『その前夜』
〈銀狐〉は、眼前に見えてきた要塞のようなオーカー帝都を見つめ、小休止して吸っていた煙管を口から放し、どことなく虚しさを伴う懐旧の念をこめるように煙を吐いた。
帝都に足を向けるのは大変に久しぶりであった。そう、20年以上も山脈のあちら側にはつま先ほども足跡をつけてこなかった。
その頃から帝国は不気味な存在に変わりつつあり、彼の本能が帝国には関わらない方がいいという勘働きを生んだからである。
だが、と〈銀狐〉は煙管を歯の間に挟み、やや苦い顔つきになった。
(帝国の在り方の異様さを恐れず、あちら側の盗賊ギルドと密に連絡を繋げてあれば、セドリック王子の悲劇は起きなかったかもしれんな)
もちろん済んでしまったことでくよくよとする性質ではない。しかしこうして今、帝都を目前に臨んでみて、このような悔悟にとらわれたである。
(それに…)
と彼は最後の一吸いを長く細い煙として吐き出すと、街道脇のくさっぱらに吸殻を叩き落とし、思った。
(魔道士たちが『紅髑髏団』を使いまわしているとわかった時点で、俺は彼女を質すべきだったのかもしれん。ああ、俺らしくもない……だが帝都を見ていると、どうしてもこんな思いにとらわれてしまう…。レティス…男のように豪胆で野心が強く、もちろん盗賊の腕前は一流で…だが一点だけ過ちを犯した女…。あの男を愛に目覚めさせようという女として最も大きく重大な野望が成し遂げられることがないことを見抜けなかった。まだ愛しているのだろうか…愛しているからこそあの男の手先となって働くことの愚かさに気付けないのだ。しかし、ここから見ても吐き気を催すような街だな……周りの空気まで瘴気をまとっているように淀み、沈んで見える)
煙管をベルトにいくつもぶら下がるポケットの一つにねじ込むと、〈銀狐〉は無意識にため息をつきつき、立ち上がった。乗ってきた馬もぶるるん、と息を吐いた。
《あのすばしっこい娘の頼みだ。行ってやらねばなるまいよ。それに、なんとなくだが、風が変わる予感がするぜ。あの四人が呼び起こした新しい風だ。これに乗り遅れれば、〈銀狐〉の名折れだぞ。さあ、どこに恐れるものがある。今こそ何かが起こる時! そして始まる時なのだ!》
馬に飛び乗った〈銀狐〉は拍車を馬の腹に当て、帝都へ真っ直ぐ伸びている街道を駆けて行くのだった。
*****
ラミアたちの隠れ住む洞穴にたどり着いた一行は、夜の闇の力に引き寄せられたこの世ならざるものとの遭遇を避けるために、ドワーフの抜け道へと向かうのを翌日に回すことにした。自分たちの住処を汚され、種族自体の存続も脅かす帝国の賢者を倒してきた者たちに、ラミアの女王は喜んで一夜の滞在を許した。もちろん、ケイランに対する尊敬と信頼も手伝ってのことである。基本的にラミア族はヒト族を捕食する側にあり、マーフォーク以上に人間的な思考回路を持ち合わせていなかったからである。
こんなところまで来ても、龍児の幻想世界熱は冷めないらしく、ラミアと言う、まさにモンスターというべき種族と出会えたことに目を輝かせて、色々とラミアたちと会話を交わしていた。大牙は相も変わらず供された食事(何の卵かわからないものやサンショウウオのような形態をした何かの丸焼き)に勇んで取り掛かっていた。
その中で、玄人は別室で休んでいるファリーダの様子を見に行っていた。
腐食の毒はアルディドの手当のおかげですっかり抜けていたものの、身体に合わない魔力を取り込んだことで、完全に体力を回復してはいなかったので、こうして休息をとっていた。
ラミア族の巣穴にしてはましな部類の横穴状の室内には、扉代わりの垂れ布が下がり、玄人が中に入ると、意外にこざっぱりとした空間に、何枚も毛皮を重ねた上に横向きで寝そべるファリーダを見つけた。ぷん、と何かエキゾチックな香のにおいが鼻腔をつく。
《どうじゃ、具合は》
