『確かな手ごたえ、だがしかし』後編
龍児が待ち時間も無駄にせずに玄人のコムパッドに送ってきた内容を見、玄人は緊迫感のないエルフを向かい側にして、手にしていた食後のハーブティのカップを置いた。
《あんさんはシェイプシフターっつうもんを知っとるか?》
アルディドはこともなげに頷き返し、やや軽蔑気味に応えた。
《ああ、知っているとも。誰かの皮をかぶっていないと生きていられないかわいそうな連中さ。悪気はないんだろうけど、基本的に卑屈な連中だから、結果的に化けられた側はひどい仕打ちを受けることになるのが多いね。本人になりすまして多額の買い物をするとか、強盗をするとか、異性を襲ったりとか、そういうことさ。でも連中は皮をはげば、無力ののっぺらぼうな奴らだよ。それが一体どうしたんだい?》
《第二王子がそのシェイプシフターらしい》
《馬鹿な!》
さすがにアルディドは唖然と声を上げた。玄人は膝の上に隠して読んでいるコムパッドからの情報を見ながら続けた。
《それも、ちゃんとしたシェイプシフターでない可能性があるっつうんだが、どっちにしても、王子さんの皮、引っぺがさんとならん。どうやればうまくいくかのう?》
《そうだなあ……》
アルディドは紫色に染め抜かれた布の端から下がる飾りを細い手先でいじりながら、言った。
《……さっき話した『エルヴィアンの扉』ではないけれど、僕たちエルフ族には他にも人の力も魔法の力も超えるものを作ることのできる文明を持っていたんだ。その中に、真実を見破る鏡というものもあった気がする。僕にも魔力はあるけれど、何ていうか、原石状態とでも言えばいいのかな? 備わって入るけれど、使いこなせないし、弟は癒しの領域に特化しているから役に立たない。その鏡があればもしかすると、するっと化けの皮を剥がせたかもしれないね》
玄人は、アルディドの話の後半から、口を出したくて仕方がなくなっていた。自分たちの奇遇と幸運に心躍る気分だった。
彼は珍しくその細い眼を見開き、言った。
《その鏡じゃが、多分、わしらは持っとる》
《えっ?! 君たち、『エルヴィアンの扉』だけじゃないのかい?! 一体、真実の鏡はどこで手に入れたんだ?!》
玄人は短く刈り込まれた髪をぼりぼりとやりながら、
《まあ、偶然というかなんつうか…モーヴの海を荒らしていた魔物を倒したのが縁になってのう。このカーマインの沖合に住むマーフォーク族から譲ってもろたんじゃ》
アルディドがその端正な顔を感嘆に明るくさせ、
《エルフの遺物の一つがそんなに近くにあったなんて、灯台下暗しとはこのことだ。にしても、マーフォーク族とそんな懇意にできるなんて、君たちは普通の冒険者ではないねえ。でも、最初に君と出会った時、感じたんだよね。普通の冒険者にはない雰囲気があると。魔力がないのに、ドワーフのような無味乾燥な精神を持っているわけでもなく、むしろ、魔力に代わる何かが君たちを包んでいるような、そんな感じを受けるんだ。そうだな、むしろ魔力よりももっと元素的な……君なら「水」のイメージ抱かせるね。昨日会った二人、黒髪の彼は「樹木」、赤毛の女の子は「炎」を感じたよ。精霊でも住まわせてるのかい?》
玄人は無表情の四角い顔を困ったように傾げ、
《説明が難しいんじゃがのう…》
するとアルディドは優雅な手をひらひらとさせて首を振り、
《いや、別に君たちの素性をどうこう言ってるわけじゃないよ。僕もこうしてエルフであることを隠して人の中にいるわけだし、異種族がどういう立場に立たされやすいかはよくわかっているからね。ただ、今までに僕が感じたことのない雰囲気だったから、気になっただけさ》
