『ウェット&ドライ』
ひとまずの決着をつけて、ケイが新首都に向かってから、ヌーノは好奇心に素直に貪欲になっているキリルが、今では床面にぬらっとしたシミとなってしまっている、ディープスペースにおいては神にも近い高等生物の慣れの果てを見下ろし、スキャナをかざしているのを、黙って見守っていたが、唐突にため息交じりの笑いのようなものをキリルがついたことに、耳ざとく声をかけた。
《一体全体、あなたたちはどうしてこの星に堕ちてきてしまったんだい? ここはバリアで完全に守られているし、おそらくあなたたちのいた次元とは異なった亜空間にあるはずだ。もちろん、多次元空間は隣り合っている可能性もあるわけだけれど、そこにピンポイントに到達することは偶然がいくつ集積しても実現しないくらいの低確率だと思うよ》
キリルはユーモアのこもった「降参」のゼスチュアを返し、
《私も君の考えと同じだよ。ますます私たちに降りかかった災難と言うか運命のいたずらと言うか、そんな途方もないものに巻き込まれてしまったと、ほとほと困惑している。この生命体の名残りからは暗号のようなデータしか取れないし、君自体も謎だらけだ。私たちの知識では理解できないようだよ。宇宙は本当に果てしない、それだけはよくわかったがね。どうしてここにやって来てしまったのか…それこそ、この星の「運命の輪」が引き寄せたのかもしれないね》
そして空中に管で吊り上げられて浮かぶ白いものを振り仰ぎ、
《高等生物の頭脳ならば、私たちが「運命」とか「定め」とかでひとくくりにしてしまうような「奇跡」にも見える遠い未来図を予測演算することは可能かもしれないが、残念ながら私はただの人間の頭脳しか持ち合わせていないのでね、ここに堕ちた理由と原因はいまだに解明できていない。無論、落下する際に艦がダメージを受け、エネルギーを大幅に減少させてしまったせいで、十分なデータ解析をする余裕もないのだが》
小柄な身体をしたヌーノも、その蒼い眼を「管理者」に向けて言った。
《あなたたちの到来を「管理者」が予測していたとすれば、元から「管理者」は過去の世界に戻すことを阻むつもりだったということになるね。わからないなあ…「管理者」は完全に「主」のコマンドに従う存在なのに、今回のことで、僕は違和感をもったよ。悪い意味ではなくてね。ここの「管理者」からは感情の名残りのようなものを感じるんだ。あるいは勃然と蘇った強い情感の波にさらされて、こうなってしまったというか。ここのデータボックスに封じられていたものが、あなたの姿そっくりに形成されたことが引き金になったのかもしれない。この「管理者」が元妻だったということも、驚いたよ。そこからして、僕たちの種族から失われつつあった第一の人間性である「愛」という感受性を保ち続けてきたわけだからね、このような姿になってまでも》
キリルは、医療分野と「正義の守り人」のレンジャーたちに一部使用している人工物のインプラントを除き、完全なボーグインプラントをアルファ宙域においては禁止されていることの意味をさらに深く心で感じ取っていた。それはまさに眼前で銀色の翼を広げ、命の尊厳を完全に無視され、どんな陽電子頭脳もかなわない生の頭脳を人工物の制御に使うことの残酷さを証明していた。
《陽電子頭脳の分野は私たちの世界でも進んではいるが、より人間らしいそれにするために「感情変数」を組み込むと、必ずと言っていいほどドロイドたちは機能不全に陥ってしまう。それだけ感情というものの制御は、複雑かつ柔軟で、なんの根拠もなく、方程式ではほぼ解答をできない不安定要素の塊なのだろう。そのことが、今回の結果に出たということなのかな。君たちの種族の目論見を、感情を捨て去らなければならないはずのボーグ艦のメインコンピュータが、最後の最後で感情的な行動に出、阻んだのだからね。サイボーグ艦は非人間的な人工物化の代表格だ。命をマシンに変えたことのひずみが、ここに来て自らに跳ね返ったと言っていいかもしれない。因果応報と言うやつだね》
ヌーノは遠い目になりながら、慨嘆のため息をついて頷いた。
