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四神戦隊レイジュウジャー  作者: 沢木佑麗/雲月
第四章 対決編
40/103

『一の矢』

 一行はのんびりと都市連邦街道を東に進み、ようやくブリックレッド領内のはずれに位置する穀倉地帯に入った。

 ここで、レンが街道を逸れ、壊れた風車のそびえる、空き家になって久しい一軒の農家の建物の前で馬車をとめた。

《あら、街はすぐでしょ? こんな空き家に何の用事?》

 朱音がさっさと御者台から飛び降り、馬具を外し始めているレンに怪訝に尋ねた。レンは小さな身体を馬と馬車の間に見え隠れさせながら応えた。

《頭悪いっスねえ、師匠。そんな「お荷物」かかえて、ブリックレッドになんか行けるかってんでス。あの街にはドワーフもたくさんいるっス。そんなラディウム鉱のにおいをぷんぷんさせてちゃ、怪しまれるに決まってるっス》

 大牙が隣で「ばーかばーか」と朱音を茶化すが、ぽかり、と彼の頭を叩いてすますと、彼女は御者台の方から辺りを見回して言った。

《でも、ここ、平気なの? 空き家みたいだけど》

 器用に馬具を外したレンは、馬の身体を叩いて歩かせながら応えた。

《ここはボクの住処なんス。ボク一人なら街でも寝起きできるっスけど、こんな大所帯じゃ、無理っス。それに、「お荷物」がいるっスからね》

《荷物荷物うるさいんだよ、このクソエルフ! ひねりつぶしてやろうか?!》

 ファリーダの癇癪は、「うひゃひゃ」と笑いながら馬をつなぎに行ったレンの細い背中に当たって消えてしまった。

《ここにもクソエルフがいるんだけれどね……と、何かな、ものすごい勢いで走る馬車の音が近づいてくる》

 アルディドの言葉は、レンが勢い込んで戻ってきたことでさらに裏付けられた。

《なんか、こっちに来る奴がいるっスよ? また追手っスか?!》

《いや、こりゃ、二頭立ての、立派な馬車でやんすな。車輪の響き方が違いまっせ》

 ウマルが一足先に馬車から降り、地面に耳をつけて言った。さすが大地と密接なつながりのある種族である。

 他の者も馬車から降り、次第にレイジュウジャーたちにも聞こえ始めたがたごとという音とともに、黒塗りされた箱型の馬車が全速で街道を突っ切っているのが見え始めた。それとともに、風に乗って傍目を憚らぬ必死の大声で叫ぶ声が聞こえてきた。

《お嬢様ぁぁぁぁ! お嬢様ぁぁぁぁぁ! どうかいらしたらお返事をぉぉぉぉ!》

 玄人は背後で長々とため息をつき、どこかしらげっそりとした様子のファリーダを振り返り、尋ねた。

《なんじゃい、あの妙な黒服はあんさんの身内かいな》

 これを聞き、事情を知らない者たちがファリーダを二度見するようにまじまじと見た。

《お嬢様…?》

 唖然と朱音が言うと、大牙が「ぷ」と大笑いしそうになったので、龍児が良識的に彼を羽交い絞めにするようにして口を押えた。しかしその代わり、アルディドが盛大ににやにや笑いをして言った。

《帝国にも律儀な者がいるとは初耳だね。君を案じて追いかけてきたんだろう? 行ってやらないのか?》

 むっつりと顔をしかめたファリーダの耳にまた呼び声が響きわたる。

《お嬢様ぁぁぁぁぁ! このバージルはどこまでもお嬢様のお供をすると誓っているのですぞぉぉぉぉ!》

 二頭立ての馬車が、彼らが反れた脇道を通り過ぎようとしていた。

 玄人が見かねてファリーダにそっと言った。

《長いつきあいなんじゃろ? 行ってやらんかい》

 長い睫の黒い瞳が一瞬、素の表情に潤む。玄人の眠っているような眼差しがファリーダを魔道士としてではなく、ひとりの人間として見ていることに、彼女は心を打たれた。そして彼女を追ってきた執事バージルも、そういった存在だった。

 ファリーダは軽く目を閉じると、今にも彼らのいる場所を通り過ぎようとしている馬車に魔力を当てた。突然重くなった車輪にひきずられ、馬がいななきながら脚を止めた。そしてその車輪が自動運転のように勝手に回り始め、その力に押されるようにして馬が彼らのいる脇道の方へと進んできたのである。

 代々ルルーシュ家に仕えてきたバージル・ムファラスとの対面シーンは敢えて省こうと思う。というのも、初老の大の男が泣きに泣きながらえんえんとファリーダとの再会に感涙する姿を見せつけられたからである。これを楽しんでいたのはアルディドだけだったようだ。彼はひとり、他の者たちが軽食やらその夜の寝床の準備などで忙しくしている間も、この少々陳腐な光景を肴に、悠々と果実酒をすすっていたのだった。