玄人はホッとしたように小さくため息をついた。そんな彼を見、アルディドは別の疑問を持ち出した。
《ところでその鏡だけど、いつ使うかが肝じゃないかなあ。今持ってるのかい?》
玄人は首を振った。
《別の人に預けとる。じゃが、持ってくることはすぐできる》
《あ、だけど、明日はパレードか…その時に第二王子が不在だったら、国民から不審がられるな……》
とアルディドが考え深げに言っていた時、玄人は早速に内線で龍児に通信を入れていた。しかし、先方は回路を閉じており、彼はすぐに諦めて意識をエルフに戻し、言った。
《魔道士の正体と思惑を探ることにもなっとるけえ、しばらくこちら側は明日のパレードの経路の再確認でもしとくのがええんじゃないやろか》
アルディドは素直に頷き、両手をテーブルについて立ち上がった。
《親父さんならとっくに経路を調べ出しているだろうから、これからギルドに行って明日のことを詰めることにするか》
《あんさんも協力してくれるんか》
アルディドは、玄人と並ぶと余計にか細く見えたが、自信の方は玄人以上に揺らぎないものを持っているようだった。
《屋根を飛んだり跳ねたりしていくことはできないけれど、僕には魔力を嗅ぎ取る感覚とこのエルフの耳があるからね。役に立てると思うんだよ。それに、この居心地の良い人間の国を、黒く染まった魔法で汚されるのは、僕の本意じゃないしね》
そして先に立ってギルドに通じるトンネルのある回廊へと向かい始めた。そのあとを玄人が続く。
《エルフの国は人間によって滅ぼされたんやろ? それなのに、人間を憎んでおらんのか》
手燭を片手にトンネルを進みだしたアルディドは、暗い前方を見据えながら、声の中に僅かに軽侮をこめて応えた。
《何百年も生きるエルフだからね。根に持っている連中もいるよ。でも、僕からしたら愚の骨頂。もう1000年も前の話なんだ。人間たちがどれだけ世代を重ねてきたと思うんだい。記録は残っているかもしれないけれど、記憶の方は薄らいでいるさ。それに、今生きてる者たちに、かつての戦争の責任があると思うかい? むしろそんなことは水に流して、命ある者同士、その運命に従って心豊かに命をまっとうすることの方が、自然の理に沿っていると思うんだよね》
《…どこの世界でも戦争っつうもんは命を奪うだけじゃなく、心も荒ませるもんなんじゃな》
《その通り。僕は平平凡凡に今は暮らしたいだけ。それを邪魔するやつがいるようだから、面倒くさがりのこの僕が腰を上げたのさ》
と、出口の羽根戸を押し開き、アルディドは付け加えた。
《ぜひとも君たちの戦い振りを見てみたいねえ。「一風変わって」るんだろ? そうだ。都市連邦の捜索から本気で逃げ出したいと思ったら、僕の弟を頼るといいよ。弟なら君たちをエルフの里にかくまってくれるよう、里の頑固者たちを説き伏せることができるだろうから》
玄人の脳裏に、あの親身になってくれた衛士隊長の顔が思い出される。そして言った。
《できれば逃げ出すようなことはしたくないがのう……悪い人たちじゃなかったけえ…》
《僕も、人間は基本的に善人だと思っているけれど、その分、暗い面が際立つように思えるんだよね。白い布に染みついた汚点は目立つだろう?》
玄人はこのエルフの客観的な意見に賛同せざるを得なかった。なぜなら彼は多くの戦いで善と悪の問題に直面していたからだ。
