『緑竜』
巨木の根元に建てられた集会所(祈祷所かもしれない)に、次々と現状でできる限りのもてなしの御馳走や飲み物が運ばれてきたが、朱音はとてもそれらを食べたり飲んだりするような気分ではなかった。
相変わらず龍児が意識を取り戻す気配はない。
そんな生気の抜け落ちた顔を見つめ続け、こみ上げる感情を堪えるように唇を引き結んでいる朱音の肩に、玄人の温かく厚い掌が置かれた。
「水竜に出会った時と同じじゃ。きっと何かに引かれてしもたんじゃ。同じドラゴンソウルを持つ者じゃ。仕方のないことなんじゃよ、きっと」
朱音は首を振り、
「そうとわかっていても、この胸の中の不安を止められないの…前のとは何かが違う…」
と彼女が僅かに苛立ちと方向性の定まらない怒りをこめて言った時、その場がざわ、と揺れ、砂漠エルフたちが一斉に頭を垂れた。
レイジュウジャーたちは、龍児が意識をなくしてしまったことであまり辺りを観察していなかったのだが、この建物は最奥の部分が聖木の根元と一体化し、どれだけの年月を経たのかわからない樹皮をし、うねくり、曲がった太い根が地面に没しているのが伺えた。
その根元に、ほっそりとした人影が立っていた。
肌は褐色で、森の木々の葉が様々な色味をしているように、その者の長く波打った髪も緑や黄緑、カーキ色などの色合いに染まっている。容貌は美しいとも言えたが、これまで出会った二体のドラゴンとは何かが違っているように思われた。鳥の羽根をあしらったイヴニングドレスのようなぞろりとした長い裾を床に広げ、大きく開いた胸元には大きな赤い石のはまったペンダントがさがっていた。
《グリューネ様! 我々は待ちわびておりました。20年ほどにもなりますか、あなた様のお声を聴かなくなって我らは困り果てていたのです》
とセシルが言った言葉に、アレン以外の面々が不審に目配せを投げ合う。
《……20年前…符合するな》
アルディドがひそひそと呟いたが、周りはエルフだらけである。セシルを始め、アルディドは砂漠エルフたちの注視にあった。
すると、緑竜の化身がやや表情を陰らせ、言った。
〔ふむ、なるほど、では、わらわがしでかした大失態を知っておるのじゃな?〕
アルディドは頷き、
《ええ。あなたはドラゴンとしてこの世に存在できなくなり、聖木の意識としてヴェイドにいた。それを見つけ出したある魔道士が血の契約を求め、あなたは誘いに乗ってしまった。あなたは「傲慢」の悪鬼として使役され、その他の意識の断片はケイラン・マグナスが身を削りつつ完全な大悪魔となり果てないよう、悪しき企みから守っていました。あなたほどの存在が軽々しく人間の魔道士の血の契約の誘惑に乗せられたとは、にわかに信じがたいのだが…》
グリューネは「ふっ」と自嘲のため息をつき、巨木に触りながら応えた。
〔…ヴェイドという場所がいかなる場所か、わかるかえ? あそこは欲望のるつぼ。ありとあらゆる妄念が渦巻き、わらわを侵していきよった。ドラゴンとて、赤い血が流れる生き物。わらわは疲れてしもうたんじゃ。心を戒め、ドラゴンとしての美徳を背負い続けることは、ヴェイドにおいてその力を弱めることにつながる。しかし、わらわは耐え続けなければらなかった。でなければ、この大木は朽ちて、幾年続くともわからぬ命なき大地が生まれてしまうからの〕
《そこにつけいったのか、トルステン・ウラヌスは》
とアルディドが合点がいったように言うと、まだ事情を呑み込めていない砂漠のエルフたちに説明するように緑竜は言った。
〔いかにも。わらわの意識を差し出せば、いずれドラゴンの姿を取り戻す方法を教えると言ってな。思えば、相当にわらわは蒙昧に陥っておったのじゃな。わらわの竜力はこの巨木を保つだけで精一杯であるのに、どのようにしてドラゴンの姿を取り戻せるというのか。わらわが愚かであった〕
《それがヴェイドという場所の恐ろしいところなんだ。欲望を助長するんです。あなたを捕えた魔道士は『光の都市』伝説に憑りつかれていたので、いつかはそこへたどり着き、あなたを『都市の番人』として復活させるつもりだったのかもしれません。ドラゴンの存在は魔道士連中にとってはそのような言い伝えになっているようですから》
