『潜入、そして潜伏』後編
一方、城内に無事潜入できた朱音と龍児だったが、その安堵もつかの間、彼らは何やら言い争っていた王子たちの目に留まり、こちらに足早に彼らがやってくるのを見止めると、嫌な予感で一杯になった。
まず声をかけてきたのはセドリックの方だった。
《オクタヴィア、今までどこに行っていたんだ?》
これまで、この金髪の王子から自分の行動を問いただされたことのなかったオクタヴィアは、怪訝に黒っぽい眉を寄せ、言葉少なに応えた。
《姫様のためにあるものをご用意するためにございます、殿下》
もちろんでまかせである。しかし、黙っていては余計に詮索させることになると、彼女はローグらしい駆け引きに出たわけだ。それに、そばにはマクシミリアンもいた。きっと彼が助け舟を出してくれるはずだと、彼女は確信していた。
これは的を射、マクシミリアンが弟を諌めるような口調を混ぜて言った。
《いやなに、気分を害さないでくれよ、オクタヴィア。セディは気が立っているのだよ。マリーが襲われて、衛兵が消え、今度は街で火事が起きた。死人は出ていないようだが、建物が立て込んでいる区域であるし、今夜のこの風だ。飛び火しないことを祈るばかりだよ》
セドリックは兄の物言いに危機感の欠如を感じたかのように、尖った声で言い返した。
《だがその火事は放火だったと聞く。駆け付けた衛兵が逃げ去る人影を数名目撃しているのだ。その者の中に、風変わりな身なりをした者がいたらしいとも聞いている。つまり、今牢につながれている者の仲間ではないかと考えられはしないか?》
マクシミリアンは弟の一方的な意見に嘆息をこぼした。
《もし仲間がいたとして、なぜ放火などする必要がある? あの辺りは商店と民家しかない区域だ》
これを聞き、朱音が内線で呟いた。
『…毒を買った証拠を消すためだなんて、言いっこないわよね』
『第二王子の動揺の原因の一つは、きっとオクタヴィアさんが生きて戻ってきたことに違いない』
と龍児がフードの影から対照的な王子たちを伺いながら、応える。
『ねえ、金髪の方が偽物かどうかって、調べられないの?』
『無理だよ。僕らの荷物を出すにはこの布の包みを解かなくちゃならない。さすがにそんなことをしたら、それこそ僕たちも牢獄行きだよ。第二王子はタイガに仲間がいると疑っているんだから』
龍児は手に恭しげに抱えている布の包みを示しながら言った。その中には彼らのバックパックが隠されているのである。
二人は、セドリックのやや感情的になった言葉で自分たちの会話から立ち返った。
《兄さんは妙なところで手ぬるいんだ。今夜の放火は脅しだよ。仲間を解放しなければ、どんな卑劣なことでもするつもりなんだよ》
《まあ、落ち着け、セディ。放火犯が確かに今牢獄にいる者の仲間かどうかも確定したわけでもないのに、決めつけるのは危険だ。それに、今は3日後にせまるパレードのこともある。これは街の人々も大いに期待している一大行事だ。それを行う我々が浮足立っていては、成功するものもうまくいかなくなるだろう。夜が明けたら、お前は火事になった一帯を視察して、パレードに支障がないか調べてきてくれ。もし経路にかかっていたり、見物人の邪魔になるような瓦礫があるようなら、別の経路を設定し直さねばならん。さあ、今夜はもう遅い。色々あって気掛かりなのはわかるが、ただでさえ国民は今の王室の状況を不安に感じているのだ。それを払しょくするためにもパレードは成功させねばならんし、我々は心を平安に保っていなければならん。いいな、セドリック》
《…わかっているよ、兄さん》
セドリックは、オクタヴィアの背後でひっそりと頭をたれてかしこまっている侍女二人にちらりと視線を向けたが、特に何の言及もなく、自室へと上がる階段を上がっていった。
マクシミリアンは弟の姿が階上に消えると、低い声でオクタヴィアに尋ねた。
《…その者らは? 侍女にしては気配を殺すのがうますぎるが?》
伊達に剣の鍛錬をしているわけではない、と朱音と龍児は別のところで感心していた。
オクタヴィアは敬意を払うように腕を胸にあて、目を伏せて頭を下げながら応えた。
《私の独断でこの者らの協力を仰ぐことにいたしました、殿下。詳しい話はここではいたしかねます》
マクシミリアンは一つ頷くと、セドリックとは別翼にある自室へと彼らを誘った。
『へえ、これが王子様の部屋なの? 意外に質素ね』
と言うのが、王子の部屋に通された時の朱音の第一声である。