《まっ、君たちの判断に任せるよ。そういう手段があればいいんじゃないかと思っただけさ。さて、と。親父さんのしかめ面でも拝みに行くとするか》
エルフというものは常に飄々とし、どこか感情の抜け落ちたところがあると、玄人は気づきはじめながら、ギルドの中に再び戻ったのである。
*****
「ちょっと、これ、前が見えないわよ!」
朱音が小声で不平を垂れた。
「しぃっ! ばか、黙って歩けよ」
「でも、これ、今にも崩れちゃいそうで…おっとっと」
奇妙な侍女が二人、国王の居室のある大階段を上がっている。いや、一人は足元がおぼつかない。というのも、オクタヴィアがカモフラージュのために用意してくれたリネンの山を、まさに山と両手に抱えていたからである。
「ちゃんとスキャナ、持ってきたんだろうな」
龍児がどんな時でも姿でも落ち着いた口調で確認してきた。朱音は傾いたリネンの束を顎で押さえ込むようにして歩きながら、プライドを傷つけられたように言い返した。
「失礼ね。ちゃんとこのシーツの山の中に滑り込ませてあるわよ」
当然「よくやった」などという褒め言葉はなく、龍児はまるで生まれながらの侍女であったかのような身のこなしですたすたと階段を上がっていく。
朱音はなんとなく癪に障ったのだが、こういう完璧主義的な半面、時折見せる心遣いの素振りが、彼女の心を真逆のベクトルに跳ね上げさせるのだった。
いつしか彼の黒髪が長く垂れている背中を眺めていた朱音は、我に返って急ぎ足で階段を上がった。リネンを崩さないよう、顎と手で押さえ込んでいるので、きっととてもおかしな顔になっていたのだろう、龍児が上がりきったところで待ちながら、呆れ顔で言った。
「そんな形相の侍女なんて、いないぞ」
朱音は文字通り顎を突き出して言った。
「いーっだ。ほっといてよ。あたしは侍女なんて柄じゃないもの。あんたよりずっとこのドレス、嫌なんだから」
と、ぷいっと顔を背けた朱音は、右手の通路に曲がりながら独り言のようにぶつくさと言った。
「クロトが女装できないのがいけないのよ。あーあ、あたし、あの〈銀狐〉さん、嫌いじゃないわ。それと、もう一人のものすごい美男子の人。ねえ、あの人、なんかちょっと変な感じじゃなかった?」
「黙って。甲冑の音がする」
龍児の低い声が、朱音の中のモードを変える。彼女は変な顔をして乗せていた顎をシーツの山からはずし、その陰に顔を隠すようにしてしずしずと歩き始めた。少し後ろから同様に龍児がついてきている。
前方を伺いみると、回廊の曲がり角からちょうど二人の衛兵が巡回してくるのが見えた。
あちらがたいして彼らに注意を向けていないのは、衛兵たちの物腰に集中力を感じなかったので察することができた。
『敵はうまいことやってきたみたいだね。衛兵もおざなりの巡回しかしていない。ここは全くおとぎ話の中の城みたいだ』
内線から、龍児が残念そうに言った。
朱音は横目で、雑談をしながら通り過ぎていく衛兵たちを見送りながら応えた。
『白雪姫の継母はいないけど、悪い魔法使いが王様の心を奪って国中をめちゃくちゃにしちゃうようなおとぎ話?』
『ああ、まさにそんな感じだ。よし、ここが魔道士の部屋だな。あの衛兵が階段を降りたら、鍵を開けよう』
龍児は遠ざかる足音で距離を測るかのように後ろを振り返りもせず、少しの間じっとしていたが、不意にスイッチが入ったようにリネンの間に差し込んでいた合鍵を取り出すと、何気ない仕草で鍵を開けた。