〔『光の都市』か。馬鹿馬鹿しい。ヴェイドはどこに行っても暗黒あるのみ。その中央はさらに深く濃い闇に染まっているはずじゃ〕
ここでアルディドは話題を変えた。
《その、あなたがヴェイドに堕ち、魔道士に悪鬼として使役されていた時期に、アントリアンが樹液をもらい受けにきているのですが、意識を暗黒面に堕としていたせいで、ヴェイドの闇を含んだ樹液を渡したのではありませんか?》
グリューネは無表情のまま、頷いた。
〔そのことは、わらわが邪な欲望から解放され、浄化された時に知ったことである。この地をわらわと共に見守り続けてきたエルフたちにどれほどの苦痛と犠牲をもたらしたのかと思うと、わらわは悔恨と自責で押しつぶされる心地になる。そうか、つまりそなたらはわらわの正常な目覚めに気付き、なんらかの助けを求めてきたのだな?〕
《ちょっと待ってよ!》
いきなり朱音が会話に割り込み、彼女に視線が集まる。彼女は構わずに続けた。
《あんた、リュウに何をしたの?! あんたがそうやって平然としゃべってられるのは、リュウに何かしたからなんじゃない?! もちろんこの砂漠の生き物たちに奇妙なことが起きてるのは重大事件かもしれないけれど、リュウはあたしたちの大切な仲間なのよ?! それを自分勝手に利用してこんなふうに眠らせちゃうなんて、あんたはまだ「傲慢」の意識をどこかに隠し持ったままなんじゃないの?!》
グリューネは完全に朱音の食ってかかるような言葉を無視し、
〔わらわも蟻人の異常な姿は感知した。あれは確かにわらわのもたらした汚染された樹液によって生み出された突然変異種じゃ。あれを根絶するにはわらわの新たな樹液が必要となろう。それと、あの頭巾をかぶった者たちを操っていた者のことじゃが、あれはわらわのドラゴン族の記憶を手繰るに、今現在の世界にはそぐわぬ者じゃ。過去を蘇らせることは、時間を歪め、命を歪める。あの者共が再来するとも限らぬ。わらわが正常な意識をなくしていた時間を償うためにも、心血をそそいでこの地を守ることを約束しよう〕
そして本当に突然にグリューネは姿を消し、残された者たちはそれぞれの思いを表情に浮かべて顔を見合わせていたが、ただ一人朱音だけがすっくと立ち上がり、顔を真っ赤にして怒鳴りつけた。
《なによ! なにがドラゴンよ! ただリュウのドラゴンソウルが欲しかっただけなんでしょ?! それがないとそうやって出てこれもできなかったんだわ! 助け合うのなら納得できるけど、一方的に奪うなんて! ドラゴンってその程度のものだったのね?! 御大層な言葉を並べて偉そうに! あんたなんか、ひとでなしよ!》
珍しく人前でぶわっと涙をあふれさせた朱音は、仲間たちに引き留められる前に大股でその場から飛び出し、集落のゲートからも駆け出して行ってしまった。
緑竜を自分たちの神とも思う砂漠エルフたちは、その化身に向かって暴言を吐いた客人に複雑な眼差しをしていたが、アレンが冗談なのかそうでないのかわからない口調で呟きながら立ち上がった。
《あれはドラゴンの化身なんだから、「ひとでなし」じゃなくて「ドラゴンでなし」になるんじゃないの? 君たちはその黒髪の彼を看ていてあげて。僕、ちょっと彼女の様子を見てくるよ。これは部外者の僕が一番適任だと思うからね》
アレンが気軽な足取りでその場から出て行ったのを見送った玄人が、依然昏睡状態の龍児を見下ろして言った。
《同じ木の属性が呼び合ったんだろうのう。相乗効果になればいいが…》
《何か嫌味な感じの葉っぱ野郎だったな。俺はあんまり好きじゃねえ》
大牙の直感的で飾らない表現は、時として事象を言い当てていることがままあった。
アルディドが龍児の手首を取り、脈を計りながら言った。
《実体の代謝が落ちている…おそらく彼はどこか異質な場所に連れ込まれていると思われる。君たちの種族がどこまで意識世界に留まれるかわからないが、僕たちにできることはないよ。ただじっと待つだけだ、彼を信じて》
《おい、ヒョロヒョロ! もしお前が師匠をまた泣かせたら、ボクが許さないっスよ!》