 玄人が手早くそこにあるもので作ったナッツのたくさん入ったビスケットと、レーズン、買い置きしてあったらしい少し硬くなったバゲットとレンの隠れ家には似つかわしくないレバーペースト(あとで白状したがレッドブリックでくすねたものだそうだ)を埃のたまったテーブルを綺麗にした上に並べると、バージルはようやくファリーダの他にも誰かがいたことに気付いたかのように改まると、深々と頭を下げて言った。

《大変ご無礼をいたしまして申し訳ございません。わたくし、バージル・ムファラスと申します、ルルーシュ家に仕える下僕でございます。この度、お嬢様の御危難を知る所となり、とるものもとりあえず駆け付けた次第でございます。あなた方がお嬢様のお命をお救いくださった皆様方なのですね? ああ、なんとお礼を申し上げればいいのでしょうか》

 レイジュウジャーたちは複雑な表情で顔を見合わせ、レンが唇をひん曲げて今にもこの純粋な初老の人物を傷つけるようなきわどいことを口走りそうになっている。ファリーダはファリーダで、自分のことを「お嬢様」と連呼することに閉口しているようだった。

 このとき、アルディドの中立的な立ち位置に助けられた。エルフは果実酒のカップを片手に、早々にテーブルにつきながらのほほんと尋ねた。

《帝国では何が起きたんだい?》

 バージルは無意識の動作でファリーダに椅子を引いてやりながら、なんのてらいもなく応えた。

《はい、ルルーシュ家に長年食糧などをおさめてくれる商人たちから聞いたのです。お嬢様に厳罰が下され、国内はおろか、見つかれば即刻刑が執行されるという話をです。それも、七賢者が動き出したという噂もあるそうで、魔道士ギルドの内情は一般人のわたくしには計り知れぬ世界でございますから、口を出すなど無駄な話です。しかし、黙ってお嬢様をひとり、苦難の道に放り出すことは、このバージルにはできないことでございました。ですが、誓って申しますが、お嬢様は決してそのような目にお会いになるようなことをするお方ではありません。何かの間違いでございます》

 大牙がこっそり呟く。「俺たちをしつこくぶっ殺しにきたくせに知らぬは仏ってのはこえーこえー」。

 するとファリーダが何か厳しく言いかけたのだが、バージルの盲目的な従者愛がまさった。彼は心から喜ばしげに顔をほころばすと、黒塗りの、まさに貴族が乗るようなごてごてした飾りがされた馬車を振り返り、言った。

《魔道士ギルドの方針はお嬢様の意に反するものでございましょうが、少しの我慢でございます。バージル、適当なものを見繕ってまいりました。当面の旅支度としては十分かと思いますので、どうぞお着換えください。そちらのお二方(と玄人の作ったビスケットを口中に頬張っていたワリードとウマルを見やり)にも昔の使用人のものだった古着を持ってまいりました。この先、そのローブ姿では色々と不便を感じることでしょうから》

 なかなか機転もきくらしい。彼はすたすたと馬車に戻ると、扉を開けて、旅装が入っているにしては立派過ぎる櫃を引っ張り出し、それを一人でよっこらせとばかりに担ぎ上げた。

《うお、意外に力あるじゃんか。なんだよ、あのじいさん》

 たっぷりとレバーペーストをぬりたくったパンをぱくついていた大牙が感嘆する。レーズンをつまんでいる朱音が興味津々にファリーダに尋ねた。

《お嬢様ってことは、あんた、いいとこの生まれなわけ? ってことはさ、あんたの妹もお嬢様?》

《キアの話はしたくないし、私はお嬢様でもなんでもない。あれは勝手にバージルが…》

《キアお嬢様ですか! ああ! わたくしはなんということを! お嬢様が困っていらしているということで飛び出してきてしまいましたが…》

 櫃の蓋を開け、几帳面に畳まれた衣類の山の中を物色していたバージルの顔色が変わった。これを見て、ファリーダは初めて感情的な表情を浮かべた。そう、全てを嘲弄するような表情を。

《いいこと、バージル。お前はもうルルーシュ家とはかかわりを持たない方がいいわ。こんな、骨肉を争うような姉妹のいる家なんかに、お前のような純朴な心を持った者は似合わないよ。私はね、キアと刺し違えても、やるつもりだよ。でなけりゃ、私がやられる。これまでずっとキアのわがままにつきあわされ、好きにさせてきたけれど、私の命だけは勝手にはさせない。バージル、ルルーシュ家はもうお終いなんだよ。だからどこへなりと好きにお行き》

《お嬢様! そのようなことをおっしゃらないでくださいまし。バージルは常にお嬢様のおそばにいると、あなた様がお産まれになった時に誓ったのですぞ。それを破れとお言いなさるのですか? わたくしに生きる道を捨てよとお言いなさるのですか?》

