『消えた夜明け』
オーランジュ大陸は全域で異常気象に見舞われていた。
始まったのは各地でばらつきがあったものの、今ではほとんどすべての地域で雪が降り、最初の頃こそ雪雲から透けて微かな陽光の存在を感じ取れたが、この数日は完全に夜が明けない日が続いた。
この、人間なら本能的に危機感を持つ現象をたてにして、聖アウロラ教団のまことしやかな言葉が浸透することは簡単なことだった。人々は教団の言うことを鵜呑みにし、闇の穢れを取り除けない街の衛士隊に対する信頼を失った。都市連邦では特にその傾向が強く、ブリックレッドにある連邦議会でも教団の支部が発言力を高め、人心を手にしようとしていた。
しかし、教団が目論んでいる人民の支配力を得るということが、この異常現象の真の意味からみれば、些末なことであることは、まだ誰も知らないことだった。
いや、一人は知っていた。
全てのヴォルガ族の部族をまとめあげる族長ザイウード・アル・ゴランの右腕であり、参謀的な存在である魔道士ナムリス・ロルハーは、がっちりと凍結してしまった外海に船の進行を阻まれ、なおかつ、風雪の中を飛び回る黒い鬼火のようなものからの攻撃を受けていた。
〔ナムリス殿! このままでは全滅です! ここで我々が時間稼ぎをしますから、その間になんとか対岸にたどり着き、極地の窮状が大陸全土を席捲するだろうことを伝えてください!〕
ナムリスは重々しい波動を伴って生気を奪う霊魂のような敵を、自らが召喚した火炎のエーテルを操り、撃退していたが、敵方の数と、この異常気象の中では、いずれこちらが力尽きるのは目に見えていた。
ヴォルガ族の繋がりは強かったが、感傷的になって現実を見極められなくなることはなかった。彼らは決して好戦的ではなかったが、秀でた戦いの感覚を備えていて、たとえそれが自身の命と引き換えになることになっても、目的を達するためであるのなら厭わない強い使命感と団結力があった。
ナムリスは危険を承知で船を出してくれた同族の勇敢さに感謝するように頷くと、風のエーテルを召喚し、ふわりと宙に浮いた。
〔すまない。お前たちの勇気は必ず称えられるだろう〕
〔ナムリス殿こそ、ご無事で〕
暗い吹雪とどす黒く氷結した海面の上を、ナムリスは風のエーテルに乗ってまさに疾風のごとく馳せた。
クロムマインでも早すぎる極夜の訪れであったが、だいぶ南進しているにも関わらず常夜の暗闇が続き、決して子供たちが遊びまわる純白の雪ではない風雪が攻撃的に吹き付けてくるのを、ナムリスはますます危機感をつのらせながらひたすらに陸地を目指して疾駆した。
次第に風のエーテルの力が弱まっていく。普段ならあり得ないことだったが、この重々しい天候が自然のエーテルの巡りを損なわせているようだった。
ついに、ナムリスは推進力を失い、波頭がそのまま凍結してしまったような荒涼とした氷原に落ちてしまった。
ヴォルガ族は人間と違い、過酷な環境で生き抜いてきた種族なので、これくらいの荒天でめげるはずはなかったが、今は違った。
もう一度エーテルの召還をしようとして、ナムリスは愕然となった。なんといえばいいか、地球的に言えば、エンジンが空転しているような、というべきだろうか。彼自体の魔力には問題はなかったが、周囲にそれを活かす触媒が感じられなくなったのである。
〔エーテルが枯渇するだと…? それほどに『常夜の支配者』の勢力が増しているということなのか? このままでは魔法どころか、普通の人々の生命にも危険が…一体この大地に何が起きようとしているのだ? うう…これはいけない…空気が…重い…息が詰まる……このような偏りは自然の理にあるまじき……〕
ナムリスはがくりと凍てつく海面に膝をつき、苦しげにあえいだ。まるで泥沼にはまりこんだような、脱出の見込みのない絶望感が、勇猛なヴォルガの魔道士の心を鷲掴みにした。
窒息寸前の赤い視野の中、ナムリスは何者かが近づくのを感じたが、すでに何か訴えるだけの力は残っていなかった。
頭に角をはやした異形のものを見下ろしていたのは、二頭の白熊だった。
〈ヴォルガ族が自分の住処から単独で出てくること自体おかしいことだが、こいつは死にかけてる〉
