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四神戦隊レイジュウジャー  作者: 沢木佑麗/雲月
第六章 地底都市セラドン編
79/103

『Täuschung(まぼろし)』

 この、どんよりとして、空虚で、苛立ちに満ち、絶望に打ちひしがれつつも、すべてを終わりにする絶頂感に憧れていながら、できないでいる臆病さに自嘲し、結局みじめにとぼとぼと、老人のように五感を閉ざして歩き続けるだけの場所を、僕は知っている。

 いや、知っているだけじゃない。

 ここが僕の居場所だったし、今もここは僕の避難所(パニックルーム)なんだ。ここにいれば、外がどんなに感情の暴風に荒れていても、安全だ。僕の心は平然と、周囲の騒がしさに巻き込まれずにいられる。

 でも、ここも完全に安全なわけじゃない。周りを見ろ。似たように俯いて歩く亡霊のようなものたちがいる。そのものたちは外の顔を偽善者の笑顔と従順さで塗り固めてきたことで、ああして分厚い重しのような鎧を着こみ、この場所から逃れられなくなっているのだ。

 僕は自分の足元を見た。

 はたして、脛の辺りまで、その鎧のようなものが形成されていた。

 おかしいな。いつもはこうなる前に、さらに僕の内面にある自分だけの居心地のよい空想の花弁のはざまに滑り込むことができるのに。

 もちろん、ここから逃れられないことも何度かあった。

 そういう時はたいてい、頭上に輝く明星のごとき灯りが見えたんだ。それを頼りに、僕はちゃんと歩き続けることができた。

 その輝きは僕に語りかけてくれた。お前は一人じゃないと。この輝きがさらに高みにのぼり、僕が涙の中で溺れ、この茫漠とした場所よりもがらんどうになってしまった時も、それはまだ語りかけてくれた。いつもお前を見ているよと。

 僕は生まれた時から独りぼっちだった。好きでこうなったわけじゃない。反発することもできたが、そうするには幼すぎたし、何より、失うものが大きすぎた。子供がどうやって一人で生きていける? 

 もちろん、うわべだけは立派だった。僕は何不自由なく育った。養い親たちは僕をいじめたりしなかったし、僕の学力に見合った教育を受けさせるのになんの反対もしなかった。

 でも、僕にはこれが本当の家族だとは思えなかった。宇宙時代になり、さらに大きな視野で平和主義や人権擁護が唱えられている時代に、孤児を路頭に迷わせるわけにはいかなかったから(そもそも、このような体制こそ偽善的だ)、養子縁組は普通のことだったし、そこで優秀な子供がいれば、きちんと育て上げることは当然のことだった。後から知ったことだが、養子の数や、その質に応じて、公的な機関から助成金が出ていたらしい。全く偽善的だとしかいいようがない!

 僕は確かにきちんとした家庭があったけれど、あれが真実の家庭だとは思わない。一人、部屋で勉強の合間に思いを馳せる時、少年の僕は遠くに輝く温かい灯りを見たものだったが、それがまぼろしであることはすぐに気づいた。孤独が見せた残酷なまぼろしだった。こんな寂しく悲痛な思いに駆られるなら、いっそ本当に独りの方がよかったとさえ思った。

 だが、その輝きが本物になった時期があった。そして、この灰色の世界にも縁遠くなった。

 初めての経験だった。

 僕は有頂天になった。灰色の道を歩き続けてきてよかったとさえ思われた。ついに報われたのだと。ついにまぼろしが現実になったのだと。

 でも、それはあっという間に通り過ぎる彗星のように美しくもはかなく、僕の前から消えてしまった。

 ようやく見つけた輝きは再びまぼろしのように灰色の空に瞬き、そして今、それは全く見えない。

 ずしり、と身体が重くなった。見下ろせば、分厚い金属の塊が腿の辺りまでせりあがっていた。

 立ち止まりたかったが、できなかった。

 時折、僕の無様な様子をあざ笑うかのように、ちららちと何かが閃き、僕に一瞬の期待を呼び覚ます。

 しかし、それは僕をさらに絶望させるだけであり、これまで積み重ねてきた虚構の自分の重さを痛感させるだけだった。

 なんとなく、周りの色が濃くなった気がする。自らの偽善的な行いの重さが僕を金縛りのようにする。

 立ち止まってはいけないのか? もう疲れた。僕自身を僕自身として叫んで、終わりにしたい。

 こんな独りぼっちはもうたくさんだ! 誰か、僕のことを見てくれ! そして手を握り、僕は独りじゃないと励ましてくれ! そして、僕が悲しくて泣きだしても、蔑まないでくれ! 良い子で強い子の振りをするのはもう嫌だ! 僕は弱虫で、誰かの支えがなくてはだめなんだ! 誰か! 誰か! 僕の手を!

