『海からの来訪者』
いつも泊まる宿のように共同バスルームではなく、寝室に隣り合ってそれがついていたので、朱音は寝乱れた髪とアンダーウェアのタンクトップ姿のまま、裸足で洗面台に向かっていた。
高級な宿だけあって、歪みもくすみもない大きな鏡である。そこに彼女の寝起き顔が映っていた。
可愛らしい顔ではないと思う。色は黒くはないし、瞳も大きく、鼻もこじんまりとしていて、決して人並以下ではないと自負していたが、今朝の顔は自分でも最悪の部類だと嫌な気分で一杯になった。
寝つきは良い方だが、昨日はなんとなく輾転と寝返りを打ち、夢か何か判然としない感覚に襲われてぎくりと目を覚ましたりもした。そういう時は胸がどきどきとしていて、きっと何か嫌な夢でも見ていたのだと思い、なかなか目を閉じることができないでいた。
それに、昨夜はいつもより暑かった。それ以上に自分自身が暑くてならない感じだった。
目の下にうっすらと隈のういた自分が、彼女を睨みつけていた。
「もう、嫌なあたし」
ぶすっと呟いた朱音は、鏡の前に置かれた洗面器になみなみと入っている水で盛大に顔を洗った。
その時だった。ドアを叩く音がし、彼女はガーゼのように柔らかい布で顔を拭きながら、扉を開けに行った。
《あら、アルディドさん、どうしたの、こんな朝から》
うっかり人前に出るような恰好ではなかったことに気付いたが、なんとなく、このエルフなら差しさわりないだろうと思った朱音は、彼を中に入れながら言った。
案の定アルディドは、彼女の姿を見てもなんの情動もや起こらないらしく、のほほんとした様子で革袋を差し出し、言った。
《こんなことをするのはお節介だと言われても仕方のないことなんだけれど、君のことが気がかりでね。それで、勝手に押しかけて来たわけさ》
《これは…?》
朱音は革袋の中を覗き込み、漢方薬のような独特のにおいに顔をしかめた。
アルディドは少し言葉を選ぶようにしながら応えた。
《僕ほど、長い時間を人間の中で生きているとね、人間でもなかなか気付けないことに目端が利くようになってね。もちろん、僕の弟なら、即座に診断できるのかもしれないけれど、僕には薬の知識しかないから、外見的なところから判断しなければならない。それで、だ。このところの君を見ていると、どうにも落ち着きがない。注意力はないし、いらいらしているし、タイガ並みに食べまくったり、君らしくないことばかりだ。それで、もしかすると、と思ったわけさ。君、そろそろ月のものがくるタイミングなんじゃないかい?》
きょとん、と朱音は目を丸くした。そしてパッと顔を赤くしながら応えた。
《確かにそうかも…》
彼女はレイジュウジャーとなってから、毎月やってくる、女性であれば当然の身体のサイクルを止める施術を受けていた。これは、いつどこで戦闘が起こるかわからない彼らの任務上、必要なことだった。だが、ホルモンバランスはそのままに残してあるので、多くの女性が悩む漠然とした症状は、朱音にも訪れるのだった。
もちろん、「この戦闘、気乗りしないの」と言って任務に出られなくなるのを防ぐための方策はあった。投薬の場合もあったし、短時間の医学セラピーでこの精神不安と体調不良は解消された。
しかし、このところファンロンに戻っていない彼女は、そのセラピーを受けていなかった。それに加え、エイリノスとの戦闘での後悔が彼女の心に傷をつけ、憂鬱感の上塗りをすることとなった。
朱音は投げやりにため息をつき、すとん、とベッドに腰を下ろして言った。
《女って面倒ね…あたし、昔から女なんかに生まれなきゃよかったのにって、ずっと思ってたのよ》
アルディドは優しく微笑むと、彼女の隣に座り、言った。
《そりゃ確かに面倒さ。その身体に命のゆりかごを備えているんだよ。複雑で当然。そしてその織り込まれて迷路のようになった薔薇の花びらの一枚一枚を数えるように、男たちは四苦八苦して君の真っ只中に飛び込んでいくのさ》
朱音は恨めしいような顔つきになって革袋をいじった。
《あたしなんか……だめよ》