 ファリーダは「ふん!」と苛立たしく息をつくと、櫃の中から黒いドレスを抜き取ながら言った。

《酒が足りないようだね。バージル、お前のせいですっかり気分が台無しだよ。街まで気晴らしがてら、買いに行ってくるよ》

《あ、お嬢様、そのようなことはわたくしが…》

《お嬢様お嬢様しつこいんだよ、バージル! いいかい、二度と私をお嬢様なんて呼んだら、その手足がもげると思っておおき!》

 着替えるためにすいっと姿を消したファリーダの背中を、バージルが困り果てたように立ち尽くして見つめていた。そんな従僕の腕をがさつに小突いたウマルが言った。

《口じゃあんなこと言ってやすがね、相当嬉しいんですよ、ファリーダ様は》

《そのとおりでござんす。口が悪くなればなるほど、内心では真逆のことを考えてるのがファリーダ様って人でして》

 ワリードが玄人の作ったビスケットをせわしなく食べながら付け加える。

《その割に、ずいぶんあたしたちをつけ狙ってきたじゃない。別にあたしたちはあんたたちに何もしてないのに》

 朱音がよく干されたレーズンを噛み締めながら、やや不機嫌に言った。ワリードは陰湿そうな眼差しをちらっと彼女に向け、すぐに視線をそらして言い返した。

《開発者魂がそうさせたんでござんすよ。そこに山があるから登る、そこに研究対象があるから…》

《そうか…!》

 突然龍児が声を上げた。そこにいた者が彼に注目する。龍児は自分の考えに没頭するような口調で言った。

《僕たちは魔道士から見たら特異な存在だ。この世界の人間にはみんな、魔力が備わっているんでしょう? アルディドさん》

《そうだよ。大なり小なり、魔力は血の流れのように駆け巡っている。そうだね、君たちにはそれがない。つまり、半ば死んでいるようなものだ。それでいて、魔力に代わる、強力な存在をその身体の中に秘めている。帝国が興味を持つのは必然だね》

《つまり僕たちは珍しい虫の標本か何かのように捕えられようとしているんだ。そしてモルモットのように何かの実験台にされる可能性が高い》

《冗談じゃないわ。身体をいじくられるのなんて、絶対に嫌》

 と朱音が噴飯ものだと言いたげに頬を膨らませた。

 そこへ、着替えたファリーダが戻ってきた。紫色のロングヘアを後頭部でくるっとまとめ、面長の顔と長い首が目立った。黒いドレスは簡素だったが、襟元とドレープスリーブの端からのぞく繊細な白いレースが、これまでのファリーダのイメージを一変させていた。

《あんたたちこそ自分の身を大切にするんだね。賢者に捕まったら、死ぬより酷い末路が待っているからね》

 と彼女は言うと、馴れた身のこなしで黒い馬車の御者台に飛び乗った。

《あ、お嬢様…!》

《手足をもがれたいのかい!》

 バージルに一喝したファリーダが今にも馬に手綱をくれて走り出そうとした時、玄人が間延びした物腰で動いていた。

《おーい、わしも乗せてってくれんかのう? ここで夜を明かすならもう少し食糧が必要じゃ》

 ぴくりとファリーダの背中がこわばったのを誰がみとめただろうか。彼女は手綱をいれるのやめ、前方を見据えたままぶっきらぼうに応えた。

《仕方ないね。お乗りよ》

 「よいしょ」と玄人がファリーダの隣に腰を下ろすかおろさないうちに、彼女はぴしり、と手綱を当てて馬車を走らせた。

 黒い馬車ががたごとと遠ざかっていくのを、レンがバゲットをくわえたまま、首をかしげて言った。

《変な二人組だなあ…》

 この様子をはるか上空から遠眼鏡で伺っていた存在がいたことを、誰も気付けなかった。

 

*****


 レッドブリックの街は、どこもかしこも金槌や木槌の音がし、こちらでふいごで火をおこす鍛冶屋がいると思えば、あちらでは口に何本も釘をくわえて材木に釘を打つ木工職人がいた。少し奥まった路地に入れば、今度は機織りのギー、パタン、という音が規則的に聞こえ、西日の差す道端に座って少女たちが細いかぎ針を器用に操って美しいレースを編んでいた。

 たっぷりのワインとハムやパンを仕入れた二人は、行きよりもゆっくりとした歩調で馬車を走らせ、皆が待つ農家の空き家まで戻り始めた。

 玄人は元来無口な性質である。冷淡だからというわけではなかったが、感情に左右されない神経の持ち主だったために、自然と言葉数が少なくなった。それに、他人の中の孤独にある場合、余計な言動は騒動のもとになることも、子供時代から学んでいた。加えて、彼には「玄武」となる素質を備えていた。感情に流されはしなかったが、豊かな感受性の流れをその深淵な心の中にある泉に持っていた。そのおかげで、じっと黙り込んでいても退屈することはなかった。目や耳や肌や味で感じるすべてが、彼を楽しませ、満足させるに十分だった。