 と、灰色の空にきらり、と強い輝きが見えた気がし、そこへぐい、と身体を引っ張られたように感じた龍児は、濁った水面から顔を出したようにぱちっと目を開き、激しく咳き込んだ。

《大丈夫かよ? お前、あと少しで壁に押しつぶされてたぜ》

 龍児は、急激な感覚の転換に困惑したが、見れば、確かに足元に瓦礫になった何かの残骸があった。そして目の前で自分の肩に手をかけ、心配そうに彼を見る大牙のまっすぐな視線に心のどこかを刺激され、ようやく正常な感覚を取り戻してきた。

《…僕は何かの意識に取り込まれてしまっていたのかな…? よくわからない…》

《お前はやたらめったら鍵のかかった柵の向こう側に倒れてたんだ。それをクロトと俺で壊していくうちに、今度は壁がお前に向かってせり出してきてよ。全く、ハラハラもんだったぜ》

 龍児は、だいぶ現実に戻ってきた意識で、その場にいる者たちを見まわし、言った。

《…アカネがいない……それに、そこの人は誰だ?》

 ちょうどベアルの隣に立っていたディミトリが応えた。

《この人の知識がなかったら、お前さんを…いや、わしたちをこの妙な場所から助け出すことは難しかったろうな》

《…では、あなたも?》

 と龍児が驚くと、ベアルが自己紹介も兼ねて言った。

《私はベアル・グラド。君たちは『太古の民』と出会っているそうだから話が早い。私たちは彼らに反逆を企てた、『流浪の民』と似たような逸脱者だ。『流浪の民』が世界を漂泊しているのと同様、私たちはこの地底回廊の最深部よりもさらに深い冥府に堕とされ、永遠に地底で暮らしている。しばしば『グリゴリ教団の者』とも言われている。君たちはカムペロスによって冥府に転移させられた際に、心にかかること、つまり、自らも後悔したり罪深いと思うようなものを抱えていた場合、冥府の心の浄化の審判にかけられ、それぞれの『圏』、君の場合は『偽善の圏』に送り込まれてしまったのだ。あのまま壁に押しつぶされていれば、君は浄化され、命の巡りに戻っていただろう。そうなってしまったら、君の実体は消えていただろう》

 これを聞き、大牙が激しく言った。

《えっ?! じゃ、あとちょっと遅かったら、リュウは死んでたってことなのかよ?!》

《そういうことになるね》

《ちっ、他人事だと思ってこのくそ野郎! リュウは俺たちの大切な仲間なんだぜ! それに、まだアカネが残ってる。時間切れがあるってんならちんたらしてねえで、さっさと見つけやがれ! くそっ、あのへんな怪物の野郎、俺たちに恩着せがましいこと言いながら、こんな危険な目に合わせやがって、この次会ったら絶対ぶんなぐってやる!》

 この乱暴な言葉を聞いていた龍児の心の中は、むしろ乱暴なら乱暴なだけ、温まるように思われた。

 あの虚無の中で強く輝いていたものを、彼は今そこに感じていた。自分は独りではないのだと。

 そうだよ。

 ふっと、龍児は玄人に助けられながら立ち上がった時、虚空を見やった。

《なんじゃ、まだ気分が悪いんか?》

 のんびりとした玄人の口ぶりは、龍児の、常にぴりぴりとしている心の中にじんわりとしみ込んだ。

 彼は首を振り、

《レンジャーの僕がこんなことになってすまないなって》

《レンジャーである前に、お前は青山龍児っつう人間じゃ。それを大切にせんとならんよ》

 龍児は俯き、何かがあふれそうになるのをぐっとこらえた。

《…そうだね。僕は僕、ありのままの僕だと思わないとね。難しいことだけれど》

《強いもんは、自分の弱さも知っとるもんじゃけえな。ま、今はアカネを見つけることに専念じゃ》

《そのとおりだ》

 玄人と大牙、そしてディミトリが破壊の限りを尽くして進んできたことがありありとわかる狭い通路を進みながら、龍児はもう一度あの灰色の空に輝いていたものを思い返していた。