《確かに僕たちの種族は宇宙をまたにかけ、全能にも近い能力を持っていた。だけど、違うんだ。僕たちも命の連なりの一つでしかないと言うことを忘れたことが、彼らの目論見を壊した。命に優劣はない。僕はこうしてしっかりと「自分」であることの幸福を、今更ながら感じているよ》
キリルもヌーノに同情するような微笑を投げかけ、
《あれが、私そっくりで、私をのっとろうとしてきたことで、あの種族には優越感以外の自我はないのではないかと感じた。しかし、ここにいるボーグ艦の頭脳の持ち主であった女性は、そんな存在をかつて愛していたということになる。なんだか複雑な思いに駆られるね》
ヌーノはわずかに眉をよせ、その美少年の人形のような外見とはそぐわない老成した表情になり、言った。
《たいていは完全な主従関係か、隷属化させた優秀な頭脳を使うんだけど、ここのは少し違ったようだね。それがこのような結果を生んだ。「愛」とはそれほどまでに強い意志を抱かせるものなのかな》
《愛は誰にも解けない問題でありながら、求め、与え、悩み、苦しみ、快感を伴い、絶望もし、死も生ももたらす、どんなに心を砕いても説明不能なものだよ。もちろん、なくても生きてはいける。しかし、愛を知らずにいれば、その者の目から見える風景は、おそらく翳った世界だろう》
かつては宇宙の深淵まで覗くことができた種族であった少年は、うっすらと微笑み、
《ケイが言っていたけれど、もっと早くあなたたちに会いたかったね。あなたたちの宙域には色鮮やかな星々が活き活きとしているんだろうな。おっと、ごめん、あなたはこの場所を見て回りたかったんだよね。僕たちはずっと二人きりだったから、つい、話が通じる相手と出会って、会話にのめりこんでしまった。ここは僕がモニタリングしているから、自由に行ってきなよ。どこまでこの「管理者」が見せてくれるかわからないけれど。「彼女」にとっては身体をまさぐられるようなものだから》
キリルはこの表現に短く笑い、
《ははっ、それでは私がまるで倫理観のない行為をしているようではないか》
《事実、そうなんだから仕方ない。この場所は「管理者」の肉体そのものなんだから》
《確かにそうだ。では「まさぐり」に行ってくるとするか。どこで平手打ちがくるかわからないがね》
キリルはちらりと頭上の、サモトラケのニケ像のようにも見える人工物を見やってから、建造物の深奥へと続く通路へと歩いていった。
*****
首長たちを解放してきた道順を逆に進んでいたキリルは、なんとなく誰かの言いなりになって歩いているような錯覚に陥った。
ここに潜入するにあたり、ジルコンがハックしたデータからこの建造物の内部のつくりは記憶していた。だから、この場所の核となる地点は予測がついていたので、自然とそちらに足が向くのは当然のことだったのだが、キリルの、長年にわたる経験に基づく第六感が、自分以外の何かが彼をそちらに誘っているような奇妙なベクトルを察知していたのである。しかしそれは決して彼を無理強いするようなものではなく、奥ゆかしささえ感じられる何気なさと、しとやかさ、そしてその裏には恥じらいのようなものを連想させた。
そんなものはここに来た時には感じられなかった。キリルは警戒もしたが、この不思議な感覚のまことを知りたくもあり、自らの記憶とあるかなきかわからない程度の「何か」に引っ張られ、先に進んだ。
「…しかし、ここは何と言う奇怪な場所なんだ…芸術ともグロテスクとも思えるこの壁のレリーフの意味は? 地球にもこのような美を追求したがために美を通り越して内面を掘り下げ、逆に醜悪にして不均衡、全ての事象の暗黒面、狂気、懊悩、そんなものを見通してしまう「目」を持ってしまった芸術家たちがいた。もしかすると、この星にはるか昔に栄えていた文明を築いた人々は、地球にもいたのかもしれない…いや、生命の宿る惑星にはどこにでも紛れ込んでいたかもしれない…。時の旅人伝説は、地球においてもいまだに好奇心を掻き立てられる謎の一つだ。私はその当事者と相まみえたのか? これは私たちが地球に戻るために役立つ経験だったのだろうか?」
キリルの歩みは決して迷うことなく、きりっと背筋を伸ばした歩き姿は気品と優雅さに溢れ、ロングジャケットの裾を翻し、緩いウェーブをした金髪を肩のあたりでふさふさと揺らした。
