『Life on Mars』
この世界に飛ばされ、初めて街らしい場所で過ごした時間は、若者たちの心に強く刻まれていたらしく、彼らはディミトリが扉を叩きまわるまで、ぐっすりと最高の眠りにあった。
彼らが着替えて階下へ降りると、食堂の椅子がテーブルの上に片付けられ、窓のカーテンは閉じられていた。
ディミトリはいつものパリッとしたエプロンを脱ぎ、背中には使い込まれた雑嚢が背負われていた。そしてカウンターに用意していたサンドウィッチのようなものを示し、言った。
《さっさとそれを食いな。向こうには夕暮れ…まあ、セラドンに夕暮れなんぞはないが、とにかくそのくらいの時間には到着したいだろ?》
四人は雑穀入りのパンに野菜や燻製肉の薄切りが挟まれ、時折ピリリとした辛子の粒がアクセントになっているものを食べながら、龍児がやや表情をかげらせ、
《地底回廊を探索するにあたっては、どうしても拠点が必要です。僕たちはある冒険者たちが地底回廊の魔物に襲われ、命からがら逃げてきたのを目撃しました。地底のことは人間よりもドワーフの方が熟知しているはずです。従って、セラドンには立ち寄らなければならないと考えています。そのことは、陸ドワーフであるあなたに気苦労をかけるのではないかと思うと…》
ディミトリは気楽に眉を上げて応えた。
《ま、確かにわしはセラドンから逸脱したドワーフだが、まあ、なんとかなるさ。まだわしの家もつぶれちゃいないし、昔の伝手も頼れるかもしれない。そのことはわしに任せておけ、ドワーフの問題はドワーフ同士でなんとかするさ。だから心配するな、若いの》
簡単な食事をとり終えた彼らは、ドワーフがカウンターの裏の扉を開け、酒樽や保存のきく食材を置いてある小部屋に入ると、四人の怪訝な視線を浴びながら、酒樽のいくつかをずらした。
そこに金属の輪の取っ手がついた石の蓋のようなものが現れると、玄人がおっとりした驚きの表情で言った。
《ひょっとして、その下に地底回廊に通じるトンネルがあるとか言わんじゃろうな?》
ディミトリは掌にペッペッと唾を吐きかけてその取っ手を両手でつかみ、渾身の力で蓋を引っ張り上げながら応えた。
《御明察。陸ドワーフになったとは言え、完全に故郷を捨てたわけじゃない。それに、地底回廊には変わったものが落ちていたりするからな。人間にとっちゃ地底はおぞましい魔物がうろつく闇の世界なんだろうが、わしらにとっちゃ、そここそが生きる場所だからな。ドワーフの性ってもんよ》
じりじりと重い石の蓋が持ち上がり、人が一人入り込めるだけの隙間ができた。ディミトリは若者たちに先に降りるよう言い、彼らがそれぞれ手にしている見たこともない携帯灯にも驚くこともなく、最後にトンネルの中に降りると、きっちりと石蓋を閉じた。
それと同時に漆黒の闇が落ち、彼らが持つ携帯ライトの煌々とした灯りとのコントラストが際立った。
《ほほう~、そいつはずいぶん便利そうな灯りだな。お前さんらの摩訶不思議な道具のことをいちいち問いただしていたらいくら時間があっても足りねえ。わしは実際的なドワーフだ。利用できるものならなんでも利用する。これが信条よ。ま、わしは暗闇でもこのトンネルは進めるがね》
《ちょっと前に地底回廊っつうところに入ったけどよ、真っ黒な亡霊みたいなのに会ったぜ? おっさん、そういうのに会ったことないのか? 武器も何も持ってねえじゃねえか》
と大牙が、自分たちの前をちょこまかと短い脚を動かして歩くドワーフに尋ねると、ディミトリは異種族が人間に対してよくやる僅かの軽侮と自らの種族の誇りを含んだ舌打ちを返し、言った。
《暗闇でも音を聞き分けられるエルフや地面の振動や壁に伝わる微かな音を感じられるドワーフでもないのに、地下に潜る方が愚かだね。地底回廊で本気で宝探しをしたいなら、少なくともエルフかドワーフはパーティに入れないと、お先は知れたものよ。第一、地底回廊の知識を一番に握っているのはドワーフの学者どもだ。奴らの協力なくして、回廊を歩き回るなんぞ、無謀もいいところだ》