 これは、今の状況にも当てはまった。

 隣で手綱を持つ女魔道士はろくに言葉を発しなかったが、玄人は退屈していなかった。馬車は小気味よく走っていたし、隣の女性からは何か話しかけたくてきっかけを探しているような、どこか少女じみた躊躇いの蕾に戸惑っているような感じを受けていた。

 そしてその蕾が我慢の限界になり、薄紅色の花びらをふわり、と開いた。

 ファリーダは半ば馬自身に道を進ませながら、気のないふうを装った口調で言った。

《…どうして私たちを助けたの》

 玄人は眠そうな目をわずかに開き、ファリーダのローマ彫刻のような横顔を見た。間近で見て、意外に若いのではないかと玄人は思った。彼は彼らしいのんびりした口調で応えた。

《言ったじゃろ、あんさんらが命を狙われたからじゃ》

《でも、私たちはお前たちを捕えようとしていたのよ。最終的な目的は知らないけれど、あんたたちが特別な存在で賢者たちの目に留まったのは確か。だから私は間接的に賢者のために動いていたことになる》

 玄人はファリーダの黒い瞳が素直に輝いているのを見つけ、ひとり、そっと微笑んだ。

《じゃが、結果的にあんさんらもその賢者に追われる身になってしもた。わしらは同じもんを相手にせなあかんようなってしもたなあ》

《別に、一緒に戦うなんて、言ってないよ》

 ファリーダの否定の言葉は、心の動揺を隠すには早すぎた。玄人はにっこりと笑いかけたが、最優先の内線が入り、表情を引き締めた。

『クロト、至急戻ってこい。襲撃されている』

 龍児からだった。

『なんじゃと。気の早い連中じゃな』

『台風みたいな野郎なんだよ。空き家がぶっ壊れちまった』

 大牙が何かから身を守るように言葉をとぎらせながら後を続ける。

『とにかく、早く戻ってきて。あたしたちはともかく、生身のレンたちを守り切れなくなるわ』

『わかった。急ごう』

 玄人は隣で雰囲気の変わった彼を見つめていたファリーダに手短に言った。

《空き家が賢者に襲われているそうじゃ。馬を走らせてくれんか》

 ファリーダは形の良い眉をきゅ、としかめ、言われた通り手綱をぴしりと当てて馬を走らせながら尋ねた。

《お前は念話でもできるのかい? 今、何か話していただろう?》

《そんなこともわかるんか、魔道士っつうもんは》

 薄暗くなった穀倉地帯の、青々とした小麦畑の間を疾駆しながら、玄人はあまり緊迫感のない様子で尋ねた。ファリーダはいつの間にか心のドアが半開きになっていたことに気がついたように御者台で姿勢を正すと、それでも言葉の中には彼女自身の思いをこめずにはいられなかったような口調で応えた。

《魔道士の精神は多方面に伸びたアンテナみたいなものよ。普通の人間には感じられない領域にも敏感になるの。お前からは今までに感じたことのない何かを感じる。今もそう。ぱちぱちとした電流のような流れが信号のように閃いていた。お前は不思議な奴ね》

《命そのものが不思議の塊じゃよ。そうじゃろ? なぜあんさんはここに今生きとるか、知っとるか? 自分とは何か考えたことがあるか? 今この目で見ているもんは、本当に現実のもんなのかと疑ったことは? 死んだら、次に目を開いた時、一体何を見ているか想像したことは? ほらの? 命とは摩訶不思議なものなんじゃ》

《死んだら、「夢幻世界(ヴェイド)」で精神体になり、魔力が強ければ「精霊界(エレメンタル)」で精霊として存在できると聞いているわ》

《そんなことになっとったら、そのヴェイドっつう場所はぎゅう詰めになるんと違うかの。魔道士も死んだらどうなるか、さすがにわかっとらんのじゃろな。わしらでさえわからんのやから…》

 ふっと玄人の太い眉の下の細い眼が感情に揺らめいた。ファリーダはそんな彼を見やり、飾らない言葉で聞いた。

《お前、身近な誰かを失くしてるのかい?》

 玄人はすぐに元に戻り、小さく息をついた。

《旅をしとれば色々と不幸な出来事にも出会うでの。ふむ、確かに台風のようじゃの》

 彼らの場所からでも、レンの住処だった場所が臨めた。見事に骨組みだけになっている。

《この馬車まで壊されるのは困るよって、こっから走るぞ。それとも、隠れとるか?》

 と玄人が尋ねると、ファリーダは憤然と言い返した。

《ローブを脱いだからと言って馬鹿にするんじゃないよ、このでかぶつ。あれは第五賢者のローランド・ユピテルだよ。風の魔法を得意とする残酷な坊やさ。私がただのゴーレム使いじゃないことを見せてやるよ》

