第3話 『信じたいのに、信じられない』
美咲から明かされた、あの日の言葉の真実。それでも蓮の傷は簡単には消えない。そんな彼を変わらず支える親戚の少女・結衣。そして翌朝、蓮の前に新たな少女が現れる。
「……少しだけなら」
そう答えると、美咲の表情が僅かに明るくなった。
「ありがとう」
その笑顔を見た瞬間。
胸の奥に、昔の感情がほんの少しだけ蘇った。
――やめろ。
もう期待するな。
俺は心の中で何度も自分に言い聞かせた。
「それで、話って?」
「ここじゃちょっと」
「じゃあ、場所変える?」
「うん」
美咲に連れられ、教室を出る。
二人で並んで歩く。
「…………」
「…………」
気まずい。
昔は美咲と二人きりになることが嬉しかった。
学校からの帰り道。
休日。
近所の公園。
くだらない話をしているだけで楽しかった。
それなのに。
今は隣を歩いているだけで、胸の奥がざわつく。
「ここでいいかな」
美咲が足を止めた。
連れてこられたのは、放課後の特別棟。
普段はほとんど生徒が来ない場所だった。
「話って?」
「…………」
美咲は何も言わない。
「美咲?」
「……!」
名前を呼んだ瞬間、美咲が顔を上げた。
「……何?」
「今……」
「?」
「美咲って……呼んでくれた」
「…………」
言われて気づいた。
昔の癖で呼んでしまっただけだ。
「……悪い」
「なんで謝るの……?」
「いや……」
「私……嬉しかったのに」
「…………」
その言葉に、何も返せなかった。
美咲は少し寂しそうに笑った。
「ごめん。今はそんな話じゃないよね」
「ああ」
「…………」
美咲が胸元で両手を握る。
そして。
「蓮」
「ん?」
「一年前のこと……覚えてる?」
心臓が跳ねた。
「…………」
忘れるわけがない。
忘れようとした。
何度も。
海外に行ってからも。
走っている時も。
勉強している時も。
眠れない夜も。
頭の中に何度も蘇った。
『あんなデブで醜い奴、好きなわけないでしょ!』
「……何のこと?」
俺は知らないふりをした。
「…………」
「一年前って言われても色々あったから」
「嘘」
「…………」
「蓮、昔から嘘つく時……ちょっとだけ目を逸らすから」
「……よく覚えてるな」
「覚えてるよ」
美咲は真っ直ぐ俺を見ていた。
「蓮のことだから」
「…………」
まただ。
そんなことを言う。
だったら。
どうしてあんなことを言ったんだ。
「……あの日」
美咲の声が震える。
「聞いてたんでしょ?」
「…………」
「教室の外に……蓮がいたんでしょ?」
否定しなかった。
もう、する意味もなかった。
「……だったら?」
自分でも驚くくらい冷たい声が出た。
美咲の肩が僅かに揺れた。
「やっぱり……聞いてたんだ」
「それだけ?」
「え?」
「確認したかっただけなら、もういい?」
「待って!」
背を向けようとすると、美咲が声を上げた。
「違うの!」
「……何が?」
「あれは……違うの」
「…………」
「私、本当は……」
美咲が俯く。
耳まで赤くなっていた。
「あの時、みんなに蓮のこと好きなんじゃないかって言われて……」
「…………」
「恥ずかしくなって……」
「それで?」
「つい……あんなこと言っちゃって……」
沈黙。
「……それだけ?」
「え……?」
「恥ずかしかったから、俺をああ言ったの?」
「…………」
美咲の顔が強張った。
「ご、ごめん……」
「いや」
怒っているわけじゃない。
本当に。
今さら怒ったところで何も変わらない。
「もういいよ」
「よくない!」
突然、美咲が声を張った。
「私はよくない!」
「…………」
「ずっと謝りたかった……!」
美咲の目に涙が浮かんでいた。
「蓮が急に留学するって聞いて……連絡してもほとんど返事くれなくなって……」
「…………」
「あの日から急に蓮がそっけなくなって……もしかしたら聞かれてたんじゃないかって……」
美咲の声が震える。
「私のせいだって分かった」
「…………」
「何度も謝ろうと思った。でも……怖くて……」
「……そう」
「本当にごめんなさい」
美咲が頭を下げた。
「私……最低だった」
「…………」
「蓮のこと傷つけた」
昔の俺なら。
きっとすぐに許していた。
『気にしてないよ』
そう言って笑っていただろう。
だって。
俺は美咲が好きだったから。
嫌われたくなかったから。
でも今は。
「……顔上げて」
「…………」
美咲がゆっくり顔を上げる。