そのドワーフの知識でさえ、考え及ばない太古の遺物に接してきたばかりの四人は、改めてこの世界の不可思議な可能性の多さに驚くのであった。
魔道帝国でもドワーフとつきあってきた四人は、この、背が低くてがっちりとした身体つきをした種族が大地と強く密接につながり、掘られるべくして掘ったような完璧なトンネル(そういうものがあるのなら)が適度な傾斜で下へ下へとくだっているのを、感心しながら歩いた。
しかしながら、まさにレトロゲームにあったダンジョン探索RPGのような暗くて殺風景な道をもくもくと歩くだけではさすがに退屈なのか、あるいはそういったゲーム的な状況をバーチャルームで再現するのではなく、実体験していることの興奮を内燃させていたのか、龍児が話しかけた。
《僕は実際には出会っていないのですが、地底にはドワーフだけではなく、『シャッテン』と呼ばれる蒼い肌をした生き物と、火の魔物を操る人間らしき者が住み着いているようですが、あなたは知っていますか?》
ディミトリは、様々な用途のために掘ったと思われる横道や曲がり角を何の躊躇いもなく進みながら、見るからに嫌そうな顔をした。
《なんだい、あの鼻持ちならねえエルフの落ちこぼれと会ったのか。連中はどうも好かん。あの姑息な性質がどうにもな》
《エルフなんか、あれで?》
と玄人がひょろっとした体格に、尖った顎をした、これまでに見てきたエルフとは全く違う姿をした種族を思い出し、言った。
《あれで尻尾が生えとったら、わしらがよくイメージする悪魔か何かだと思ったわい》
《悪魔か。ま、連中にとっちゃ、自分たちの利益になることが唯一の善だからな。それに伴ってどんな悪徳が伴おうと、お構いなしなんだ。それが悪魔的だというなら、そうとも言える》
朱音がやや気掛かりそうな口調で言った。
《そんなやつに助けられて、何か代償を約束したって言ってなかったっけ?》
ディミトリがこれを聞き、ぴたりと足を止めて玄人ののんびりとした四角い顔を見上げた。ドワーフの表情には呆れてものも言えないという思いで埋め尽くされていた。
《奴らと取引をしたのか? なんちゅう無謀なことをしたんだ、お前さんらは》
《でも仕方なかったんだよ、オッサン。俺たち、急いでたからな》
大牙が言うと、ディミトリは長々とため息をついてから、再び歩き出し、
《まあ、お前さんらのことだから、きっとなんだかんだ言ってうまく結果を出しちまうんだろうが、奴らの言葉は全く信用しちゃできねえってことは覚えておきな。奴らは、肌の色や気質が違っても同じエルフ族である同族を貶め、我こそはエルフの王になろうとして、同族殺しを平気でした連中だ。それが原因かどうかまでは知らんが、結局奴らは、もともと住んでいた場所を追われ、地底に堕とされたって話だ。ドワーフも手を焼いていてよ、地底回廊でたまたま奴らと遭遇して、身ぐるみはがされて放り出されたり、面白半分に全く知らない回廊に飛ばされたりして、本当にはた迷惑な奴らなのさ》
ここで、ディミトリはなかなかの記憶力を発揮し、若者たちを振り仰いだ。そのふさふさとした眉毛の下の奥まった黒目が自らの洞察力に感心しているようにきらきらとしていた。
《そうか。奴らには地上エルフが捨て去った力が残っていると言われている。なるほど、『エルヴィアンの扉』のようなもんでおまえさんらはここに飛ばされたと言っていたな? それで『シャッテン』か。うまいところに目を付けたなあ……ん? だが、奴らの力は地上までは届かないはずだ。お前さんらも地底から来たのか?》
龍児が首を振り、
《わかりません。わからないからこそ、少しの手がかりにすがるしかないんです。あなたは、『チ・ラングーム』というものを知っていますか?》
ディミトリは「うーん」と考え、残念そうに首を振った。
《わしは学者の家柄じゃないからなあ…話せるのはたいていのドワーフなら常識になってることだけだよ。で、それと何がおまえさんらと関わりがあるってんだ?》
龍児は応えた。