 いつになれば愛着と喪失の涙を流さず、君が平安の中にあることを思うようになるのかな。

 応えは返ってこなかったが、彼のそばに仲間たちの体温を感じ、このような場所でもほっと心の緊張がとけるのを感じるのだった。

 そしてそれは次なる現実に向き合う勇気と気迫に変わった。

 そう、朱音の所在を明らかにし、速やかにこの灰色の世界の呪縛から解き放たなければならないのである。


*****


 あたしの、この普通じゃない容姿は、歓楽街のド派手で下品な照明や看板の中に入ると、それほど目立たなくなった。

 だからってわけじゃないけど、あたしは夜な夜な施設を脱走しては、この場所で、あたしの仲間たちととぐろを巻いていた。

 施設は確かに、あたしに恩恵を与えてくれはした。寝る場所も食べる機会も、あたしには全く似合わない、古臭いどこかの慈善団体からの寄付で届いた古着もくれた。常識を養うだけの教育も用意されていた。

 別に、ここから逃げ出してもよかったんだけど、女のあたしが、それもまだ思春期の不安定な年ごろに、そんな重大な決断をするのはあまりに無謀なことは直感でわかっていたから、仕方なくとどまってた。

 あたしを臆病者だって言いたければ言えばいいわ。でも、自分の命を大切にすることのどこが悪いの? 

 そりゃあたしは良い子じゃないわ。施設の中でも、きっとたぶん一番反省室にぶち込まれる回数は多かったはず。さすがのあたしでも、こうも何度も夜中の脱走を繰り返していたら、失敗することだって多くなるでしょ。

 でもね、今思えば、あたしは守られてたのね。施設の人たちは特に温情的な態度であたしたちに接していたわけじゃないけど(そりゃそうよね、あの施設に何人の不幸な子供たちが収容されていたかって思えば当然だわ)、あたしを始め、品行方正でない子供に対しても、極端な懲罰は用意してなかった。せいぜい丸一日の独房行き。

 ふふふ、見てよ、この扉。あたしが蹴り飛ばした跡が何個も残ってる。

 もちろん、手加減してるわ。あたしが本気の一蹴りをすれば、こんなしょぼい鉄の扉、蹴破るのは簡単よ。

 でも、あたしの中に渦巻き続けてるものを扉にぶつけて、さらに施設の人たちの手間をかけさせるのはフェアじゃない気がするから、壊さないでいるだけ。あたしをこうして生かしてくれるだけ、感謝しなくちゃ。

 あたしって、ほんと、なんのために生きてるのかしら? 

 独房に入ると、たいていそんなことを考えしまう。

 子供って、望まれて生まれるものなんじゃないの? でも、あたしは違う。こんな醜い赤痣を半身に刻まれて、日本人じゃない誰かの血が流れてる宙ぶらりんなあたし。

 世の中、なんて不公平なんだろ? 命の重さって、みんな同じだと思うのに、どうしてあたしにはこんなに重荷があるの?

 ああ、イライラしてきた。

 また一つ、あたしの蹴った跡が鉄扉にへこみをつけた。

 あたしががんがんと扉に八つ当たりをするのはいつものことなので、施設の連中はガン無視。あたしがこれ以上暴れないことを知ってるからよ。

 でも、「これ以上」なことがあたしの中にはくすぶり続けてる。イライラするときの、ちろちろとした弱さではなく、髪の毛が逆立って、何もかもが真っ白になるくらいの強くて激しくて何の見境もなく爆発するような感情の業火にまかれるくらいの普通じゃない怒りが。

 その火種になっているのが、この「あたし」という存在自体。そしてそれを生み出したやつら。

 あの年ごろで歓楽街をまたにかけ、あたしと似たような境遇の(あたし以上に不幸な子供たちだったと思う)連中を引き連れてあちこちで違法すれすれのことをしていたから、どういうことをすれば子供が生まれるかということくらい、知ることは当然だった。実際に、あたしにくっついてきた連中の中にも、単に欲望のはけ口の結果にすぎない者もいた。

 大人の勝手な都合で生み出された命を、あたしはどうやって生きていけばいいの? いきなり放り出されて、あったかい母親の胸に抱かれることもなく、あたしは駅のロッカーに放置されていた。身体にはまるであたしという命が淫らな行為の証であるかのように紅い痣まで残して。

 憎いわ、大人なんて、みんな憎いわ! なんでもできるような面をしてるくせに、それを裏返せばみんな生臭い欲望を募らせているのよ! だから夜の街はあんなにぎらぎらと輝いて、大人たちの欲望と、きっと不正に得た金をばらまかれているんだわ。そしてそこで生きる不幸な人々は、その恩恵を受けられず、あくどい女衒たちにみんな吸い取られるんだわ。

 そんな一人だったのかしら、あたしを生んだ人は? やっぱりかわいそうな女だったのかしら? 