『豪華な毛皮とか金ぴかの置物とかたくさんあるのかと思ってたわ』
彼女の言う通り、マクシミリアンの部屋はたいした装飾もなく、どことなくがらんとしていた。目につくものと言えば、壁にかかった国王らしき人物と少年の描かれた絵画と、何本かの剣がフックにかけられていることだろうか。足元にもふかふかの絨毯や毛皮の敷物は少なく、代々の王子が使ってきたらしい年代物の天蓋付きベッドのカバーも複雑な織物ではなく、彼の性格を表しているような若草色の単色のタフタだった。
『それはおとぎ話の読みすぎというものだよ。この部屋はどちらかというと中世の山城の居室みたいな雰囲気だね』
龍児もなんだかんだ言って「王子」というものに対する好奇心に勝てなかったらしい。
《それで、説明はしてくれるのかな? お前がこっそり出かけたわけと、この者らのことと》
マクシミリアンのよく通る声が、二人の意識を現実に戻した。
オクタヴィアは一つ息をついてから、報告を始めた。
《はい。私はこの2日ばかり、王城内で使われているネズミ捕りの残量と誰がそれを用いたかを探ってまいりました。しかし、どこの部署でもその残量に大きな変化はなく、用いた者の履歴も明白な物でした。ということは、王城内のネズミ捕りを使用したのではなく、完全に裏のルートから入手した可能性があると考え、私の古い馴染みでもある薬草師のもとへ参りました。ですが、そこで詳しい情報を得る前に、私は襲撃を受けました》
《なんと?!》
マクシミリアンが心から驚きの声をあげた。対して、オクタヴィアは淡々と続けた。
《その襲撃を無傷で逃れ得たのは、この同行した者たちの仲間の一人が助勢してくれたからでした。敵はよく訓練されたアサシンらしく、任務遂行に対する徹底さを感じました。そこへ、折しも、先ほどお話ししていた放火事件に遭遇したこの者たち二人と…》
とここで彼女はやや言葉に詰まったが、マクシミリアンの青い眼差しを信じ、続けた。
《私の師である盗賊ギルド長が駆けつけたのでした。殿下、長らく王室にお仕えしてまいりましたが、私はかつては盗賊ギルドに属していた下賤な女でございます。国王殿下の御厚誼のおかげで御妹君のお世話をさせていただいてまいりましたのに、私自身の素性を隠してまいりましたこと、誠に心苦しく、申し訳なく感じております。もし御不快でございましたら、今回の事件が解決しました折に、どうぞ私を殿下のお好きなようにご処断なさっていただいて結構でございます》
マクシミリアンはこの告白に、あっさりと応えた。
《お前がローグで、裏の社会ともつながりがあることは薄々勘づいていたよ。だがそのことが一体なんの支障になるというのだ? マリーはお前を頼り切っているし、私も同様だ。むしろ、このような事態になって、お前のそのつながりが、どれだけ心強いかわからん。いいか、馬鹿なことを考えてここを去るなどと言うなよ、オクタヴィア。今ではお前は家族のようなものなのだからな。マリーのことを考えてくれ。妹にはお前しかおらんのだよ》
オクタヴィアは、この王子の言葉に感涙するような女ではなかった。すぐに頭を切り替え、しゃっきりと背筋を伸ばて言った。
《承知いたしました。私、ワラキアのオクタヴィア、生涯モンテクレール王室とマリー王女殿下をお守りすると誓います》
《おいおい、そこまで改まることはないだろう、オクタヴィア。だからお前のことをマリーは石頭だというのだろうよ。お前はローグというよりむしろ、騎士の忠誠心を持っているらしい。さて、いつになったらこの美しい侍女たちを紹介してくれるのかな》
マクシミリアンの眼差しが二人に向けられる。そしてその視線が疑念に揺らぎ、それが呆気にとられて見開かれた。
《なんだ、一人は男か!》
オクタヴィアは平然と頷いた。
《王城に潜入するのなら、女に身をやつした方が紛れやすいと考えてのことです。お前たち、火事に出会った時のことを殿下に報告せよ》
朱音が見えないところで龍児の背中を小突く。彼は別段迷惑にも感じず、最近は常となっている説明係を買って出た。
