『それぞれの女心」
彼らの活躍は、シークレストの街中にまるで電光石火のように広がった。
民衆の中にはブリックレッドやグレイウォールからやって来ている者もいたから、彼らの評判はさらに大きく膨れ上がった。
すでにいやに丁寧な物腰の人物から、この騒ぎで被害の出た市場の修繕費用を負担するという申し出をされていたドナテラ・ロドリゲスは、重厚なデスクの上にどさりと惜しげもなく置かれた金貨袋を前に、考え込んでいた。
シークレストの歴史は、帝国やカーマイン王国などと比べると、浅い。もとは小さな港町で、そこに至る街道沿いに宿場町が点在している程度の、国家とは言い難い人々の集合体だった。それが職工の技術の進歩により、一大産業国家になりあがったわけだが、基本はこつこつと手仕事をするのを好む、国家同士のやり取りなどには興味のない人々の集まりなのだった。だから、こうして唐突に帝国の魔道士、それも賢者と同格以上に戦う冒険者たちなどとは縁が薄かったし、直接謎の多い帝国と接触することも想定外のことだった。
とは言え、現在、北方諸島近海で魔道帝国とクロムマインの種族が小競り合いを続けていて、もともとクロムマインに大量に埋蔵されている良質な鉄鉱石や銀鉱石の取引があるつながりから、軍船をヴォルガ族に提供していたりするが、基本的には部外者をきめこんでいた。
しかし、隣国バーミリオンがこのところ腐敗爛熟に拍車がかかり、覇権争いに敗れた者が自領に逃げ込んでくると言うことが増えてきていた。当然、そう言ったものには追手がかかっており、バーミリオンとの国境付近の村や町では、これまでの平穏無事な生活を破るような凄惨な事件が起きているのが実情で、これまでの歴史の中では最も混乱期にあると言えた。
そしてここに来て、ついに帝国の手が、それも七賢者が侵入してくることとなった。
ドナテラは左側だけ伸ばした黒い前髪を掻き上げ、女性にしては凛々しい太い眉をぎゅ、としかめた。
《対岸の火事というわけにもいかなくなったということか》
と呟くと、職人らしい骨太な両手をついて立ち上がり、背後の窓から外を伺った。
シークレストの各ギルドの本部が集まるこの四階建ての建物の一番上にある首長執務室からは、シークレスト首都のおおよその全容が眺望できる。先ほど激しい魔法戦が繰り広げられた中央市場は、この中央庁舎の建物と隣接しており、すぐ間近に破壊され尽くした市場を見下ろすことができた。
彼女も予期しない振動に気付き、何事かと執務室の窓からその時の様子を眺めていた。
まるで溶鉱炉のような火柱が吹き出し、凍てつく北の地では日常のように吹き荒れるという氷の嵐が、眼下で、自分の治める街で、起きていた。
それをものともせずに撃退した者たちがいたのもすべて見ていた。
ドナテラは魔法というものには完全に無知であったし、冒険者と言う、ともすればあまり身持ちの良くない輩ともつながりが薄かった。
だが、その時見た者たちが、いわゆる冒険者と言う言葉でひとくくりにできる存在ではないことは直感していた。なぜなら、彼女は鉄を溶かす熱がどれだけ熱いか、そして時折聞くヴォルガ族の住む土地の肉をも裂く冷気のことも知っていた。だから、彼らがあの灼熱と酷寒をものともしなかったことに、単純な好奇心を持った。
ドナテラという人はそういう女性だった。彼らが異様な存在であるという考えは全く念頭に浮かばなかった。船大工ギルドの長でもある彼女は、持ち回りの首長と言う椅子にはあったが、生来の向上心の高さからくる、完全な前向き思考の持ち主であった。従って、この騒動を持ち込んだ者たちを責める気はなく、むしろこれから起きるであろうことに対して、彼らに協力を仰ぐつもりでいた。この協力が、街を騒動に巻き込んだ代償だと言うのであれば、そうとも言えたかもしれない。だが、北方海域で現実に帝国とつばぜり合いをしている勢力の一方に物資を供給している側としては、この辺りで対策をたてるべきだと、彼女は感じたのだった。