仲間たちは心痛な面持ちで緩く呼吸をして横たわる龍児を見つめ、できるものなら彼が落ち込んでしまったところへ馳せて彼を救いたいと強く願うのだった。
*****
ハッとして龍児は突然に目を覚ました。しかし、当然いるべき仲間たちの姿はなく、今、自分がいる場所もどこかわからなかった。
現実主義でありながら、矛盾する空想世界にも強い憧憬を持つ彼は、不安と恐れよりも、この現状をどうやって乗り切り、同時に普通では体験できないことに思い切り埋没して楽しもうという気持ちでいっぱいだった。
確かにここは現実味がなかった。その根拠は単純である。彼は眼鏡がなければ、今いる部屋の隅々を見ることができないくらい視力が弱かったにもかかわらず、今は難なくすべてを目視することができたからだ。
近くに眼鏡らしきものは見当たらないので探すのを諦め、彼は身体を起こした。彼は一人では大きすぎるベッドに寝かされていた。さらさらとしたシーツと上掛けが心地よく、天蓋からは薄絹の布がふんわりと垂れていた。何気なく左手を見ると、アーチ形の窓がくり抜かれたようにあり、そこにも薄絹のカーテンがかかっていた。
夢の中なのか、また新たな非現実の空間なのかわからないまま、彼は好奇心が働くままに窓へ近づこうとして初めて、自分が何も着ていないことに気付いた。
さすがに慌てて辺りを見回したが、眼鏡同様見当たらない。
「…どうなってるんだ、これは…」
龍児は呟き、ベッドからシーツをはいで腰回りに巻き付けると、当然なくなっている靴を探すことを最初からあきらめ、裸足で木の床を歩き、アーチ形の窓を開いて外を見た。
「ここは…?!」
彼は目を見張り、しばらくその絶景から目を放せなかった。なぜなら、その部屋が聖木の幹に取り付けられたか、あるいは内側に作られているかわからなかったが、とにかく非常に高い場所にあり、眼下にちまちまと集落の建物が見えたからである。いずれにしても、どうやってあの聖木にこのような空間を作りつけられたのか全く理解を超えていた。
「…と言うことはつまり、また僕はドラゴンと共鳴してトリップさせられたのか?」
もう一度周囲を観察してみる。
そしてふとあることに気付く。
ここは前にいた大陸とは違う文化形成をしていると感じていたが、それにも関わらず、この部屋は龍児の好みに合っていた。彼は地球歴時代の、さらに古い西暦時代の本や芸術作品を好んだ。それが高じてファンタジー世界に傾倒することにもつながったわけだが、この部屋はまさにどこかの中世の領主でも起居していた場所のように絵画が壁にかけられ、豪華な布が張られた椅子が置かれ、窓際には丸テーブルがあって、地模様の織り込まれたクロスがかけられた上に豪華な花びらを重ねた薔薇のような花が活けられた花瓶まであった。
彼は眉をひそめ、自分の腕に触れてみた。きちんと実感が伴う。振り返って花瓶の花に顔を近づけると、印象的な強い芳香が鼻腔に入ってきた。
「…水竜の意識と感応した時とは違う…これはもっと意識の深層…いや、疑験に近いのか? それも僕の記憶や経験をもとに? そんなことがまさか…? この世界で? だがエルフの集落は確認できた。あれも幻とは思えない…どこかのレンジャー隊の艦でヴァーチャルームのデータが現実空間に再構築されてしまった話は聞いたことがあるが、ここのエルフたちは確かに実在しているんだ。この混在はどういうことだ?」
今更じたばたしても始まらないと、彼はシーツをきちんと巻き直してまるで古代ローマ人のような格好になりながら、壁にかかる絵や、マントルピースの上に並べられた置物を眺め、このあまりに地球的でしっくりしすぎて逆に違和感のあるとり合わせに疑念を深めた。
その時、彼は自分を現実世界で気遣っているはずの仲間たちのことをあまり気にかけていなかった。
決して仲間思いでないという性質ではなかったのだが、事実、このようなちぐはぐで理解できない場所に連れてこられてしまった以上、過剰に仲間たちのことを思うのはマイナスに働くという考えに至ることで、時に恩知らずな性格に見られることも自覚していた。
この性質は、彼が数年前に経験した強い喪失感を埋め合わせるためにより顕著になったわけだが、もともと、彼は無意識に心の防壁を作り続けて今日まで生きてきたのである。
