態に大きくかかっておりまするゆえに〉
腰のあたりまで伸びた銀髪を三つ編みにして垂らした西のエルフの長デュラン・ヴィ・シャルローは、情感に左右されないエルフらしいごくごく薄い蒼眸をその女エルフに向け、嘆息をしてから言った。
〈わかっている、クリスタニア…しかし我が一族に連なるものたちを見捨てるような真似をするのが心苦しくてな〉
凝った結い方をした黒髪に金銀の飾りを差し込み、薄絹の打掛のようなものを何枚も羽織ったような姿をしたデュランの姪、つまりエリアスやアルディドの従妹であるクリスタニア・ヴィ・クラムが、ゆっくりと首を振った。
〈叔父様がお心を痛めるのはわかりますが、あたくし、叔父様にですから言いますけれど、この世はあたくしたちだけではないもっと大きな何かで定められていると思うんですの。ふふふ、あたくしにもお従兄弟様たちのやんちゃな血が流れていますのかしら? この世はもうエルフというひとくくりで存在するには複雑で大きくなりすぎているのですわ。もし、もっと早くエルフという枠から逃れていたら、と思うことがありますわ。いけませんわね、このような破天荒なことを考えては。でも叔父様、あたくしは決してこの決断は間違っていないと思いますのよ。叔父様もわかっていて、彼らを締め出す決意をなすったんですわ。あたくしたちが乗り出せば、どこかしらで反対勢力の勢いが増すことは、想像にたやすいことですもの〉
〈シャッテンのことか〉
〈はい。彼らは地底に封ぜられましたが、このような闇の波動が強まっている中ならば、あの狡猾で頭の回るものたちです、何かしらの手段を見つけてしまうかもしれません。あたくし、そんな嫌な予感がしてなりませんの〉
〈確かに私たちとシャッテンは切っても切れない間柄だ。私たちが乗り出せば、それに見合う反発する力が強まるだろう。それが世界の均衡というものだからな。クリスタニア、お前がここに残っていてくれて助かる。私の不肖の息子たちは全く頼りにならぬ〉
〈そうでもないかもしれませんわ、叔父様…でもどのようにものごとが動くかまでは…〉
エルフの長は軽く姪の頬に触れ、再び視線を遠くに向けながらつぶやくように言った。
〈…これまでの逼塞は長すぎたのかもしれぬな…我々はあまりに自らの殻に閉じこもりすぎたのかもしれぬ…世界は我らの考え以上に広がりを持っていたのかもしれぬ…〉
エルフの里は、外界の荒天を想像だにしない静けさと美しさで保たれていた。まるで時間が止まっているかのような、それは、これ以上発展も進歩も必要のない完璧性の中の停滞とも言える、衰退の始まりの予兆であることを、デュランは懸念しつつも、どうやればそれを逃れうるのか不明なままなのであった。悲しいかな、デュランは優れたエルフではあったが、完ぺきなエルフだった。その凝り固まった意識を変えるのに、その傍らで叔父の腕に手をかけて共にたたずむクリスタニアの才気煥発な存在が助けになるかは、まだ何の確証もなかった。
*****
夜が明けないため、どのくらいの時間、走り続けていたかわからなくなっていた。
しかし、大牙には絶対的な時間の経過感覚があった。
つまり、腹時計である。
もちろん、魔性のものたちが北を目指す道々でキャンプを張ってバーベキューなどする状況ではないことは、さすがの単細胞大牙にもわかっていたし、険しい山道、それも人間の商人や冒険者が使う道ではなく、まさに獣道のようなところで呑気な遠足のようなことはできなかった。
だから、彼は走りながらバックパックから大好物の『スニッパーズ』を取り出しては、もぐもぐとやっていたのだが、あと数本しかなくなった時に重大なことに気づいたのである。
彼はいつもバックパックの中身が少なくなると、ファンロンのフードサーバーから直接チョコ菓子を転送してもらっていたのだが、それができなかったからである。
ここに不時着してしばらくはファンロンのシステムから食料を調達できない時期があったが、燃料問題が解消していくうちに、『スニッパーズ』は常にバックパックにたくさん詰め込まれている状態をキープしていた。
それが今になってできなくなっているとは全く予想だにしないことだった。