ファリーダは何かの物思いにふけっていたらしく、玄人の言葉で目が覚めたように肘をついて身体を起こした。そしてため息をつき、頷いた。
《なんとかね。でもまだ魔力の波がざわついてるし、この巣穴の中にも腐食の毒は浸透してるようで、落ち着かないね。だからラディウム末の香を…あ、そうか、お前には魔力がないからラディウムの毒にはあたらないんだっけね》
玄人はファリーダが毛皮の上に座るのを見ると、そのそばに胡坐をかいて座り、言った。
《しかし、あんさんやあの二人が助かって良かった。わしらにはすぐに対抗する手段がなかったからのう》
のんびりとした微笑みを浮かべた玄人に、ファリーダは呆れたように言った。
《あのハーフエルフのガキが大魔道士の髪を編み込んだものを投げ入れなかったら、あんたは一体どうなっていたと思うのよ。戻れなかったかもしれないのよ?》
《ははぁ、そういうことじゃったんか。運がええのう、わしは。ま、もしそのことがなかったとしても、仲間たちがどうにかしてくれると思っとったけえ、あんまし心配はしとらんかったのう》
ファリーダはさらに呆れ、
《どこまでお気楽にできあがってるのよ、あんたの頭は。私がどれだけ……》
とここで彼女は言葉を飲んだ。
ぴたり、と二人の視線が合い、ほの暗い明かりの中で時間が止まったような沈黙が流れる。
それを破るように、ファリーダの長い睫が二度、三度と瞬きし、その面差しに複雑な陰影を刻んだ。
その瞬きから何かが流れ落ちるのが、その空間に無数に置かれた蝋燭やランプの灯りに反映されてきらっと光った。
《……泣いとるんか》
と言う玄人の言葉に、ファリーダはつい、と顔を背け、心とは裏腹であることを覆い隠しきれない口調で不機嫌に言い返した。
《魔道士が泣いたりなどするものかい。感情をコントロールできない魔道士なんて、落ちこぼれもいいところさね》
すると、玄人は鷹揚に、
《いつもいつも優等生でいる必要はないじゃろ。あんさんはそりゃすごい魔道士なんじゃろうが、その前に一人の人間じゃ。確かに感情の起伏が激しいと、色々な面で不都合が起きるのは、わしにもようわかる。じゃが、その感情を閉じ込めすぎるんは、もっと悪いことを引き起こすもんじゃ。どこかで吐き出さんとならん。あんさんは人間なんじゃ。「魔道士」っつう枠からはたまには外れんと、いずれ枠ごと壊れてしまうぞな》
顔を背けていたファリーダの唇が引き結ばれ、それが微かに震えるのを、玄人は哀しく、そして深く同情しながら続けた。
《わしにも経験があるんじゃ。だから少しはあんさんの心の昂りと喪失感をわかるつもりでおる。ええか? この後わしらは帝国の屋台骨を揺るがす大仕事に出るんじゃよ。もしあんさんが優れた魔道士なら、その時こそ最高の魔法をぶちあてんとならんのはわかっとるはずじゃ。じゃが、今のあんさんにはできんと思う。そりゃこの大地の毒を食らって弱っとるのはわかっとるが、それ以上に心が萎えとる。一人でしょい込むのはいかんなあ。あんさんもわかっとるんじゃないのかな?》
一際ぐっと唇を噛み締めたファリーダは、くるっと玄人の方を向いた。はたして、彼女の両目からはたらたらと涙がこぼれ、少しやつれたような頬に幾筋も痕を残していた。
《…私は…っ! 実の妹を……!》
彼女が嗚咽しながら玄人の厚い胸元に身体を飛び込ませてくると、彼はそっとその紫色の髪を撫で、落ち着いた口調で言った。
《…仕方なかったんじゃ…ああするしか、あんさんも、あんさんの妹はんも、先に進めんかったじゃろ? それとも、わしらが手を出しても良かったんか?》
ファリーダは玄人の胸に顔を押し付けたまま、首を振った。
《…いいえ…キアがああなったのは私の責任…だから私が……でも……ああ…キア……》