《僕たちの故郷は『地球』といいます。この呼び名とかつて『太古の民』が築いていたという巨大な地底都市群の呼称、つまり『チ・ラングーム』に相似点があるということを指摘され、僕たちの目的を果たすための何かを得られるのではないかと思ったのです。『太古の民』とは、つい数日前まで関わってきたので、その類を見ない文明度の高さは実体験しています。そして、かつての遺産が遺されていると言われている深く未知の地下迷宮…僕たちは何かを見つけなくてはなりません。いいえ、きっと何かあるはずなんです。それと、地底にはドラゴンもいるという話を聞きました。僕たちはすでに火、水、樹木のドラゴンに会っているんです。土の竜もきっといるはずです》
ディミトリは「うひゃあー」とあんぐり口を開け、すんなりとした身体つきの龍児をじろじろと見つめ、もう一度感嘆のため息をついた。
《こりゃあたまげた。ドラゴンは実在していたのか。竜の時代はとっくに終わり、堅実な人間の時代になっていると思っていたぜ。いうなれば、わしらドワーフも、エルフ同様、わき役になっちまったってことよ。1000年前の戦いで人間が勝利したことは歴史的には正しいのかもしれないが、果たして、それが何を生んだか…わしには難しくてわからんが、失われたものは確実にある。もちろん、人間は勤勉だ。向上心もある。だが、わしらにしかできない技がある。エルフもしかりだ。人間はそれを横取りするか、占有したかった。つまり、わしらより欲深いのさ。何かを欲する欲求を全て否定はしねえが、加減しねえと、見境がなくなる。一体1000年前の戦いはなんだったんだろうな? わしらドワーフは信仰を持たないが、物事はすべてなるべくしてなると体感してる。そうさな、宝石の原石には削り出されるべき美しい「そのもの」が隠れている、別の言い方をすれば、熱せられた鋼の塊が見事な剣に仕上がるのは、その鋼の中にすでになるべく形ができあがっているからなんだ。それを見極める「目」をエルフやわしらは持ってる。人間にもあるだろうが、わしらには及ばん。そういうことだよ。あの戦いは、身の程を忘れた人間がこの世界の王者になりたくて引き起こし、結果、わしらは隅っこに追いやられた。これが現実で、わしらが負けたことにも理由があったということになる。エルフは森に引きこもり、ドワーフは土の中。歴史は常に勝者が善であり、正義なのさ》
《わかるわ…おじさんの言いたいこと…》
と朱音がしんみりと言った。
《どうしてひとは争うのかなあ…自分たちの世界で満足していればいいのに、他人のところまで奪おうとする…これは仕方のないことなのかしら? そりゃ、あたしも決してまともな生き方してこなかったけど、他人の領域をずかずかと土足で踏み荒らすようなことはしなかったわ。でも、それを平気でしてくる連中がいる…でも、それは彼らにとっては当然のことで、正しいことだと思われてるのよね…どうしてみんな仲良くできないのかしら…》
《その謎が解けたら、きっとどこの世界も静まり返っていて、生きてはいるが、時間の止まったような世界になっちまうんじゃないかね? それはそれでつまらんなあ》
とディミトリが哲学めいたことを言ったのに、大牙が相変わらず『スニッパーズ』をかじりながら、言った。
《だから俺たちみたいなのがいるんじゃねえか。生きてる限り、どうしても争いはつきもんさ。それを解決するのが俺たちの役目じゃねえか。悩むことなんかねえんだよ》
《へえっ、坊主、なかなかいっちょまえなことを言うじゃねえか。「生きること、これまさに日々戦いである」…どこぞの石碑にでも御大層に刻まれていそうだな》
ディミトリの言葉に、大牙はむすっと口を尖らせた。
《俺様はな、まだ誰も抜けない怪人討伐連続コンボ数の記録保持者だぜ? 大牙様、向かうところ敵なしってやつよ》
つまり、彼は動き足りないのだった。
ディミトリはそんな彼の「運動不足」を感じたか、腹から笑いながら言った。
《だいじょうぶ、心配すんな、小僧。地底回廊に入れば、いくらでも魔物と出会える。好きなだけ暴れればいい》
《でも、あなたは? もちろん、僕たちはあなたを守りますが》
と龍児が気がかりに尋ねると、ディミトリは「ふん」と誇らしげに息をつき、