とそこへ、堂々としたノックが聞こえ、ドナテラは沈思から引き戻された。予期せぬことではなかったので、彼女はデスクの前に回って立つと、張りのあるアルトの声で言った。
《どうぞ、ファブロー団長》
質実剛健ながら、手の込んだ彫り物の施された厚い樫の木の扉が開くと、そこには冒険者の一行にしては多い一団がライアンの後から続いて室内に入ってきた。
ドナテラはその一団を見ても動じなかった。むしろこの危険さえ含む非日常な椿事に巻き込まれようとしている今を、楽しみたいと思う自分がいることを、全く否定しなかった。
彼女は、まるで板材の湾曲具合を確かめるような眼差しで騒ぎの張本人たちを見回してから、唐突に尋ねた。
《一人足りないようだが。ここに金を持ってきた人物だ》
これにはファリーダが簡潔に、そしてなんの感情もこめず、応えた。
《あれは関係ない男なので宿に残してあるのよ。ただの使用人なので》
ドナテラは、聞きようには冷血に聞こえる返答に小さく笑うと、
《そのようにあしらう割に、あの人物からは思いやりを感じたわ。帝国人のくせにね》
そしてアッラードの威風堂々とした姿を見上げ、
《北で海戦の真っただ中にあると言うのに、その片方の司令官が抜け出してここにいるというのも面白いことね。これが我が国にどういう影響をもたらすかわからないけれど、とりあえず説明してくれるかしら》
そしてライアンが彼らから聞いた範囲で事情を説明すると、ドナテラはデスクの端に腰掛け、深く息をついて一同を再び眺め回した。
《つまり、竜探しをするのに、船一艘と船乗りたち、そしてここに逗留する時間が欲しい、というところなのかしら?》
《そういうことになります》
龍児が代表して応えると、ドナテラはいきなり太い笑い声をあげた。
《あっはっはっ、帝国の賢者を撃退もするはずだわね。ドラゴン探しとは恐れ入ったわ。マーフォーク族とも知り合いで、1000年前の戦いで敗れて消えたはずのエルフも一緒だなんて。私は伝説や歴史には全く興味がないし、持とうとも思ないわ。でも、今のこの平和が崩れることは望まない。そこの若者たちが何を誘発したかは知らないわ。それが善に向くか悪に向くかもわからない。でも、私には長年船を造ってきて、見る目は持っているつもり。彼らには何の疵もなく、板目に節など一つもない一枚板のようだ。良い材木でできる船は最上の船になるものさ。それに、なんだっけ、その『魔眼のウラヌス』とか言う奴が、何か厄介なことをしでかそうとしているかもしれないんだろう? それを止めるために私たちの力が必要なら、仕方ないね、手を貸すさ。誰が得体のしれないものに支配されたいと思うかい? 自分の命は自分のために使うものさ。それが覆されるような世界はまっぴらだね。いいわ、私の一存で許可を出してもいいけれど、さっきの騒動で街の者たちが浮足立っているようだから、各ギルド長には話を通す必要があるね。少し時間をもらうよ。あんたたちも奇妙な目で見られながら過ごすのは嫌だろう? ま、宿でゆっくり休んでいるんだね。ライアン、この人たちを宿まで送ってあげて。それと、警護の人員を忘れずにね》
体のいい見張りがついたわけだが、それも仕方ないと、彼らは一旦宿に引き上げた。
一人、部屋に残ったドナテラは、デスクの端に腰掛けたまま、腕を組み、独り言ちた。
《…父さん、水竜をこの目で見られるかもしれないよ…父さんが信じ、探し続けた水竜の姿を…》