 ひらり、と御者台から飛び降りたファリーダのあとに続き、玄人は手首のソケットにカードを挿入していた。

「霊獣降臨」


*****


《あの分身、速すぎて『霊獣チェンジャー』の簡易スキャナじゃ追いきれないわ!》

 朱雀がレンとアルディドとバージルを守るようにして立ちながら、時折疾風が刃のように斬りつけてくるのを、炎舞扇でいなし、訴えた。

《内蔵のヒートスキャンも追いつかない。ターゲットできないぜ》

 白虎が目まぐるしく動く鋭いつむじ風を目で追い、悔しそうに言った。

《ボス、ファンロンから生体反応をキャッチできませんか》

 青龍が縮こまっているワリードとウマルの前で刀を構え、手首の通信機に向かって話すと、キリルの声が残念そうに応えた。

「この高度からだとスキャンとそのデータ送信にタイムラグが生じてしまうし、その速度だ。どうしてもコンマ何秒かでこちらのデータをすり抜けてしまうだろう」

《あーっはっはっはっ! 手も足も出ないというのはこういうことを言うんだね! 楽しいなあ! 弱い者いじめは僕、大好きなんだ! もっと楽しくしてあげるよ! ほら! 痛いだろう?》

 スパッと空気が鋭く切り裂かれる音がし、それが肉をも裂いていたことに、朱雀は背後で片腕を握り締めて呻いたレンに気付き、愕然となった。慌てて抱き起したレンの腕からどくどくと鮮血が流れ出している。

《この…っ、卑怯者!》

 アルディドが動じない様子でレンの腕に頭に巻いていたスカーフをきつく巻き付けるのを見ながら、朱雀はつむじ風に向かって叫んだ。これに対し、相手は疾風の隠れ蓑の向こうから哄笑した。

《君たちは強いそうだからね、あの愚かな連中のような真っ向勝負なんかするはずないだろう? 強くても弱みは必ずあるものさ。ほら、そのなりそこないみたいな存在がね。ハッハッハッハッ、もっと血を流せ、僕の刃の餌食になってもらうよ!》

 姿が見えなければ追うことはできない。めくらめっぽうに攻撃をしても良かったが、今回は守るべき者たちが多すぎた。

 と、アルディドが朱雀をつつき、小声で言った。

《…あの賢者は過信しているみたいだね。ここにエルフがいることをすっかり失念している》

《どういうこと》

《姿は見えなくても、声は聞こえる。僕の耳はエルフの耳だよ。これだけ無駄口を叩いてくれたから、声の起点を捉えられる。何か喋らせるんだ》

《わかったわ》

 朱雀はすうっと息を吸うと、炎舞扇をいくつも回っているつむじ風の一つに投げつけた。当然のことながらそれは的を外れ、空を切って彼女の手元に戻ってきた。

《あっは、それで反撃してきたつもり? なんだか拍子抜けしちゃうなあ。まだほんの序の口なのに、君たちには手の打ちようがないみたいじゃないか》

《…本体はリュウジの右後方、凸凹コンビを背後から狙っている》

 アルディドの指示は即座に内線で伝わり、青龍がいきなり後ろを振り返り、優美に湾曲した刀をワリードとウマルの頭すれすれに薙ぎ払ったので、二人はへんてこな悲鳴を上げて腰を抜かした。

《手ごたえあり!》

 と叫んだ青龍の刀の刃先から、たらり、と赤いものがしたたり、その場に忽然と少年の姿をした魔道士が現れた。

《…クッ、エルフか! 忌々しい!》

 青龍の第二撃は空を切り、ローランドは白い髪をひらひらとさせて空中に瞬間移動していた。しかし、その脇腹あたりからはじわじわと血が滲み出ているのが伺えた。

《また空に逃げるのかよ! 結局てめえらはチキンなんだよ!》

 白虎が罵声を浴びせたその周囲に空気の刃がぐざぐさっと突き刺さる。白虎は「よっ、とっ、はっ」と身軽に回避したが、自分の攻撃の届かない相手に対する怒りはますます強まった。

《なんと言われようと、僕はなんとも思っちゃいないよ。勝てばいいんだし、その勝利がより僕を楽しませてくれればなおのことすばらしいことなんだ。だからまずはそこの目障りなエルフを血祭りにしよう。エルフの血肉が手に入ったとなれば、筆頭魔道士様もお喜びになるはずだからね。さあ、守り切れるかな、そこの赤いの!》

 くわっとローランドの赤い眼が見開かれ、小さな身体にごうごうと風の衣がまとわれた。そしてその一枚一枚が鋭い刃になって、朱雀たちの頭上に降り注がんとした。反射的に朱雀が生身の三人をかばうように必死に両手を広げる。

 その時、予想もしていなかった衝撃が地面に走った。ワリードとウマルが頭を抱えていたのをぴょこん、と上げ、一転、喜色に顔を染めた。

《ファリーダ様だ!》

《う、わっ》

 何ともすごい光景だった。ローランドが浮遊する足元から土と石くれで出来上がった巨大な腕が伸び、ごつごつとした指先が少年魔道士の細い足首をつまみ、びたん、と地面に叩き付けたのである。