そのことに文句を言おうと、ファンロンに残っている玄人も含めて内線を使おうとし、再び彼はびっくりした。
「…なんだ、こりゃ。内線もぱぁかよ。これじゃ他の連中がどうしてるかもわかんねえじゃねえか」
当然手首の霊獣チェンジャーも電池切れしたかのように動きを止めていた。
「これって、ちょっとやばくねえか? ひょっとして変身できない?」
最先端のインプラント装置に向かって全く旧式に指先でそれをこつこつとはじいてみたりするが、多岐にわたる便利な機能を持ち、彼らの武装を転送するのに不可欠な器具はうんともすんとも起動しなかった。
少し前を走っていた白銀の狼パリスが、大牙の困惑の様子に気づき、少し走る速度を落として尋ねてきた。
《どうかしたのかい? やっぱり走り通しで疲れたんだろ? 少し休もうかって言おうか?》
そういう気づかいの心は、長く人間として暮らしてきただけのことがあるのだろう。さっさと先を行く魔性の元夫婦は、大牙のちょっとした動揺に気づく気配もなかった。
確かに何かとても重大な問題が持ち上がったことはわかったが、大牙はそういうことで今現在の目的を見失うような気の弱い性質では決してなかった。それに、基本的に彼は楽観主義者だったし、キリルを、そして仲間を信頼していた。
大牙は走る速度を速めて先を行くコウモリと黒い毛皮をした狼を追い、応えた。
《なんでもねえよ。だけど、この雪は鬱陶しいな》
パリスは気遣った口振りで言った。
《俺の感じたことだからあんまり頼りにならないかもしれねえけど、君から「輝き(パワー)」が流れ出しちまってるみたいに思えるんだ。きっとこの雪のせいだよ。俺でも、この感じは嫌な感じがするから》
《だから余計に腹がすくのかな…》
と忌々しく言った大牙の腹が、ぐう、と鳴った。
パリスはそんな大牙を面白がるように獣の瞳にはあるまじき感情豊かな色をきらめかせて言った。
《一度、小休止するように言ってみるよ。この山道を抜ければ、オーカー帝国の領内だ。例の悪名高い魔道士もいなくなったし、俺たちがこっそり休んでも大丈夫だと思う。それに、もともと帝国の辺境には俺たちの眷属が多く生きていたところなんだよ》
《東側の沼地には蛇女が住んでるしな》
《へえっ、お前、ラミア族を知ってるのか》
《助けてもらったよ、その悪い魔道士をぶっ倒した時に》
パリスは、小柄でわんぱく坊主にしか見えない大牙を改めて見やり、
《お前って妙なやつだなあ。外見は悪ガキにしか見えねえのに。でも、違う。うまく言えねえな》
《ガキのお前に言われたくねえな》
と大牙はむすっと言い返したが、不意に考え付いたことがあった。
《なあ、帝国で休むってんなら、俺にちょっとしたつてがあるんだけどな。どこまで行くか知らねえが、走るのがだるくなった。お前らはそうやって走ったり飛んだりできるんだろうけど、俺はただの人間だからな》
《ただの人間? まさか。俺たちと一緒に走れる人間がどこにいるってんだよ。それに、お前やお前の仲間たちからはものすごい波動が出てる。そんな奴が普通の人間のはずがない》
大牙は否定も肯定もできなくなり、彼にしては言葉を濁して言った。
《今の帝国を仕切ってるやつ、あいつ、ちょっとおもしろいやつでさ。魔道士らしくねえやつだったんだよ。そいつが乗ってるどでかい鳥みたいなやつをさ、ちょこっと拝借できねえかなって思ったんだよ》
《ああ! それは、ギャリオン・マーズのことかな?》
どうやら、先を行っていたものたちも背後での会話を聞いていたらしい。ヴァルロイがこのように問いかけてきたので、大牙は関心をもって応えた。
《そうそう、そんな名前だった。なんで知ってるんだ?》
《知ってるも何も、ギャリオンは北の闇の眷属と、なんというか、喧嘩仲間とでも言うのかな。互いに腕試しをし合う仲だった。帝国の在り方が歪み、胡散臭い序列に加えられてしまってからは、その縁を切らざるを得なかったが、おそらく彼の気性からして、我らの眷属とのつながりを途絶させることはあるまい》
大牙は、ギャリオン・マーズの魔道士らしからぬ完璧な骨格と筋肉を思い出し、なんとなくこの説明だけで想像がついた。