海に生きる者にとっては絶対的に信じるものでもあり、逆に夢想に過ぎないと否定もする存在である水竜。それを本気で探し出そうとしている者たちとの遭遇は、ドナテラの実際的な心の中に、ドラゴンを探す旅に出かけ、帰らぬ人となった愛する父親への懐かしさと切なさを思い起こさせることになったのだった。
*****
《…うう…たまらないザマス…》
エイリノス・マーキュリーは、三つ首の山犬の頭部と獅子の脚、まるで排気ガスのように冷気のガスのように揺らめく馬の尾を持つ合成獣の上で、ぐったりとなっていた。
レイジュウジャーたちの物理攻撃ですでにかなりの痛手を負っていた彼は、口先では御大層なことをうそぶいていたが、その実、身体中が痛くて仕方なく、ああして逃げ出すのも必死だった。
自分のマウントを呼び出し、ようやく領内の外れまでやってきた彼だったが、いよいよ身体中に与えられたダメージに、気力も体力も底をつきそうになっていた。ともすれば、ずるりと力が抜けてマウントから落ちてしまいそうになるのを、なんとか堪えられたのは、彼に備わる異常なまでの誇りと生存欲のせいだったかもしれない。
そのことは、ほとんどマウントの歩くに任せていたエイリノスのローブの胸元に着けられた小さなバッジのようなものからも推測できた。
もうおわかりになっただろうか。
先に、ワリードが奇妙がっていたことを思い出してほしい。彼はなくしたのではないかと首をひねっていた。そう、彼が作った発明品、『魔法遮断器』をである。
事実、ワリードはなくしていたのである。ローランド・ユピテルとの戦いの時、弾みで予備のそれをあの空き家に落していたことに誰も気づかなかった。そしてこれを、ほんの思い付きでローランドの死に場所を見に行ったエイリノスに見つけられたのである。
最初は何に使うかわからなかったが、スイッチらしきものに触れた瞬間、これまで感じたことのない閉塞感というか、自分の鼻先にベールをかけられたような感覚を受けた。そして気付いたのである。帝国の裏切り者たちが容易にその足跡を追えなかったわけに。
そしてこれが今、エイリノスの助けになっていた。
なぜなら、あの四色の光芒を放つ謎の戦士たちと相まみえ、敗残したということを、彼はギルドに知られたくなかった。本来ならば当然本国に戻り、報告をし、自らの力及ばずに惨めな弁明をしなければならなかっただろう。そのことを彼は嫌がった。死んではいないのだし、相手の戦い方もわかった。だから、ここは体力の回復を待って、再戦しようと考えていた。そのためには、自分の痕跡を隠す必要があり、そうすることにうってつけの道具を彼は持っていたことになる。
彼は隣国バーミリオンを目指していた。すでに国境の峠に差し掛かっているとは思えたが、とにかく怪我が重かった。ここまで来るのに、何度外れた顎を押し戻したか知れないし、身体の左半分には嫌な痺れが走っていて、それが朱音に蹴られたことで頸椎がずれているせいではないかと、今更ながらに忌々しさがつのるのである。その半身麻痺のおかげで、肋骨が何本か折れている激痛から逃れられていることを、エイリノスは察していない。もしここに癒し手のエリアスがいたとしたら、内臓に折れた肋骨が刺さり、少しの衝撃で大出血するだろうと診断しただろう。しかし、残念ながら、エイリノスは癒し手ではないし、これっぽっちも再生魔法を操ることはできなかった。
できることと言えば、マナポーションを飲んで、魔力の気魄を補充し、意識を保つことくらいだった。
今も、彼は震える右手でベルトにくくりつけている袋の中からガラスの小瓶を取り出すと、苦労してコルク栓を外し、口元に持って言った。
が、砕かれ、激痛に苛まれている顎が言うことを聞かず、魔力の薬はたらたらと虚しくエイリノスのぐだぐだになった紅を引いた唇の脇を流れ落ち、彼自身もがっくりとしたようにマウントの上で脱力した。