《第五賢者のくせに、私の気配を感じ取れないなんてねえ、坊や? それこそ、賢者の名が泣くってもんじゃないのかい!》

 ファリーダの声が上がるにつれ、土くれでできた剛腕が掌をひらき、今にも地面に倒れているローランドを押しつぶそうと傾いた。

《帝国の面汚しが!》

 さすが賢者というだけあり、ローランドは身体の周りに再び風をまとうと、周囲の空気を歪ませるほどの圧力でもって衝撃波を放った。ファリーダの作り出した土の腕がぼろっと崩れ、粉々に消滅する。

 ローランドは再び空中に浮かぶと、土埃で汚れた顔を袖口で拭いながら、本性をむき出しにした表情で言った。

《ゆっくりいたぶって楽しもうとしたけれど、面倒になったよ。いっぺんで終わらせてあげる。もしかすると、損傷が激しくて、僕が筆頭魔道士様にお叱りを受けてしまうかもしれないけれど、それでもかまわない。だって、僕は君たちみたいな正義漢面した連中が大嫌いなんだ》

 ローランドの赤い両眼が一際禍々しく輝き、宵闇に不吉な二つ星のように浮かび上がる。

 ファリーダが近場にいた玄武の腕を掴み、口早に言った。

《これはいけないよ。逃げるにしても向こうの攻撃範囲の方が広すぎる。食らったら、八つ裂きになるまでもみくちゃになるよ!》

 玄武は「よいしょ」と大盾を構えると、大声で言った。

《みんな、わしの後ろに回るんじゃ! 大魔法がくるそうじゃ!》

 仲間たちは、生身の者たちをせかして玄武の盾の後ろに行かせた。

《こんな盾一枚で、賢者の大魔法を防げるんでやんすか?!》

 ぶるぶると震えるワリードの言葉を上書きするように、頭上からローランドの嘲弄が降ってきた。

《ただの魔道士が使う大魔法とは違うぞ。そのような物理防御で僕の魔法を防げるはずがない! さあ、ゆけ! 風よ、大気よ、その逆巻く渦を天高く突き上げよ! 激風烈渦(ボルテックスストーム)!》

 ぶわっと灰色の大気が彼らの周囲を取り巻き、息苦しくなるような圧力を感じた。

《一歩も出るんやないぞ、ええか》

 玄武の微動だにしない背中が言った。「ひえっ」とばかりにウマルが短い脚を縮こませる。

 灰色の突風は渦を巻き、ローランドのいる場所からは完全にレイジュウジャーたちの姿は見えなくなった。太い竜巻がごおっと天に上っている。

《ハーッハッハッハッ、風に揉まれ、切り刻まれ、大地に打ち付けられろ! 賢者こそ最強だ! 帝国万歳!》

 そろそろ潮時だろうとローランドは魔力の放射をやめた。軽傷ながら、脇腹の傷もじんじんと痛んでいる。

 すうっと灰色の空気が流れ去り、視界がくっきりとすると、ローランドは思わず瞬きをして眼下を見下ろした。

《な、なんだと…?! 僕のボルテックスストームが効かなかった…?!》

 玄武を先頭にして一塊になっていた一行は、なんのダメージもなく、そこに平然と佇んでいたのである。

《過信はいけないよ、君》

 アルディドの人を食ったような一言は、ローランドの心の均衡を崩した。冷静さを失った彼の脚に、ファリーダが放った傀儡の腕がにょろにょろと絡みつき、空中から引きずり下ろしていた。

 泥の縄のようにローランドを地面に拘束したファリーダは、玄武とその大盾を見やり、複雑な顔つきで言った。

《その盾、一体どんな加護がついてるんだい。賢者の大魔法を完全に防げる防御魔法なんて聞いたことがないけどね》

《皆の思いが一つになる、そのことじゃ》

 玄武はそう言ってお茶を濁すと、幾重もの「腕」にからめとられて地面に這いつくばっている少年賢者に近寄り、静かに尋ねた。

《あんさんらはなぜわしらにつきまとうんじゃ。そりゃ王国の企みを阻んだのはわしらじゃ。だけぇど、それ以上は何もしとらん。あんさんらの目的はなんじゃ? その答えによっちゃ、わしらにも考えがあるけえ》

 「腕」に抑え込まれている顔を玄武の方にねじ向けたローランドの赤い唇がニッと不吉に笑んだ。

《そこの帝国の屑共のように敵に尻尾を振るなんてことを賢者の僕がするとでも? 笑っちゃうね!》

《減らず口はやめたら? 明らかにあんたが不利よ》

 朱雀が呆れたように腰に手を当て、言った。ローランドは自信たっぷりな物腰を変えることなく、せせら笑い、

《どうやら賢者がどんなものなのか知らないようだね。賢者とは帝国そのもの。帝国こそ僕の存在意義。だからすべては帝国のためにある!》

 魔力をもたないレイジュウジャーたちにも空気がぐわっと気味悪く捻じ曲がるのを感じた。その集約点は、地面に抑え込まれているアルビノの少年だった。その小さなかわいらしい唇の端から、どす黒い血がこぼれているのが見えた。