するとユリアが言った。
《魔道帝国に聖堂はないし、人狼病なんてものが迷信でしかないことは、魔道士連中は実際にいろいろあたくしたちの眷属をいじくりまわして一番知ってるはずだわ。そうね、帝国もこの異常現象について重要視してるに決まってる。これだけエーテルがかき乱されていては、魔道士の本領を発揮できなくなっているはずですものねえ。あの筋肉だるまのギャリオンに会うのも一つの突破口になるかもしれませんわ》
魔性のものたちの決断力も速かった。
ヴァルロイがぱっと二つに分身したかと思うと、その一つがものすごいスピードで風雪荒れる中を滑るように飛んでいった。
《先に報せを飛ばしておこう。さすがにいきなり帝国の筆頭魔道士様に我々が面会するのは少々失礼だからね。それでは我々は一路、帝都へと向かおうじゃないか。少年、へばってはいないかね?》
大牙はむっとしたように言い返した。
《この俺様を見くびらねえでくれよ。これくらい、なんのことはねえ》
ヴァルロイは昂然と笑い返し、ぱたぱたと吹雪にも負けない力強さで羽ばたきながら言った。
《君の中にある「それ」が何か、見極めたいものだ。残念ながら、私たちの目からは「それ」はまばゆい光の中に隠されていて、今の段階では全く掴みどころがない。君たちの種族はまるで光の一族の上位にあるように思われてならないのだが、そのような存在を、私は知らないのだ》
《俺たちをあんたたちと一緒くたにすんなよ》
《ストリゴイの長に向かってそのような口を利けること自体、不思議なことなんだがね》
《へっ、ただのコウモリじゃねえか》
ヴァルロイは芯から面白がるように長く一人笑いをし、ユリアもだいぶ打ち解けた様子で言った。
《確かにただのコウモリですわね。ほっほっ、お前は面白い人間ですこと》
大牙は何となく馬鹿にされたような気分で走り続けたが、彼の中にストリゴイや人狼といった、地球では空想の怪物として伝わっている知識がないことが逆に良い方向に向かわせていることを、本人は当然気づくはずもなかった。
一行は暗い吹雪の中、帝都へと進路をやや変えて走り、飛び続けたのだった。
*****
カーマイン王国の城内の一室で、龍児はキリルに頭を下げて謝罪していた。
「何もしないでいられなかったんです…もし僕らの行動が裏目に出たら…でも、この世界の人々が困っているのをただ手をこまねいて見ているなんて、とてもできなかったんです」
キリルは鷹揚に微笑を投げ、アルファ宙域で選り抜きの戦士であり、時に非情にも戦う、しかしその内面には誰にもほぐせない入り組んだ感情の花弁を持つ青年に言った。
「君たちがファンロンでじっとしていられるとは思っていなかったがね。しかし、結果的にはこの決断はよかったのかもしれないぞ。気づいているかね、ファンロンとの交信はおろか、君たちの内線回線も不通になっていることを」
龍児と言う人にしては、珍しく先見の勘が鈍っていたらしく、キリルに言われてみて切れ長の瞳を困惑に染めて見開いた。
キリルは慌てるそぶりもなく、肩をすくめて続けた。
「外宇宙用の戦艦を機能不全にするようなことが起きるこの星は、全くビックリ箱のようだね。こうなってしまったら、この状況を打破しない限り、どうにもならない。おや、誰かこちらへ来るようだ」
龍児にはわからなかったのだが、キリルの言う通り、しばらくすると彼らのいるゲストルームのドアがノックされ、黒ずくめのドレスを着たオクタヴィアが淡々とした口調で二人を眺めながら言った。
《ああ、ここにいたのか、リュウジ。キリル殿、ちょうどよかった。今、グレイウォールからの報せが届いたので、殿下に申し上げにいくところなのです。あなたがたにも聞いてもらいたい。考える頭はいくつあってもこの際好都合と言うものです》
マクシミリアン王子は現国王の父親の代理として、午前の(とは言っても、この数日、太陽が昇ることはなく暗い雪が降り続けていた)職務である各方面のギルド長や居住区の代表などからの上申を王の謁見の間で行っていたのだが、城内の兵士や使用人が利用する玉座の後方にある、広間の両脇に並ぶ列柱の陰になって目立たない小さな扉から彼らがやってきたことを察したが、この数日の異常気象とシアン村での事件が王都内を不安の嵐に落とし込んでいたので、いつもより陳情が長かった。