その拍子にずるずると身体が滑り落ち、エイリノスは薄暗い針葉樹の獣道に倒れ込んでしまった。
《ワタクシは…第三賢者のエイリノス・マーキュリーでザマスよ……こんなところで野垂れ死になど絶対にお断りでザマス(Non merci)……うう、でも……痛いザマス…》
さすがの賢者も肉体的なダメージには打つ手がないらしく、エイリノスは次第に冷たい暗闇に抱かれていくような絶望的な感覚に陥った。
いよいよだめかと彼が意識の糸を張り続ける気力を諦めかけた時、思いがけない声が頭上から降ってきたので、血糊で張り付いていたような瞼を開け、目玉だけを上向けてそちらを見た。
《面白い獣がいると思ったら、変な男もいるじゃない。ずいぶんぼろぼろだけれど》
と言ったその人物は、エイリノスに奇妙なざわめきを与えた。しかし、そのざわめきの正体が何かを知るのは、かなり後のことになる。
ともあれ、エイリノスは突如現れたその人物、いや、女性に視線を釘付けにした。いや、せざるをえなかった。
赤毛に近い濃いブロンドは妖艶に波打って背中に流れ、そのところどころに異国風のきらきらとした髪飾りで房をつくり、彼女が身動きする度にチリチリと音をたてた。小作りの顔もまた異国風で、切れ長の金色の瞳は何もかも見透かしているような、どこかぞくっとさせるものを放っている。その小さな顔立ちには似合わず、身体は豊満で、バーミリオンの高級娼婦が着ていそうな金糸で縫い取りのある、薄い絹のぞろりとしたドレスを着ていた。深いサイドスリットから惜しげもなく覗く太腿や脹脛は完璧で、ふわふわの毛皮のついたミュールを履いたつま先は綺麗にマニュキュアされ、宝石が飾り付けられていた。
彼女が絶世の美女の部類に入ることは確かだったが、それ以上にエイリノスの歓心をひいたのは、彼女には人間の耳ではなく、獣の耳が頭に突き出ていたことである。同時に、ドレスの背面にはふさふさとした金色の尻尾が揺れていた。
《…お前…どこの獣人族ザマスか? 最近はすっかり見かけなくなったというのに…》
《そんなことを聞いてどうするの? お前は死にかけている。私はこの面白い獣さえ手に入れば、人間の男が死のうと生きようとどうでもいいのよ》
どんな状況になってもエイリノスの賢者としての、そして帝国人としての傲岸さは失われはしないらしい。彼は惨めな態勢で転がっていた身体を苦労して起こすと、汚れ切った顔を歪めるように笑いながら言った。
《フォッ、フォッ、それが欲しくても、お前には扱いきれないザマスよ。それはワタクシの命令しか聞かないザマス》
《へえ? そうなの。試してみましょうか》
謎の女性は尻尾を揺らしてマウントに歩み寄ると、長くてすんなりとした腕を巨大な山犬の頭の一つに回しかけ、まるで愛でも囁くような物腰でしなだれかかった。
と、エイリノスが驚いたことに、彼の言うことしか聞かないはずのマウントがべろりと長い舌を出し、ぺたりと伏せてしまったのである。
《ぬぅぅ? お前、一体…?》
獣の尻尾を持った女性はにぃっと笑むと、エイリノスなど眼中にないと言った素振りでぱちん、と指を鳴らした。マウントがパッと立ち上がり、彼女の背後に従順についてきた。
《さて、面白い玩具も手に入ったし、私は戻るわ。私がいないと夜も日も明けないと言う殿方が多いの》
エイリノスは慌てた。マウントをとられては、ここから一歩も動けなかった。さすがの彼もプライドを捨てたように女性の長いドレスの裾にとりついて言った。
《ま、待つザマス! お前がバーミリオンにいるのなら、ワタクシの力があれば、もっとのし上がれるザマス。ワタクシは炎と氷の芸術家…》
不意に女性がかがみこみ、エイリノスの眼前にその異国的で蠱惑的な顔を近づけたので、彼は言葉を飲んだ。ふんわりと嗅いだことのない香りが鼻腔に漂う。