首長たちが監禁されていた場所から逃げ出すために使ったエレベータとは違う地点にあるエレベータに乗ると、彼が降りる階層を指定する間もなく扉はしまり、ひゅうっと相当に深いところまで下降した。
キリルは確信した。これはあの白い船首像のようなものが彼を導いているのだと。不思議にも不安はなかった。
ふわっと高速エレベータ特有の重力制御の反動がし、下降が止まった。扉がまたも勝手に開く。
そこは、たいていの外宇宙用艦にあるような、エンジンフロアに似通っていた。共円多角形をした壁にはモニタとコンソール盤が設置され、その中央にはワープコアを思わせるエネルギー体を内包した球体が何の支えもなく浮いていた。
よく見ると、その球体は黒いラピスラズリのようなきらきらとした微小な何かをきらめかせて少しの間もなく回転、もしくは吸い込まれるそばから再生していくような、形容しがたいさまをしていた。
「…これが、まさか、マイクロブラックホールエンジン…? 理論上は生成できることは知っているが、このように恒常的にエネルギー源として内側へと収縮し続ける重力を引き出すことは、ブラックホール蒸発やブラックホール自体の制御の困難さから生じる可能性が高いガンマ線バーストなどの危険性が伴う…にもかかわらず、これは動力源として完成されたものに見える…重力を征したこの星の先住者は底知れない存在だ…「知る」ことの喜びはたとえようがないものだが、これほどに宇宙の仕組みを人為的に利用できるだけの「知」は、喜びを凌駕し、背徳の快感を伴うのではないだろうか…私は空恐ろしい…これは異常だ、正常の範囲では理解できないモンスターだ」
《しかし、これはあなたがたのためには必要なものではないでしょうか? 異次元の者よ》
何の前触れもなく、儚い透明感のある声がその場に聞こえ、キリルは難解な寓意画を読み解くがごとくに円柱形の容器の中に浮かぶ黒いガスのようなものを見つめていた視線を、そちらに向けた。
地上階で宙に磔にされているはずの白い人工物が、忽然と黒いエネルギーをたたえた容器の前に立っていた。だがそれがこの虚しいサイボーグ艦の舵取りをするものが投影した虚像であることは、すぐに見分けがついた。
キリルはいつの間にか息をつめていたことに気付き、ほっと息をつくと、複雑な表情になって応えた。
《確かにそうでしょう。これだけの重力場を生み出せるエンジンがあれば、私の艦の遮蔽システムは完全に機能し、ひょっとすると、トランスワープチューブを完璧に生み出すことができるかもしれない。この星は超新星爆発か何かの宇宙的災厄にさらされ、あのような救済措置をとったと考える。超新星爆発のあとには強力なブラックホールが出現することが多い。となれば、ワームホールも多数生まれている可能性が高い。それの一つをエキゾチックマターで補強し、私たちの宙域に、そうでなくとも、近い地点に脱出することができるかもしれない。だが、私は躊躇っている。これはあまりに超越している。昔の人間なら、悪魔的だというかもしれない。それほど、これは驚異的で、私の心を震え上がらせる》
純白の「管理者」の無表情の仮面が、あり得ないほどに悲しく翳った。
《そうですね…わたくしはただのおぞましい「生きた電脳」でしかありません…しかし、わたくしは、あなたを見、感じ、はるか昔、この身体が柔らかく触れ合えた頃の記憶を掘り出してしまったのです…おわかりでしょうか…わたくしの「生きて」いる部分が、叫んでいるのです、あなたに抱き締められたい、口づけをされたい、あの頃のように愛されたいと!》
ここで「管理者」はがっくりと肩をおとして続けた。