セドリック王子の事件の記憶もまだ新しく、住民たちの多くは、魔道帝国がまた何かもくろんだからではないか、こうなったら、戦もいとわず、強気な姿勢で帝国と対峙すべきだ、シアン村は帝国の忌まわしい暗黒魔法の実験場だったのではないか、など、長く帝国の不気味な脅威にさらされてきたらしい内容のものが多かった。都市連邦の住民の意識とはやや異なっているようである。それはやはり、カーマインが王国であり、いく百年もの間の統治者の力量が優れていたことから、どこか胡散臭い悪霊祓いの集団よりも、王家の決断を信じるものが多かったからだろう。
マクシミリアン自身も、この状況に対する解決法は全くなかったのだが、誠実に住民たちの話を聞き取り、真摯に応えていた、「この国を暗黒に落とすようなことは絶対にさせない」と。その言葉があくまで言葉の上だけのものだとわかっていても、住民たちは裏表のない王子の気質とまっすぐな性格を知っていたから、ひとまずの安堵感を受け取り、引き取って行った。
陳情者の列が一区切りついたので、マクシミリアンは傍に控えていた書記官に少しの離席を伝えて広間のはじでじっと待っていた者たちに近づいた。
《何か進展が?》
と王子が眉をひそめて小声で尋ねると、オクタヴィアは優れたローグらしく唇をほとんど動かさずに応えた。
《グレイウォールの盗賊ギルドからの報せがありました、殿下。あちらの教団の支部長の一行が王国を目指して馬車を走らせているとのことです。グレイウォールには、人狼と思しきものがやってきており、それをかくまったとして衛士隊長の他、関係者を拘束したとのことですが、その最中に支部長自らが王国に馬車をとばしているということが奇妙です》
これを聞き、龍児がひそひそと地球語でキリルに耳打ちした。
「…グレイウォールにはアカネが向かっているんです。内線が使えればよかったんですが…」
キリルは部下を勇気づけるように軽く背中を叩き、ささやき返した。
「たまには、こういう旧式な状況でミッションをこなすのも良い訓練になると思いたまえ。我々はすっかり機械漬けになっているからね」
キリルと言う上司の不思議な雰囲気は、龍児のともすればネガティヴになる思考回路をまっすぐ前に引き戻した。
《あの、これは単純に勘なのですが》
と龍児が優等生が挙手をして発言するかのように言葉を挟んだのを、キリルは一人にこにことして見つめ、マクシミリアンとオクタヴィアは、このどこからやってきたか依然不明の冒険者(薄々その肩書では済まされないなにかを秘めていることは察しているようだったが)の言葉の先を促すように彼を見た。
龍児は言った。
《エルダー村での出来事から推測したのですが、ここの聖堂を統率するものが教団の長だったとすると、まさかの失敗だったはずです。それを追求しに別の聖堂の管理者が駆けつけるのは考えられることです。しかし、それ以上に、その教団の長が撤退した状況があまりに奇妙です。実は、グレイウォールで僕と仲間たちは例の人狼の若者と会っています。その時、その者はなんらかの作用で突然変異してしまったのです。僕の知っている人狼の変幻とはかなり異なっていました。何かのスイッチが自意識に反して入ってしまったような、そんな不自然さでした。それを、エルダー村での教団の長の動揺と撤退の理由の中に感じ取れるんです。僕たちには先祖伝来の武器の力が備わっています。この世界で言うところの精霊力とか神通力とか、そんなものと似ているでしょう。それと反応してしまった結果が予期しない変幻につながり、エルダー村での教団長の豹変に関与しているのではないでしょうか》
話しているうちに、龍児はある疑問に気が付いていた。あの人狼とストリゴイは闇の眷属だと話していた。自分たちは悪をただすレイジュウジャーであり、その身体に霊獣の魂を持つ、こちらの世界であてはめるとすれば闇とは真逆の属性を持っていると言える。それが引き金になってあの少年を意に沿わない変幻に落とし込んだことは十分真実に近い。