《お前にこんな傷を負わせたのは誰なの? お前も相当な技を持っているんでしょう?》
エイリノスはここぞとばかりに応えた。
《知らないザマスか? 海峡を挟んでちゃ仕方ないかもしれないザマスが…ワタクシの国では仇敵でザマス。四色の鎧を着た若僧どもでザマス。悔しいザマスが、不覚をとってこんな有様に…》
《四色?!》
エイリノスは、女性が激しく驚いたことにぎょっとなった。が、すぐに彼女は平静を取り戻したように息をつくと、
《…そうね、お前からも面白い話を聞けるかもしれない。なにせ、バーミリオンは新しいことに飢えているからね。退屈と平凡と安穏こそ最も敬遠されている場所ですもの。実は、私も、飢えてるのよ。もっと血が見たいの。お前なら見せてくれるのかしら?》
《もちろん!》
《じゃ、せいぜい私の住む場所まで生きながらえることね。あちらについたら、癒し手を呼んであげるわ》
この謎の獣人女性とエイリノスの出会いは、後々、レイジュウジャーたちに大きな影響を与えることになるのである。
*****
朱音は猫車のような台車で運んできた石レンガを地面に積み下ろすと、「ふぅ」と一息ついた。ギルド長の間での会議が難航しているのか、まだはっきりとした話をもらえないので、こうして先の戦闘で破壊された中央市場の修繕に手を貸していたのである。
地球並みの真夏の日差しが、彼女の赤い髪をさらに赤く燃えるように照り映えさせ、その額には石工の作業場からここまで何往復かしたために、玉の汗が噴き出ていた。
それの一粒が目に入り、沁みたので、手の甲で拭おうとしたが、両手は土埃で汚れ切っていた。
「これで拭けよ、アカネ」
足元から予期しない低い龍児の声が聞こえ、朱音は一瞬きょとんとなった。彼が真っ白でぴっちりと折り目のついたハンカチを自分に差し出している。
「あ、あら、あんた、そこにいたの」
実は、彼はこの二日、ずっとこの辺りの石畳を組み直す作業を手伝っていた。それは彼女も見ていたはずである。だが、どういうわけか彼女は上の空で、宿に戻ってもレンとの騒々しい会話もなく、いつの間にかふっと自室に消えていた。
朱音はハンカチをなおざりに受け取ると、汗を拭くでもなく布の端を指先でいじった。
龍児は作業の手を止め、怪訝に言った。
「どうしたんだ? なんだかお前らしくないな」
「え?」
気の抜けた相槌をした朱音と龍児の視線がかち合う。すると、急に彼女の表情にとげとげした皺が眉間に寄った。
「あたしらしくない? あたしでもないあんたにあたしらしくないとか言われたくないわ。一体あたしらしくないってどういうことなのよ。あたしはあたしだわ、あんたなんかにわかるはずもないし」
言葉を重ねるごとに声のトーンがきつくなった。龍児がいわれのない非難にあって言葉をなくしている間に、彼女は、彼が並べたらしい、職人顔負けの整然とした石レンガを見止め、どうしようもなくいらいらがつのった。
「何でも上手に器用にやれるあんただものね。がさつなあたしなんかとじゃ、息が合わないはずよね。あたしが馬鹿だったわ」
「何のことを言っているんだ?」
朱音は感情の昂りに伴っていつの間にか瞳の中に溜まっていた涙を汗と一緒に拭うと、自分でもどうしようもない心模様を見せる背中を向けて、修繕中の広場から駆け去ってしまった。
「おい、アカネ、アカネ!」
龍児が皮手袋を外しながら立ち上がり、呼び止めるが、朱音の赤い髪は通りの建物の影に吸い込まれて見えなくなってしまった。
この様子を、離れた場所から見ていた者たちがいた。職人たちの使い走りを買って出ていたレンと、その監視役のアルディドである。
《あっ、師匠、どこ行くんスか?!》
とレンが追いかけようとするのを、アルディドが引き止めた。彼は龍児が朱音の消えた通りに向かって歩いていくのを見ながら、不満げに自分を見上げるレンにやんわりと、だが断固とした口調で言った。