それは、彼が生まれた時から始まったといっても過言ではない。
彼は、他の仲間たちとは違い、ごく普通の中産階級の家庭に生まれたのだが、母親の産後の肥立ちが悪く、一週間もせずに突然死をした。彼の父親は子供よりも妻を深く愛していたため、彼に名をつけることもなく、妻殺しの呪われた子供だと罵り、我が子として育てることを拒否したのである。
さすがに仔猫や仔犬を捨てるようにするわけにはいかず、父親は遠い親戚に養子に出した。その家庭は富裕で、何不自由なく暮らすことができたが、人間味に欠けていた。彼の他にも様々な理由で引き取られた養子たちがおり、彼らは一様に笑顔を忘れたかのような顔をして毎日を過ごしていたのを、龍児は今でもはっきりと覚えていた。
そんな心の通わない集団の中で、幼い彼は自分を見失わない方法を見出した。とにかく勉強に励み、この小さな社会組織である家族を飛び越え、世の中で共通に認められる学位を得ようとした。その結果、彼は16歳で宇宙連邦アカデミーに入学し、同時に他人よりも味気のない「家族」から逃れる最高の口実になった。
しかし、母親殺しと陰口を言われ続けているという被害妄想は消えることなく、彼はアカデミーでも孤高を保った。血のつながった者からさえ見放された自分を誰が受け入れるだろうかという諦観と自嘲が、彼の周りから人々を遠ざけ、それが逆に彼の心を落ち着かせた。
そんな彼に特別な能力があることを見抜いたキリルと出会い、彼は自分だけの居場所を見つけた気がし、宇宙連邦の中枢でエリートとして生きる道を捨て、レンジャーとなることを選択したのである。
しかし彼は、知識を積み上げた壁で心を守るだけにはしなかった。その壁の中に自分だけの世界を造り上げた。彼は子供のころから旧時代の小説や神話、伝説に親しんだ。漆黒の闇の中に浮き上がる星々に神々や美しいニンフや怪物たちをあてはめた人々の空想力に驚嘆し、聖人たちが打ち負かしたドラゴンや魔物の伝承に心を躍動させた。このようなものごとを考えていると、乾いた家族の中にいても、にこやかな顔の裏では激しい競争心に駆られ、誰かを踏み台にしても上に登ろうとする同級生の中にいても、龍児は自我を保つことができた。逃げ込む場所がなければ、もともと繊細な作りをしていた彼の心は、地面に描かれた砂絵が風に吹き消されるようにあっけなく形をなくしていただろう。
もちろん、彼は今レンジャーの一人として様々な体験をし、常識では考えられないことにも直面してきた。だが、それ以上に、こうした心の防壁を築いてきたおかげで、彼はたいていの場合、強い動揺に陥ることはなかった。今も、自分がどんな環境に陥れられているか全くわからなかったが、しっかりと自立していられると思っていた。理性が失われれば、このような不可思議な空間であればなおのこと、妖怪変化が生まれる温床を作るのである。
彼は分厚そうな木の扉の前に行くと、ほとんど期待をせずにドアノブを回してみたが、予想通り、それは開かなかった。
「どうせ開かないのなら扉など作らなければいいのに」
と彼が呆れたように言った瞬間、背後にもやもやとした気配がし、彼はサッと振り返った。
〔そなたのような雄は初めてじゃ。わらわを見ても全く動じないとはの〕
まるで印象派の画家が描いた木々のようににじんだ色合いの髪をした者は、じろじろと龍児を眺め、わずかに感嘆したように言った。
龍児はやや表情を迷惑そうにしかめ、言い返した。
「これはどういうことです? おそらく僕の実体は集落の方にあるんでしょう? 仲間たちが心配します。話があるなら、こんな方法をとらず、きちんと向き合って相談すべきです」
グリューネは黄色い瞳をどこか狂おしくきらめかせてにじり寄ると、龍児が押しとどめる間もなく抱き付いてきた。
〔おお…! これぞ久しく感じてこなかった雄の感触…! そなたはわらわのものじゃ! これでわらわも元の姿を取り戻せるやもしれぬ!〕
華奢な身体つきに似合わない力で抱き締められ、口づけを求めるようにしてきた相手に、龍児は閉口するように顔を背けてドラゴンの化身を突き放した。