《はい、申し上げます。すでにお察しかとは思いますが、今牢につながれているタイガと僕たちは仲間です。そして僕たちは彼が無実であることを一番よくわかっています。ですから、彼があそこから解き放たれるために独自で探索していました。そこで、あの火事に出会ったのです。僕たちは毒を入手できる店を当たっていました。あとになってわかったことですが、火事に会った薬草店が王室御用達であり、どうやら王室の認印の入った買い入れ書類を持った何者かがやってきたことまでは店主から聞き出したのでした。その時、火炎瓶のようなものが放り込まれ、あっという間に火が広がってしまったのです。僕たちは店の中にいた者を助けるのに手がいっぱいで、放火犯を追跡することはできませんでした。そこへ、盗賊ギルドの長も駆けつけてくれたのでした。衛兵が迫っているのも予想できたので、僕たちは救命もそこそこに、その場から立ち去るしかありませんでした。なにせ、僕たちの身なりは、あなたもご存知のように、少々異質ですから、無駄に衛兵たちの目をひきたくなかったのです》
すんなりとしたドレス姿から低い龍児の声が滔々と流れ出るのは少々違和感があったが、マクシミリアンはそのような外見的な物事にこだわるたちではなかった。彼は核心をつくように尋ねた。
《王室の認印入りの買い入れ書を持ち込んだのなら、こちらの帳簿に記載されていなければおかしい。一体誰が持ち込んだのか知りたいところだ》
《そのことは明日、使用人たちが起き出したら早急に調べるつもりでございます》
とオクタヴィアがすかさず言った。すると、龍児が懸念に表情を曇らせて首を振った。
《何か嫌な予感がします。オクタヴィアさんの襲撃が失敗したこともありますし、あなたにはおつらいことかもしれませんが、第二王子殿下の挙動には不審な点があります。今の放火の情報も知るのが速すぎる気がします。衛兵が消えた例もあります。これ以上無関係の者が傷つくのを避けるためにも、早急にその者の特定をした方がいいと思うのですが》
マクシミリアンが感心したような表情になる。オクタヴィアも侍女の顔ではなく、隙の無いローグの眼差しで龍児を見、素直に頷いた。
《確かにお前の言う通りかもしれぬ。殿下、私は失礼して、各部門の長に話を聞いてまいります。この者たちはすべてを知っておりますゆえ、何かご不明なことがありましたら、ご存分にお聞き出しになってよろしいかと》
《わかった。私も早くこのような陰惨な企みごとを明るみにしたい。行って来い、オクタヴィア》
オクタヴィアは軽く一礼すると、灰色の風のように部屋から出て行った。
夜の闇は王子の部屋の中にもしみこんでおり、三人は微かな蝋燭の灯りの中に残されたが、沈黙は長くは続かなかった。マクシミリアンという男は内向的な思考にいつまでも浸れる人物ではなかった。
《すべてを知っているということだが、つまりそれは国王の病状のことやセドリックに対する疑念についても知っているということなのか》
と尋ねてきた王子に、龍児は素直に頷くしかなかった。
《はい。国王の御病気については、南西の森に住む薬師の手を借りるべきでしょう。先日、向かわれていたとか。第二王子に関しては、正直なところ、僕たちが見ても真偽を確かめることができるかどうかわかりません。それと、魔道帝国から来たという魔道士についてですが、この人物はかなり疑わしい立場にあると思われます。しかし、証拠が何一つないのが問題です。捕らえるのは簡単でしょうが、証拠がなければ事実を究明することはできません。むしろ帝国との関係を悪くさせる原因になるでしょう。ですが、その魔道士が何かを握っていることはかなり確実だと思われるので、なんとかして今回の一連の事件の真相を確信させる何かを掴みたいと思っています》
マクシミリアンはこの龍児の発言に感心したように腕組みをすると、
《地下牢にいる若者とは仲間だと言ったな? その割に随分毛色が違う。それに、普通に聞く冒険者とも違っているようだ》
《タイガが変わり者すぎるんです。お城の皆さんに迷惑かけてなきゃいいんですけど》
まるで一緒にひとくくりにしないでほしいと言いたげに朱音が言葉をはさむと、マクシミリアンの表情はさらに興味深く笑んだ。
《迷惑どころか、彼は妹の恩人だからね。確かに今は牢にいてもらっているが、これは仕方ない。今となっては、むしろ解き放たない方が敵方を泳がせることができると考えている。彼が無実なのは、実際この目で会った時に、私は確信しているよ》
と、ここで王子はやや気が抜けたようにため息をつき、手近の椅子に腰を下ろして続けた。
《…明後日はマリーの誕生パレードだ…馬車の通る道は見物人で溢れることだろう…もちろん、馬車の周囲には衛兵が従うが、マリーを暗殺せんとした者たちのことだ、どこから狙ってくるかもわからん。私と弟も同乗するゆえ、何か起これば身を挺して妹を護るつもりだが…》
《そうか!》