《最期に、妹はんは笑っとったじゃないか。じゃから、よかったんじゃよ、あれで。それに、あんさんにはまだ仲間がおるじゃろ? あんさんを深く信頼し、敬うほどに慕っている二人の部下が。あんさんは独りぼっちなんかじゃない。あんさんは愛されとるんじゃよ》
《……愛……? そんな感情、どこかに置き忘れてしまったわ…》
気の抜けたような口振りでファリーダは言った。玄人は太く笑んでいるような息をつき、彼女を見下ろした。
《わしにもそういう感情がどれほど作用するのかようわからんのじゃがな、今のあんさんには必要なもんやないかと思うんじゃ。早く決着をつけんとならんな》
すると、ファリーダはやや暗い眼差しになり、
《…お前たちは一体どこへ向かおうとしているの?》
玄人は首をかしげ、
《わしらにもわからん。何せ、わしらは異邦人じゃけえな》
《…その「愛」を、お前の中に見つけるかもしれないとしても、お前はどこかへ旅立つんだね?》
玄人は、彼女のうつむいた顔を見つめながら淡々と応えた。
《それがわしらの道じゃからな。あんさんにも進むべき道があるように、わしらにもあるんじゃ。あんさんの気持ちは、ほんとのことを言えば、嬉しかった。もちろん、最初は戸惑ったけぇど、あんさんが見かけほど冷酷でないことがわかって、わしはなんや、心があったまるような気分になったもんじゃ。じゃが、わしらの道は分かれる。いや、分かれんとならんのじゃ。わしらはいつか故郷に戻る。そこはあんさんが生きる世界じゃあないんじゃ。わしは、あんさんと出会えたことを記憶し、それを大切にしまっておこうと思っとる。あんさんが、わしを好いてくれたこともじゃ》
ぎゅ、とファリーダの腕が玄人を抱き締め、彼女は感極まったように言った。
《記憶だけで生きていけるかしら……こんなにもお前の鼓動は強く太く、そして平らか…それは私の心に共鳴し、澄み切った平原で深呼吸をしているような心地にさせてくれる。そしてふっくりとした肥沃な大地の上を裸足で歩くような安心感と充足を、お前は私に与えてくれる……そうね……お前はどこからきたかもわからない異国人。別れる時がくるのはわかっていたわ。そのことを私はごまかして知らない振りをしてきただけ……。でもせめて、今夜くらいは一緒にいてくれるわよね? 私は今弱っているんだもの。それを放っておくなんて、しないでほしいわ。でないと、いざって言う時にお前を助けられないからね》
玄人は苦笑の吐息をつき、馴れない手つきでファリーダをそっと抱き返した。
《わしは天涯孤独の不器用な男じゃけえ、こういうことには慣れとらんが…》
ファリーダは自分の背中に回った玄人の腕の中でぬくぬくとする猫のように微笑むと、瞳を閉じて言った。
《いいのさ、これで……ああ……なんて気持ちいいんだろう……》
すっかり緊張を解いて身体を預けてきたのを感じ、玄人は無骨な手でその傷つき歪められてきた彼女の心を慰めるように抱き締め続けた。どんな異世界だろうと、感じることの根本は同じなのかもしれないと考えながら。だとすれば、できるだけ早く一人の邪な思惑から生じ、自国の民をも超えて、命そのものを脅かさんとしているものを取り除くべきであると、玄人は少女のような素直さを見せるファリーダを抱き締め、改めて決意を固めたのだった。
*****
ラミア族の女王ダルシーの居室では、やや険悪なムードが漂っていた。
そこに居合わせたのは、その部屋の主ダルシーと白髪のエルフの魔道士ケイラン、そして朱音とレンである。その険悪な空気を発散していたのはレンだった。
先ほどまで、今後の行動や作戦を練っていたのだが、ひとまず帝都内に侵入し、カーマインからやってくるはずの〈銀狐〉と合流してから、次の動きを決めると言うことで決着をつけたのだが、ケイランがレンにここで待つようにと言ったことが、どうやらレンの不満の導線に火をつけたようだった。