《頭からそんなふうに考えてしまうのも、君の心のシーソーがアンバランスになってしまっている証拠だよ。その散剤を飲んで、もう少しゆっくりしているんだ。きっと波がひくように穏やかになっていくはずだから》
朱音は傍らのエルフを見やり、表情を和ませて礼を言った。
《ありがと、アルディドさん…なんかあたし、あなたと話せただけでちょっと気分が楽になったわ》
《いや、いいんだよ。苦しんでる人を放っておけないのが僕の性分でね。だからエルフの里を飛び出して、人間の住む場所に飛び込んだのさ。エルフは基本的に苦しんだりなんかしないし、悩んだりもしない。無味乾燥でつまらない人生だよね》
アルディドは立ち上がり、ポン、と朱音の肩を叩いて続けた。
《…もちろん、恋もしないし、誰かを強く愛したりもしない。君たちが羨ましいよ》
ハッと顔を上げた朱音に微笑みを投げて、アルディドは部屋から出て行った。
朱音は革袋をいじり続けながら呟いた。
「…あの人、知ってるんだ…ああ、もう、恥ずかしい」
そのままパタンとベッドに横たわった朱音は、両腕を目の上にかぶせた。顔が火照っている。そして手に持っている袋から薬の匂いが漂い、我に返った。
煩悶は彼女には似合わない。
ベッドサイドの小卓に水差しとコップがあった。
袋の中を開けると、5包ほどの、几帳面に包まれた薄紙の薬包が出てきた。そのひとつを躊躇わず口の中に放り込み、水で流し込んだ。まさに漢方薬の味だった。
「うえーっ」という顔をしていた朱音の耳にも聞こえるほどの騒々しい足音が聞こえたかと思うと、せわしないノックがされ、彼女の返事を待たずにドアが押し開けられた。レンだった。
《師匠! おはようでございます! あれ? まだ着替えてないっスか? メシ、食べに行かないっスか?》
朱音は乱れたままの髪の毛を適当に撫でつけながら、レンの底抜けに明るい口調のせいで半ば強制的に引き上げられた心のままに、すっくと立ち上がって言った。
《あんたが早すぎるのよ。ちょっと待ってて。服着るから》
数分後、二人は仲の良い姉弟(?)のように、階下の食堂へと降りて行った。たとえそこに龍児がいたとしても、多分自分はいつもの自分らしい態度をとれると信じながら。
*****
何やら港の方が騒がしくなったのは、ちょうど彼らが中央市場の補修場で、各ギルドのおかみさんたちが提供してくれた昼食をとっている時だった。
まずその騒ぎを聞きつけたのは、エルフであるアルディドだったのは想像に難くないだろう。ライ麦パンにハムや野菜を挟んだサンドを持つ手を置き、聞き耳を澄ました。
《厄介ごとではないらしいけど、こちらに誰か慌ただしくやってくる人がいるね。たぶん、あの赤毛の自警団の男じゃないかな》
彼の予想は的中し、ライアン・ファブローがやってきた。やや興奮気味である。
《今、見慣れないマーフォーク族が港にやってきた。ここにお前たちがいるはずだ、と話している。我々はマーフォーク族とは慣れているが、別海域とのものとの接触は初めてだ。余計な摩擦は起こしたくないので、ぜひ会ってほしいのだが》
レイジュウジャーたちは顔を見合わせた。
《きっとギサロさんだわ》
《何かあったんだろうか》
《漢同士の殴り合いができなくなって寂しくなったんじゃね?》
《いずれにしても、北のマーフォーク族と折衝するのに、助けになるかもしれんのう?》
彼らに否やはなかった。
昼食を中断し、港に向かう。当然のことながら、その場にいたアルディドとレン、そしてファリーダの部下たちが興味津々でついてきていた。
港湾区が近づくにつれ、わいわいがやがやというざわめきが大きくなる。
と、そのざわめきの上から呼びかける声が聞こえてきた。
《おお、我が友たちよ! お前たちが私の知らぬ土地で心躍らせるような事柄に出会っていると思ったら、住処でじっとしていられなくなってなあ。後のことはエドゥルとドゥアハに任せて、飛び出してきてしまったのだ》
ああ、ここにも純朴な少年のような好奇心を持つ者がいた。
いつの間にか人垣が彼らの前で割れ、ギサロの黒と金のまだら模様の鱗のある身体と、その両腕に抱きかかえられている妹レヌアの妖艶な姿が現れた。
《あら、レヌアさんも一緒だったの?》
