その令嬢、涙する
例の男爵令嬢が危機に瀕しているかもしれない。もし、それが俺の心変わりのせいだとしたら。こうしてはいられない。
邸宅を一軒一軒確かめるために、しらみ潰しにドアノッカーを叩く。どの屋敷もルートヴィヒ男爵のものではない。太陽が動き、真上から燦々と光を放つ。ここで俺が折れるわけにはいかない。
そしてようやく、エントランスを開けた一人の執事から『ルートヴィヒ』の名を聞くことができた。
「ご令嬢は、今どこに?」
「それが、今朝から姿を見かけていないのです」
「えっ」
まさか、噂を聞きつけた彼女が汚名を晴らそうと躍起になっているのでは――まだそうと決まってもいないのに、胸はざわつき、拳を握りしめてしまった。あの海色の瞳が悲しみに沈むところは見たくない。
「俺、少し探してみます」
「ですが――」
執事の声を最後まで聞きもせず、彼に背を向ける。どうか、無茶な行動はしないでくれ。彼女の性格を知っているわけでもないのに、俺の想像が先行してしまう。
門を抜け、また噴水広場へと戻る。そこに、先ほどとは違うところがあったのだ。見覚えのある栗色の髪をした女性が噴水の縁に腰掛け、両手で顔を覆っている。人目もはばからず、嗚咽を漏らしてもいる。
彼女の悲しみを何とかしなくては。話し掛ける勇気を持つ前に、その人の目の前で足を止めた。
「……あの」
俺が小さく声を掛けると、彼女の顔は徐々に上がっていく。
「誰、ですか?」
王子だと名乗るわけにもいかず、上げそうになった唸り声を我慢する。そうして出た言葉は、苦し紛れにもほどがあった。
「俺はセレスト、と申します」
ほぼ本名だ。誤魔化しが上手くいくためには、彼女の心情にかかっている。
「セレスト……? セレート……殿下?」
彼女の反復に、俺の血の気が引いていく。王子だと悟られるわけにはいかない。思いついた嘘を平然と並べていく。
「名前と髪の色が少し似ているだけです。よく間違われます」
咄嗟に苦笑いをしてみたものの、上手く誤魔化せたかは分からない。
「そ、そうですよね……。婚約発表の時に見た王子様に、あまりにも似ていらっしゃったので……」
俺の心とは逆に、彼女の頬は桜色へと変わっていた。
「そんなに似ていますか?」
「はい、お姿は。お声は聞いたことがないので分かりませんが……」
彼女にとっても、確信的なものではなく予感していただけらしい。胸を撫で下ろしながらも、彼女が一発で俺の正体を見破ってくれなかったことを残念に思ってしまう。
「あの、あなたのお名前は?」
「私、ですか? ローラと申します」
彼女――ローラは両手で涙を拭き、そっと微笑んでみせる。その表情が眩しく見え、思わず胸に片手を当ててしまった。
「何かあったのですか?」
ローラの心を傷つけてしまわないように、なるべく優しく言葉を紡いでいく。ローラは俺に向けていた海色の瞳を、地面の方へと落とした。
「お父様の爵位が……剥奪されるかもしれなくて……」
ローラは膝の上で拳をきゅっと握る。
「ただの噂、ではないのですか?」
「今はただの噂でも、真実に変わることだって幾度もあります。噂を広めている人も分からないのでは、止められようもありませんし……」
外堀を埋めるために、父が使用人をそそのかして噂を事実に――そこまで陰湿だとは思っていなかったので、逆に衝撃を受けてしまう。
「ルートヴィヒ男爵令嬢様、ですね?」
「……はい」
ローラは小さく、しかし確かに頷いた。
「数週間、迎賓館に滞在する予定ですので、何かあればセレスト宛に手紙をください」
「迷惑ではありませんか?」
「どうして?」
「幼馴染にも迷惑がられたのです。『厄介者が屋敷に来るな』って」
正直に言うと、友人の危機に手を差し伸べられないなんて、ろくでもない奴だと思う。これ以上、ローラが傷つけられないように、俺が庇わなくては。そうしろと命令されたわけでもないのに、使命感が心に湧き起こる。
「いずれは離れ離れになる身です。今くらい、手助けさせてください」
「ありがとうございます」
ローラは呟くと、鼻を啜った。
「でも、どうしてそんな噂が?」
「……分かりません。突然、父が無実の罪を。父は狼狽えていて、情報収集どころではなくなってしまっていて」
「そうだったのですか……」
ローラや彼女の家族を傷つけることは許さない。たとえ、それが誰であっても。自分でも、恋心がこれほどまでに大きくなっていることに驚いてしまう。
そして、ローラの次の言葉で恋心はさらに強くなる。
「私の大切な人を、絶対に傷つけさせたりはしません。私にとっての家族は、愛であり、絆そのものですから」
ローラの告白に、希望を見出してしまう。彼女と家族になれたのなら、彼女と愛し合い、絆で結ばれるのだろうか。
「私は絶対に挫けません。噂になんて負けません」
ローラはただの気弱な男爵令嬢ではない。自分の信念があり、行動力があり、それなのに人間関係に恵まれていない女性――俺が彼女の心の支えになりたい。これ以上、ルートヴィヒ男爵家がどうにかなってしまう前に、俺が止めるのだ。王子という立場を行使してみせる。心に決め、瞳に火を宿すローラに頷いてみせた。