 ううん、歓楽街で生きてる人たちだって、子供を育てている人はいる。愛情深い人もいる。むしろ、愛に飢えてる人たちばっかりだわ。

 そうよ、そうに決まってるわ。もしあたしを望んでいたら、どんな苦労が待ち構えていたって手元に置いたはず。それをロッカーに捨てるなんてこと、できるはずがない。犬や猫だって捨てるなんてできないのに、赤ん坊を置き去りにするなんて。見つけられなかった可能性だってあったわ。あたしは捨てられたの。こんなもの、いらないって、ほしくなかったって、ぽいっと捨てられたの。今じゃどこの道路でもポイ捨ては禁じられてるのに、あたしはポイ捨て。

 むかつく。

 顔のない二親がまぼろしみたいに浮かんでくる。

 なんでよ、あたしは捨てられたのよ。どうして浮かんでくるのよ。あんたたちなんか、あたしにはいないのよ。だから出てこないで! むしろ、元からいないと思ったほうがずっといいもの。

 まぼろしは増えていく。

 なによ、そういうことなの? あたしの父親の数はそんなに多いってわけ? 

 畜生! 消えてよ! いなくなってよ! いなくならないなら、あたしが殺してやる!

 まぼろしに向かって蹴りを食らわせると、どばっと真っ赤な血が流れた。あっは、いい気分! もっと血に染まれ! あたしのみじめな紅い痣が見えなくなるほどに! そらっ、そらっ、お前らなんか、みんないなくなれ!

 まぼろしが打ち倒されるたびに、足元に血だまりができ、それはどんどん多くなり、まるで血の河のようにまでなった。

 あたしは狂乱して笑った。

 あーっはっはっはっ、ざまあみろ! お前らなんかみんな蹴飛ばして、笑い飛ばして、あたしだけがあたしなんだと臍の緒をぶら下げながら叫んでやる!

 血だまりは大きくなった。あたしの胸元までせりあがっていた。

 この中で溺れたら、また子宮の中に戻って、繰り返すの? いやよ、そんなの!

 どうしたのかしら、足が動かないわ。何かがあたしをつかんで離さない。やめて! あたしを引きずり込まないで! 今更親の顔をしないで!

「その手を離さないと、ぶっ殺すわよ!」

 なんの前触れもなく、自分の声が聞こえた朱音は、両側に龍児と玄人が立ち、四肢を抑え込むようにして壁に押し付けられていることに気づいた。

 まだ自らの意識の深層での怒りのボルテージが下がりきらず、呼気荒く彼女は尋ねた。

《あたし……どうかしちゃった……わかんないわ……すごく胸が…はぁ…苦しいみたいな……悲しいみたいな…》

 すると、彼女の前に立っていた大牙が底意なく応えた。

《今は消えてるけど、お前、溺れかけてたんだぜ、真っ赤な色した水みたいなところで。それで助けに行こうとしたら、お前はいきなり俺たちに攻撃してきたんだ。それを俺が受けて、暴れまくるお前を二人が抑え込んだのさ。その暴れようったら、まるで怒り狂った猫みたいだったぜ》

 朱音はようやく人心地ついたようにため息をつき、両隣にいる仲間二人を見やり、しゅんとなった。

《…ごめん…でもほんと、何がなんだかわかんなかったのよ…自分じゃどうにもならなかった…すごく恥ずかしいし、悔しいわ…なんてことしちゃったのかしら》

《どうやらここは意識の深層に影響する場所のようなんだ、アカネ。だから、心の隙間があると、そこに入り込んで、意識をただすらしい》

 と龍児が簡単に説明すると、ベアルが頷きながら言った。

《玄人君以外は皆、いずれかの『圏』に飛ばされ、君と似たような経験をしていた。我々以外で生きた人間がここまで到達することはほぼないことだからね、少々困惑したのは確かだ。ここは『憤怒者の圏』だ。君の包含する怒りが溢れて河となり、憤怒に任せて暴力に身を任せる…しかし、もちろん君を魂の浄化の輪へと行かせるわけにはいかないし、君はまず第一に生者だ。助けられてよかった》