「謝ってくれてありがとう」
「蓮……」
「でも」
美咲の表情が止まる。
「すぐには無理だと思う」
「…………え?」
「美咲が嘘をついてるって言いたいわけじゃない」
「じゃあ……」
「分からないんだ」
自分の胸に手を当てる。
「何が本当なのか」
「…………」
「一年前、美咲は俺に優しかった」
「うん……」
「俺はそれを信じてた」
「…………」
「でも、裏ではああ言ってた」
「それは……!」
「分かってる。今説明してくれたから」
美咲の言葉を遮る。
「だけど今、美咲が言ってることも……」
一度、言葉が止まった。
「また俺を傷つけないための優しい嘘なんじゃないかって思っちまうんだよ」
「…………!」
美咲の目が大きく見開かれた。
「そんなこと……」
「分かってる」
「違うよ!」
「分かってるって!」
思わず声が大きくなった。
「…………」
「……悪い」
美咲が黙る。
俺も黙る。
静かな廊下に、時計の音だけが響いていた。
「……俺だって」
気づけば、口が動いていた。
「信じられるなら……信じたいよ」
「…………」
「でも、怖いんだ」
初めて。
本音が漏れた。
「また馬鹿みたいに信じて」
「…………」
「実は全部違いましたってなるのが」
「蓮……」
「だから」
一度息を吐く。
「今すぐ昔みたいには……戻れない」
美咲は何も言わなかった。
「ごめん」
俺は美咲の横を通り過ぎる。
その時。
「待って」
「…………」
「一つだけ」
振り返らない。
「……何?」
「私、諦めないから」
「…………」
「今すぐ信じてなんて言わない」
美咲の声は震えていた。
それでも。
はっきりと言った。
「蓮がもう一回、私を信じてくれるまで」
「…………」
「何回でも……ちゃんと向き合うから」
胸が痛んだ。
そんなことを言われたら。
また期待してしまう。
「……好きにすれば」
それだけ答えた。
本当は。
振り返ってしまいそうだったから。
校門を出る。
「……はぁ」
疲れた。
朝から色々ありすぎだ。
美咲の言葉が頭から離れない。
『私、諦めないから』
「…………」
何を諦めないんだよ。
昔みたいな関係に戻ること?
それとも――。
「いや」
考えるな。
また勝手に期待するだけだ。
俺はスマホを見る。
結衣からメッセージが来ていた。
『まだー?』
その下には怒った猫のスタンプ。
「……あいつ」
少しだけ肩の力が抜けた。
『今帰ってる』
返信。
すると。
『遅い!』
即答だった。
「はいはい」
スマホをポケットにしまう。
家に着く。
「ただいま」
玄関を開ける。
その瞬間。
「遅い!」
「うおっ」
目の前に女の子が立っていた。
一ノ瀬結衣。
近所に住んでいる親戚の女の子。
小柄で華奢な体格。肩より少し長い柔らかな茶髪と、くりっとした瞳が特徴。年齢より少し幼く見られることが多く、笑うとどこか人懐っこい印象になる。
小さい頃から何度も家に遊びに来ているせいで、もはや家族も誰も気にしていない。
昔から俺の後ろをついて回っていた。
「帰るって言ってから何時間経ってると思ってるの?」
「いや、まだ一時間くらいだろ」
「一時間『も』です!」
「細かいな」
「誰のために待ってたと思ってるの!」
「母さん?」
「蓮兄!」
「冗談だって」
「もう!」
頬を膨らませる。
相変わらずだ。
「……ただいま、結衣」
「…………」
「ん?」
急に結衣が黙った。
俺の顔をじっと見ている。
「どうした?」
「いや……」
「?」
「やっぱり……慣れない」
「何が?」
「蓮兄の顔」
「失礼だな」
「違う!」
結衣が慌てて首を振る。
「そういう意味じゃなくて!」
「じゃあ何だよ」
「…………」
結衣は少しだけ頬を赤くした。
「……かっこよくなりすぎ」
「は?」
「何でもない!」
「聞こえたけど」
「忘れて!」
結衣が逃げるようにリビングへ向かう。
「変なやつ」
俺は靴を脱いだ。
「で?」
「何?」
「学校どうだった?」
ソファに座ると、結衣がすぐ隣に座ってきた。
近い。
昔からそうだ。
「普通」
「絶対嘘」
「なんで」
「蓮兄、昔から何かあった時『普通』って言うもん」
「…………」
「ほら」
こいつ。
妙なところで鋭い。
「別に大したことじゃない」
「美咲さん?」
「…………」
「当たり?」
「なんで分かるんだよ」
「そりゃ分かるよ」
結衣は少しだけ目を伏せた。
「蓮兄があんなに引きずる人なんて……美咲さんくらいだもん」