《わしの宿屋の屋号がはったりだと思わんでくれ。まあ、その時になればわかるってもんよ。さて、ここから地底回廊のメインストリートに降りる。わしはあんまり顔を見られたくないんで、おまえさんらの間でこっそりさせてもらうぜ》
ディミトリは薄汚れたスカーフを頭から顔から巻き付け、片目だけのぞかせて彼らの歩く間に入り込んだ。短躯の彼はそれだけで存在感が薄くなった。
ディミトリは付け加えた。
《その変わった灯りは消した方がいいな。セラドンに通じる回廊にはそれなりに明かりが灯っているから歩くには支障がないはずだ。さあ、若僧ども、いよいよドワーフの国が近づいて来るぞ》
彼らの前に、このような世界ではありえないような完璧な直線と平らな壁面をした通路が広がった。そしてそれは等間隔に明かりをともし、まるで、人気のないアウトバーンのようにまっすぐに、そして整然と続いていた。
*****
確かに、ドワーフの国は近づいていた。そしてこの回廊は、決して魔物が住み着く呪われた迷宮ではなく、古代人が実用的に使用していた道路であり、ひょっとすると、本当に車のような移動手段で人々は行き来していたと思わせるものを感じさせた。
往来がちらほら多くなっていた。そのほとんどがドワーフである。
レイジュウジャーたちはまだ女性のドワーフに出会ったことがなかったので、顔を隠したディミトリにくぐもった声で女性ドワーフを見分けてみせられ、驚いた。ファンタジーに通じている龍児も、その眼で顎髭を丁寧に編み込んだ女性ドワーフを目の当たりにし、自分の知識が正解であることが証明されはしたが、「女性」というものに髭が生えていることの違和感になんだか納得がいかないような顔をしていた。
そんな彼らもまた、往来のドワーフたちのあからさまな注視を受けていた。忌避されている感じではなく、否定的でもなかったが、好奇心の眼差しでもなく、なんとなく居心地が悪くなるような無関心さとでも言うべきか。やはり、かつては敵対して激戦を繰り広げ、勝利者となった人間族に対するしこりを持ち続けているのか…。
すると、ディミトリが彼らの心情を悟ったように言った。
《陸ドワーフと違って、生粋のドワーフ族は、エルフとまでは言わんが、人間に対して一線を引いてるのは確かだ。セラドンまでお前さんらの風評が広まってるとも思えんし。だが、基本的にはまっすぐな性根の連中だよ。逆に言えば、人間族が地底を悪の巣窟だという偏見を持ち、ドワーフにとっちゃ鉱石や宝石、歴史研究の遺物なんかで溢れてる場所を無知で乱暴なだけの冒険者連中が荒らしまわれば、そりゃあ、いい気分じゃないだろう? 地底はドワーフの領地だと思ってるもんがほとんどだからな。にしても妙だな…ずいぶんこの道が閑散としてる…》
《オッサン、俺らが前に見た場所とは雰囲気が全然違うんだけど。ここは普通の道にしか見えない。歩いてる連中も特に気配りしてる感じもねえし》
と大牙が、意外にも規則正しく往来しているドワーフたちを見ながら首を傾げた。
ディミトリは応えた。
《魔物が住み着いてるような階層はもっと下だよ、坊主。ここはまあ、地底でいうところの「地上階」ってところかな。セラドンへと続く街道だよ、つまりは。ここから枝分かれして、地上の街や村みてえに小さな集落で住んでるもんもいるがな。そういうのはたいてい、その周辺にミスリル銀の鉱脈があるとか、ブラックムーンオパールが掘れるとか、そういう理由でなりたった集落さ。そういう話はおいおいするとして》
とディミトリは、前方を伺い見ながらやや気乗りのしない口調になって言った。
《セラドンに入るのに、ちょっといやーな気分になるかもしれねえが、我慢してくれよ》
龍児が察しよく気遣いの言葉をかけた。
《僕たちのためにあなたが不愉快な思いを持つのは望みません》
だがディミトリはからからと鷹揚に笑い、
《陸ドワーフに成り下がったとはいえ、同族を完全に無下にしないのがドワーフの温情のあるところだよ。それに、お前さんらだけでこの回廊の秘密に迫れるか? そりゃ、お前さんらには不思議な力や道具がある。だが、ここはエルフにさえ踏破されていない地下迷宮なんだ。地底のことはドワーフに任せておけ》