龍児がいきなり声を上げたので、朱音はびっくりしたように目を見開き、俯き加減にしていた王子はハッとしたように顔を上げて彼を見た。
龍児は深刻に眉根を寄せて言った。
《僕は、そのパレードが今回の事件のゼロ時間だと思っていました。ですが、その時に狙われるのは王女ではなく、あなたなんです、殿下》
《なに?》
《王女暗殺はあくまで付随的な、いや、伏線的なもので、本当の狙いは、王女を凶刃からかばうという形で、あなたの命なのです。冒険者の間では、この国は王位継承でもめているということでした。それなのに、継承権が低い王女が狙われるということに疑問を感じていました。ですが、王女をかばってあなたが亡くなれば、世間の目は哀しくも英雄的な美談として受け入れ、その底流に悪しき企みがあることに気付かないでしょう。そして、国王が亡くなれば、亡き兄の意思を受け継ぎ、新たな国王が誕生するというてはずです》
マクシミリアンは膝の上に両肘をつき、組み合わせた手の上に顎を乗せると、凛々しい眉を苦悩にしかめた。
《…つまり、弟も一味ということなのだな?》
《一味と言うには語弊があるかもしれませんが、敵側の手に落ちているということには変わりはないでしょう》
《しかし、どこをどう見てもあれはセドリックでしかない。人間をそっくり入れ替えるなどと言うことが可能なのか?》
《どうやったのかは、僕たちにもわかりません。しかし、王女が直感で感じ取っているのですから、そのことは軽視しない方がいいでしょう》
《困ったな……別に私は死を恐れているわけではないが、このような状況で命を落とすわけにはいかなくなった》
《そのためにも僕たちは無理をいってここにやってきたのです。もう一人仲間がいますが、彼は盗賊ギルドの方で当日の手はずを整えるはずです。当然、ギルドの人たちにも協力を仰いであります。パレードは絶対に成功させなければなりません》
とこの時、ひそやかなノック音が聞こえたので、龍児は口をつぐんだ。
《…殿下、戻りました》
扉の向こうからオクタヴィアの低い声が微かに聞こえる。
《入れ》
厚い木の扉が開き、黒いドレスの侍女が滑るような足取りで近づくと、その顔色がすぐれないことが伺えた。
《何かあったか》
とマクシミリアンが懸念に満ちた口調で尋ねると、オクタヴィアは冷静ながら危機感をもって応えた。
《はい。料理長から聞いたのですが、調理場の下働きの一人がここ数日住まいに戻っていないらしいとのことです。調理場の下働きは出入りが激しいので、料理長もあまり気にかけていなかったそうです》
《また後手に回ってしまったということか》
嘆息と共に、やや気落ちの色を濃くさせたマクシミリアンが、呟くように言った。
《敵は有能なアサシンを雇っています。もしこれが推測通りオーカーの手なるものの計画だとすれば、半年前から、いいえ、万一セドリック殿下が別人だということになれば、この計画はずっと以前から進められ、機会を伺い、狙われ続けていたということになります。このことに気付けなかったのは私の落ち度です。次こそは先手を取らないとなりません》
《だがその機会こそ、どちらにとっても最後の一手となることは間違いないな》
マクシミリアンの表情に、強い意思のこわばりが浮かぶ。これを見て、龍児が真剣に言った。
《そのためにも僕たちにできることがあればなんでもするつもりで、ここにやってきたのです。もちろん、時間的猶予はありませんが、何かできることがあると思うのです》
《例えば、弟さんの部屋に忍び込んでみるとか、怪しい魔道士の持ち物を調べるとか、ね》
朱音が自信たっぷりな物腰で付け加える。するとオクタヴィアが言った。
《夜間はここ数日、姫の襲撃のことも相まって、警備が厳しくなっている。入るならむしろ日中の方がよい。だが魔道士は滅多に部屋から出ないぞ》
《国王の食事と日に一度の奥庭での散歩の時は別だ。セドリックは明日、火事の現場を検分させにいかせたから、ほぼ日中は城を空けるはずだ。よし、魔道士の方は私が何とかしよう。セドリックの部屋に入るのなら、マリーを連れて行け。万一見つかっても、なにがしかの言い抜けに使える》
《殿下は、弟君が敵側に落ちていると確信なさっているのですか…?》
オクタヴィアがどこか哀しげに問いかけたので、マクシミリアンは男らしい肩をすくめて応えた。