「よし。いいか、30分だぞ。そのあとのオーバータイムは僕が外を見張っているから、向こうに動きが出たら即退避だ」
「ラジャ」
二人は部屋に滑り込むと、リネンの山を床に置き、ぐるりと室内を見回した。
広くはない。だが物がごたごたと置かれている。半年前にやってきた時に持ち込んだものなのか、こちらでそろえたものなのか、いずれにしても薬草や薬瓶、煎じ薬を作るための薬研や秤、そういったもので溢れていた。
朱音がこの乱雑な室内を見、やや自信をなくしたように言った。
「がらくたにしか見えないわよ……一体ここから何を探し出せばいいの」
「僕に聞くなよ。僕にだって五里霧中なんだから。ただ、手掛かりになりそうなのは、この場にあってはおかしいものだ。この平和な国にそぐわないものと言ったら、なんだ?」
「そうね…やっぱり毒とか?」
「それもあるし、あとは、武器になりそうなもの。とにかく、僕たちの勘を最大限に働かせよう」
と龍児は言い、スキャナを片手に室内を検分し始めた。
朱音もそれにならい、スキャナを稼働させ、龍児とは反対側を探り出す。
まず気になったのは、紗のような黒布で覆われたラックだった。スキャナで調べると、植物が並んでいることを示している。特に危険な数値は示していなかったので、朱音はそっと布をめくり上げた。
「うわ、なにこれ」
思わず声が出る。
龍児が振り返り、嫌悪感を露わにしている朱音の方に近寄ると、彼は珍しく表情を強く歪ませて言った。
「それ、全部毒キノコなんじゃないのか? たとえ食用になるといっても、キノコだけはお断りだ」
彼はキノコが苦手なのだ。
しかし、そういう理由からでなくても、そこに並んでいる鉢にみっしりと生え出ているキノコは、グロテスクで不吉な色合いをしているものばかりで、朱音は十分だと言いたげに布を元に戻した。
「この簡易スキャナじゃ毒かどうかまでわかんないわ。いちいちボスに分析してもらうためにサンプルを送ってる時間はないし…にしても、まさに悪い魔法使いって感じ。これの他にムカデだのなんとかの唾液だのがあったら、完全にあんたの妄想世界じゃない」
「妄想と言うな。実際、こうして目の前にあるんだし。無駄口はやめて、もっと核心をつくようなものを探そう」
「わかってるわよ。あんたこそ、しっかりね」
しかし、その後しばらく、二人はたいした成果を得ることなく、魔道士の部屋の中をぐるぐると調べ回ることになった。
「用心深いわね、さすがに」
朱音が溜息と共に嘆くと、龍児がスキャナの画面に表示させていたタイマーを見、言った。
「そろそろ定刻の30分だ。あとはお前が探せ。僕はベランダから奥庭の様子を見張っている」
「あーあ、ロスタイム突入か~。何か見つけられればいいんだけど」
「絶対見つけるんだ」
「はいはい」
龍児が奥庭に面したフランス窓からベランダへと出て行ったので、朱音はため息をつき、もう一度室内を見回した。
スキャナに異常値はない。薬瓶や薬草はたくさんあるが、それが毒なのか薬なのかは判然としない。ひょっとするとそのどちらにもなるのかもしれない。
書き物机の引き出しにも怪しい文書の類はなかった。ただ少々気になったのは、空の鳥かごがあることだった。餌箱には水と、何かよくわからないが、干からびた蛆のようなものがこびりついている。鳥かごの中に何がいたのか。ハトなら雑穀が入っているべきである。では肉食の何かがいたということになる。それもおそらく愛玩のためにかごに入れていたわけではないだろう。
(ということは、本国に連絡を入れるための?)