朱音が素直に疑問符を投げると、彼女は地上を歩くには不便な身体を兄の腕の中で身じろぎしながら応えた。
《あなた方の目的を考えれば、わたくしも一緒に来た方がよいと考えたのです。もちろん、役に立てるかはわかりませんが》
《それで、まだ北のマーフォークとは?》
ギサロが問いかけたので、龍児が小さく首を振り、
《お話は僕たちの泊まる宿でしましょう。わざわざ遠くから駆け付けてもらって、嬉しいです》
《おお、そうだな。レヌアもいつまでもこのような体勢でいるのは不便だろうしな。案内してくれ》
群衆より頭一つも二つも大きな立派なマーフォークと、滅多に人の目には触れない雌のマーフォークの姿に視線が集まる中、彼らは堂々と街の中に戻った。
《いやー、初めて見たでがすよ、俺は。魔法生物でもないのに魚の尻尾が生えとるでがすな》
ウマルが好奇心丸出しの口調でひそひそと言うと、隣のワリードが頷いた。
《あの男の方の鱗の照りなんか、まるで金属板みたいじゃないか。ゴーレムの材料の参考にしたいくらいでざんす》
《あっ、そう言えばよう、ワリード。こんな噂、聞いたことねえか?》
二人のひそひそ話は続く。
《なんの噂だよ?》
《魔法生物の連中がミスをしたって噂さね》
《カーマインでの失敗は、ハージブ本人のミスってぇより、あの連中のせいだろ?》
《違うでがすよ。もっと昔のミスでがすよ。ギルドは俺たちのセクションの経費がかかりすぎだって年がら年中言ってやがったけど、魔法生物の野郎も合成に失敗したり、思ったような能力を引き出せなかったりで、廃棄処分にするもんがハンパじゃねえって話なんでがすよ。その廃棄処分の時に、ミスったみたいなんで》
《へっ、棄てられるのが嫌で、逃げ出したとか?》
《まさにその通りでがす。魔法生物を製造していることは帝国の秘密事項でがす。そんな怪物を作ってると世間に知れたら、世界中を敵に回すことになるでがすからなあ。さすがに帝国もそんな大ごとにはなりたくねえんでがしょねえ、当時は慌ててごちゃごちゃとやってたみたいでがすが、一体逃げ出したやつはどこに落ち延びたのかって思ったんでさ》
《なんで今更そんなことを思い出した?》
ウマルは幅の広いドワーフらしい顎を突き出して、前方をいくマーフォーク族を指し示し、
《逃げ出したやつは、海中の生物の寄せ集めだったらしいってことなんでがすよ。あそこにいる連中も、寄せ集めの材料に入ってたりしてとか思ったもんだから、ふいっと思い出したんだわさ》
ワリードは消えたことのない隈の浮いた目元を剣呑にしかめ、
《別に俺は温情的とかそういう性質じゃねえが、生ものを切った貼ったするのは好きじゃねえな。やっぱりゴーレムが一番だね》
《ま、そうでがすな。それに俺たちはもう帝国とは縁が切れたも同然だし、関係ねえ話だわな》
《その通りその通り。俺たちはファリーダ様の行くところについていくまで。それだけのことよ》
《しかし、ファリーダ様はいつまであのでかぶつにご執心になってるつもりかねえ?》
《なんだい、ウマル、気になるのか?》
《そういうわけじゃあないが、どっちにしても、あんまし幸福な結末はねえ気がしてね》
《ハッ、魔道士に幸福なんて文字があるのかよ。俺から見りゃ、未来永劫地の底から這い伸びる亡者の手から逃げ続けなけりゃならない因果な存在だね。はなから幸せなんかありゃしねえのさ》
《それもそうだが、あの冒険者たちの見つめる先は、ファリーダ様の先を突き抜けてるような気がしてな。そう思うと、おかわいそうになっちまうんだ》
《お前は妙なところでセンチメンタルなんだからな。俺たちは自分の鼻の上の蠅を追うしかできねえんだよ。他人の心配するよか、てめえの将来を考えとけ》
とワリードに言われて一応納得したウマルだったが、やはり心の奥底では、ファリーダの今後を思い、やるせない気分になった。彼は、自分のボスの魔力が非常に安定しているのを感じていた。それが、玄人のせいであることも察していた。