 朱音は見たことのない男の言葉を真摯に聞き取り、仲間たちを見まわした。

《みんなも?》

 玄人を除いた面々が頷くと、朱音は少し気が軽くなったように顔つきを緩ませ、ベアルに言った。

《見たところ、なんかあなたって『流浪の民』の人たちの雰囲気が似てるわね。あなたが『太古の民』の生き残りだって言っても驚かないわ》

 ベアルは、朱音の直観力を喜ばしげに思うように眼もとを和ませ、

《君たちは本当に変わった人間だね。確かに我々は『太古の民』ではあるが、『流浪の民』と同様に漂泊する生き方を選んだ少数派だ。しかし、ここにいることで、君たちを無事救い出す手助けができた。君たちは冥府の厳格な試練を乗り越えたわけだから、先に進むことを許されたも同然だ。一度私たちが住まうデュースの街に戻り、そちらで待っているドワーフの学者たちの考えもいれて、この後の行動計画を練ってはどうかな?》

《そうだったわ。あたしたち、こんなところでもたもたしてる暇はなかったんだわ》

 と朱音は、無意識の世界でどれだけ荒れ狂っていたかも忘れたように歩き出したが、不意に思い出したように振り返って言った。

《もしかして、あたし、タイガだけじゃなくて、みんなを蹴り飛ばしまくってた?》

 玄人と龍児は苦笑いだけを返したが、ディミトリが大牙の先を制して応えた。

《わしの顎に一発、回し蹴りが眼鏡の横面を吹っ飛ばしたし、膝蹴りがでかいのの腹にどすんと決まってたぜ。ちびっこいのにはやたらめったら蹴っ飛ばしていたがな》

 朱音の顔に後悔と羞恥の朱がさす。

《あたし、とんでもないことしちゃったのね…どうしよ》

《ここは尋常ではない場所なんだ》

 と龍児が励ますように穏やかに言った。

《僕も相当にひどい状態だったけれど、みんながいたからこうしていられるんだ。お前も気にするな。仕方なかったんだ》

 朱音は、龍児の白い手がそっと、羽毛が落ちるくらいの控え目さで彼女の肩に置かれたのを、とても感じ入って受け取った。すぐにその手は引っ込められたが、彼女の気概を取り戻すのには十分だった。

《そうね、くよくよしてるのが一番よくないことね。あたしたちは振り返ったりしない、正義の味方なんだもの。でも、この灰色の風景、嫌になるわ。さっさと妙な石をぶっ壊して帰りましょ。で、あたしの蹴り、どれだけ受けられたのよ、タイガ?》

《へっ、パーフェクトに決まってるじゃねえか》

《その割にほっぺたが赤くなってるみたいだけど?》

《かすっただけだぜ。お前のキック攻撃なんか、俺様からしたらスローモーションに見えるんだからな》

《へえ? そうなんだ。だったら今度、ちゃんとした状態で模擬対戦してみる?》

《言ったな? あとで後悔したって知らねえぞ》

 この二人の言い合いは結局デュースの町に着くまで続いたわけだが、その他の面々は後ろで苦笑を禁じえずにはいられない道程だった。無意識下での朱音の攻撃は信じられないほどに容赦なく、大牙の技量でもっても、彼女の攻撃の何回かはクリティカルにヒットさせられていたのを、見ていたからである。

 人の心のひだの複雑さと深さを痛感させられたレイジュウジャーたちだった。そして同時に、なぜ玄人だけは冥府の試練に立たされなかったのだろうかという疑問も浮かんでくる。これもまた心のひだの迷宮の謎であった。


*****


 デュースの町に戻った一行は、改めてこの生死の境の曖昧な場所の在り方に驚嘆し、理解に苦しんだ。町の存在は確かに認められるのだが、環状の城塞のような壁が取り巻き、巨大な城のような建物と、不吉な感じのする塔がそびえるのが見えるその周囲には、もやもやとした実体のないみじめなものが群がり、その城塞都市らしいものの周りだけ、恐ろしげに燃え上がるように空が赤々と映えさせていたのである。その鉄の城壁のような周りにたむろするものや、地獄の業火としか思えない陽炎さえなければ、その外観は、勇壮かつ美麗とも言えた。