《これは彼らの問題だよ。君が彼女の弟子だと自負するのなら、彼女の気持ちは尊重しなければならない》
《でもなんか、師匠、哀しそうだったっスよ? あんなひょろひょろに任せていいんスか?》
アルディドは「うーん」と一呼吸おいてから、
《エルフは長生きで、その分色々と知識や技を習得する時間と能力を持つ種族だけれど、一つだけ人間に劣っていることがある。なんだかわかるかい?》
このところ、レンもアルディドの、エルフらしからぬ物腰や雰囲気に慣れたか、意外に素直な態度をとることが多くなった。彼女はくりくりとした灰色の瞳をぐるりと巡らせてから、首を振った。
《わかんねえっス》
アルディドは「ふふふ」と低く笑いながらレンのぼさぼさの頭を撫でながら応えた。
《そうか、君は半分人間だからあまり実感がないのだろうね。エルフにはね、強い感情の起伏がないんだよ。怒ったり、悲しんだり、嬉しくて飛び跳ねたり、ましてや、特定の存在に強い感情を抱いて、自分の心を盲目にまでさせるようなことはね》
《なんスか、それ。つまんなくないっスか?》
《ははは、確かにつまらないよ。僕はエルフの中でも異端児だから、少しは人間の感情の波がどれだけ生命力にあふれていて、それがつながれば、どんな大軍が攻めてきても切れない絆と言う精神的な強さを得ることを知ることになった。その絆は、君のアカネたちにもあるんだ。とてもとても強い絆がね。それが少し、よじれてしまったのさ。そのよじれは、本人同士にしか直せない。だから彼に任せるのさ》
《ふぅーん? でもあのひょろひょろは、なんか胡散臭いっス》
アルディドは少しだけ翳った微笑みを浮かべ、小さなレンの身体を抱き締めて言った。
《人間の全てが心を全開にしているわけではない。そうだね、確かに彼には何かヴェールのようなものが心にかかっているような感じを受けるよ。さっきも言ったけれど、精神的な繋がりは人を強くもするけれど、弱くもするものなんだ。もしかすると、あの青年は心に傷を負い、それを覆い隠すためにあのような物腰に徹するようになってしまったのかもしれないな。あっ、そうか!》
突然アルディドがぽん、と手を打って叫んだので、レンは驚いた。
《今度はなんスか?!》
アルディドは何やらぶつくさと独り言を言ってから、レンのことなど忘れていたかのようにハッと彼女を見下ろし、水色の瞳を和ませて言った。
《いや、ごめんごめん。もしかすると、君の師匠のことだけど、僕の処方で治るかもしれないと思いついたからだよ》
《病気なんスか?!》
《いや、違うけれど、僕の予想が正しければ…》
これ以上アルディドはレンに明言を避け、彼女の背中をポンと叩いて言った。
《心配はいらないから、さあ、仕事に戻ろう》
なんとなく納得のいかないレンが職人たちのもとへ飛んでいくのを見ながら、アルディドは二人が消えた通りを見つめ続けた。
一方の朱音は、人目も気にせずずんずんと歩き、街の外に出ていた。そして街から伸びる街道をただ進んで、一本の大きな木がぽつん、と立っているところで電池切れを起こしたように立ち止まった。そして一つ大きなため息をつくと、木の下にしゃがみこもうとしたが、ちょうどよく横に張り出した枝を見つけ、そこに飛び乗った。何の木かわからなかったが、黄緑色の葉が折り重なったそれからは、爽やかな香りが漂っていた。
似たような感覚を感じたことがあると、朱音は太い幹に背中を寄りかからせながら、少々の後悔をこめて考えた。
バックパックからコムパッドを取り出し、身飽きるほど眺めている一枚の画像を呼び出す。
いつからこんな気持ちを抱くようになったんだろうと、朱音は、画像の中の黒髪の青年を見つめ、胸苦しいような心地で思いを馳せた。