ケイランがダルシーと共に引き下がるのを追うようにしてレンが席を立ったのを、朱音が引き留めようと続いたわけである。
《お前なんかに命令されるいわれはないっスよ! ボクはいつでもどこでもアカネ師匠と一緒にいるって決めたっスからね!》
ケイランの言うことはもっともであることを朱音もわかっていた。第二賢者との戦いでそれを痛感したからだ。いくらレンがすばしこくても、きちんとローグの業の修練をつんだ盗賊ではない。彼女の大胆さは自らのローグとしての技術の完成度に起因するものではなく、無知から生じる危なっかしい勇敢さでしかないと、朱音は見切っていた。
《でもね、今度は周り中敵だらけのところなのよ。ちょっとも気が抜けない場所なの。あたしもあんたはここで待ってる方が…》
レンの大きな瞳が批判的に見開かれ、
《師匠もボクをひよっこ扱いするんスか? ひどいっス! やっぱりボクはいらない子なんスね?!》
朱音の胸の内がずきん、と痛んだ。
一瞬、彼女の脳裏に、灰色の壁と高い鉄柵の門扉がある光景が浮かぶ。そこにこだまのようにわんわんと彼女を苦しめた言葉が反響する。(「赤痣っ子! お前のかあちゃん淫売女! お前みたいなみっともない子なんかいらないから棄てられた!」)
きぃぃぃ、とその大きな鉄柵の門がきしむ音が、本当に聞こえたように、朱音はぎゅ、と目をつぶった。
彼女の最初の記憶は、ぞんざいな手つきで髪の毛を切られている情景である。はらり、はらり、と赤い毛束が床に落ちて行くのを、なんの感動もなく見下ろしている自分。そしてその視野に入る左手と、お仕着せの短パンを履かされた左脚に臙脂色の痣が広がっているのが見えた。
そのような痣など、朱音が幼かった当時でも簡単に消去できたはずだったが、歓楽街近くの駅のロッカーから瀕死状態で見つかった赤ん坊に赤痣の治療などしてやるほど、治安当局も、施設側にも予算も手間もなかった。それに、彼女の肌の白さと赤い髪は、二親のどちらかがニッポン人ではないことを示しており、宇宙時代に入ったとはいえ、島国気質は抜けるどころかむしろ純血を誇る方向に向かっていたため、彼女は白眼視された。
赤痣は、『正義の守り人』にスカウトされた際に綺麗に処置された。だが、それまで受けてきた様々な差別の記憶は、彼女の強がりの積み木で覆い隠し、見えなくなっているだけで、ふとするとこうして顔を出した。
朱音がどんな表情をしていたかは本人にはわからなかったが、ケイランには響くところがあったようだった。椅子に腰かける習慣のないラミアの部屋なので、彼はどこか似通った二人の娘たちの肩を抱くようにして座るために敷かれたふかふかの毛皮の上に腰を下ろさせると、自分も目の前に腰を下ろし、穏やかに言った。
《むしろその逆だよ、カレン。私はお前の母親を愛していた。だからお前と言う子供を持とうと思った》
カッとしたようにレンがかみついた。
《だったらなんでかあちゃんを見捨てたんスか?! どうしてボクたちを捨てたんスか?! いらなかったからに決まってるっス!》
《いらなかったからではない。大切なものだから私との縁を断ったのだ》
《いまさらなんスか?! 全部言訳にしか聞こえないっス! お前はかあちゃんがどれだけ苦労したか知らないっス! ボクみたいななりそこないを子供に持って、どんだけ白い目で見られたか知らないっス! ボクは構わなかったスけど、かあちゃんにはなにも悪いところなんかないっス! 全部お前のせいっス! かあちゃんは、かあちゃんは…!》
いつの間にかぽろぽろと涙を流していたレンに、朱音がそっと言った。