《ちっ、やりやがった!》

 真っ先にファリーダがローランドの意図に気付いたのか、魔力をこめたのを、驚いた玄武が止めた。

《殺しちゃいけん、同じ人間同士…》

《馬鹿をお言いでないよ! 賢者なんかね、人間捨てなきゃなれないんだ! 周りを見なさいよ! それとも見えない? こいつの血に誘われて悪霊(フィーンド)たちが湧いて出て来ている!》

《そうか、黒魔法(ブラッドマジック)か! 自分の血を捧げて強力な魔物を召喚するつもりなんだな?》

 青龍が仲間の中でいち早く魔法世界の理屈を理解し、ぐるりと周囲を見回した。魔力を持たない彼には何も見えなかったが、『青龍』の魂がそれは悪だと告げていた。

 ファリーダは苛々とした様子で玄武の手を振り払い、舌を噛み切って血泡を吐いているローランドに向き直った。その眼差しには嫌悪の炎がめらめらと燃え上がっていた。

《いいかい、命はね、最大の魔力の源になるんだよ! 悪霊たちはいつも現実世界に出てきたがってうずうずしている。そこにこうして強力な「器」が差し出されたら、飛びつくわけさ! つまり、こいつはまもなく人間じゃなくなるのさ! どんな悪鬼(デーモン)が出てくるかはわからないけど、賢者クラスなら、相当の奴が召喚されるはずだよ! 精霊の魔力は人間の比じゃない。そんなものをこの世に呼び出されちゃ困るんだよ。だからこうするしかないのさ!》

 ファリーダの紫色の髪がほどけ、気迫の波動でざわっと波打った。ローランドを拘束していた無数の「腕」に力がこもる。

 めきめきと骨が砕ける音が響き、アルディドにしがみついて遠くから見ていたレンが思わずその耳を塞いだ。

《こわいのがいっぱいいるっスよ…! それに、もっとでかいのが、下から出てきそうっス…!》

《…血がまるで地面に吸い込まれるように消えていくなんて…ああ、お嬢様、どうぞご無事で…》

 バージルが祈るように呟く。

《その血が全て吸われて命が悪鬼の手に移る前に、賢者の命の炎を消さないとまずいね。しかし、ブラッドマジックとは恐れ入った。僕も大嫌いな魔法だ》

 とアルディドが眉目をしかめてむっつりと言った。

 ぐしゃっと一際大きな音がし、ほとんど土くれの山の中にうずもれてしまったようなローランドの名残りからぶしゃっと血しぶきや肉塊が飛んだ。

 すると、ふっとその場の空気が軽くなり、いつの間にか霞がかかっていたような空がさあっと澄み渡った。すでに空は暗く、満天の星々が輝いていた。

 それと同時に、ファリーダががっくりと地面に膝をつき、大きくため息をついた。目の前には傀儡として使った土くれの山が、少年の小さな身体が埋まっていることを示す盛り上がりを見せていた。

《君、相当の魔力の持ち主だね。精霊界(エレメンタル)の裂け(ヴェイル)が広がるのを一人で閉じるのはなかなかできることじゃない》

 アルディドがレンを小脇に引き連れ、彼女の背後から声をかけた。ファリーダは大儀そうに立ち上がると、乱れた髪を撫でつけながら、忌々しく応えた。

《人一倍こういうやり方が嫌いなだけよ。それに、一度裂け目を開いてしまったら、こちら側の壁が弱くなる。奴ら(悪霊)の強欲で残忍なことは、毎夜夢(ヴェイド)の中で知っているからね。来させるわけにはいかないんだよ》

《…つまり、これで、お終いってことかよ?》

 白虎が土饅頭のようにこんもりとしている場所を見て回りながら、やや肩透かしを食らったような様子で言った。ファリーダがこれに応えず、むっつりと馬車の方に行ってしまったので、青龍が言った。

《ということだろうね。でもなんとなく後味が悪い終わり方だ》

《何が来ようと俺たちがぶっとばしてやるのによ! こいつも馬鹿だぜ、死ぬ必要があるか?》

《それが賢者というものなんだよ、君》

 アルディドが淡々と言った。

《1000年前の戦いでも、ブラッドマジックは多用されていたらしい。そのせいでこちらとあちらの境界線があいまいになり、現在、モンスターがうろつくような世界を形作ったと言われている。彼女のしたことは一見冷酷に見えたかもしれないが、夢幻世界の深層に蠢く者どもを呼び出す裂け目を作ることは避けなければならない。でないと、再び暗黒の時代の足掛かりになってしまう》