とやや身体の大きな方がのんびりとした口調で言うと、もう片方が応えた。
〈妙な天気が続くし、俺たちの変幻能力も制御がきかなくなってるし、やっぱりちょっと前に感じたどえらい闇の波動のせいなんじゃねえか?〉
〈そのことよ。南の眷属が魔道帝国に狙われて何か画策したことはわかってるが、何か破綻したんじゃねえのかな。全く、南の連中は自分たちこそが一番だと思い込んでる高慢ちきがそろってるからな〉
〈でもよ兄貴、こいつを放っていくのはちょっと気が引けるぜ? この妙な空気は北から流れ込んでる。きっとこいつらの住んでるところはひどいことになってるんじゃないか? いくら俺たちが闇の眷属だとしても、死にかけてるやつをそのままにはできねえよ。それにこいつはヴォルガ族だ。人間なんかよりずっと俺たちのことをわかってる〉
〈そうだな。どうしてこんなところまでやってきたか聞きてえしな。俺たちにとってもこの天気は気に食わない。この闇には何かひとを狂わすものが混じってるようだからな〉
と言った「兄貴」熊が瞬時に獣の姿からヴォルガ族にも引けを取らない巨躯のヒト型に変幻し、よっこらせとばかりにナムリスの巨体を背負ったのである。
もう片方、つまり「弟」熊もヒト型になっていた。兄弟らしく、よく似た顔をしていたが、弟の方がやや細面で、兄の大づくりな顔立ちより鋭敏な印象を与えた。
〈とにかく俺たちの村まで連れ帰ってからだな。そうだ、ダレン、魔道帝国とはつなぎがとれたんだよな?〉
弟ダレンは頷き、
〈ああ、全く、あのギャリオンのわんぱく小僧が筆頭魔道士になんかになるとは思いがけねえことだったが、そのおかげで話が通りやすくなった。近々会うことになってるよ、フンボルト兄貴〉
〈よし。なら、こいつを連れ帰って、あとのことはおいおい片付けよう〉
二人の体格の良い人影が黒い吹雪と凍った海面に覆いつくされた中に飲まれていった。
この新たな獣人族と魔道帝国の筆頭魔道士とのつながりは一体なんなのか、そしてそれが今後の展開にどのような影響をもたらすか、この正気を奪うような暗黒のとばりの中、まだ誰も解決法を見いだせていなかったが、なんにせよ、出口は必ず見つかるものなのだ。
*****
後のことを鑑み、できるだけ血を流さずに聖堂の地下通路を進んでいる二つの地域の盗賊ギルドマスターと朱音である。
地下空間はたいして複雑にできているわけではなく、一流のローグ二人にかかっては、まるで猟犬がたやすく獲物の臭跡をたどるように、彼らの足取りに迷いはなかった。
先頭を行く〈夜兎〉が「待て」と手を上げ、口に吹き矢の筒をくわえながら壁に張り付くようにしてじりじりと通路を進む。そしてこちらにやってきた教団員の白いローブ姿が薄暗がりの中に見えたと思った瞬間には、ぐらりと身体の芯を失って昏倒しているのである。彼らが通ってきた通路にはそんな気絶した者たちがいくつも転がっていた。
《こりゃあ、俺の出る幕はねえなあ》
と〈銀狐〉が半ば冗談交じりに言うと、〈夜兎〉はローグのマスターとも思えないちゃらちゃらとしたにやけ顔を返し、
《一応ここはアタシのシマだもの。助てくれるだけで十分よ。それに、こういう潜入は、帰り道のがやばいものなの。頼りにしてるわよ、お二人さん》
倒れた教団員を通路の端に押し込めるようにして少しは目立たないようにかたづけると、三人は再び前進した。
《でも、どうしてここが急に手薄になったのかしら? ひょっとして、もう隊長さんたちは…》
朱音が珍しく気弱な推測を口にしたのを、〈銀狐〉が打ち消すように励ました。
《いくら教団が悪霊払いを十八番にしていて、人狼の出現が真実だとしても、そう簡単にひとつの都市国家の治安権力のトップを抹殺することはできんよ。ましてや、この騒動が奴らの悪だくみを増長させてるとくれば、衛士隊長を拘束する理由も甚だあやしい根拠に基づいてると考えるのが常道だな。大丈夫、余計に心配すんな》
《だとしても、隊長さんを助けたとして、そのあとはどうするの? 事実、隊長さんは人狼に会ってるのよ。あたしは人狼病とかいうのを全然信じてないけど、街の人たちは信じてるんでしょ? どうやって信頼を回復するの?》