《あんたのお父さんは、あんたたちを無事でいさせるために、やむなく姿を隠したのよ。全部あんたのためだったのよ。そうしなかったら、あんたたち母娘は今の筆頭魔道士って奴に、殺されていたかもしれなかったのよ。それでもよかった? 違うでしょ? つらい思い出はたくさんあるだろうけど、それでも、お母さんとの楽しい思い出もあるでしょ? あんたは結局、ずっと見守られていたのよ。ほら、あんたがずっと持ってた袋の中の物。お母さんの形見だって言っていたわね? お母さんはお父さんを愛してたのよ、ずっとずっとね。あんたはお母さんの思いが嘘だと思う? お母さんだって、エルフの子を産むのには決意が必要だったに違いないわ。でも、それでもあんたが欲しかったのよ。そして、その大切な物を、あんたはあたしの仲間を助けるのに投げ出してくれた。あんたは思いやりがあって優しい子なんだわ。それは、あんたのお母さんとお父さんから受け継いだものなのよ。あたし、あんたが羨ましいわ。ほんとよ》
レンは涙のたまった眼で朱音をじっと見ていたが、ひとつぽろっと涙の粒をこぼすと、とってかわったようにごしごしと両目をこすり、吃とケイランを睨みつけて言った。
《ボクは師匠の一番弟子っス! 大切な師匠なんス! 大切なものを守るのはいけないことっスか? 一緒にいたいって思うのはいけないことなんスか?》
ケイランは根負けしたように苦笑すると、レンの灰色の髪をくしゃっと撫でて言った。
《大切なものを持つことは心を豊かにし、希望や喜びをもたらすものだ。そしてそれを守り、いつくしむことができるのは幸福なことだ。それを奪うことはこの父にもできまい。その実、この私も、エルフならば決して感ずることのない心境を欲し、里を離れたのだからな。その喜びの結晶がお前だ、カレン。ここに残れと言ったのはそれを失いたくないという、父の一方的な愛情だと思い、許してくれ。お前は子供ではない。自分の道を歩ける。そこに見つけたものをお前がどうするかは、お前次第だ。だが、それを助ける手を差し伸べることまで振り払うのは、どうかやめてほしい。お前が私を薄情だと罵るのは当然だ。だからなおのこと、私に父として支える機会を与えてほしい、カレン》
きかんきな眼差しをケイランに向けているレンに、朱音はゆっくりと言った。
《あんたがあの場にいなかったら、クロトはどうなっていたかわからない……あんたがいてくれたからこそ、今があるのよね……いいわ、あんたの好きにすればいいわ。あたしもあんただったら、自分の思い通りに突き進むと思うから》
《師匠~!! ボクは離れないっスからね!》
朱音に体当たりでもするかのように飛び込み、置いてけぼりを恐れる子供のような必死さで抱き付いてきたレンを、彼女は優しく抱き留め、言った。
《こうなったら、あんたが納得するまでついてくるのね。でないと、あんた、無茶なことまでしてあたしたちを追いかけてくるでしょ?》
《だって》
とレンは潤んだ大きな瞳で真っ向うから朱音を見上げ、言った。
《師匠はボクを「ボク」として見てくれた初めての人だったんスよ。そんな人、かあちゃん以外にいなかったっス。それに、これまでたくさん冒険者を見てきたっスけど、師匠みたいなかっこいいのは初めてだったから、絶対着いていきたいって思ったんス》
ここでふいっと言葉を飲み込み、「あれ?」とばかりに首をかしげて朱音を見直した。
《でも、師匠たちって、ほんとにどこから来たんスか? ボク、一緒に行っていいんスか?》
朱音は、レンの子供らしい身体を抱き締めながら、ぽつりと応えていた。
《…「地球」ってところよ。でもあんたをそこまで連れて行くことができるのかしら…たとえできたとしても、あんたには住みづらい場所かもしれないわ…》
《…「チ・キゥ」? 聞いたことがないっス…》
やや気落ちしたようなレンを見ながら、唐突にラミアの女王が言った。
《お前は地底都市の住人か?》
《ほえ?》
いきなりの話題転換に、朱音は虚を突かれたような声をあげた。ダルシーの問いかけの続きを、ケイランが引き継いで言った。