と彼は若者に「ほれほれ」と前進するように勧めた。
眼前に、広い参道のようなものが見えてくる。見事なまでの石畳、そしてその両側には二段になっている台座があり、そこには巨大な戦士の石像が様々な武器を携えた姿で立ち並んでいた。美を追求するのではなく、岩石のごとく強く、硬く、不動の意志を表現しているような像たちである。
それらに圧倒されながら彼らが歩いて行った先に、何の金属で作ったのかわからない、ドワーフには必要がないほどに巨大で壮麗な意匠の両開きの大門がずっしりと閉まり、数名の衛兵のようなドワーフが入出する者たちを検分しているのが見えた。
これを見て、ディミトリは唸るように息をついて呟いた。
《おかしいな…大門が閉まってるなんてことはないんだが…》
ともあれ、彼らが大門に近づくと、門番たちが当然のことながら変わった身なりの人間の若者たちと、顔を隠した短躯の者をじろじろと眺めてきたので、ディミトリは潔く布を取り去り、宿屋の主人とは思えない威厳のある物腰で言った。
《ハーディ・アンティキス家のディミトリだ。故あって人間たちの頼みで帰国した。まさか、陸ドワーフになったからと言って自宅に帰ることもできないとは言わないだろうな》
門番は、ディミトリの名前を聞くと、大きく驚き、どういうわけか態度が軟化した。
《なんという奇遇だ! 今、セラドンは大混乱なのだ。ペトロイオス主席自らが貴殿を連れ戻すようにと厳命を出されたばかりなのだ》
大門が押し開けられ、その隙間からやや赤みがかった霞がかかったような光景が見える中、ディミトリが依然釈然としない様子で聞き返した。
《わしのことを、主席が? 一体どうなってるんだ、セラドンは?》
《とにかく、まずは宮殿へおいでください。その間にも、セラドンが陥っている混乱の状況が垣間見えるはずだ。セラドンは今、これまでにない危機に瀕していると言っても過言ではない》
ディミトリは、大げさにも見える門番たちの様子を疑いの眼で見ながら、久方ぶりの故郷に脚を踏み入れるなり、何か悪臭でも漂っているかのように鼻をつまんでうめくように言った。
《なんだ、この臭いは?! 大地が腐った臭いがする! げほっ、げほっ、たまらん!》
《俺たちにはなんにも臭わねえぜ?》
大牙がくんくんと鼻をかがせながら言うと、ディミトリは、顔を覆っていた布で口と鼻を押さえながら歩を進め、
《人間には感じられねえ大地の臭いだよ。わしたちは嗅覚でも大地の見極めができる。こりゃあ、一大事が起きとるかもしれんな。すまんなあ、こんなんじゃ、簡単に地底回廊の探索にも出られなくなるかもしれん》
四人はそれぞれ首を振り、龍児が言った。
《土台がしっかりしていなければ、僕たちの目的を果たすことはできません。とにかく、あなたの到来が求められていたようですから、そこへ向かいましょう》
《悪いなあ、お前さんらに不便をかけちまったようで…しかし、こいつは…ひでえな…この街の荒れ方は…まさか、ここまで深部の魔物が攻め込んできたとか言わねえだろうな…》
ディミトリの言うとおり、通りの石畳はところどころ陥没したり、石造りの家屋の屋根が崩れていたりと、最近、ここで何かの災難が起きたことを連想させた。
陸ドワーフとなったディミトリに対するネガティヴな状況を想定していた一行だったが、一段と赤くもやった岩壁に沿うように作られた宮殿に上がるためのつづら折れの坂道を登るにつれ、行きかうドワーフたちのひそひそ声が大きくなった。(…アンティキスのディミトリだ…ドワーフの名汚しに何ができるというんだ…ペトロイオスは頭まで石化してしまったのか…しかしこの石化病はもう何百年も流行ったことはないのにどういうわけだ…この間のグラッジスポーンの襲撃こそなんだったのだ…信じられない…この国もついに大地の恩恵から見放されたのか…いや、これは復讐者の呪いなんじゃないのか…ほらあの噂…)
『なんか、また巻き込まれそうね』
朱音が内線で話してきた。
『ここに落ちたことからしてすでに何かに巻き込まれてるんだよ、僕たちは』
と龍児。大牙が短絡的に応える。