〈夜兎〉が慎重な足の運びをしながら、感心したような口調で言った。
《若いのに、なかなか鋭いこと言うのねえ。グレイウォールは各都市で選出された一般人がまとめる都市国家群よ。君主がいれば、鶴の一声で国民の意識を変えさせられるんでしょうけど、ここはそういうわけにはいかない。でも、全く打つ手がないわけじゃないわ。君主の絶対的な宣言がない代わりに、どうやっても止めることができないやり方があるわ。なんだかわかる? アカネちゃん》
朱音はぎい、ときしんで開けられた扉の中に入りながら、少し考えた。そして背後でぱたん、と扉がしまるのと同時に応えた。
《「噂」を利用するのね? でも、こんな変な天気になっちゃって、うまくいくかしら? みんな、怖がってるわ》
〈夜兎〉は緩い階段状になっている下り坂の通路をそろそろと進みながら、
《もちろんその「恐れ」もうまく使うにきまってるじゃない。教団にもこの異常な事態は解決できないと思うのよ。いいえ、できるはずがないと断言するわ。これはもっとおおごとよ。聖堂で祈ったって通じやしない、人間にはどうにもできない天災みたいなものよ。祈りがきかないなら何を頼るのか…そりゃあ剣と盾と鎧で武装した方を頼るでしょうよ。ふふふ、情報操作はローグの基本よ。もちろん、どうやってもこの腐れ教団が意固地になるんなら、こちらにも考えがあるけれどね。狂信者にのっとられるなんて絶対にお断り》
最後の方の口調は、にやけ面のローグマスターからちゃらけたところが抜け落ち、本当の彼の性質を垣間見せるように非情に冷たかった。
《おい、目的の場所が近いようだぜ。饐えた臭いがぷんぷんしてきやがった》
と〈銀狐〉が暗がりでもはっきりわかるくらい顔をしかめてひそひそと言った。
緩い階段は数メートル先で直角に曲がっていて、そこに二人の見張り番らしい教団員が立っていた。
すると、突然朱音の頭にひらめいたことがあった。二人のローグを後ろに下がらせ、そのことを提案してみた。
《隊長さんたちを連れてここから脱出するのは目立ちすぎると思うの。で、思いついたんだけど、あの白いローブ、何着かかっぱらってきて、それをみんなで着ちゃえば、ばれないで外に出られないかしら?》
《あらまあっ、なんでそんな簡単なことを思いつかなかったのかしらん。アナタのこと、ほんと、好きになっちゃうわぁ》
朱音が避ける間もなく、〈夜兎〉の唇が両頬に押し当てられ、さらにぎゅうっとハグされてしまい、彼女は場所柄もなく慌てた。それを失笑気味に見ていた〈銀狐〉が言った。
《それじゃ、あそこにいる二人からまず提供してもらおうじゃないか》
それまで出番のなかった〈銀狐〉が身の軽さを証明するように軽々と天井付近までジャンプし、天井際の壁を蹴ってさらに推進力とすると、くるりと身体を逆さにしてまるで蜘蛛か何かのように天井の角に張り付いたのである。そしてきらり、と光る細い何かを手の中に忍ばせ、あまりやる気がなさそうな見張り番の二人の背後に飛び降りざま、手の中に忍ばせていた針のようなものを盆の窪あたりにずぶり、と突き入れたのである。
あっという間もなく、二人の見張り番は何が起きたかもわからないまま絶命し、〈銀狐〉はせっせと白いお仕着せのローブを脱がせにかかっていた。
そこは、一本のじめじめとした通路がまっすぐに伸び、その両端に溝があって、そこから強烈な悪臭が漂っているだけでなく、名状しがたい汚物や朽ち果てた身体の一部としか思えないものまで見え、朱音はさすがに辟易した。あまりの悪臭で、目までしみてくる始末である。
《こんな場所があるなんて、よくも聖堂だなんて言ってられるわね》
《アタシもここまでひどいとは思わなかったわ…とにかく、さっさと隊長さんたちを見つけて、こんな臭い場所からはおさらばしましょ》
と〈夜兎〉が言ったのを聞きつけたか、通路の奥の方から聞き覚えのある声が聞こえてきたのである。
《おおーい! そこにいるのは赤毛の嬢ちゃんじゃねえか?》