朱音はまだその重大性に気付いていなかったが、彼らの存在が帝国側に知れる発端になったことは言うまでもない。
朱音は女にしては凛々しい眉をしかめてもう一度室内を歩き回った。そしてバスルームにも向かう。
空のバスタブにタイル張りの壁面。壁には鏡があり、その脇にはラックがあって、そこにもびっしりと薬瓶が並んでいる。
「薬、薬、薬! 全く魔法使いってやつは不健康ね!」
一人呟きながら、スキャナをかざして回っていた朱音は、庭に面した狭い壁面に違和感をもった。
彼女はいつものくせでスキャナを腰のあたりに吊り下げるような仕草をしたが、自分が今はドレス姿なのを思い出し、えいっとばかりにそれを胸元から滑り落とした。ごつごつとした感触が不快だったが、彼女はその明るい茶色の眼をしっかりと見開いて、その問題の壁面を凝視していた。そして、「ここだ」と思ったタイル板に指をかけると、力をこめて引っ張り出そうとした。
最初は抵抗感があったが、途中からまるで諦めたようにタイルが張り付けられた四角い石材が前に動き、あっけなく外れた。
「ビンゴ! ねえ! リュウ! ちょっと来て!」
と朱音は龍児を呼びながら、次々とタイル張りの石材を取り除き始め、みるみる壁面に黒々とした空間が現れた。
龍児は、朱音の真摯な声に気付いてすぐに見張りから離れてやってきた。そして壁にあいた穴を見ると、足早に近づき、その中にある革袋を示して言った。
「隠してあるということは、確実に怪しいな」
「開けるわよ」
朱音が躊躇いなくその袋の口を開くと、中から出てきたのは、細長い筒や金属の部品、それから弾丸のような形をしていたが、魔晶石のようなものがいくつかであった。
「これは……なんとなく、ライフルか何かになりそうな形をしていないか?」
龍児が首をかしげて考え深く言った。朱音は肩をすくめ、その弾丸のようなものを手に取り、その中に炎のゆらめきを見つけながら応えた。
「あたしにはよくわかんないけど、これ、どうする? 持って行っちゃう?」
「これがなくなれば、相手方に大きな支障がでることは確実……む! 気配がする! あの王子、あまり引き延ばせなかったか!」
「え? 戻ってきちゃった?」
「たぶん。城の中に戻るのは無理だ。それにこの姿じゃ、そのかさばるものを持って行くことはできない」
龍児はバスルームの小さすぎる窓には見切りをつけ、すでに居室の方に移動していた。しかし朱音はどうにかしてせっかくの大発見を確保しようとぐずぐずしていた。
まずは弾丸らしきものを胸元にしまいこむ。自分の胸が小さいことをこの時は感謝したくなった。そして一番小振りな、その器械の内蔵部品のような黄銅色をした金属をどうにか押し込もうとした時だった。
扉が前触れもなく開くのと同時に意外にも野太い声が聞こえてきたのである。
《誰だ、私の部屋に入ったのは?!》
魔道士ユースフは、吃とした眼差しで室内を見回し、ベランダの窓が開き、カーテンが揺れていることに気付いた。
すでに、彼は奥庭を散歩する国王につき従っていた時に異常を感じていたのである。だが珍しく今日に限って第一王子が国王の腕を自らとって王のおぼつかない足取りを助けていたりしたので、即座に飛んで帰ることができずにいた。
なぜ侵入者があることを知ることとなったのか。それは、彼が半年前にここにやって来てすぐに細工をしたバスルームの壁の隠し穴が万一露見した際に発動するよう感知魔法を仕掛けておいたからである。それが今、魔道士の魔力の襞を震わせ、警鐘を鳴らしていた。
室内に入ると、人の鼓動が二種類、感じ取れる。もう一人はまだ室内だ。逃げ出されては事である。ユースフは国王の前での腰の低い物腰とは打って変わっての、帝国人らしい傲岸な足取りで窓の方に向かった。
一方の龍児は魔道士が入ってきた瞬間に、ベランダから城の壁面に取り付いていた。そして内線で朱音をせっついた。
『奴がこちらに注意を向けている間に城の方へ脱出しろ!』