『この際、身体を動かせればなんでもいいや』
『お前は気楽でええのう』
玄人が感心しているのか呆れているのかわからない口振りで言うと、彼らの前にまたも壮麗な門が存在感たっぷりに構えていた。
ディミトリはそこで待つよう、彼らに言うと、一人で何やら門番と交渉していたが、一度決裂したようにディミトリが踵を返しかけ、それを門番が慌てて引き留めた。
そして短い会話のあと、ディミトリはレイジュウジャーたちを呼び寄せ、やや渋面をしている門番の顔をしたり顔で見送りながら、堂々と人間族を引き連れてドワーフの宮殿へ入城したのだった。
*****
これまでにいくつかの豪華な城や建物を見てきたレイジュウジャーたちだったが、このドワーフの宮殿ほど印象深くはなかった。
ディミトリの、ここに来たことがあるらしい足取りについていきながら、四人は、この金銀財宝が惜しげもなくあちこちに積み上げられ、同時に丁寧なつくりをした甲冑や細かな装飾をされた様々な武器がそこかしこに立てかけられているさまに目を引かれた。
基本的に円形の小部屋が並び、そこに置かれた丸テーブルに時折、この宮殿の衛兵なのかどうか判然としない武装したドワーフたちが座っており、何やらいわくありげな様子で話し、彼らが通りかかると一様に注視された。
地底にある建物の割には明るかったが、ドワーフの体臭とでも言うべきものを感じた。今まではあまり気にしなかったのだが、これほどドワーフだらけで、あまり換気の良くない室内なら仕方ないことだった。
金属やガラス、宝飾品には通じているようだったが、芸術作品のようなものはほとんどなかった。壁には絵画ではなく、派手な装飾を彫り込まれたバトルアクスや大剣が掛けられ、美しい彫像の代わりに金銀の杯や皿が積み重なっていた。魔力を持たない、つまり『夢』を見ないドワーフに、芸術の感性を求めるのは無駄である。ドワーフの思考に「空想力」というものはない。すべては目に見えることだけが信用できるものであり、それ以外は鉄屑よりも価値のないものなのだった。
だから、彼らは共通の信仰のようなものを持たない。鍛冶屋は金属や炎を敬うが、商人は自らの「目」と巧みな「話術」を誇る。戦士は自らの鍛錬された「技」と「力」を信じ、歴史家は「知識」こそ力だと疑わない。
この世界はあまり宗教的なものに染まっていないことは感じていた四人だったが、ドワーフの国はまさに現実主義の権化のような場所だと思った。
この先、何が待ってるかと悩むそぶりも見せず、短い脚を動かして真っ直ぐ求められている場所へと進むディミトリに続きながら、龍児が内線で言った。
『こうしてドワーフばかりに囲まれると、いかに人間が目に見えないものに惑わされているか痛感させられるね』
『お前が迷いすぎなんだよ、リュウ。起こりもしねえことをくよくよ考えるのは時間の無駄無駄』
大牙がばっさりと言い返したので、龍児は自覚しているようにため息をし、
『僕が考えすぎるのはよくわかっているよ。でもそれが性分なんだ、仕方ない。僕が感じたのは、この世界に宗教くさいものが希薄だということだよ』
『それがどうしたって言うの? どこの街にも教会らしい建物はあったけれど…』
朱音が立ち寄った各地を思い出すように言うと、玄人がピンと来たように眼差しを龍児に投げ、言った。
『ああ…なるほどのう…宗教は民衆を結束させる安易な手段の一つで、悪いことに、中毒性がある。そしてそれは人々の心の隙に付け込んで、通俗的な面を隠し、いかにも高尚な意識をもったような錯覚に陥れる。わしは別に宗教を否定するわけじゃあないが、宗教も人間が作り出したもののひとつであるってことを忘れちゃあいけんと思っとる』
龍児はまさに自分と意見があったことに満足したような様子で眼鏡のレンズを拭きながら、
『「宗教とは民衆のアヘンである」…そのものずばりだよね。僕もプロレタリアートについての理論にはついていけないんだけど、原点には「人間、まあ、ここならドワーフやエルフも、というべきなんだけれど」というものがあることを忘れてはならないってことは、正しいと思うんだよ。だから、この国に来てみて、自分の手練で生み出したもので生活の糧を得、生きる目的としている姿勢は、人間族より強いと感じたんだ』