《どこかの遺産的価値のある古都にある城のように見えるけれど…それにこんな場所に堀があるなんて…あそこに流れる液体はどこから生じているんだろう…それに僕が見たあのまぼろし…まるでこれは『神曲』じゃないか。そうか、だとすれば、納得がいく。でも、ここは地球じゃない。まさか、ダンテも似たようなトリップをさせられたのか? わからなくなってきた…》

 この龍児の呟きを聞いたのか、ベアルが微苦笑で応えた。

《君たちがこの世界に生きる種族と異なっていることはわかる。それでも、この場所に既視感があるというのならば、それは命あるものの繋がりが見せる最大の共通項なのではないのかな。カムペロスは少し無謀なことを君たちにしてしまったようだが、無事、君たちを冥府の厳正で過酷な正義が行われる場所から取り戻すことができてよかった。生者がこの冥府に存在することはほとんどないと言っていい。この私たちでさえ、ここに堕とされた当初は精神を破壊されて自分を見失い、自滅していったのだから。私の同胞たちはわずかだ。だからこの前の危機を食い止めるのにもぎりぎり間に合ったくらいなのだ。あれを止めることができなかったら、私たちがこうして生気のない場所で生き続けてきた意味がなくなっていたところだった》

 燃える陽炎が取り巻く城壁の中に入る時は、さすがに及び腰になったが、これは亡者にとっての業火であり、完全に自分を取り戻している彼らには、なんの影響もなく、すり抜けることができた。すると、中世の街並みのような細い通りが巡り、小さめの家々がブロックのようにでこぼこと高低差のある軒先を連ねて並んでいるのが見えた。そして遠方に、塔がそびえる城が赤々と燃え上がっていた。この空間から灰色の空と燃える陽炎を取り除いたら、どこかの歴史的な遺産認定されている旧い街としか思われなかった。

《思ってたほどひどい場所じゃないのね。それに、ここには変なふよふよした幽霊はいないみたいだし》

 朱音の率直な感想に、ベアルは先に立って歩きながら応えた。

《城塞を取り巻く炎には結界のような効果があるのだ。亡者どもは入れない。入れたとしても、それはあの塔の中で罪を浄化する業火で焼かれる身の上だ。まあ、私たちもあの業火で焼かれるべきと思われ、かつては同じ種族だったものにこの場所に送られた咎人なのだろうがね。しかし、そのおかげで、この世界が私たちにとっても非常に興味深い場所であることに気づかされた。ここは探求すべきところに満ちている。生者である私たちも、死者の魂も混在できる、この世とあの世の境が曖昧な場所だからだ。私たちの種族は、ここを自分たちの都合の良いように廃棄場のごとく利用していた。君たちが遭遇した飢狼や、門番(カムペロス)も、もとは私たちの種族が創造しようとして失敗したものを廃棄した慣れの果てにとりついた霊体だと思っている。そういった物事の積み重ねで、生者と死者の世界の境が狭くなり、君たちのように生きたまま、罪の意識の自省作用に取り込まれてしまうという現象が起きてしまったのだろう。それにしても、カムペロスから鍵を奪ったとすれば、一大事だ》

《あの門番は、土のドラゴンへの道が開かれてしまうと言っておったが、あんさんはドラゴンの存在を確認しとるんか?》

 と玄人が尋ねると、ベアルは長屋づくりになっている、ひとつの建物の前で立ち止まり、扉を押し開けながら応えた。

《残念ながら、あの門番は頭が固くてね。それに、ここから下の冥府につながる第二の門は、あそこに見える城の中にあるんだが、私たちが下へ向かうことを許さなかった。この場所を統括する存在が、私たちの種族に対する不信感を持つのは当然だからね。カムペロスは『太古の民』が自分勝手に生み出し、棄てられた存在から姿かたちを得たものであると考えているから、もし本当にドラゴンがいるとしたら、私利私欲を押し通すことに何の抵抗もない私たちの種族にその存在を知られることは絶対に避けたいと思うだろうからね。私たちの種族の傲慢さを、廃棄されたものに残された記憶などから知り、地底の秘密を明かすことの危険性を知ることとなっだろうからね。それに、どうやら、第二の門の先には、他にも幽閉者がいるらしいのだ。その存在も、私たちには明らかにしたくない、何らかの理由があるに違いない》

 ベアルはまるで悟りを開かざるを得ない永い年月を経た眼差しで言うと、

《こんな場所でもてなすのは難しいが、ドワーフの二人の学者たちも待っていることだし、君たちも心を痛めて疲れたろうから、何かすっきりとするようなものを用意しよう。玄人君、学者たちが待つ部屋に彼らを案内してあげてくれ》