朱音はパッと顔を輝かせ、汚物も悪臭もふりきるようにして駆けだすと、一番の奥の錆びた鉄格子の向こうでぐったりと壁に寄り掛かっているディミトリを発見した。
《ディミトリのおじさん! 一体、その火傷、どうしたの?!》
《てえしたことはねえよ、ちょっと火遊びの相手をしてやっただけさ。それよか、この最低な場所から出してくれねえか? ここの臭いは地底回廊のマザースポーンの巣よりひでえからな》
朱音は牢獄の扉にかかった大きな錠前をいともたやすく蹴り壊すと、親身に駆け寄ってディミトリを助けた。その時に、彼の手足が痛めつけられていることにも気づき、朱音は義憤が瞬間的に爆発したように言った。
《ひどい! ここの連中、許さないわ!》
向かい側の獄から〈夜兎〉がイーディアスを助け出していた。衛士隊長には目立った外傷はなかったが、精神的に疲弊しているらしく、誠実で責任感にあふれたところを色褪せさせていた。
それでもイーディアスは助けに来てくれたことに深く感謝するようにしゃがれた声で言った。
《よもや君が来てくれるとは思わなかった…今街は人狼病の蔓延の恐怖でおののいているはずだ。そして君たちの存在も危険視されている。それを顧みずにやってきてくれるとは…なんと言って感謝すればいいのか…》
早速奪い取ってきた白いローブを虜囚だった二人に手渡した〈銀狐〉が手短に言った。
《ありがとうの言葉は、全てが丸く収まってからでいい。今はここから脱出して、街の在り方を元に戻さなくちゃならねえ》
イーディアスが、見知らぬ二人の人物を見比べ、朱音に説明を求めるような眼差しを投げたが、ディミトリの方がこういう時の意識の転換は早かった。
《説明はきれいさっぱり身体を洗って清潔な服とあったかい食べ物を食ってからでも遅くない》
ローグの二人は、ただの宿屋の主人のくせに勘の鋭いところを見せたディミトリを認めたような眼差しを向けた。
〈夜兎〉が言った。
《全くその通りよ。こんな臭いところで長話なんてばかばかしい。ちょっと身体がきついかもしれないけれど、少しの辛抱だから頑張ってついてきてね》
場違いに陽気なウィンクをぱちん、と投げたグレイウォールの盗賊ギルドマスターが先頭に、朱音が怪我をしているディミトリを支え、しんがりを〈銀狐〉が務めて、往路で昏倒させてきた教団員からローブを奪ってなりすましながら、無事、聖堂の地下から脱出することに成功した。
そしておよそ小半時後には、「アタートン商会」の隠された一室でそれぞれ治療を受けたり、湯を使わせてもらったりして、少しは生気を取り戻した二人の前に飲み物や料理が供される中、朱音は小さな窓から外を眺めて呟いた。
《一体今何時なの? 夜明けがきてもおかしくないのに、一体どうしちゃったの?》
外はしんしんと雪が降り続いている。だがそれは白さを感じさせない、命を削るような冷たさをもたらす有害なものに思われた。確かにこれは狂信者たちが考えている以上に大異変の前触れなのかもしれないと、朱音はひとり、ぶるっと身震いをするのだった。
*****
両手両足の爪をはがされたところと、まだじゅくじゅくとしている火傷のあとに軟膏を塗られ、清潔な布でぐるぐる巻きにされたディミトリが、図太い神経を証明するかのように出された料理にがっついているのを、イーディアスは別の問題に心をとられているような落ち着かない様子で眺めながら、ちびちびと強い蒸留酒をやりつつ、言った。
《妻が心配だ…それに、衛士隊がどのような混乱になっているか…おかげさまであそこから逃れることはできたが、今度は君たちが教団の標的になってしまう》
《そのことはすでに手配済みよ、隊長さん》
妙なしなを作って〈夜兎〉が応えた。イーディアスは、このドレスメーカーとして知っている人物を不思議そうに見上げた。
〈夜兎〉はその視線を受け、にやにやと笑い、テーブルの上のフルーツ皿からブドウの粒をひとつとると、ぽいっと口の中に放り込んで応えた。
《そうよね、街の衛士隊長さんをまさか盗賊ギルドの本アジトに連れてくるなんて、前代未聞のことですもん》
この告白を聞き、イーディアスは職業柄なのか、思わず腰を浮かしかけたが、口の中に食べ物を詰め込んだままのディミトリがその先を制するように言った。