一度得てしまったものを手放すことの難しさに伴う悲しみや苦しみを考えたウマルは、一人首を振り、遅れ気味になっていた一行のあとをちょこまかと短い脚を動かして追いついた。確かに外部の自分が考えても始まらないことだ、その時当人同士が直面し、解決するしかないのだとドワーフは思い切り、このあと何が待ち構えているかと言う素直な好奇心だけを心に満たして宿に戻るのだった。
*****
ギサロたちが到着する少し前、ドナテラは一人、中央庁舎の大会議室の議長席に一人座り、顔の前で指を組んで沈思していた。その表情はどこか晴れない。
それもそのはず、意外に議会は意見の一致を見ずに難航していたからだ。昨日も半日以上も空転した議論が交わされ、まさに議会は踊る、されど進まず、であった。
そのひとつの要因には、彼らの風評がここまで伝わってきていなかったことで、水の竜を探すための協力を頼もうとする彼らの申し出に対し、子供の夢物語に付き合わされる義理はなし、という意見が巻き起こったのである。もし、彼らがカーマイン王国での帝国の陰謀を打ち砕いたことや、グレイウォールを震撼させた亡霊たちを撃退したこと、そしてモーヴの海を荒らしていた正体不明の怪物を退治したことを知っていたとしたら、決して彼らが興味本位でドラゴンを求めているとは思わなかっただろう。
しかし、残念ながら、レイジュウジャーたちはむしろ逆効果なおまけを連れてきてしまった。つまり、帝国の賢者の追手と言う、今まで出会ったことのない災厄にも似た存在に、街を破壊された。もちろん、彼らは賢者を信じられない技で撃退したが、彼らがいる限り、また賢者が襲ってくるとも限らなかった。昔から戦闘的な国ではなく、せいぜい隣国の揉め事のしりぬぐいに自警団が出張るくらいが関の山で、あのような熟練した冒険者の戦いとは無縁だったし、関わりも持ちたくないと思う者が多かった。
水の竜が実在するか否かについての問題も、シークレストでは意見を二分する微妙な問題だった。
船大工や漁師たちのような、海と密接にかかわる者たちは水の竜の存在を心のどこかで信じている風潮があった。水の竜は海を統べており、海に出る者の安全も危難も、この竜の尾ひれの一振りで決まると思われていた。だから無下に海を荒らしたり、冒涜するような行為は竜の逆鱗に触れるとして、漁師たちは漁に出る前には必ず海に御神酒のような捧げものをする。
一方で、水の竜など絵空事、吟遊詩人の創作詩の中のものでしかないと考える者たちもいる。堅実な商人ギルド長などは、空想の存在に人手や船を出すなど、労力と金の無駄遣いだと不機嫌極まりない。鉄工ギルド長も懐疑的で、危険な空気をともなってやってきた彼らを早く追い出すに越したことはないの一点張り。木工ギルド長が、竜は実在すると、ライアンの祖父が持ち帰り、ギルドの宝となっている『グリューネの黄金の葉』のことを持ち出すも、逆にライアンの祖父の夢想家ぶりを揶揄されるだけで、取り合わない。
ドナテラは、これまでこの国が商売と職人の技に没頭してきたことが、狭い思考に陥らせている原因になったのではないかと、長い歴史の重みをその両肩に感じざるを得なかった。平和は好ましいことだが、感覚を鈍らせることにもなる。そして今、その鈍さが足かせになりつつあると、彼女は何度目かのため息をついて椅子に寄りかかった。
その時、広々とした議会場の扉が開き、ライアンが姿を現わした。その様子を見て、ドナテラは何か新たな展開が起きたと直感した。それも、好転する方向に。
《どうしたの?》
ライアンはその場から興奮を隠さず応えた。
《西のマーフォークの族長とその妹が来訪しました。どうやらあの冒険者たちに助力するためのようです》
《妹? 雌のマーフォークまで連れてきたの? それは珍しいこともあるものね。そうね、これは使えるわ。さすがの頭の固いギルド長たちでも、マーフォークの族長自ら出張ってきたのでは、頑固に首を振り続けるわけにはいかないはずだわ。なにせ、彼らは水の竜の最大の崇拝者で、海と密接に関わりを持つ私たちは決して彼らの意見を軽んじることはできないからよ。彼らが敵対したら、私たちは船を一艘も沖に出せなくなるわ》
《彼らは今宿にいます。どうされますか?》
というライアンの問いに、ドナテラは少しの間唇を引き結んで考えていたが、思い切ったように応えた。