「僕は誰のものにもなりませんし、なるつもりもありません。こんな真似をして、僕がされるがままになるとでも思っていたのですか」
グリューネは爬虫類のような縦長の瞳孔を線のように細くさせ、ほくそ笑むように言った。
〔ほう? わらわには見えるぞよ。あの赤い髪の娘か? それとも…もっと深いところに見えるのは…〕
龍児の細い眉がぴくりと動き、わずかに心が揺れた。と同時に、どういうわけか、その両手に懐かしくも涙がこぼれそうになる武器が握られていた。柄頭の部分に勇壮な虎の頭の装飾がされた、かつての僚友が使っていた短剣だった。
龍児は自然とそれを構え、これまで出会ったドラゴン族とは雰囲気の違う者に対して言った。
「それ以上僕の心を覗くつもりなら、僕は容赦なくあなたを攻撃しますよ」
彼の言葉は本気だった。心の聖域を侵された怒りは彼をいつになく攻撃的にした。
グリューネは高慢で妖艶な微笑を浮かべ、
〔人間のくせに竜力を持っている稀有な存在ではあるが、このわらわに刃を向けるとな? それがどういう結果を生むかも考え及ばぬ愚か者なのかえ? まあ所詮は雄竜。深い思考力など必要のないただの「種」でしかないからの〕
龍児は逆手に握った二本の短剣を顔の前で構えて攻撃姿勢にシフトすると、冷血にも聞こえる口調で言い返した。
「あなたは正気ではない。あなたは20年間、魔道士の血の契約に縛られ、ヴェイドの妄執と同化して意識を闇色に染めてしまった。自らを癒して本来のドラゴンとしての在り方を取り戻し、その力で人々を助けるために、この僕を捕えたのならば、まだ建前として十分通用しますが、あなた自身の欲望を満たすためだとしたら、僕は迷わずあなたという存在を亡ぼします。ヴェイドの闇に堕ちたものがどうしてこの土地の繁栄を築けるでしょうか? いや、そこは今の茫漠とした砂漠よりもひどい世界になり果てるでしょう。そして今のあなたは、ヴェイドの悪鬼の欲に憑りつかれています」
〔わらわにとってはヴェイドに堕ちて契約をしたことも、この我が身のなれの果てに縛られ、荒廃した大地を眺めるのも同じことじゃ。わらわはかつてのように大空をはばたき、自由になりたいのじゃ!〕
グリューネから重圧感のある気が発せられ、髪の毛が逆立った。龍児は反射的に姿勢を低くしてグリューネに迫り、両手の短剣を一閃させた。
ぷ、ぷ、ぷ、とグリューネの褐色の胸元に鮮血のようなものが膨れ上がったが、それはどす黒い靄のように黒々と色を変えて蒸発するようにかき消えた。
とたんに、グリューネの細い身体から発せられていた高圧的で優越的な雰囲気が流れ落ちるように消えた。
心の深淵を覗かれそうになり、いつもの冷静さを欠いていた龍児の第二撃がドラゴンの化身の背後に突き出されようとしたが、ぎりぎりのところで相手の心境の激変に気付き、攻撃の手をぐっと止めた。
がくりとグリューネは膝を折って俯くと、すっかり気力をなくしたように言った。
〔…わらわは…わらわは何者なのじゃ? うう…我が身の中に別のわらわがおるようじゃ…それがわらわをのっとり、わらわを操る…しかし、それもまたわらわなのじゃ…わらわは楽しんでおった…否定できぬ…あの混沌とした中で己の欲望のままに力を振るうことの快感は、いまだわらわの身体から抜け落ちておらぬ…〕
龍児はじっと木々を象徴する元ドラゴンを見下ろし、握り締めていたはずの短剣がいつの間にか消えていたので、片手を腰に当てて無感動に言った。
「僕は見ました。あなたの意識が7つに分けられ、エルフの強力な封魔術であなたの意識を何者かに奪われないように守っていたのを。そのひとつが道を誤った魔道士の手で破壊され、あなたは七つのうち一つを捧げてしまった。夢幻世界はつまり、人々が見る夢の集合体です。楽しい夢もあるでしょうが、たいていの場合、人は心に懸かることを誇大化させて「夢」の中で実現させます。あるいは到底かなわない欲望の実現を夢の中に求める者もいるでしょう。そしてこの世界には魔道士と言う、ヴェイド空間を自意識を保って行き来できる存在がいます。あなたという膨大な意識力と魔力に満ちた存在は、彼らにとっては垂涎のものなのです。とりあえずの平和は得られましたが、あなたはまだヴェイドの闇で感じた欲望を満たす快感を忘れられないでいる。だからこうして僕を一方的に捕らえ、あなたの思うように利用しようとした。しかし、僕は決して悪に染まることはありません。僕の意識は完全に正義の天秤の調和のもとに在り続けているからです」
