その王子、恋に落ちる
闇夜は俺たちを隠し、逃亡の手助けをする。もっと遠くへ行けば、誰も追ってはこない。早く、国外へ逃げるのだ――。
守り抜くと決めた女性――ローラの手を握り締め、森を進む。国直属の衛兵に待ち伏せされていないことを祈るばかりだ。フクロウの鳴き声にも、風が木々の葉を撫でる音にもびくついてしまう。
とうとう体力の限界を迎えたのか、ローラの足がもつれた。俺の足も止まり、肩で息をする。
「ごめんなさい、セレート様。先に行って」
「駄目だ、二人一緒じゃなくちゃ」
「でも、私では足手まといになってしまうもの」
「一人にはしていけない! ローラの身の安全が……国を裏切った意味もなくなってしまう」
ここに来て、初めてローラが涙を流した。月明かりを映したかのように煌めいて見える。
「セレート様、ありがとう。ここで挫けちゃ駄目だよね」
僅かに点った微笑みに、大きく頷いてみせる。
「行こう。夜が明ける前に国を出よう」
これは婚約者を破滅させた代償だ。改めて手を取り合い、国境を目指す。
* * *
ローラと出会ったのは俺の婚約発表の時だった。国王である父は俺の顔も見ずに、高らかに宣言をする。
「セレートとイリアの婚約を正式に認める」
隣では豪華な青色のドレスに身を包んだ公爵令嬢――イリアが俺に微笑んでいた。金のその瞳は鋭く、俺の心を見透かすようでもある。
第二王子である以上、俺は国王にはなれないのだろう。これは王家と公爵家の政略結婚だ。分かっているのに、心に決めた人がいないというだけで反発することすら許されない。周りに高圧的な視線を向けるイリアに、俺は笑うことができなかった。
貴族たちは好奇の眼差しを俺たちに向けてざわめく。その中に、異色の存在感を放つ人物を見つけてしまうのだ。
胸の前で手を合わせ、満足そうな表情を浮かべる女性――俺たちの幸せを本気で祈ってくれている、のだろうか。俺が彼女から視線を外せずにいると、彼女は自ら目を横に流した。
どうして、こんなに気になってしまうのだろう。ただ、他の貴族とは違う目をしていただけなのに。心臓は高鳴り、頬は熱くなる。どうか、その理由がイリアに伝わりませんように。口を引き、視線を僅かに落とす。
これが一目惚れだと言うのなら、今という場ではなくてもいいではないか。何故、過去で彼女に出逢えなかったのだろう。自分を恨めしく思うしかなかった。
パーティーと呼べるほどの宴会もなく、貴族は散り散りに帰路に着く。イリアも「愛しています」と心にもない言葉を残し、彼女の父親の元へと戻っていった。
玉座の間で取り残された俺に、父王は眉間にしわを寄せる。
「イリアに対するお前の態度はなんだ」
「えっ?」
「もっと婚約者らしく接せられないのかと聞いている」
イリアは俺を愛していない。俺もまた、イリアを愛していない。何の情もない婚約に嫌気が刺してくる。
「俺はイリアをぞんざいに扱うつもりはありません。ただ……」
「何だ」
「兄上が……羨ましいと思ったのです」
兄の口から隣国の王女に恋をしたと聞かされた時は、何も思わなかったのに。今になって、純粋な恋愛結婚がどんなに幸せかを思い知らされた。立場も対等であるため、誰からも文句は言われない。
父王は呆れたのか、細い息を吐き出した。
「兄のことは考えるな。お前はお前の人生を生きろ」
「情もないイリアと結婚することが、俺の人生だと?」
「そうだ」
否定することもなく、悪びれる素振りすらなく、淡々と父王は自分の考えだけを述べる。
「父上とはいえ、俺の人生を勝手に決めないでいただきたい」
「今更なんだ? 婚約発表は済んだのだぞ?」
初めての僅かばかりの抵抗にも、父王は目の色を変えない。これ以上話しても埒が明かないだろう。そう悟った。
「もういいです。おやすみなさい」
肩を落とし、玉座の間を後にする。見張りをする騎士ですら、俺の苦悩を見抜けないようだった。
翌日、朝食の用意をしてくれた侍女に、あの海色の瞳の持ち主を知らないかと尋ねてみることにした。侍女は一瞬だけ迷ったようだったが、俺が「栗色の髪で、つぶらな瞳の」と付け加える。すぐに侍女は「ああ!」と声を上げた。
「ルートヴィヒ男爵令嬢、でしょう。可愛らしい方ですよね」
可愛らしかった、だろうか。彼女の瞳に囚われすぎてしまい、雰囲気までは察せられなかった。
だが、それ以上に気になったことがある。
「男爵令嬢、なのか」
王族と男爵令嬢では、身分がつり合わない。イリアと婚約していなかったとしても、彼女との結婚を猛反対されることは目に見えている。しかも、父王はあの冷淡な性格だ。俺と彼女を引き離すには手段を選ばないだろう。
朝食も適当に済ませ、シンプルな貴族の服装に身を変える。一度だけでもいいから、彼女の人となりを見てみたい。俺の恋が、人生を賭けるほどのものか見定める。少しの好奇心と、大きな決意が俺を揺さぶっていた。
城を抜け出し、貴族街の大通りに出て人混みに紛れる。金髪は目立ってしまうが、王族のそれだとは気づかれないだろう。瞳の色だって、ありふれた緑だ。俺は王子ではなく、一人の男――背筋を伸ばし、罪悪感を打ち消す。
先ほど侍女から仕入れた情報では、男爵令嬢の住まいはこちらで合っているはずだ。多少、道に迷っているかもしれないという疑念を打ち消し、前を見据える。
待ち合わせをしているのだろうか。広場の噴水の前で立ち止まっている淑女に、道を尋ねてみる。
「あの」
「……はい?」
着飾った淑女は、戸惑う様子を見せながらも首を傾げた。
「ルートヴィヒ男爵の屋敷はこの辺りでしょうか」
何故か、淑女は眉をひそめる。
「貴方、男爵のお知り合い?」
「い、いえ。そういう関係ではありません」
慌ててその場を取り繕うと、淑女はほっとしたように吐息をついた。
「噂ですけどね? あの男爵、爵位を取り上げられるらしいの。近付かない方が身のためですよ」
「爵位の……剥奪……?」
思わぬ言葉に、身体が硬直する。
まさか、もう父王は何かを勘づいたのだろうか。いや、それにしても日が浅すぎる。爵位の剥奪なんて、大義名分がなくては父王でもできないはずだ。
俺の周りで何が起きているのだろう。
俺が困惑しているうちに、淑女の姿は消えていた。周囲を見渡してみても、他に声をかけられそうな人物は見つけられなかった。