《議会を招集するわ。そこへ彼らを全員連れてきなさい。もちろん、遠方より来た者たちもね》
《しかし、それではますます混乱しませんか?》
ドナテラは強気に微笑むと、
《とっくに議会は空転しているのよ。それを再び目覚めさせるのは、私たちでは考え付かない思考を持った者たちが必要だわ。さ、連れてきなさい》
《承知いたしました》
ライアンがお辞儀をして出て行くと、ふいっと彼女の頭の中に先日の会議で揶揄された言葉が蘇った。
〈ロドリゲス議長の身体の中にはどうやらまだ御祖父の冒険家魂が宿っているようですな。船大工ではなく、冒険者にでも御転向なされたらいかがです〉
その時はこの嫌味な商人ギルド長の言葉に、内心を煮え繰り返させていたのだが、今になると、確かにそのとおりかもしれないと失笑が出た。
しかし、それのどこが悪いと彼女は考えた。
自分は船を造る。そしてそれがいずこかに旅立つのをいつも見てきた。果たしてこの海はどこまで続いているのか。東に超然とそびえるアッシュクリフの山並みを超えた者はなく、彼女の世界は本当に限られたものだった。
《…この大地が、海が、空が、私が知っているだけの大きさであるはずがないわ。つまり、もっともっと知らないことがたくさんあるはずなのよ。そのひとつが水の竜なんだわ。それを知りたいと思うことのどこに批判され、否定されることがあるというのか。そうよ、私は間違ってはいない》
と独り言ちたドナテラは、議長席の背後の壁に下がる呼び鈴の紐を引くと、ギルド長たちを呼び寄せるべく、使いの者を出すために使用人を呼んだ。
*****
ギサロたちの登場は、ギルド長たちを驚かせ、怯ませ、同時に少しの反感も買った。特に、はなからレイジュウジャーたちに協力することに否定的だった商人ギルド長は、肉の薄い尖った鼻に鼻眼鏡をおいた顔を冒険者たちに向け、疑り深く言ったものだ。
《はあ、これは何かの脅しですかね。確かに我々の国は海とは切っても切れない関係にある。だからマーフォーク族との摩擦は避けなければならない。私にはこのやり方は強迫的に思えますな》
《いいえ、決してそのようなつもりはないんです》
円卓にずらりと座るギルド長たちの視線をものともせず、議会場の入り口付近に整列して立つ龍児がいつもの淡々とした口調で言った。
《僕たちが余計な火種を持ち込んだことは百も承知です。しかし、現に魔道帝国はカーマイン王国を手中におさめようと卑劣な仕掛けをし、一人の王子に悲劇が起こりました。これは氷山の一角なのです。帝国が僕たちを狙うのは、僕たちが竜を探す目的と重なる部分があります。帝国の暴走を止めるには、竜の力が必要で、そのためにはあなた方の手を借りる必要があるのです》
龍児の事実と虚構を織り交ぜたはったりに、仲間たちはもう慣れっこになっていた。それに実際、すでに彼らはこの世界の人々や事象と深く関わっており、こちら側の観点に立って行動することは、遠回りになるかもしれなかったが、決して彼らの不利益になることではないと思われた。
西のマーフォークの登場で、やや意見にぐらつきが見え始めたギルド長たちだったが、商人ギルド長はまだ食い下がった。
《厄介ごとを持ち込んだ者たちになぜ手を貸す必要がある? 我々はそちら側に何の貸し借りもないわけだし、むしろ、街を壊された分、こちら側に貸しがあるというものだ。それを棚上げして、いるかいないかもわからないものを探すために手を貸せとは、調子が良すぎやしないかね》
《貸し? 賠償金はたっぷり払ったはずだけれどねえ》
いらいらとしたファリーダの言葉が、頑ななギルド長の鼻先にぶつかる。彼女は高慢に続けた。
《この国は昔から部外者を決め込んできたみたいだけど、今回ばかりはそうはいかないよ。なんたって、この若僧どもは賢者たちに目をつけられてるし、私は帝国のお尋ね者さ。私たちが入国する時にそういう事実を知らなかったことを悔やむんだね。海峡がいつまでも障壁になってるなんて思ってるんなら、平和ボケもいいところだよ。いい加減、トンテンカントン釘を打ってるだけじゃなく、自分たちのまわりで起きてることに目を向けるんだね》