 白虎は早々に変身を解き、面白くなさそうに言った。

《あーあ、なんかしっくりこねえ。魔道士ってやつは嫌いだね。俺はこう、力と力で勝負する方が性に合ってらあ》

 すると、バージルが控えめな態度で言葉を挟んだ。

《あのう…皆さまお疲れでしょうから、いかがでしょうか、馬車に簡単な旅装を積んできておりますので、御休息なさったら…》

 今の戦いで空き家はすっかり壊れてしまったし、いつまでもそこで少年賢者の墓となった土の山を見ていても心が沈むだけなので、彼らはこの提案に乗った。

 馬車の後部に細い柱を二本たて、帆布の布を屋根のように張って簡単な天幕を手際よく作ったバージルは、いそいそと馬車の中から食料などを取り出しては用意し始めた。

 玄人は、その場にファリーダがいないことに気付き、ゆったりと辺りを見回した。明るい月夜である。その女らしい後ろ姿は彼らがいるところからしばらくいった小道にはっきりと見えた。

《ちいっと呼んでくるけえ、先にやっといてくれ》

 と言い残し、彼はのったりのったりとその後ろ姿に近づいた。

 そして声をかけようとしてハッと息を飲んだ。彼女が身体を二つに折り、激しく嘔吐していたからである。

《どうしたんじゃ、大丈夫か》

 少しおさまったところで、玄人はファリーダのそばにより、そっと尋ねた。

 ぎくりとした肩越しに彼女は振り返り、すぐに意固地に背中を向けて屈みこんだ。何か辛辣な言葉を投げつけようとしたらしいが、またも吐き気に襲われたらしく、口元をおさえた。

 苦しげな呻きと共に、同情を禁じ得ない耳障りな音をたてて彼女はまたも吐き戻した。

 ひとしきりげえげえとやってから、汚れた口と流れ出た涙を拭いながら、彼女は背中を向けたまま不機嫌に言った。

《ほっといてくれないかしら。魔道士でもないお前に何がわかるって言うの》

《放っておけるかいな。そりゃ、わしは魔道士やないが、苦しいのはわかるよってな》

 ファリーダは、玄人がその場から立ち去ろうとしないので、諦めたか、自分の吐瀉物を忌々しく土で覆いながら言った。

《後悔なんてしてないよ。私は帝国の魔道士だけど、ブラッドマジックは嫌いなんだ。あんなもの、魔法の風上にも置けないものだと思っているんだ。だからローランドをやるのは当然だった。でもね…私には感じてしまうのさ…命の叫びが…命の最期のあがきが、掌に、肌に、心に、とりつくのさ。あいつは本当は死にたくなんかなかったんだ。命の叫びは嘘をつかない。ここ(頭)は嘘をつくけど、命は真っ正直だからね。そりゃ当り前さ。命は元は大きな一つの息吹の中から生まれ落ちたものだからねえ。後ろを振り返ったり、ましてや、足元に蠢く命ならざるものどもに身をゆだねるなんてことは絶対にありえないのさ。そして私は、その命を握りつぶした…正しいことをしたと思っているけれど、やっぱり、ものすごい反動がきたの…馬鹿な子……そして憐れな…》

 いつの間にかファリーダの隣に玄人がしゃがみこんでいた。

《…わしらがすべきことを、あんさんが肩代わりしてくれたんじゃな。それもそこまで心を傷つけてまでして…すまなんだな…わしら、魔法には疎いけえ、許してくれんか。次はもうあんさんに辛い目にはあわせんと約束する》

 ファリーダの黒い瞳が初めて玄人を正面から見つめた。何度か瞬きをしてから彼女は言った。

《お前って、なんでそんなふうに物事を言えるの? なんで私なんかにそんなふうに…》

《実際、あんさんの助けがなかったら、どでかい化けもんが出てきたんじゃろ? それを止めてくれたんじゃ。当然のことじゃろ》

《私は帝国の魔道士だったのよ。お前たちを殺していたかもしれないのよ》

《あんさんにはできんじゃろ。今だってげーげーやっとったやないか。あんさんはほんとは優しいんじゃ。そうやなかったら、憐れんだりせん》

《私は…!》

 ファリーダは否定しようとして言葉に詰まった。玄人の眠っているような顔が、がっしりとした肩が、急に存在感を増し、彼女の中で膨らんだ。それはそれまで渦巻いていた命が強迫的に消え去る時の抵抗の悪寒をおしやり、流し去って行くようだった。

 気が付くと、彼女は玄人の首に腕を巻き付けていた。玄人は驚いたが、彼らしく、それほど動じず、彼女のするがままになっていた。

 ほっと溜息をつくような気配がし、玄人の耳元でファリーダの気の強さの抜けた声が言った。

《……お前って不思議なやつだね……魔力の代わりに泉のように湧き出るものを感じるよ……》

 玄人は応えなかったが、ファリーダは気にすることもなく、さらに玄人を抱く手に力をこめるのだった。

 二人の影が明るい月明かりの中で一つになり、それはしばらく離れることはなかった。


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