『でも、この部品が入らないのよ!』
『証拠も大事だけど、疑惑を持たれることの方が危険だよ! 早くしろ!』
『ああっ、もう! 長すぎてだめ! ドレスのウエストの紐にひっかかっちゃう!』
朱音は部品を放り出すと、足音を忍ばせてバスルームから居室の方を伺った。
魔道士の後ろ姿がカーテンのひらめく中に見えている。
『あたしだけ城に戻って、一体あんたはどうすんのよ?!』
『盗賊ギルドにでも潜り込むよ。僕の心配はしないで、早くここから出ろ!』
朱音は龍児の叱咤に反応するかのようにするり、とバスルームから飛び出し、まるで飛ぶような足取りで扉のノブを回そうとした。
が、その背中に電撃のような衝撃を受け、朱音は扉に押し付けられるように身体の軸を失った。
《女! 逃さぬぞ!》
脳みそが痺れるというのはこういうことを言うのかもしれない、と朱音は緊張感なく考えながら、自分でもまどろっこしいくらいの鈍さで背後を振り返った。
いつの間にか眼前に口髭と顎髭をたくわえた魔道士が立ち、その黒々とした両眼が悪意と怒りで爛々と底光りしているのを、朱音は間近で見た。
《そこに何を隠している? 盗人め、よくもこのような小賢しい真似を》
と、魔道士の繊細ながら、どこか薄汚れた手がぬっと朱音の胸元へ伸びた。朱音は反射的に叫び声を上げ、胸を隠すようにして後ずさったが、すぐに扉に突き当たってしまった。
「リュウ!」
何故か彼を呼んでいた。一人で何でもできたはずだったが、その時は何故か心がすくんでしまっていた。
龍児は、朱音らしくもない切羽詰まった声を聞き、すぐさまベランダに飛び戻ると、機敏で戦闘的なはずの朱音が真っ白な顔色をして硬直しているのを見つけ、何も考えずに走り出していた。
魔道士が龍児の気配を感じ、くるりと振り返る。そして気魄のこめられた両手を彼に向けて突き出した。
ぶわっと周囲の空気が揺れ、圧力のこもった何かが龍児めがけて飛んでいくのを、朱音は自分を抱き締めながら見た。
彼もそれを目撃していたので、避けることは簡単だった。が、馴れないロングスカートとつま先の尖った靴のせいで、裾を踏んづけてしまった。
衝撃波が完全に避けきれなかった龍児の右肩をかすめる。びりっとした痺れと痛みが腕に走る。彼は小さく舌打ちをすると、邪魔になるドレスの裾を思い切り引き裂き、踵のある靴を脱ぎ捨てた。
これを見、魔道士がやや瞠目した。
《女装までして忍び込むとはな。だがここを見られた以上、生きて返すわけにはゆかぬ》
《それはどうかな》
次の行動は、龍児にしては突飛な物だった。脱いだ靴を左手で拾い上げると、鋭いサイドスローで魔道士に投げつけたのである。尖った踵の部分が魔道士の鼻柱の辺りにちょうどぶつかり、思惑通り、魔道士は怯んだ。
そこへ龍児は痺れてうまく動かない右肩で当身をすると、利き手ではない左手で魔道士の首筋に手刀を叩きこんだ。
ぐったりと気絶した魔道士の身体が床に倒れるのを確認もせずに、龍児は指先が白くなるほど力んで自分を抱き締め続けている朱音の肩を揺すって言った。
「おい、アカネ、もう大丈夫だ。逃げよう。こいつが目を覚ましたら、城は大騒ぎになるだろう。もしかするとオクタヴィアさんにも迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、今はギルドの隠密性に頼らなくてはならない」
ぱちぱちと何度か瞬きをした朱音は、いつの間にか息も詰めていたらしく、大きく息をつくと、足元に倒れる魔道士を嫌な物でも見るかのように睨みつけてから、いきなりしゅんとなって言った。
「ごめん、リュウ…あたし、失敗しちゃった」
「こうなってしまった以上、別の方向にシフトしないとだめさ。とにかく今はここから脱出することだ。来い、アカネ」
こうして二人はベランダから飛び降り、脱兎のごとく秘密のトンネルから盗賊ギルドに向かって逃げ出したのである。