 この言葉に、龍児が奇妙な顔をしたのを、ベアルは見逃さず、苦笑した。

《まさかに君たちの世界にも冥府の食べ物を食すと戻れなくなるという言い伝えでもあるのかな? おもしろいことだ。命あるものの同調性には驚かされるね。安心なさい、このような亡者の世界には私たちが食すようなものは存在しない。すべては地底回廊から調達してくるのだよ。確かに、シャッテンならそういういたずらをするかもしれないがね。彼らは悪質な道化だから》

 これを聞いても不審そうな眼差しをしている龍児に、ディミトリが言った。

《地底回廊にはいろんなものが生えてるもんさ。まさに神水のごとき清流が流れてるところや、暗闇に住まういろんなものどもの卵やらさなぎやら…》

《いやよ、そんなゲテモノ!》

 朱音が本気で身震いをして拒絶したのをおかしがるようにベアルは言った。

《はっはっ、確かに地底回廊でそういう生き物たちから少しだけ分けてもらったりはしているよ。おもしろいねえ、君たちは。優れた戦士で比類ない覇気を秘めているのに、節足生物や暗がりを好む生物には恐怖するとは?》

《戦うのと食べるのは違うわ!》

 ベアルは心底楽しそうに顔をほころばせながら別室へと消え、朱音は戦々恐々とした様子で玄人の先導についていった。そんな彼女を横目で見やり、大牙か鼻先であしらうように言う。

《クモとかサソリとかって結構イケるみたいだぜ? どうしよ、すんげえでけえのが出てきたら!》

《そんな話は聞きたくないわ!》

 「へへへ」と大牙が朱音の狼狽ぶりを笑っていると、前方の横からぱっと粗布がひらめき、ウィラーディヌスの安堵と信頼に満ちた顔が現れて言った。

《おおっ、心配はやはり杞憂であったな! わしは信じとったわい。お前たちにはこんな場所に負けない心の強さがあるとな。さあさあ、こちらへ来んか。今、ちょうどこの場所がいかなる場所か資料をつき合わせておっての、まさに答えが見つかりそうなんじゃよ》

 彼らにとっては、この陰気な場所も目撃し、記録し、解明する喜びをもたらす未知の研究対象にすぎないらしい。

 中に入ると、粗末な二段ベッドがあり、目の粗い敷物が敷かれた床面に、持ってきたものを広げたらしく、足の踏み場もないような状態になっていた。

 気の利くノルディスが、戻ってきた者たちが入れるように丁寧に資料や巻物をベッドの上にかたづける中、博士は幾枚かの巻物を指し示しながら好奇心と探求心に上気した顔のまま、言った。

《わしらドワーフの起源は「大地の子ら」と呼ばれておる。原初の世界はまず第一に「混沌」を生んだ。そして次に「大地」と「奈落」、そして「愛」が生まれたという。この「大地」は「天空」を生み、「混沌」は「幽冥」や「夜」、「夢」「睡眠」などを生んだ。「大地」は自らの生んだ「天空」と交わり、多くの巨人族を生んだが、その巨人が作り出された時に木っ端のようにはじけ飛んだものから、わしたちドワーフ族は生じたという言い伝えだ。まっ、これはあくまで言い伝えであり、誰も実証できていないから、のちのドワーフたちが自らの存在の誇りを保つために生み出した想像の産物だとは思うが、わしらが魔力とは無縁であるということ、ラディウム鉱石の毒にもあたらないという事実は、ひょっとすると、こういった伝承から発生しているとも言える。わしらが地底を住みかとし、夢幻世界とも無縁であること、鍛冶技術に長けていること、戦いにも長じていることなどの性質は、神話時代の神々の恩恵に預かっているからだと真剣に主張する学者どももおるのだ。わしらは闇の世界を恐れないし、夢の中で迷うこともない。「大地」は「掟」や「地下水」の女神も生んでいる。何より、全ての始まりである「混沌」は、わしらが馴染みの金属を溶かす「坩堝」と相通ずる。