《だろうと思ったよ。こんなことができるのは相当自信のあるローグぐらいってな。隊長さんよ、そう目くじらたてるもんじゃねえよ。盗賊ギルドも使いようにはなかなかもって便利な連中なんだぜ》
〈銀狐〉がごま塩の無精ひげが伸び始めた顎をこすりながら、ディミトリの神経の太さと状況判断の速さに感心したように言った。
《どうやらお前さんはただの宿屋のおやじではなさそうだな》
ディミトリは太い眉の下に隠れ気味の落ちくぼんだ黒い瞳を彼に向け、そっけなく肩をすくめた。
《わしはただの陸ドワーフだよ。多少長く生きてるってだけさ》
盗賊の常なのか、〈銀狐〉も〈夜兎〉もそれ以上ディミトリの素性について追及はせず、話を元に戻した。
《確かに人狼族が人目に触れる場所に現れた事実は曲げられないけど、そのことに便乗して人心を操ろうとしてる狂信者たちはどうにか排除しないとならないと思ってるわ。仕事柄、いろいろな情報が集まるから、人狼病なんていうものは迷信でしかないこともわかってるの。でも、人って、恐怖することが起きると、怖いくせにそのことに熱狂することがままあるわ。怖いもの見たさっていうか、パニックに巻き込まれたがるっていうか、とにかくそんな心の動きが起きるものなのよね。そこを教団は掴んで、各都市の聖堂の立場を高くしようともくろんでると、アタシたちは踏んでる。でも、そんなことはさせないわ。すでに各都市の盗賊ギルドには鳥を飛ばしてあるの。ちょっと手荒な方法になるかもしれないけれど、狂信者に街をのっとられるよりずっといいでしょ》
〈夜兎〉の気の抜けた口ぶりとは裏腹に、冷徹な信条が一筋通っているような言葉に、イーディアスは相手が金次第で何でも請け負う盗賊であることを忘れたように言った。
《教団の者たちの信じるものと、彼らの行いとの間には決して超えられない隔たりがあることは、この身で実際に体験してきたことだ。そんな者をこの街にはびこらせることはあってはならない。しかし、私たちの脱走はすでに教団内に知れ渡っているだろうし、衛士の一人が教団側の思想に傾倒しているのだ。私が出ていくわけにはいかない。そしてこの異常な天候…私の手には余る》
そして彼は控えめに朱音を見た。だがそんなそぶりをした自分を恥じるように首を振ったが、朱音は彼の思いを察したように力強く言った。
《そんな顔しないで、隊長さん。困ってるのはお互い様なのよ。それに、このことはあたしたちも関わっちゃってるみたいだし、はっきり決着をつけないとだめだって思ってるわ。でも、そのためにはあたしたちだけじゃちょっと手が足りないのよね。だから、こうして助けてもらってるの。隊長さんが出ていかなくても、衛士隊の中に絶対に信頼できる人はいないの? 今ならここの聖堂にいる教団員は少ないわ。チャンスだと思うのよ》
これに、ディミトリが強く頷き返して言った。
《その通りだ、嬢ちゃん。あいつら、突然わしらをおっぽり出してどこかへ行っちまったからな。ここのトップがいないうちに、下っ端を街から追い出しちまえ》
《じゃ、馬車で出ていったのはここの支部長なのか》
と〈銀狐〉が自問的に呟くと、ディミトリが骨付き肉にかぶりつきながら頷いた。
《なんだか妙な感じだったぜ。ぶつぶつ言いながら、わしらなんかたいしたもんじゃねえっていうくらいにそそくさと出ていったからな。なんだっけか、エルダー村がどうのって言ってたぜ》
《エルダー村? そこはつい昨日、俺とどこかのお貴族様みてえな男とで狂信者野郎を追い返したばかりだぜ》
と〈銀狐〉が言うと、二人のローグ長はまるで以心伝心しているかのように顔を見合わせた。
〈夜兎〉が軟派な仕草を引っ込め、たぶんこちらが本性なのだろうが、弓なりの眉を厳しく寄せて言った。
《ここの連中が向かった先は教団の本部の王国よ。本部には今現在最高の魔性ハンターとして裏世界では有名な教団の長がいるわ。その部隊が小さな村を制圧できなかったのは妙だわ。そのことを、ここの支部長も察したとしてもおかしくないわね》