《「チ・キゥ」…確かに太古の民が築いていたと言われる地底都市群チ・ラングームと相通じるように思われる地名ではあるな。なるほど、トルステンが必死になるはずだ。しかし、君たちはそうではないのだろう? 違うかね?》
朱音はどこからそんななぞなぞのような話が出てきたかわからないような顔で頷き、
《ええ、全然関係ないわ。でもきっと、帝国の大ボスは頭ごなしにあたしたちが伝説の誰かだと決めつけるんでしょうね》
《君たちの戦い振りだけで十分尋常な存在ではないと思わせるに足る。トルステンの力は人間としては類を見ないほど群を抜いている。その性質もヒトとしての枠から外れ始めている。私ももちろん蔭ながらバックアップをするつもりであるし、少々手蔓となるものに心当たりがあるのだ。そちらにも働きかけて、魔の闇に落ちかけている帝国に夜明けをもたらすべく努力しようと考えている》
ここで彼は朱音に頭を下げた。
《私が庇護すべき娘に厚意を与えてくれた上に、私が20年前に摘み取るべきであった芽が今や厄介なつる草のように帝国をがんじがらめにしてしまったことの始末を、君たちに押し付けてしまったことに対し、心から謝りたい》
高貴で威厳をかもすエルフの魔道士があらたまって自分に頭を下げていることに慌てた朱音は、あたふたとした様子で言った。
《謝んないでよ、レンのお父さん。このことは、単にあたしたちの進む方向にあなたたちがいただけのことよ。むしろ、巻き込んじゃったのかもしれないし。それに、あたしたちだってあなたたちに助けられてここまで来れたのかもしれないし。あたしたちは誰にも邪魔されずに故郷に戻る旅をしたいだけなの。そして、放っておけないのよ、あたしたちは。困ってる人や危険な目に遭ってる人たちをね。特にあたしはお節介にできあがってるって、皆に言われるけど、しょうがないのよ。自分の命をめいっぱい生きることを誰かに制限されるのって、一番嫌いなの、あたし》
《さすがっスね! だからボクの師匠なんス!》
レンが再び朱音にぴったりと抱き付いた。そして言った。
《ボク、師匠の故郷の話が聞きたいっス! ボク、誰にも言わないって約束するっス! だから聞かせてほしいっス! だって、ボク、もっともっと師匠のこと、知りたいっスからね!》
朱音は「仕方ないわねぇ」とため息をつくと、ぺこりと頭を下げて言った。
《明日は早いし、色々なことが一度に起きそうな予感もするし、もう寝ることにします。あっ、そうだった、あなたの髪の毛のおかげだと思うけど、クロトを助けてくれてありがとう。ほんと、気味が悪いくらい、行く先々であたしたちは助けられてるの。じゃ、おやすみなさい》
おてんばで仲の良い姉妹のようにその場から立ち去った二人を見送っていたケイランが独り言のように言った。
《…あの娘の中には燃えさかる焔が見える…魔力とは似て非なる流れが地底の火の河のように巡っているのだ…それは決して汚されず、正義を正道の流れのように永遠に流れさせている……永く生きてきた私にも出会ったことのない波動だ……》
《真実、太古の民の末裔なのかもしれぬ。あるいはどこかで深い眠りについていたのを、覚醒させられたか…》
ダルシーが啓明な意見を差しはさんだが、彼女はそれ以上ケイランを好奇心の沈思に留まらせておくことをとどめた。
《マグナス殿、これ以上地上にとどまるのはお勧めできぬ。いくらここが魔力の混沌だとしても、あなたの魔力は強い。今あなたの存命が知られることはあってはならぬ》
ハッと思考の迷路から呼び戻されたようにケイランは顔を上げ、ラミアの女王に感謝の笑みを返した。
《そうであったな。今は少しの油断もならなかった。今少しの辛抱だ。お前たちを苦しめるこの地の毒を除ける日も近い》
ダルシーは美しいが、凍り付いたような顔に微笑みのようなものを浮かべると、