《…ふふふ…滑稽でしょう? わたくしは愛のためにこの肉体を捧げ、「生きた電脳」として愛した人のもとに在り続けました…その結果、わたくしはあの人を愛するがゆえに命を奪い、再び恋してしまったのです…あなたは…そう、貴方はあの方と瓜二つ…しかし、わたくしはもう「ヒト」ではない…人型すらとどめていない造り物…でも、この頭の中に渦巻く強い恋情は造り物ではありません………すみません…わたくしは混乱しているのですわ…貴方という存在にうろたえたのですね。精確な機能を失った「電脳」は処分されなければ。わたくしはこの「身体」ごと、この星の中心に向かって最後の旅に出ましょう。そうすれば、この地に住む者たちを恐ろしがらせる建物を残していくことにはなりますまい。しかし、運命とは残酷なものです…最後の時に至って、貴方と言う存在をめぐり合わせるなど…このような身体になって…ああ…わたくしには流す涙もないのです……》
と言った「管理者」は、その投影された姿を薄れさせた。
その時、キリルは思わず一歩踏み出し、虚像の白い腕を引き止めるように掴もうとしていた。もちろん、彼の動作は空振りになったが、一瞬、彼女の動きが止まった。彫像のように輪郭だけ彫り込まれたような瞳と、キリルの澄んだ湖のような眼差しとが合う。彼は衝動的に言った。
《お待ちなさい、君》
白い虚像はその無機質な顔に切なく悲痛な雰囲気をたゆたわせ、言った。
《わたくしの役目は終わったのです。わたくしは他の地域にもあったはずの別の「管理者」と同様、この星を見守り、「その時」のために設置されたシステムでしかありません。今や、他の「管理者」たちとの交信は途絶えています。長い年月に逆らえなかったものもあったでしょう。そして今回のあなたがたの出現で、残っていた「管理者」たちは与えられたシステムを発動せんとしたことでしょう。しかし、同じように「その時」に備えていた者たちがいた…当然ですわね、元は同じ種族…ただ、物事の捉え方が違っていただけで、これだけの差異が生まれてしまったのでした…わたくし自身も自らに刻み込まれたコマンドを発動することが無駄であると気付けないほどに機能を衰えさせていました…その時点で、わたくしは廃棄処分されるべき部品だったのです…ですが…わたくしの中で何かがわたくしを突き動かし、自らに課せられた命令に従うと言う名目の陰に紛れさせていたのです…再びあの方に会えるかもしれないという愚かな期待を…》
キリルは「生体」と「電脳(ウェット&ドライ)」の狭間で悩む者に、素直な言葉をかけた。
《あなたが失ったものと、待ち続けた時間を思えば、どれだけあなたがあの生命体を愛していたか、推し量れる。残念ながら、あの生命体はあなたが待ち続けていたものとは完全に様変わりしてしまったようだが、時間は暴君であり、あなたが愛した者は、その暴虐に耐えることができなかった…だがあなたは今の今まで待ち続けることができた…愛とは、帰りが遅いと気をもむ存在を持つことでもある。あなたの夫であったものについては気の毒だったということしかできないが、あなたは違う。あなたは時間の暴君を打ち負かした、そう、あなたはまさに勝利したんだよ、時間の専制君主に》
「管理者」はわなわなと震えるようにキリルを見やり、
《もし貴方のいう通り、わたくしが何かに勝利したとしても、そこに何が遺されましたか? 愛した主の変わり果てた浅ましい死に様と、空虚になったわたくし、そしてそんな虚ろな中に入り込んだ貴方と言う存在…ああ、わたくしを混乱させないで…わたくしはもういらないと命令してくださいまし…どうかお願い…でないと、失っているはずの心が飛び散ってしまいそうです…》
その時のキリルの心境は説明しがたかった。
とことん突き詰めれば、おそらく、ここにあるマイクロブラックホールエンジンを制御できる存在をみすみす逃したくないと言う自分本位な思いだったに違いない。
しかし、それを分厚く上塗りするだけの別のものが彼の胸に去来していた。
その最も上にあったのは、普通の人間に対するような、憐憫と同情、そして眼前で死に臨もうとする者を救おうとする本能的な思いやりだった。
キリルは言った。