《確かに妙だったぜ。俺たちが来るまでは余裕しゃくしゃくだったのに、そうさ、あの金髪のお貴族様が出てきたら、急に青菜に塩になっちまってよ。情けねえくらいに逃げ帰ったのさ》
もしここにいたのが朱音ではなく、龍児か玄人であったならば、パリスの身体に起きた異変の原因と、カーマインの聖アウロラ教団長を襲った不調に関連性を見出したかもしれなかったが、残念ながら、朱音は実際的なことと自分の直感で感じたことしか理解できなかった。
しかしながら、彼女は的確なことを言った。
《ねえ、隊長さん、あなたが連れてたちょっと優しそうな感じの人、あの人、今どうしてるかしら?》
《アランのことかな? 私は君たちが姿を消してからまもなく聖堂に連行されてしまったから不明だが、きっと彼ならマクレガーの妄言や威圧的な態度にもうまく対応していると思う。彼はその、衛士としては少々おっとりしすぎているとは思うが、それが今はよい方に作用していると考えている》
《じゃあ、その人に協力してもらって、衛士隊の方の意識を正しい方に向けてもらったらどうかしら? 衛士隊がまともに機能しないと、どうしようもないわ。それにこの天気でしょ。みんな、不安なはずよ。なんとなく不吉なローブ姿が街を巡回するより、街を防衛する衛士の人たちの方がずっと安心できるはずだもの》
《そのことはアタシたちが手伝うわ。隊長さん、ちょっとした任意書みたいものを書いてもらっていいかしら? それをそのアランって人に届けるのを手始めに、グレイウォールに教団の支部長が戻ってこないうちにこの街から狂信者たちを追い出す手はずを整えるから》
と〈夜兎〉が自信たっぷりに言うと、〈銀狐〉は朱音を見、言った。
《お前さんはどうする?》
と聞かれ、朱音はここで初めて仲間たちと連絡をとろうとして、内線が断絶していることを知り、内心で愕然となった。それがファンロンのエンジンを機能不全にしている謎の暗黒物質のせいであるとは当然知りえなかった。
どんな外宇宙の真空の冷たい暗黒の中でも、常につながっていたものが突然途絶し、朱音は急に心細くなった。しかし、それはすぐに彼女一流の我の強さで払しょくされた。
いやね、あたしたったら。昔はいつも一人だったじゃない。あたしもずいぶん弱くなったものね。
朱音は直感的に閃いたことを、ディミトリの方を向いて言った。
《ディミトリのおじさん、そんな怪我をしてるのにすごく悪いと思うんだけど、魔道帝国に通じる地下トンネル、知らないかしら?》
陸ドワーフはまだ食べ続けていたが、脂でべとべとになった口を布で拭って得意げに応えた。
《誰に話してると思っとるんだ? アンティキス家のディミトリの知らないトンネルはなしってな。お前さん、オーカーに行ってどうするつもりだ?》
彼女にもその根拠は分からなかったのだが、心が、身体が、そうすべきだと叫んでいた。
《あたしの直感なの。なんか今の状況って、人の心を惑わすような、妙な感じでしょ? あたしの知ってるエルフのひとは今南の方に行ってて頼れないし、王国には仲間の一人が行ってるから、あたしが行く必要はないと思って。こういう妙な状況を説明できるとすれば、あとは魔力を操れるひとたちじゃないかって思ったのよ。それに、魔法ってうまく使えば、とても役に立つ能力だと思うのよ》
《オーカーなら、聖アウロラの聖堂はないから、狂信者たちに騙されることはないしな。よし、じゃあ俺は王国に戻って、教団が馬鹿なことをしないように手配りしよう》
と〈銀狐〉は言い、強い酒をぐいとあおってから、ローグらしい即断即決でその場から退去した。
《また君たちには世話になってしまうな》
とイーディアスが恐縮した様子で言ったのを、朱音は明るい表情で受け流し、
《隊長さんのおかげで、あたしたちはこうして旅を続けられることになったの。すべては隊長さんの親切からなのよ》
《帝国まで行くんなら、少し休んでからの方がいいわ。そっちのドワーフのおやじさんもひと眠りすれば、ずっと痛みも楽になってるはずよ》
と言う〈夜兎〉の言葉に素直に従い、朱音は別室の長椅子で身体を伸ばし、目を閉じた。
今頃みんなどうしてるだろう?