《このまま腐り果て、滅びの道をゆくしかないと思っていたのを、あなたから希望をもらった恩は、ラミア族とは言え、忘れぬ。その日を待っている。そしてあなたの無事も》
《きっと果たそう、その日を》
ケイランは頷きながらこう言うと、自分の前の空間に両手で弧を描いた。蒼白い残像がくるりと円を刻み、その中にぽっかりと闇の虹色にうねる空間が現れた。
《幸運を》
ケイランはその中に躊躇いなく飛び込み、円は閉じた。
《…幸運を》
何もなくなったそこを見つめながら、ダルシーはラミアにしては情のこもった声音で呟いた。そして蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れていたのがひた、と止まると、彼女はうねうねと尻尾をくねらせて奥の寝所へと去った。
*****
ここは魔道士ギルドの建物の地下深くにある懲罰房である。
その中でも、最も重罪を犯した者が押し込められる独房の中で、ミーガン・ウェヌスは蝋燭の灯り一つない漆黒に包まれていた。しかしもし、その時の彼女の様子を見ることができたら、決して彼女が失意や絶望、恐怖や不安などに苛まれてなどいないことがわかっただろう。
いや、ある種の心境の揺れは生じていた。なぜなら、イェルガーの存在をヴェイドを通して消えたことを知ったからである。
向かい側の独房から、馬鹿の一つ覚えのように肉体の鍛錬にいそしむギャリオンの気合の声を聴き、ミーガンは一つため息をつくと、まるで脱皮するかのように意識を内面にひっくり返し、ギャリオンの単純明快な意識網に接触した。
少しの抵抗感と間が置かれてから、ギャリオンの意識体が彼女の前に姿を現わした。その表情には不満そうなこわばりが浮かんでいる。
〔邪魔をされるのは好かんのだがな。特にこんなやり方では〕
〔あんたがヴェイドに馴染まないのはよくわかってるわよ。でも、ここで窓越しに大声で話したいわけ? それこそ完全に私たちはお終いだわ〕
魔法力よりも自らの肉体を鍛え上げることの方に重点を置くギャリオンだったが、その時はミーガンの微妙な口振りに気付き、険しい顔に疑問符を浮かべた。
〔何かあったのか〕
〔大ありよ。イェルガーが消えたわ。たぶん、死んだのね〕
とミーガンが落ち着きはらって応えると、ギャリオンは唸るような相槌をし、隆とした胸の前で太い腕を組んで言った。
〔と言うことは、私たちの他にはもう誰も?〕
ミーガンは短く失笑をすると、
〔あんたは殴られただけで済んで幸運だったと思わないとね。あの奇妙な冒険者たちは計り知れないわ。普通の人間に私たち賢者がこうもたやすくやられると思う?〕
〔思わんな。あの小僧の動きは、私の加速し、増幅した筋力を平然と受け止め、それ以上の動きで私を打ちのめしてきた。奴に魔力はなかった。だが、何かの加護がかけられているように思われた。それが何かはわからんが〕
〔そこなのよ、ギャリオン。賢者の私たちにもわからない加護を受けた者たち。そして、あの人物の出現…これは偶然なのかしら?〕
〔あの人物?〕
〔あら、話してなかったかしらね。前筆頭魔道士だったケイラン・マグナスよ。あんたなら直接見知ってるんじゃないの?〕
このことは、単純な思考を持つギャリオンでもその重大さと何かそわそわとさせる胸騒ぎを覚えた。
〔確か私がギルドに入ってから数年たって、何かの罪科で帝国を放逐されたはずだ。そのあとをウラヌス様が継いだわけだが。しかし詳しい内情は知らん。私はまだ子供だったからな。つまり、その前筆頭魔道士は生きていると?〕
〔ええ。こないだ、私のヴェイドに現れて、ウラヌス様を倒す手伝いをしないかと白々と持ち掛けられたの〕
ギャリオンは短く呆れた嘆息を投げた。
〔ウラヌス様を倒すだと? そんなことをしたら帝国はどうなる?〕
ミーガンはギャリオン以上にあきれ返った眼差しで彼を見上げ、