《「心」がどこにあるか、という問題は昔から様々に言われてきた。人は死ぬとほんの僅かだけ重量が減るらしい。それが「魂」の重さだと言う者もいるが、あなたにはその「心」とか「魂」とか言うものを、きちんと持っていると思う。それはあなたの今の言葉で証明されている。あなたは愛を知っていて、それを完遂することにすべてをかけてきた。そんなことは、陽電子頭脳を持つドロイドにはできないことだ。彼らの動作の全ては数学的な理論で説明がつくからさ。だが、あなたは違う。身体は物体に変わったとはいえ、最も大切な「心」を持ち続けられた。心はヒトであることの証明だ。身体など、命の器でしかないんだ。機能を停止することはいつでもできる。だが、心が感じたいと思っているにもかかわらず、それを放棄するのは、愚かだし、残念なことだ。すべてを感じ取り、満足を得られてからでも遅くはない。先ほど私が口にした失礼な言葉は撤回させてくれ。あれは私の無知から生まれた恐れだった。私は今なら断言できる。私はあなたのことをもっと知りたい。そして助けてほしい。もし、あなたの心がまだ折れていないのならばであるが》
白い塑像の幻影が、ぶるぶると震えるように輪郭をぶれさせ、それがキリルに向かってすうっと近づいてきた。まるで彼に抱き付くような勢いで。それはもちろん実体ではないので、キリルの身体を通り抜けて姿を消しながら、言った。
《ああっ! 我が主! わたくしをまた愛してくれるのですね?! わたくしは主の御為に在るのです! どうかわたくしのもとへ!》
あのぶよぶよとした箱の中にいたものは本当に自分そっくりの姿だったのだろうか、と「管理者」の激しい感慨の言葉に飲まれ気味に思ったキリルは、次の瞬間、転送され、再び白いニケ像のように宙に浮く彼女のいるフロアに戻されていた。
瞬間的にキリルが戻ってきたことに、ヌーノはやや驚いた顔をしたが、次の「管理者」の言葉を聞き、その驚きはますます強くなった。
《『流浪の民』よ、わたくしは決意しました。わたくしはこの異次元の者のために、この「艦」のシステムを使うと。わたくしを永の眠りから覚まし、新たな目的を与えてくれた者に報いるためです。この艦の、地上に突出している部分は地下に潜らせましょう。そしてエンジン基部やその他のシステムを残し、わたくし自身はこの方の乗る艦と繋ぎ、あちらの艦の遮蔽システムと同期することにします。そうすれば、ここの重力エンジンを利用できます。わたくしは再び必要とされているのです。このような姿になっても》
ヌーノは呆気に取られたように蒼い眼を見開いて頭上のボーグ艦のメインコンピュータを見上げていたが、ふっと我に返ったようにキリルを見た。
《一体、どんな魔法をかけたんだい? ボーグ艦のコンピュータは比類を見ない代物だよ。つまり、どんな甘言も論理も通用しない堅物だし、主には絶対服従することになっている》
ここでヌーノは「あっ」と合点が言ったようにキリルを見直した。
《そういうことか! あのデータボックスの主は、本当にあなたにそっくりだったんだね。それにしても、ヒトの柔らかい頭脳を残しているとはいえ、これは宇宙戦艦のメインコンピュータの何基分にも相当する機能を持っているんだよ。そう簡単に意識を変えるなんてこと、信じられない》
キリルは何とも言えない苦笑を返し、
《他の「管理者」がどんなものなのかわからないが、ここのコンピュータはウェット(生体)な部分が強く反映されてしまったようだね。もしかすると、人間よりも感情に敏感で、憧れを強く持ち、それを抱くことの喜びに飢えているのかもしれない。人間にはもともと備わっているものだから、それを捨て去ることの重大さに気付けないのさ。だから、あの私の顔をした者は、彼女の強い愛を感じ、感謝することを忘れ、ただの傲慢な優越主義者に堕ちてしまった。むしろ、肉体を捨てた彼女の方が、誰より何より、愛情深く、慈悲深いかもしれない》
ヌーノは肩をすくめ、手にしていたパッド型の機器を折り畳んで腰のポケットにしまって言った。
《人間くさいコンピュータシステムなどを導入して、困らないかい? きっと、癇癪を起こしたりふてぶてしくなったりするかもしれないよ?》
するとキリルはさも楽しげに笑い返した。
《いや、その点は問題ないんだ。慣れているんでね》
ヌーノはこの言葉の意味が分からず仕舞いになるわけだが、キリルの耳にはまるコミュニケータにジルコンのキィキィ声が飛び込んできたのを、半ば予想していた暢気さで聞いていた。
『はあ?! 図々しいにもほどがあるってもんよ、この真っ白お化けが!』