グリューネは疲れ果てた様子でゆらり、と立ち上がり、龍児を黄色い爬虫類の瞳で見つめて言った。
〔そなたはなぜそこまで断言できるのかえ? この緑竜グリューネでさえヴェイドの闇に飲まれたというのに、そなたから発散する清涼な覇気は汚されることはないのかえ?〕
龍児は、よろよろとベッドに向かって歩き出したグリューネに手を貸しながら応えた。
「僕には強い使命があるからです」
一気に老け込んでしまったようにため息をついてベッドに横たわったグリューネは、きっぱりと応えた龍児を見上げ、微苦笑をした。
〔わらわにも使命はあるぞよ。それでもわらわは惑い、堕ちてしまった。己の卑しい欲求のままに、そなたを巻き込んでしまった。わらわは弱いのう?〕
龍児は立ったまま、首を振った。
「あなたは立派に戦い、そしてこの地を守るためにその身を投げ出しました。それはあなたの強い意志と真理を貫くための勇気ある決断だったと思います。ですが、あなたは他のドラゴンたちとは切り離されてしまった。そして永い時が、あなたを長すぎる孤独の底に堕としてしまった。孤独は自らを見極め、考えを深めますが、あなたの場合はその時間が長すぎたのです。ヴェイドは混乱と欲望の空間です。その中で常にあり続けることは、あなたに安直で最低の思考をもたらしたことでしょう。僕も孤独な状態については少しはわかりますから、あなたを責めることはしません。ですが、あなたをずっと敬愛し、守り続けてきたエルフたちをないがしろにするような欲望を持つことには賛成できません。あなたは偉大な緑竜ですが、孤独に病んでしまったのです。その孤独はもう終わったんです。あなたを見守り続けてきた人々の愛に包まれてはいかがですか。それこそがあなたの病をいやし、聖なる大木としての真の姿を取り戻すことになるでしょう」
グリューネは「クッ」と失笑し、腕を伸ばして龍児の手に触れた。
〔人間のくせに、わらわに説教をたれるのかえ? ふふ、しかしまさに言い当てよったわ。わらわはまだ存在していてよいのかのう? わらわの犯した過ちは許されるのかのう?〕
「もちろんです。あなたは緑竜、この地の命の守り手です」
グリューネは黄色い瞳をじっと龍児に注ぎ、言った。
〔一つ頼みを聞いてはくれぬか〕
「内容にもよりますが」
〔…わらわはそなたの接吻が欲しい〕
龍児の顔に警戒心が浮かび、彼は堅い口振りで問い返した。
「なぜですか」
グリューネは簡潔に応えた。
〔安心せよ。そなたに難儀なことはせぬ。ただ、そなたの唇を感じたいだけじゃ〕
龍児は少しの間厳しい沈黙を返したが、ため息と共に言った。
「僕たちは今アントリアン族に起きている異常を止めるために、ここへあなたの助力を求めに来ました。そして、これは僕たちだけの問題なのですが、僕たちはこの世界に散らばっている魔力に満ちたものを集め、故郷に戻る手段を探す旅をしています。あなたの力を少し分けて頂けるというのならば、あなたの要求に応えます」
するとグリューネは顔を陰らせ、
〔わらわの樹液ぞな? そなたにあのような浅ましい姿を見せたくらいじゃ、この身体がどこまで清浄化されたのかわからぬ状態で、渡すことは危険と思う。しかし、アントリアンもこの大地に生きる者たちである。もとはと言えばわらわの堕落が招いたことじゃ。後始末はわらわがすべきなのは当然のことじゃが、もう一つのそなたの願いまでは聞けぬかもしれぬ〕
と、グリューネは胸元を飾っていた深紅の宝石がはめこまれたペンダントを外し、それを彼に手渡した。
〔それはわらわがまだドラゴンの姿をしていた頃に取っておいた純血を結晶化させたものじゃ。樹液よりも効果は高いはず。それ以外には渡せるものはない。そなたがそれを何に用いるかは自由〕
龍児はルビーのような宝石に視線を落としていたが、グリューネが起き上がり、彼の頬に手を添えてきたことでぎくりと我に返った。