「…………」
「話したの?」
「まあ」
「何て?」
「……謝られた」
「そっか」
それ以上、結衣は聞いてこなかった。
「聞かないの?」
「蓮兄が話したくないなら聞かない」
「…………」
「でも」
結衣が俺を見る。
「無理だけはしないでね」
「してないよ」
「またそれ」
「何だよ」
「昔からそうやって一人で抱えるじゃん」
結衣が少し怒ったような顔をする。
「留学してる時だって」
「…………」
「電話したら毎回『大丈夫』って」
「大丈夫だったから」
「嘘」
「…………」
「声、すっごく疲れてた」
言葉に詰まった。
「……よく覚えてるな」
「覚えてるよ」
「なんで?」
「…………」
結衣が黙った。
「結衣?」
「……蓮兄だから」
「?」
「なんでもない」
そう言って立ち上がる。
「お茶取ってくる!」
「おう」
キッチンへ向かう結衣の背中を眺める。
不思議だ。
結衣とは普通に話せる。
女性が全員怖いわけじゃない。
こいつは昔から知っている。
俺が太っていた頃も。
留学していた時も。
何も変わらず接してきた。
だから。
結衣だけは――。
「やっぱ妹みたいなもんだからかな」
何気なく呟いた。
カチャッ。
「……!」
キッチンから小さな音がした。
「結衣?」
「な、何?」
「今なんか落とした?」
「スプーン!」
「大丈夫?」
「大丈夫!」
「そっか」
「…………」
少しして、結衣が戻ってきた。
「はい」
「ありがとう」
俺にお茶を渡す。
「…………」
「どうした?」
「別に」
結衣は笑った。
いつもの笑顔だった。
「ねえ、蓮兄」
「ん?」
「私ってさ」
「うん」
「……そんなに妹っぽい?」
「え?」
「…………」
「そりゃまあ」
何を今さら。
「昔から妹みたいなもんだろ」
「…………そっか」
「急にどうした?」
「なんとなく」
結衣は笑う。
「変なこと聞いたね」
「ああ」
「そこは否定してよ!」
「ははっ」
「もう!」
結衣が俺の肩を軽く叩く。
「痛いって」
「全然痛くないくせに!」
俺は笑った。
今日。
初めて自然に笑えた気がした。
「じゃあ、帰るね」
「おう。暗いから送るよ」
「近いから大丈夫」
「でも」
「大丈夫だって」
「……分かった」
玄関で靴を履く結衣。
「また明日来るから」
「毎日来る気かよ」
「嫌なの?」
「別に」
「じゃあ来る!」
「はいはい」
「じゃあね、蓮兄」
「おう。またな」
扉が閉まる。
「…………」
家を出た結衣は。
しばらく、その場から動かなかった。
「妹……か」
分かっていた。
ずっと前から。
蓮にとって自分は、妹のような存在。
恋愛対象としてなんて見られていない。
それでも。
昔から蓮のそばにいた。
蓮が学校で辛い思いをしていた時も。
留学してしまった時も。
電話越しに苦しそうな声を聞いた時も。
ずっと。
「……私だって」
結衣が小さく呟く。
「女の子なんだけどな」
当然。
その声が蓮に届くことはなかった。
翌朝。
「……眠い」
昨日は色々考えてしまって、あまり眠れなかった。
教室へ向かう。
昨日の今日だ。
また囲まれるのだろうか。
正直、面倒だ。
「……ん?」
教室の前。
一人の女子生徒が立っていた。
見覚えはある。
というか、知らない人間の方が少ない。
学年でもかなり有名な女子だ。
容姿が良く、明るくて、交友関係も広い。
確か名前は――。
「おはよう、月島君」
「……おはよう」
彼女は俺を見て。
にっこり笑った。
「ちょっと話してみたかったんだ」
「俺と?」
「うん」
嫌な予感がした。
「昨日見た時から気になってたから」
「…………」
ほら。
やっぱり。
俺は心の中で、小さくため息をついた。
そして。
その様子を教室の中から見ている二人がいた。
「…………」
白石美咲。
そして。
「……また面倒なことになりそう」
黒崎凛。
美咲は少女を見つめながら。
無意識に、制服の裾を握りしめていた。
昨日。
凛と一緒にいる蓮を見た時と同じ。
胸の奥に広がる、嫌な感覚。
だけど。
今回は少し違った。
「…………」
もう。
遠くから見ているだけにはしたくない。
一度逃げたせいで。
大切な人を失いかけたから。
美咲は席を立った。
――止まっていた関係が。
少しずつ。
そして確実に。
動き始めていた。
第3話 終
皆さんの目に留まれるよう継続していきます。次回もよろしくお願いします。