そんなことを思いはせているうちに、彼女はすぐに寝息をたてていた。そういえば、セラドンから戻ってから、ろくな休息をとっていなかったのである。アルファ宙域の平和を守るレンジャーの中でも優秀なレイジュウジャーの彼女ではあったが、やはり一人の普通の人間の若い女性であることに変わりはなかった。
そしてまた数時間後には、大陸を巻き込む大異変を解決するために北の魔道帝国までの道のりをひた走ることになるのである。
*****
《ううっ、寒い! どうしてこのシークレストでこんなに寒くなるの?!》
ドナテラは、旅の途上のエルフの二人と街の自警団長のライアン・ファブローを首長室に招き入れ、小間使いにまだ使っていなかった暖炉に薪をくべさせ、急ぎ暖をとる火を起こさせていた。
飾りけはないが、どっしりとしたマントルピースの張り出した大きな暖炉の炎が勢いよく燃えだすと、ようやく人心地ついたようにドナテラは小間使いたちを下がらせ、自分で船乗りがよく飲む強い酒を面々に配り、ぐい、と一息にあおって言った。
《全く訳がわからない。空が、海が、狂ってしまったとしか思われない》
ある種の植物の樹液を蒸留させて作る酒の強さにむせていたルオンが、何事にも消極的な態度のままではあったが、小声で発言した口調には彼の内省的な中にひそむ強い知識欲をかきたてているものがあるような、一種の高揚感があった。
《あの…これは僕の推測でしかないし、この推測の根拠もきちんとした証明があるわけではないんですが…》
《まどろっこしいね、あんたは相変わらず。そのものずばり、言っちまえないのかねえ?》
エルフの女性にしては体格の良いレオナが、その意思の強さを示すようなくっきりとした眉をぐいと上げて幼友達であり、一応婚約者でもあるルオンの尻をひっぱたくような口調で言った。ルオンは慣れているように少しだけ首をすくめ、本当にこれでエルフなのかと言いたくなるような自信のなさで発言を続けた。
《…えーっと、こういうことをエルフの僕が言うのははばかられることなんですが…みなさんは、この世が一本の大樹で支えられていた、という古い言い伝えを聞いたことはありませんか?》
ドナテラはぽかんとして首を振り、レオナも同様だった。だが、意外にも、自警団長が考え考え、こう言った。
《それは、『世界樹』というものではないのかな?》
女性陣が驚いたようにライアンの顔を見たのとは違った意味合いで、ルオンはどっきりしたように胸を押さえたが、すぐに興奮で息切れしているような口ぶりで応えた。
《そうです、そのことです。どうして知りました? 『世界樹』の言い伝えは、エルフの時代をはるかにさかのぼる、エルフの歴史をつづるのにはあまり喜ばしくない世界観なんです》
《どうして「喜ばしくない」んだい?》
レオナが素朴に尋ねると、ルオンは他にエルフがいるわけでもないのに、何かやましいことでも打ち明けるようなひそひそ声になり、
《僕たち砂漠エルフは、1000年前に大本の森林エルフから隔絶されてしまった、いわばはぐれものでしょう? だから他のエルフたちより考え方が違ってきていると思うんだよ。基本的にエルフは自分たちこそが何事においても至高の存在だと思っている。そういうものたちが、自分たちよりはるか以前に『エルヴィアンの扉』以上のテクノロジーがあったなんていうことを認めるはずがないんだ。でもね、僕はすべてがエルフから始まったとは考えられなかった。それで、この間の奇妙な白い布をかぶった軍団とか、『管理者』とか、そういうことも鑑みると、僕たちの世界は計り知れない何かのもと、存在しているという結論に至ったんだよ。もちろん、それまでに僕は森林エルフだったら追放されていたかもしれないような、古い記録や口伝を研究していたんだけれどね。レオナ、グリアナンの最南に、『大地のアギト』という大地溝帯が伸びていることは知っているよね? あそこは何人も踏破したことのない底なしの谷が続いていて、その向こう側には翼があっても登り切れるかわからないくらいの断崖がそびえたっている。あれは決してエルフがやったことじゃない。じゃ、誰が、なにものがあのようなものを遺したか? それと、ここの北側にある群島だけれど、そこは元は一つの大陸だったということも、僕は調べて知っている。それが何かの原因で、今のばらばらな島々になってしまった。そうなってしまった原因は? 大地や海を操るなんて、エルフにだってできないことだよ。つまり、「なにか」が、そういうことをしたということになる。そしてその「なにか」は、決して適当にそういうことをしているわけではなくて、この世界を支えるものの影響下でそういう作用をこの大地に引き起こしたんじゃないかという推測に至った僕は、一枚の寓意的な古いタペストリに気づいたわけさ。それには、一本の大木が枝を9つに広げていた。それが『世界樹』だよ。もちろん、そういう呼び方であっているかは疑問だけれど、そういうものがこの大地にはあると、僕は今、確信したんです》
ドナテラが混乱気味にひ弱な感じのエルフから視線をライアンに向け、尋ねた。