ファンロンのメインデッキでジルコンと「管理者」のホログラム映像が向かい合い、一体どんな取っ組み合いをするかを想像するだけで笑いがこみ上げてきそうになっていたキリルに、玄人から通信が入った。
『ボス? 聞こえてるやろか? なんや、ジルコンがわあわあゆっとるがのう?』
キリルは内心でくすくす笑いをしながら応えた。
『いやなに、ファンロンに新たな仲間を加えたんだ。そのことで、ジルコンが自尊心を傷つけられたとでも思ってるだけさ』
『新しい仲間?』
龍児が怪訝に通信に入ってきた。キリルはなんのためらいもなく言った。
『今日からファンロンの遮蔽システムに大量の動力を使う必要がなくなったのだ。つまり、もう一つ、専用のコンピュータを導入したというわけだ』
察しよく、龍児が珍しくびっくりした口調で問うた。
『もしかして、それは、問題の建造物を管理していた人工物のことですか?』
『そうだ。どういうわけか、好かれてしまってねえ。まあ、詳しいことはファンロンに戻ればおのずと明らかになる。で、私に何か用かな?』
玄人が応えた。
『そうじゃった。ここの国のお偉いさんたちが、ボスにお礼を言いたい言うとるんじゃが…』
キリルは、どんな社交界でも滅多にみられないきらびやかな容姿をした者たちのことを思い返し、その中の一人がくねくねと腕を巻き付けてきたことを思い出すと、きっぱりと言った。
『いや、私はこれ以上顔を出すのはやめておこう。それでなくても、今回は結束力を崩されてしまった。彼らには適当に言訳をしておいてくれ。一足先にファンロンに戻り、ジルコンの短気をなだめすかさなくてはならない』
『了解したけえ、わしらもできるだけ早く帰艦するようにするわい』
『そうしてくれ』
キリルが通信を終えると、ヌーノがじっと自分を見つめていたことに気付いた。キリルはくだけた微笑で尋ねた。
《なんだね?》
ヌーノは素直に応えた。
《あの若者たちは優れた戦士だ。僕らの種族の中にあってもおそらく引けは取らない。そしてあなたはその戦士たちをまとめあげる司令官だ。なのに、どうしてそこまで「普通」に振る舞えるのか、不思議でならない》
キリルは「うーん」と腕組みをして考える素振りを大げさにすると、
《それはたぶん、戦いの真っ只中に在り続けるために必要だからだろう。心の均衡を保てなければ、勝利は掴めない。心技体、という言葉があるが、「心」の強さはまず大前提にあるということだよ。その土台の上に、何事もあるものなのさ》
そして頭上の「管理者」を見上げ、
《あのものも、「心」を残していたからこそ、今があると思うね。つまり、心こそ、人間性の大部分を占めるものなのだよ。君も、決して心を捨てたり、水をやり続けなかった花のようにしぼませてはならないよ》
ヌーノは嘆息交じりに微笑し、
《わかってる。僕にはケイと言う相棒がいる。結構楽しくやってきたんだよ、僕たちは》
キリルはぽん、と小柄な少年の肩をたたき、
《そう、楽しく生きること。それは大切なことだ。ま、時にはお節介焼きになったり、余計なことに巻き込まれたりするけれどね。では私は自分の艦に戻るとするか。艦長が不在でい続けるのは良くないからね、特に今は。はてさて、私の艦はどうなっていることやら。ではまたどこかで巡り合おう、時を超えた者よ。ジルコン、一名転送だ》
『キリル、貴様、どこでこんなくそつまらねえ女としけこみやがったんだ?! くそったれ、転送開始!』
額の前で指をかざし、別れの挨拶を投げて転送ビームの中へ消えていったキリルを、ヌーノは温かいまなざしで見送った。そして彼もため息をつくと、最後に「管理者」を見上げて独り言ちた。
《…愛こそはすべて、か…。愛なんてどう転がるかわからない多面体のダイスみたいなものだと思っていたのに…今はそこかしこに満ちている気がする…こんなに人工物に溢れた場所なのに…》
ボーグ艦の頭脳を吊り上げている管が、まるで神々しい後光か何かに見えたヌーノであった。そして彼もその場から姿を消した。
それから間もなく、ゴ、ゴ、ゴ、と低い唸り音が聞こえ、少しずつ建物が沈み始めたのだった。