職業柄、クレームには慣れているのか、商人ギルド長はファリーダの帝国人気質丸出しの態度にもひるまず、何か言い返そうとしたのだが、それを絶妙なタイミングで遮ったのが、アルディドだった。
《まあまあみなさん、そう熱くならずに。あ、いや、まあ確かに先日は熱かったり冷たかったりしましたが、そのことはこちらが全面的にお詫びします。ですが、この事件も、先ほど黒髪の青年が言っていた通り、氷山の一角なのですよ。もちろん、あなた方にとっては別の土地でやってもらいたいと思われたでしょうが、いいですか、物事は起こるべくして起きるものなのです。ここで起きたことにこそ、意味があるのです。自分が何故今ここにいるか、考えたことは? そうです、何かの意義があるから、目的があるから、誰かの役に立てるから、存在しているのです。命は繋がっています。そのつながりが今ここにあるのです。彼らは水の竜の力を求め、あなた方の協力を仰いでいる。竜の力を求めることはすなわち、帝国の野望を阻止することに繋がります。そのことはあなた方にとっても有益なことではありませんか? 北の海域では小競り合いが続き、親交を持っていた種族たちと交流が途絶している。もしも、帝国が水の竜の存在に気が付き、本気で掃討作戦に出たとしたら、北の小競り合いどころではありません。1000年前の戦いの頃とは違うのです。前時代の勢力はその影響力や力を衰退させています。今、帝国が竜を討伐にあたれば、ほぼ確実に滅ぼすことができると、僕は考えます。そんなことになれば、どうなるかわかりますか? ただ巨大な生物が死滅するというだけではすみませんよ。波は途絶え、水は濁り、そして次第に涸れていくことでしょう。海と生きてきたあなた方は、そんな死んだ海と生きていけますか? できませんよね。よく考えてください。帝国の手はあなた方が考えている以上に伸びているのです。それを止めることができるのは、今現状ではこの若者たちしかいないと、僕は考えます。どうか善処を図っていただきたい》
商人ギルド長は美しい青年を見上げ、「ふん」とそっぽを向き、
《そんな口車に乗せられると思ったら大間違いだ》
と言ったので、アルディドはため息をついた。そして頭に巻いていた色とりどりの布をほどくと、さらりとした金髪の間からのぞく耳をさらし、念押しをするように言った。
《あなたのように堅実な仕事についていれば、僕の言葉は虚言に聞こえるのも無理はないかもしれませんが、あいにく、僕はエルフなので嘘はつけないのです。信じてもらうしかありません》
議場からため息やらひそひそ声が漏れる。
人里では滅多に見られなくなったエルフと言う旧種族を好奇と少しの疑いの視線で見るギルド長をさしおき、ドナテラが張りのある声で言った。
《ここまで駒をそろえられちゃ、私たちがどんなに立ち止まろうとしても、押し出されるのは必然のようね。それに、帝国の賢者というものを間近で見て、確かにいつまでもシークレストは蚊帳の外でいることはできないし、いるべきでもないと感じたわ。北のヴォルガ族もマーフォーク族も私たちの友達。彼らがいつ危害を加えられるかわからないし、もしかするとそのうちに北の小競り合いに決着がついて、ブルーラディウムが大量に帝国に流れることになるかもしれない。そんなことになれば、今以上に帝国が増長することくらいは想像がつく。わかったわ。いいでしょう。我々シークレストはあなた方を受け入れ、船と船員を貸します。でも、あの戦いで荒れている海域にどうやって船を出すつもり? そこにいる帝国の軍人殿に何か策があるのかしら?》
片手を剣の柄にかけて立っていたアッラードはしわぶきを一つしてから頷いた。
《千載一遇な口実を用意しておるが、それには、そなたらのヴォルガ族との親密さが必要になる。私が直接あちら側に交渉に出ても、聞く耳を持つまいからな》
《わかったわ。ヴォルガ族の長にはこちらから連絡をとるわね。ところで、マーフォーク族の方はこのことを知っているの? 突然水の竜を探しているなんて言って、怪しまれないかしら?》