約束は約束だった。
龍児は軽く彼女の頭を支えるようにすると、すでにうっとりとしているグリューネのこじんまりとした唇に口づけた。
窓の外に茂る葉がざわざわと風によそぐ。花瓶の花の芳香に交じり、グリューネからにおいたつ恍惚の薫りが満ちる中のキスをしながら、龍児は心の奥底に複雑極まりない鍵を厳重にかけたのだった。
*****
アレンは、集落からかなり離れた砂丘の斜面に身を投げ出し、顔面の上で腕を重ねて感情の昂りに見舞われている朱音を見つけ、彼らしい気楽な物腰で近づいた。
ほとんど雨のない、からりとした夜空には、無数の星々できらめいている。しかし、それを見るだけの心の余裕は、朱音にはなかった。
そこへ砂を踏みしめる「キュ、キュ」という鳴き砂のような音が聞こえてきたが、朱音は顔の上から腕を外さず、つっけんどんに言った。
《あたしを一人にしておいて》
しかし、アレンはすとん、と彼女が不貞腐れたように寝転がる隣に座ると、単刀直入に言った。
《君、あの彼が好きなんだ?》
朱音はぶっきらぼうに言い返した。
《仲間だもの、当然でしょ》
アレンはあけっぴろげな笑顔を夜空に投げ、
《あはは、違うよ、そうじゃない。君は彼に恋してるんだろ?》
朱音はむっつりと黙り込んだ。アレンは気楽な態度を崩さず、続けた。
《別にいいじゃないか、仲間を好きになったって。むしろ、誰にも恋しないとか愛さないとか言う方がおかしいよ》
朱音は依然顔を覆ったままで言い返した。
《あたしたちは特別なのよ。恋とか愛とか、そういうのは邪魔になるわ。実際、今、あたしはものすごく苛々してるし、心の中は暴風雨が荒れ狂ってるみたいになってるもん。あの大木をぶっ倒してしまいたくなってるもん。わかる? あたし、普通じゃなくなってるのよ》
アレンは視線を隣の朱音に落とし、彼女の赤い髪にそっと触れた。
《赤い髪をしている人は情熱的だってよく言われるけど、君もそうだね。そういう意味ではレスリーも情熱家だ。ま、ちょっと方向性が違ってるけどね。その情熱を抑え込むことがいいことばかりとは言えないんじゃないかい? 普通じゃないって君は言うけど、普通だからこそ君は彼に恋してしまったんだし、そのことは決して非難されることじゃあない》
《だめよ、そんな自分本位な感情を押し通すことなんかできない…しちゃいけないのよ…》
《自分に嘘をついちゃだめだよ。人を好きになることは罪じゃない。恋してる自分をもっと愛してあげなよ。悩むことなんか何もないんだから》
《でもあたしたち…!》
朱音は思わず起き上がり、自分たちの素性や使命、責任について言いかけ、口をつぐんだ。そして大きく肩で息をついた。
《……あたしには全然わかんないのよ…この気持ちが恋とかそういうものなのかも、はっきりよくわかんないの。それに、恋とか愛とかって、その結末には何が待っているというの? 今のあたしには全然わかんないわ…普通なんていう言葉は、あたしには縁がないものなのよ》
アレンは、膝を折り曲げてしょんぼりと座る朱音のだらんと伸ばした腕にそっと触れ、言った。
《君たちに何か特別な使命が課せられていることは、なんとなく感じる。君たちからは不思議な波動が流れ出ているからね。でも、君は君だ。使命も大切だけど、君自身の人生を全て使命のために犠牲にしてしまうのはどうかなあ? 使命を果たすのには、「君自身」が確立してなきゃ完遂できないだろ? だって、今の君じゃ、はちゃめちゃに行動しちゃうだろ? 君があってこその全てなんだよ》
朱音はぽつりと言った。
《…でも、リュウはあたしを必要になんかしてないわ、きっと…。だって彼は…》
《そうかなあ? 彼は君をとても優しい目で見つめていたよ》
とアレンは言い、急に吹き出し笑いをするように「クッ」と喉を鳴らして続けた。
《だったらこういうのはどうだい? 僕は確信しているけれど、レスリーとイーサンは絶対に君を自分のものにしたいと思ってる。ローレンツもあんななよなよしてるけど、君のことは気にかけてるね。イヴリンは少し浮世離れしてるけど、君を題材にした詩を作りたがるのは間違いないよ。つまり、君は今アントリアンのクイーンみたいなものさ。君を取り巻くドローンたち。あはは、それを見て、彼は慌てるかな? 嫉妬する? それとも腕ずくで言い寄る男たちをなぎ倒す? そして選ばれし第一の男の地位を手に入れるかな?》