『よく言うよ、リュウ。お前の頭ん中はいつも妙な空想話でいっぱいなくせによ』
大牙が難しい話はやめろと言わんばかりに口を尖らせたので、リュウはぽん、と彼の肩を叩き、
『幸い、僕には青龍と言う加護があり、こうしてお前たちと巡り合えた。おかげでより地に足をつけた毎日を送れていると思っているよ』
『今はその地面の下にいるけれどね。一体何が起きたのかしら。ここの空気、なんかおもっ苦しくて嫌な感じ』
朱音は「ふう」と息を大きくついた。
するとディミトリが背後を振り向き、詫び言を言った。
《すまんなあ。わしらの揉め事に巻き込んじまったようで。ここで事情を聞いたら、お前さんらの用事ができるように手配するから、ちょっと辛抱してくれや》
朱音は慌てて首を振り、
《ううん、違うのよ。ちょっと息苦しくなっただけ。おじさんだけを厄介ごとに突っ込ませるわけにはいかないわ。なんか、すごく面倒なことになりそうじゃない、ここの雰囲気からして》
《わしもそう思う。何と言ったって、パラディンの主席の奴がこのわしに頼みごとをしてきたくらいだからな。それほど進退窮まったっつうことだ》
《パラディン?》
龍児が聞き返すと、ディミトリはようやくたどり着いた大きな両開きの扉の前で止まり、
《とりあえずは奴の話を聞くことにしよう。そのあとだ、何もかも。一日歩き詰めで疲れてるだろうしな。わしの家で何か食いながら説明するよ》
扉の前に立っていた衛士らしきドワーフが扉を押し開けたので、ディミトリを先頭に、彼らは室内に入った。
そのとたん、ディミトリは激しくむせ返り、レイジュウジャーたちも異様な何かに喉を焼かれるような感覚に陥った。
《こりゃあ…予想以上にひでえようだぜ…》
室内はやはり円形で、居間と寝室をくっつけたような空間になっていた。
その寝室のど真ん中にドワーフ用にしては大きすぎる寝台に、土気色の顔をし、古木のようにしわしわの皮膚をしたドワーフが一人、寝そべっていた。
それがかさかさの唇を動かし、しゃがれ声で言った。
《…アンティキスの息子よ…お前が自らセラドンへ来たことは英霊の加護がもたらしたことなのだろうか? いや、加護というより、復讐者がわしの残り僅かの命と引き換えに、わしに懺悔の時間を与えたということなのだろうか?》
そしてベッド脇で控えていた使用人らしいものを追い払うように手を振ったしなびたドワーフは、近寄ったディミトリをじっと見上げ、そして四人の若者たちを見て続けた。
《今更悔いても始まらんが、わしが引き起こしたことの始末ができるのは、お前だけだ、アンティキスの息子よ。そして、その連れの者たち…わしにはわかるぞ…その体内にはこの地底に眠る様々なもののイデアが流れておる…金属…炎…大地を養分とする木々…それを潤す水…そしてその心臓は戦いの高揚を知っている…人間でありながら地底とのかかわりの深い者たち…とりあえずわしの話を聞き、どうかこの国に降りかかろうとしている災厄から守ってほしい》
ディミトリは若者たちにそっと視線を投げてから、ベッドの上の重病らしいドワーフに言った。
《名誉をなくしたわしに何ができるって言うんだ、ペトロイオス叔父》
すると、ペトロイオス・スイーティマンは苦渋と悔悟に満ちた声音で応えた。
《…お前の爺様に不名誉を着せたのはこのわしだからだ》
これを聞いたディミトリの顔色がさっと悪くなった。だが、長く地上で暮らし、自国に居たら経験できないことにも出会ってきたディミトリは、それ以上動揺することなく、室内から椅子を引っ張ってきてレイジュウジャーたちを座らせると、最後に自分もベッド脇に椅子を引き寄せて座り、腹をくくったように言った。
《人を呪わば穴二つってよく言うが、叔父貴はまさにそんな状況になってるってわけだな。よし、聞いてやるよ、あんたの懺悔をな》
生気のない顔色をしたドワーフは自嘲の苦笑いを浮かべてから、ぽつりぽつりと話し出した。
《…始まりは、わしが地底回廊の深層で見つけたものだった…》