ということはである。エルダー村で教団長がその立場もわきまえずに敗走した原因に、そういった属性の関与がありはしなかったか。あったとすれば、教団長にも、そしてそのものをたやすく追い払ったキリルにも、互いに作用する何かを持っていたことにならないか。
龍児は改めてキリルと言う人物を観察するように、上司を見やった。飄々とし、ユーモアがあり、それでいて優れた指揮官。しかしその貴公子然とした面差しからは、いくつもの戦いを見、指揮してきたものの厳しさなどは全くうかがえない。
そして、この上司が、自分たちの指揮官になる以前のことは全く知らないことも気づかされた。
もちろん、知る必要もないのだが、こうして『正義の守り人』の監督範囲から逸脱し、自らの力だけでこの不可思議に満ちた謎の星から脱出し、地球に戻る方法を探る中で、キリルと言う存在が上司というだけにとどまらない存在にならざるを得なかった。
《つまり、君は、教団の長がなんらかの秘密を…闇の力とも関りがあると考えるのかな?》
マクシミリアンの言葉で、龍児は自分の考えの中から舞い戻った。彼は頷き、
《はい。教団長というからには、その教団の存在意義を魔性の討伐とうたう以上、その長におさまるには、そういった方面の能力が高くなければ人の心をつかむことはできません。僕が推測するに、その長は、闇の魔性の血も引いているのではないかと。もっとはっきり限定すれば、ストリゴイと人間の混血、ダンピールです。ダンピールは吸血族を討伐する能力に長けていると言われています》
《その噂は聞いたことがある》
とオクタヴィアが言った。
《だが、教団の長が闇の血を引いているとなれば、それは教団に対する大きな欺瞞ではないか?》
マクシミリアンの指摘に、龍児は深く頷き、
《その通りです。だからグレイウォールから教団員が駆けつけているのではありませんか? 結束した集団は、少しのほころびがあっという間に大きな亀裂になるのに時間はかかりません》
すると、キリルが碧眼を細めて言った。
《ふーむ…あの人物からは憎悪と復讐、そして憐れさを感じたが、そのような身の上ならばそのようになっても仕方ないことなのだろうが…きっと今躍起になってこちらへ駆けつけている連中は、あの人物にある程度疑いを持っていたのだろうな。それを今こそ暴き、何やら悪賢いことを始めようとしている気がしてならないよ。復讐にとりつかれることの裏には数えきれない不幸と涙の海が広がっているものだからね。どうにもこれは放っておけなくなった》
《しかし、もし本当にダンピールだとしたら、それを救うのはあまりお勧めできない。ダンピールは禁忌の証明ですから》
オクタヴィアが忠告すると、マクシミリアンがため息をついて言った。
《確かに皆の意見は正しいのだろう。エルダー村を焼き払おうとしたことの罪は深いが、その出生が原因で何らかの騒動が起きるのは納得できない。もちろん、王都にそのような不穏者がいることは統治者として許可することはできない。だからこれは対等に話し合いを持つべきだ。オクタヴィア、グレイウォールから来る教団の者たちをできるだけ王都内に入るのを遅らせるのだ。その間に私が何とか説得しよう》
オクタヴィアは驚いた。
《王子殿下おひとりで魔性の混血と思しきもののもとへなど行かせられません》
すると、キリルがにっこりと笑いかけ、
《ご心配は無用。私とこの若者が警護します》
《しかし…》
マクシミリアンは忠実な侍女をねぎらうような視線を向け、
《相手の信頼を得るには、こちらからまず誠意を示さねばならない。それも、王国の前途にかかる問題だ。王国の代表としての私が交渉に出向くのは当然のことだよ。さ、時間は待ってくれない。チャンスは一度きりだ》
統治者としてよりも、戦場での指揮官が性に合っていそうなマクシミリアンの一言で、彼らは行動に移った。しかしもちろん、この駒の動きが相手方にどんな影響を与えるかは、さすがのキリルにもわからなかった。ただわかるのは、あの復讐に燃えた目をしたものの狂おしいほどの悲しみの深さだけだった。