レイジュウジャーの結成当初は決してそんな気持ちを持ってはいなかった。
(だとしたら…)
朱音の脳裏に、ある過去の悲劇の光景が映し出される。失われた命。その喪失に対する激しい哀しみ。
(あたしは、投影したのかもしれない…もし彼にそんなことが起きたら……そんなことが起きたら…それで気づいちゃったんだわ…彼が好きだって…)
ふと、彼女は裏返しの考えを抱いた。
(彼は今どう感じているのかしら…あの時のことを……)
「おい、アカネ、一体どうしたんだ。降りて来い」
下から聞こえた現実の龍児の声に、朱音はぎくっと身じろぎして地面を見下ろした。途端に、むらむらと苛立ちがぶり返す。
「別に強制されて手伝ってるわけじゃないでしょ。ちょっとした息抜きだわ」
「何をそんなに苛々している? 僕が何かしたか?」
朱音は思った。してほしいくらいだわ、と。
彼女はぴょん、と枝から飛び降りると、街の方には背を向けて歩き出しながらつっけんどんに応えた。
「あんたに言ったからって、何か解決する? あんたはちゃんとやったんだし、あたしがへましただけのことなんだから」
「へま?」
後方から怪訝な声だけが返ってくる。朱音はぴたりと歩くのをやめ、首をねじ向けて龍児を見た。
「そうよ。あのピエロみたいなやつを仕留められなかったわ。これがあたしじゃなくて、タイガとだったら、うまくやれたんじゃない? 中身は変わっていても、『龍虎』の繋がりはあるはずだもの。そう言えばあんたはあまりタイガと連携しないわね。昔はタケ……」
「その話はしたくない」
予想外の拒絶に、朱音は逆に意表をつかれた。苛々が別の感情にすり替わりそうになる。
「あんた…」
言葉を続けられなくなった朱音の腕を、龍児が少し強引に引くと、無表情の中にやや陰にこもった何かを秘めながら言った。
「みんなが心配する。戻るぞ」
朱音は龍児の横顔を見上げ、いつもより尖って見えるような気がした。掴まれている腕からもぴりぴりとした何かが伝わるような気もしていた。
心の中に複雑で微妙な胸騒ぎが巻き起こる。だがそんなことを言ったところで、彼が本音を言ってくれるとは思えなかった。いや、聞きたくなかった。
朱音は龍児に腕をとられ、街に戻った。情けなくて泣きたい気分に一杯になりながら。
*****
《ところで一つ聞きたいのだが》
とアッラードは宿の豪華なスイートでくつろぐファリーダに尋ねた。彼女は日も高いうちから悠々とワインを傾け、私服の濃い紫色をしたタフタのドレスの裾もふんわりと椅子に腰かけながら小首をかしげて先を促した。
アッラードは片手に持っていた葉巻煙草を一吸いしてから続けた。
《あの冒険者の一人とはずいぶん懇意にしているようだが、あなたの気持ちを聞きたくてね》
当の玄人も、やはり市場の修繕のために石工の工房で石レンガの切り出しの手伝いをしており、その場にはいなかった。
ファリーダは動じることなく、応えた。
《自分でも信じられないのよね。でも、心が共鳴してしまったの。わかるかしら。魔力が満ちるのよ、奴といると》
《しかし、それは恋情や愛情とは違うのではないかね?》
と言うアッラードの一面的な問いかけに、ファリーダは呆れた物腰で応えた。
《魔道士にとって、魔力の相性こそが理想のパートナーとなりうる存在よ。もちろん、私が一般人と一緒になることもできるでしょうけど、あの男がまとうオーラのようなものに当てられてしまっては、他の連中なんかカスみたいなものね。小父様、いきなりそんなことを聞いてきたりして、まさかこんな時に見合いでもしろとでもいうつもり? そんなこと無理に決まってるでしょ? 私は帝国を追われる身よ?》
アッラードは顎髭を撫でながら言った。