 そして、この不可思議な場所であるが、そのこともドワーフの伝承の中にあてはまる事項がある。この絵図を見るのだ。すべての始まりである「混沌」が生み出した「奈落」、ないしは「幽冥」は、こうしたすり鉢状になっており、一番最下層にあるとされる層は、誇り高き大地の子らが犯してはならぬ最も重い罪である、裏切り者を断罪する場所になっておる。ペトロイオスが「復讐者」に追われていると聞いたが、まさに、このすり鉢状の最奥からの報いを受けているということになる。ちなみに、「復讐」という概念も、「混沌」が生んだ「夜」から派生したものなのだ。「掟」と「復讐」は、名誉を重んじること、すなわち「掟」を守ることに通じ、それを破れば「復讐」にさらされるという因果関係になっているわけだ。ということは、そなたらが迷い込んだ場所も、このすり鉢状のどこかであったと推定できる。そして、この場所は「幽冥」と呼ばれる場所なのではあるまいか》

 途中から盆に薄い水色をした液体の入ったガラスのデカンタとグラスを持ってきていたベアルが、称賛の眼差しをしてウィラーディヌスの言葉を引き取って言った。

《ドワーフの知識層の優秀さは聞いていたが、全く感嘆するばかりだ。だから君たちは迷うことなくここに到着できたのだね》

 そして持っていた盆を円座する一同の真ん中に置くと、博士がつぶらな瞳を真ん丸にして言った。

《それは、もしや、『ステュクスの水(神水)』ではないのかね?! ここが「幽冥」だとしたら、そうとしか考えられん! わしたち歴史編纂家にとっては、その水が湧き出す場所を地底回廊にあるまいかと探求する日々が続いているのだ》

 ベアルは、少年のように顔を興奮に上気させているウィラーディヌスに苦笑を返し、

《私たちには多少の錬金技術が備わっているのでね、人工的に液体を作り出すことはたやすいのだ。これは残念ながら、ただの水。葡萄酒のような実り深いものは用意することはできない。ここは暗闇が支配する場所、地上で言えば、大地が枯れる冬の世界なのだ。だからここでは作物は実らないし、実る必要もないわけだ。もとは亡者の世界なのだからね》

 水色をした液体は、清冽なみずみずしさで彼らの喉を潤した。

 円座の中に加わったベアルが、学者が持ってきた絵図の、ピラミッドを逆さにしたようにすぼまった最も下の部分を指さし、言った。

《このすり鉢の突端部分は、『裏切り者の圏』と呼ばれ、最も罪深い者たちが落とされる場所だ。そこに向かうには、城の中にある第二の門をくぐる許しを得なければならない。この第二の門を守っていたのがカムペロスであり、この冥府を統べる者の許しがなければ先に進むことはできない》

《おおっ、それは「幽冥」の女王エレボイアではないのかね?!》

 ウィラーディヌスの好奇心ははちきれんばかりだった。そして龍児も。

《『神曲』のインフェルノ篇とギリシャ神話とこの世界の在り方がごった煮になってるみたいだ…この混在ぶりは全くカオスティックだ!》

 と龍児が興奮を内燃させるような小声でつぶやくと、ベアルは二人の好奇心を満足させるような返答をした。

《「混沌」こそ、大いなる誕生の源であるからね。ここを統べるものも、その「混沌」から生まれたとされる、暗闇をつかさどる存在だ。しかし、たとえカムペロスが鍵を奪われたとしても、女王エレボイアを無視してその先へ行けるはずがない。彼女は世界を形作る原初の存在だ。それを一介の魔道士の魔力で打ち倒すことはできるはずも…》

 ベアルはここできゅっと唇を引き結んで言葉を止めた。そしてこれまで終始ぼんやりと話を聞いていたのかそうでないのかわからなかったノルディスがびくっと身じろぎしたのである。

《おい、その女王がどうにかなったとか言わねえよな?》

 大牙が勘鋭く問うと、ベアルはすっくと立ちあがり、きっぱりと言った。

《この町に見知らぬ侵入者があると同胞からの報せが入った。それはまっすぐ城に向かっているそうだ。相手は鍵を持っている。エレボイアは絶対的闇の支配者だ。まさか簡単に降参することはないと思うが…》

《行くしかないでしょ、みんな? ここでそいつを倒しちゃえれば、このあとの探索も楽になるってもんじゃない?》

 朱音の積極的な発言に、一同は否やもなく、ベアルの家から飛び出し、赤々とした炎に包まれている城に向かって走り出した。一番後ろに巻物や書物の端をのぞかせる背負い袋をしょったドワーフの二人がちょこちょこと短い脚を懸命に動かしてついてくる様は、どこか滑稽だったが、城の入り口に到着した時、これが滑稽どころか、この空間がバランスを崩す危機に迫られていることを知るのである。


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