〔一方からしか考えられない馬鹿ね、あんたって。ここに閉じ込められてるのは何故なのか考えたことないの? あんた、『光の都市』が本当にあると信じてるの?〕
ギャリオンはむっつりと口を結んだが、狡猾さのまるでない彼は首を振って応えた。
〔正直なところ、私には考え及ばん世界だ。信ずるのは己の肉体の強さのみ。こうして透き通って実体のない世界など、目くらましにすぎん〕
ミーガンは魔道士らしくない相棒に応えた。
〔確かにこんな世界にどっぷり浸かるのは良くないことよ。『夢旅人』の私が言うんだから間違いないわ。ウラヌス様は確かに優れた魔力の持ち主ではあるけれど、そういう優れた魔道士が陥りやすい弱点に自分から堕ちてしまったのね。わかる?〕
〔あの眼帯か?〕
〔そうよ。ウラヌス様は精霊と契約してるのよ。ううん、違うわね。すでにその身に精霊を宿しているんだわ。だからあの眼帯で封印しなければならないのよ。だからつまり、あれを外せば…〕
〔ウラヌス様は人間でなくなると?〕
ミーガンは、ギャリオンのこういう裏表のない物言いに小気味よい顔になり、
〔つまりそういうことね。あんた、そんな人を筆頭魔道士としてあおげる? 私には無理。こっちの世界でいやらしくて図々しい精霊たちをたくさん見て来てるから〕
〔お前は背くつもりなのか?〕
〔背く? とんでもない。聞いた話では、昔の帝国はこんな悪名高い国ではなかったそうよ。魔道士が権力を握っていたわけでもなかった。もとをただせば、1000年前の大戦でエルフ軍と魔獣軍を打ち破った人間軍が山脈の北側に国を築いただけのことよ。今じゃおどろおどろしい秘密めかした国家になってしまっているけれどね。そして極め付けが現状ね。国の長が精霊にのっとられてるなんて、間違ってると思わない?〕
ギャリオンは「むぅぅぅ」と唸ってから、
〔しかし、ウラヌス様に対抗するのは至難の業だぞ〕
ミーガンはまたも呆れた顔になり、
〔だから、今状況が目まぐるしく変化してきたのよ。イェルガーは死んだ。ケイラン・マグナスは生きている。そして謎の力を持った冒険者たちはおそらく帝国に向かってきている……わかるでしょ?〕
〔…我々もそれに便乗するということか?〕
〔そうよ。私、感じたのよ、あの冒険者たちと話してみて。彼らには邪気がない、全くと言っていいほどにね。それを捕らえ、何かの実験体みたいな扱いをするのは、間違ってるって。私は帝都生まれじゃないけれど、あんたはそうでしょ? この街がヴェイドの荒野のようになってもいいの? 私は嫌だわ〕
〔私もそんな場所にはいたくないな。しかし、賢者の我々を、先方は信じるだろうか?〕
〔信じさせればいいのよ。あんたにもまだ何が正しいかくらいは感じる心があるでしょ? たぶんだけど、あの冒険者たちは私たちの誠意を感じ取れるものを持っていると思うのよ。ええ、きっと持っているはずよ。私は帝国を暗黒面に落したくない、それだけなの〕
〔それはその通りだ。ミーガン、私は戦うことに恐れはしないが、そういった目論見を達成させる術に疎い。任せていいか?〕
〔ふふ、あんたに交渉術がないことくらい、わかってるわよ。だって、一応あんたは私の相棒なんだし〕
とミーガンは大の男に向かって言うと、
〔じゃ、早速あちらの陣営にコンタクトしてみるわ。あんたは好きなだけ筋肉を鍛えていることね〕
と言い残し、ふいっとギャリオンとのヴェイドから抜け出した。しかし、そこもまたヴェイドの中だった。彼女だけの夢幻世界の出発地点のような空間なのだった。
〔さて、いよいよ始まるのね。なんだかわくわくしてきたわ。今まで生きて来て、一番わくわくしてるわ。でも、こんな体験してしまったら、このあとの人生、平平凡凡で退屈しちゃうかも…〕
一人呟いたミーガンは、先日感じたケイランの波動を探しに、灰色のヴェイドの中を彷徨うのだった。