《こんななぞなぞみたいなことを、どうしてあなたは知ってるの、ライアン?》
シークレストの自警団長は、困ったようにレンガ色の髪をぼりぼりとかきながら、応えた。
《木工ギルドに昔から伝わってる話の中に、この世界は大木が支えているという話があるんだ。木工ギルドとしたら、それほど誇らしいことはないだろう? 世界は巨木だというんだからね。もちろん、今まではギルドの誇りを裏打ちする、単なる作り話か、誰かが誇大して伝えた話程度にしか思っていなかったが、今の話を聞くと、どうやら真実らしい。私も驚いている》
《で、その『世界樹』とこの異常現象はどうつながるのよ?》
ルオンの長話は毎度のことらしく、レオナは彼をせかせるように尋ねた。
彼はしゃべりすぎたために乾いた喉を潤そうと思わず強い酒を飲んでしまい、けほけほとむせまくってから、応えた。
《『世界樹』はその名の通り、世界を支えていると言われています。それが、どういうわけでか、バランスを崩したのではないかと。まず第一に極星の位置がはっきりとずれています。そしてこの極夜。僕が結論するに…》
と言いかけたところへ、ノックもなしに入ってきたものがいた。それはまだ濡れた身体をした北のマーフォーク族の長、グンニルだった。彼はぎょろりとした魚眼をさらに見開き、危機感に満ちた口ぶりで言った。
《ドナテラ、港から船を陸にあげろ、至急にだ!》
港に迷走して死んでしまった海の生物たちの始末を頼んでいたドナテラは、グンニルの血相が変わっていることに驚いた。マーフォーク族は滅多に感情を表に出さないし、特に、この老練な族長は勇猛でありながら確実な判断力を持つ賢い存在だったからだ。
《何が起きたの、グンニル?》
《説明しているひまはない。それに、港に行けばわかる。早く来い! でないと、余計に被害が出るぞ》
マーフォークの族長の慌てぶりの理由は、港に行きつく前に察することができた。ルオンが明けない空を見上げ、愕然と言った言葉だった。
《極光があんなに折り重なって? それも、みんな、闇に飲まれていく? まさか?》
重い雪が降る中、彼らは見た。北の空に虹色に輝く光のカーテンが幾重にもひらめいているのを。
そして港では信じられない光景が広がっていた。
街人たちが右往左往しているのを、ドナテラの素早い判断力が制した。
《とにかく、停泊している船を全部陸に上げて! ドッグの入り口も閉じるのよ! なんてこと! こんな南まで海が凍るなんて、信じられない!》
黒々とした凍り付いた海面は、港から楽にのぞめるところまで迫っていた。
グンニルが言った。
《このままでは北の海はすべて凍結するだろう。私は一族のもとに戻り、海の中からこの異常に対する策を練る。さきほどの哀れに命を落とすようなことがないようにな。何かあれば必ず協力する》
と、マーフォーク族はまだ凍っていない岸壁から海中に戻って行った。
街人たちとドナテラとライアンが忙しく港で動き出したのをはた目に、レオナは傍らのルオンに尋ねた。
《これはあたしでもわかるよ、ルオン。あそこでは闇が光を食らってるんだろ?》
ルオンは深刻に頷き、
《光と闇は表裏一体…でも、この傾きすぎたバランスの中で、闇の比重が大きくなりすぎたんだ…そして今、あるべき四季の姿はその偏向のせいで奇形してしまった…あそこにはおそらく『氷雪の女王』が生まれようとしているはずだよ…》
《あたしたちにできることは?》
《たった二人のエルフの命を散らしても、この闇の重さを軽くすることはできないよ》
《じゃ、あの極光は…》
《あそこで抵抗している光の一族が闇を打ち消そうとしていて、命を投げ出しているんだ。彼らの、命が散る時の勇敢で哀しい最期の姿さ…》
ルオンの気力をなくしたような言葉に、レオナはいつものように反発した。
《そうやってただ眺めてるだけかい? あんたが言うその『世界樹』、それをどうにかすればいいんだろ? お考えよ、そういうのはあんたの専門だろ?》
《そう簡単には…》
とやや眉目をしかめて言い返したルオンだったが、はっとしたように続けた。
《そうだ、あの冒険者たち…彼らならもしかすると…》
《ああ、あの妙ななりをした若い連中かい?》
《うん、彼らからは終始強い波動を感じていた…魔力とも精霊の霊力ともつかない、妙な波動だったけれど…。グリューネとも同調できる彼らならもしかすると…》
《だったら、彼らを探しに行こうじゃないか。何もしないでここに足止めされるなんて、あたしは退屈で死んでしまうよ》
と言うレオナの発言はルオンの返事を待たずに決定され、二人の砂漠エルフは、ドナテラが手配してくれた小型のスクーナーに乗り、まだ凍結の影響を受けていない海峡を抜けて都市連邦側へと旅立ったのであった。
船乗りの守り星である極星はほぼ水平線に隠れて見えず、北の空にはいまだ極光がひらめいては消えていく中であっても、大胆なエルフたちの羅針盤は決してぶれず、まっすぐに突き進んだ。そう、永遠に輝く光を秘め、それを大きな川の流れのように正道を貫くものたちのもとへ。