朱音はむすっと言った。
《冗談はやめて。あたしはそんなことを望んじゃいないわ。それに、リュウはあたしのことなんか…》
《君、彼に言ってないの? 好きだって》
《言えるはずないじゃない!!》
《なんで? 拒否されるのが怖いから? そんなことないと思うけどなあ? 君、ちゃんと鏡見てる?》
《自分の顔なんて、身飽きちゃって、嫌になってるわよ!》
アレンは「うふふ」と笑い、
《君は怒ってる顔もすごく素敵なんだね。そんな君と彼はいつも一緒に旅してきたんだろ? 君を好かないはずがないよ。もし、そうじゃないと言うなら、悪いのは君の方じゃなくて、彼が鈍感なのがいけないね》
朱音はいきなり気力を取り戻したようにアレンを見やり、力説した。
《そうよ! 鈍感! 超鈍感! でも、あたしの気持ちに気付かれるのも恥ずかしいから今のままでいいわ…》
《恥ずかしい? 彼だって自分を好いてくれる人がいるとわかったら嬉しいと思うけどなあ》
《こんなあたしよ? すごい美人でもないし、得意なのはケンカくらい。他はなんにもないわ。女らしいところなんか全然ないのよ。恥ずかしいに決まってるじゃない》
アレンは一際大きく笑い、
《あはははは! 鈍感なのは君もだよ! それとも、君たちの種族はみんなそんなに人を好きになることに消極的なのかな?》
朱音は再び情けないため息をつき、
《他の人がどうなのかなんかわかんないけど、あたしにはできないわ……あたしが代わりになるなんて思ってもいないし…》
《代わり? 彼は失恋でもした相手がいたのかい?》
アレンの言葉はまっすぐ朱音の心に突き刺さり、この小柄で若い一国の主の勘の良さを呪いたくなった。
黙ってしまった朱音に、アレンはそれ以上の追及をやめ、立ち上がって言った。
《さ、砂漠の夜は冷えるよ。君まで具合が悪くなったら、仲間たちの心配が増えるだけだし、もし彼が目覚めた時に君がいなかったら、どう思うだろう? 君がどうしたか心配するよね? それと一つだけ、僕からのアドバイス。君の気持ちを信じることだよ》
朱音は気乗りのしない様子だったが、アレンが手を差し伸べたので、その手に掴まり、立ち上がった。彼の手はとても温かった。先日の会食の席から逃げ出した自分を励ましにきてくれた龍児のことが思い出される。彼の手はひんやりとしていたが、彼女をまるで蝶の翅が壊れてしまわないように気遣うようなデリケートさがあった。
《……そうね、あたしが馬鹿だったわ。みんなに余計な心配させちゃって…。でも我慢できなかったのよ》
《恋とは解放することだよ。いいのさ、それで》
《…あんたって、若そうなのに、なんでそんなに色々知ってるの?》
と朱音がアレンに手を引かれて歩きながら尋ねると、彼はあっけらかんと応えた。
《これでも後宮をかかえるロストックフォールの首長だよ。女心を掴めないで、何人も妻を迎えられると思う?》
《えっ、あんた、奥さんいるの?!》
《もちろんだよ。死んだ異母兄さんたちの元妻たちもいるけどね》
自分と大差ない年頃と思い、びっくり仰天の顔をして彼を見た朱音に、アレンはからからと笑った。
《君の恋心を知らなかったら、僕も名乗りを上げるところだよ。君ってこの国の女性にはない豊かな感情と積極的なエネルギーに満ちているからね》
《もうっ、からかわないで!》
《僕はお世辞なんか言わないよ。困ったな、僕も恋に落ちちゃったかも? 彼と取り合っていい?》
朱音はじろっとアレンを睨みつけ、彼の手を振り払って指をつきつけて言った。
《いい? 今の会話とかあたしが泣いてたとか、そういうこと一切合切、リュウに話したりしたら、あたしの本気の蹴りがあんたの脳天を直撃するからね! 絶対このことは内緒よ!》
ぷりぷりとして先に歩き出した朱音の背中を見、アレンは一人笑いながらついていった。そして、彼女の失意と怒りと困惑の霧が晴れたことに、彼は満足げに夜空に向かって楽しげな口笛を吹き始めたのだった。