《あなたが考えている以上に、現在の帝国の在り方に疑問を抱いている存在は多いのだ。そして、あなたのことを案じている者もな》
《そんな奇特な人がいたかしら?》
《あなたは覚えていないのか? オスカーのことを》
ファリーダは黒い瞳を見開き、彼女にしてはぽっかりと間の抜けた顔つきになった。
《ええ、覚えてるわ。軍服が歩いてるような、坊やだったわね。でも、あれは私が魔道士ギルドに入ったことで、何もかもご破算になったはずよ》
《ああ、確かにそうだ。だが、彼はまだあなたの面影を大切に胸に抱いている。今、あの冒険者たちが賢者たちを撃退しようとしている。これは勿怪の幸いではないかね? 今の帝国の在り方ががらりと変わるきっかけになるんじゃないかと思っているのだ。そうなれば、あなたもギルドに縛られることなく、自由にその感情を表すことができる》
ファリーダは短く笑うと、
《バージルもそうだけど、どうにかして私に普通の女のように生きさせたいみたいね。そんなこと、無理よ。私は髪の先までラディウム鉱石の毒に染まった女よ。ゴーレムを操ることに生きがいを感じる女よ。それが家庭に入れですって? 残念だけど、オスカー坊やには諦めてもらうしかないわね》
アッラードの四角い顔に残念そうな色が浮かぶ。
《では、ずっと放浪を続けるつもりか? あなたにはルルーシュ家と言う…》
《家のことは、魔道士になるとわかった時に捨ててきたわ。そうでしょ、魔道士に普通の生き方ができるかしら? 小父様、あなたは知らないからそんなことを言うのよ。いい? 魔道士はね、毎夜、夢の中で地獄を見るのよ。心が弱い魔道士だと、地獄の亡者どもに憑りつかれてのっとられてしまうの。そんな夜をずっと過ごしてきた私に、誰かと閨を共になんかできると思う?》
《では、あの冒険者とはできるというのかね?》
《わからないわ。でも、確かなことは、あいつが傍にいると、私の魔力が穏やかになるということなの。この数晩、彼はそこのソファで寝ていたけれど、たったそれだけのことで、私は悪夢に追いかけ回されることがなかった。それがどれだけ魔道士にとって素晴らしいことか、わからないでしょうね。私はあの男を離したくないわ》
《しかし、それでは彼の都合を鑑みていない。彼らには何か重大な目的があるそうじゃないか》
《それがどうしたというの? 私は私よ。私が生きたいように生きる。それだけのことよ。あの男が何かをし遂げたいのならば、仕方ないわね、手伝ってあげるわ。私は魔道士になってから初めての漆黒の安眠をもたらす存在を逃したくないのよ》
《だが、彼らは異国の民族のようだ。いつかは自分の国に戻るのではないかね? その時、あなたはどうするのだ》
《さあね。そんな先のことまでは考えていないわ。小父様、私、あまりくよくよ考えたくないのよ。わかるでしょ? このままだといずれまた妹と対峙しなければならなくなる。いくらあの性格のねじ曲がった女でも、私の実の妹には変わりないのだから。でも今回は見逃すわけにはいかないでしょ。同じ血を分けた双子が血で血を洗うようなことになるなんて、ハッ、とんだ茶番だよ》
アッラードは同情的に眉を寄せ、
《できればそのようなことは避けたいところだが》
《楽観的過ぎるわね、小父様。もう私たちは賢者たちの野望の中心にあるのよ。避けることなんかできないわ。だからできるだけ上首尾に彼らの目的のものを探す手はずを整えないと。小父様、頼りにしているのよ》
《うむ。私もそうできればよいと思っている》
《ありがとう、小父様》
と言ったファリーダの表情には、アッラードが見てきた、少女時代の彼女の清純な面影を思い出させる素直さが浮かんでいた。
しかし、そんな純な表情は長持ちせず、がらっと口調を変えた彼女が唐突に言った。
《小父様、ワインをいかが?》