これにはギサロ本人が首を振った。
《そのことはすでに私から使いを出してあるので、問題はない。マーフォークのつながりは強い。私たちが受けた恩は、全マーフォークの恩になる。だから北の連中も、この若者たちの願いを聞くはずだ》
どんな恩を売ったのか聞きたいとドナテラは思ったが、個人的な好奇心は今はひっこめると、いまだざわついている議場をしんとさせるような物腰ですっくと立ち上がった。
《各ギルド長殿、以下、決定事項です。この冒険者一行の目的のために、我々シークレストの各ギルドは協力を惜しまず、友好的に接すること。日程が確定し次第、冒険者たちの意志に従い、船を出すこと。詮議終わり。解散》
ギルド長たちが出て行き、扉が閉まると、ドナテラは肩の荷が下りたようなため息をついて席に腰を下ろした。そしてまだそこにいる様々な種族の一行を見回し、一人興じたように笑んだ。
《…こんなてんでばらばらな冒険者たちなんて、聞いたことも見たこともないわ。商人ギルド長の偏見には気分を害しただろうけれど、あれは仕方ないのよ。ああいう性格だから商人ギルドの長なんかやってられるの。いつも帳簿の計算ばかりしてるから何もかもが算盤ずくで片が付くと考えてしまうのかもね。でも、本気で水の竜を探すつもり? どうやって水の中に探しにいくつもりなの?》
《ほんとにそのとおりござんすね。どうやって水の中に潜るでやんすか?》
ワリードがするりと疑問を投げた。
レイジュウジャーたちは顔を見合わせた。
ウマルが続けて言う。
《俺たちの作るゴーレムでもさすがに水の中は無理でがすな。魔力の影響力は弱まるし、直接乗って操作するにしても、操縦席に水漏れがしちまう》
正直、このあたりのことはまだ何も考えていなかった四人だった。パワースーツで素潜りするべきか、それともまだ動ける『朱雀王』か『玄武王』を使って海溝探索に出かけるべきか、悩んでいた。
《そのことはまだ…》
龍児が言葉を濁すと、ギサロに抱かれていたレヌアが穏やかに言った。
《西と北の一族が願い拝めば、もしかすると水竜様もお聞きくださるかもしれません。もちろんあなた方の強い思いもきっと届くはずです。なぜなら、あなた方には不思議な加護がありますから》
これを聞き、ドナテラは低く笑い、前向きな投げやりさで言った。
《うっふっふっ、私はむしろこの役目になかった方が、街のためになったかもしれないね。いや、私も祖父のように血が騒ぐがままに生きるべきだったのかもしれない。私はすっかり魅了されてしまった。こんなことはシークレスト開国以来のことだよ。異国の冒険者にマーフォークの族長とその妹、そして帝国の軍人と魔道士、エルフにドワーフ、その者たちは伝説の竜を求めてヴォルガ族に会おうとしている。こんなことが起きたら、黙ってみていられるはずがない。きっと、お前たちなら成功させられる気がしているよ。なぜだろうか?》
と彼女はぐるりと一同を見回すと、下がってよいと手を振りながら、
《ヴォルガ族には至急つなぎをつける。最短で明日の朝には連絡がくるだろう。待たせてばかりだが、もう少しの辛抱だ。あとはお前たちの器量次第。私も水の竜とは何か知りたい。期待している》
冒険者たちが出て行くと、ドナテラは大きく息をつき、急に静まり返り、色を失ってしまったかのような議場に取り残された。そして気付く。そこにいた者たちの存在感がいかに強烈で、圧倒的であったかを。
《…そうよ…水の竜を求めるような者たちだもの…このくらいのカリスマがなければ太刀打ちできないわ…水の竜が見られるなら、私は自分の首を賭けたっていい。この気持ちは私事なのかしら…いいわ、それでも。いずれにしても、早く手配をしなければ、また帝国の追手がやってくる。その時にちょうど竜との遭遇が重なってしまったら最悪だ。いいえ、これは決して私事ではない。危険を避けて通れない時がある。特にそれに人々の未来がかかっているとなれば。そうなんだわ、これは我が国を挙げての一大作戦なのよ》
ドナテラの男のような顔つきに決意がみなぎり、彼女は大股で議場を後にすると、早速船の手配をつけるために、港湾区へと急ぐのだった。