《私は単純な考え方しかできない不器用な男だ。だがそれが今は助けになっていると感じている。確かにセドリックのことは気がかりだ。しかしそのことで現実が見えなくなるほどに動揺はしていない。むしろ、そのようなことをした何者かに対する憤りと、早くセドリックを今までの弟に戻したいという気持ちでいっぱいになっている。猶予はほぼ一日しか残されていない。だが、我々には手ごまが増えたわけだ。そのことをまだ敵は気づいていない。この空隙をうまく使い、明後日のパレードをつつがなく運べるように努力しようではないか。冒険者よ、どうか君たちの力を貸してくれ》
王子と言う立場を忘れたかのように、マクシミリアンは深々と頭をたれた。
《王子様、大丈夫よ。あたしたちは負けたことがないの。ううん、負けるはずがないの。相手が悪人なら悪人なほど、あたしたちは強くなるんだから》
朱音の、微妙にちぐはぐな論理に、マクシミリアンは励まされたかのように低く笑い、
《なんだか君たちはあの輝ける髪の者からの使徒のような気がしてきたよ……さて、今日はもう遅い。君たちの休む部屋はオクタヴィアに用意してもらいなさい》
朱音と龍児は、オクタヴィアに連れられて王子の部屋を出る際に、彼が椅子に座ったまま、じっと暗がりを睨み据えているのを見、この男らしいハンサムな王子が言葉以上に心を痛めていることを感じ取っていた。
オクタヴィアは、自分の居室の隣にちょうど空いていた使用人部屋を二人に使うよう、言った。
《私の部屋は以前、乳母が使っていたところで、そちらは姫様付きの小間使いの部屋だったが、私が来てすべてを任されたため、空いているのだ。寝台は二つあるはずだ。ま、一晩二晩のことだ、少しの手狭さは我慢せよ》
と、自分はさっさと自室へと入っていってしまった。
さて、使用人の小部屋に残された二人は、しばらく使っていない室内の独特のにおいを身体中で感じながら、小さな窓から差し込む月明かりだけで室内の様子をうかがっていたのだが、そんなことより重大な問題に気が付き、ほとんど同時に互いを見やり、言った。
「ちょっと、どうしてあたしたち二人なわけ? これでも一応男と女よ? オクタヴィアさん、そこんとこ、忘れちゃってない?」
龍児は朱音よりも慌ててはいなかったが、布で包んでいた自分のバックパックからコムパッドを取り出し、そのバックライトで室内を照らしながら、淡々と応えた。
「冒険者の一行なんて、男女の別などないんじゃないかな。それにしても、この服、どうにかならないのか。足元にまとわりつくし、すーすーする」
「脱ぐなんて言わないでよね。そんな紐だらけの服、どこをどうすればいいかわかんないし…ちょっ、どうしてあたしが脱ぐのを手伝うのよ?!」
朱音が一人勝手に慌て始めたのを放置気味に、龍児は部屋にただ一つの小さな窓を見に行きながら言った。
「うーん、この窓は小さすぎて外に出られそうもないな…夜間の警戒が厳しいのなら内側からは厄介だろうし…せっかく城に入れたのに、もったいない」
いずれにせよ、この服装で城の壁を伝いのぼるのは無理と諦めた龍児は、朱音が妙なことをしていることに気付いた。
使っていなかった小間使いの部屋の床には、うっすらと埃が積もっていた。その上につま先を滑らせて二つのベッドの間に境界線のようなものを引いていたのである。
朱音は、無頓着にこちらへ戻ってきた龍児がその線を踏み越えようとしたので、さも重大ごとのように言った。
「ちょっと! その線を越えたら承知しないから!」
「は?」
「は?じゃないわよ。いくらあたしたちが仲間だって言ってもね、けじめはちゃんとつけないと」
龍児はしばらく無表情で足元のラインと、朱音の力んだ顔つきを見比べてから、ようやく腑に落ちたように言った。
「僕がお前に何かするとでも思うのか」
ここが、朱音の中で矛盾だらけの部分になっていた。だからますます彼女は居丈高になって応えた。
「あたしだって女なのよ。そこんとこ忘れないで。じゃ、あたしは寝るわ。いい? その線を越えたら、いくらあんたでも…」
「わかったよ、わかったから。僕は今日のことをボスに報告してから寝ることにするよ」
龍児は、朱音が背中を向けて横になったのを、何の気なしに見つめてから、夢から覚めたようにコムパッドを取り上げると、忙しなくキーパッドを操作し始めた。
しばらくすると、朱音の規則正しい寝息が聞こえ始め、龍児は一時コムパッドから目を上げた。
暗がりの中で黒っぽく見える朱音の結い上げたうなじから幾本か、乱れた髪が背中に垂れていた。
薄い龍児の唇に淡い微笑が浮かび、それはあっという間に消えた。
彼は再びコムパッドに向かい、夜はしんしんと更けていった。




