第九話「漆黒の龍」
意識が戻る。
ぼんやりとした視界の中、まず感じたのは、手足をきつく縛られた不快感だった。試しに動かそうとするが、麻のような粗い縄が肉に食い込み、自由はない。頭がずきずきと痛んでいる。全身のあちこちも痛い。引きずられたのか、それとも殴られたのか、あちこちに傷ができているのを感じた。
薄っすらと目を開けると、周囲は暗闇に包まれていた。どうやらもうすでに夜のようだ。木々の隙間から、月明かりが細く差し込んでいる。
……一瞬、目が見えなくなっているのかと思った。
違う。ただの夜だ。俺は生きている。
そのことを確認してから、ゆっくりと息を吸い込む。湿った土の匂い。腐葉土と草が混じった、この森特有の匂い。肺に空気が入るたびに、意識が少しずつ鮮明になっていく。
耳元でギャアギャアとうるさい声がする。ゴブリンたちの話し声だ。
俺の近くには二匹のゴブリンが立っている。どちらも見覚えのない顔だ。火を起こしているらしく、橙色の光が揺れている。その光の中で、彼らの表情がはっきりと見えた。
笑っていた。
俺の目が開いたことに気づくと、一匹がこちらを指差して叫んだ。
「ニンゲン! オキタ!」
次の瞬間、鈍い衝撃が走った。手に持った棒で殴られたのだ。激しい痛みに反射的に体を丸める。しかしそれが気に入らなかったのか、今度は足蹴にされた。
「ぐっ……!」
呻き声が漏れる。
「キャキャキャキャ!」
それがかえってゴブリンたちの笑いを誘ったようだった。しばらく暴行は続き、ようやく満足したのか、ゴブリンたちはお互いに笑い合った。
こいつらは違う。
メイコたちとはまったく違う。同じゴブリンという種族のはずなのに、目の奥に宿っているものが違う。メイコたちの目には知性と温かみがあった。ゴンタの目には仲間への誠実さがあった。ゴンザブロウの目には純粋な好奇心があった。
しかしこいつらの目には、それがない。あるのは嗜虐心と、底冷えするような冷たさだけだ。
こんなゴブリンたちもいるのか――。
いや、当たり前だ。どんな種族にも、どんな集団にも、善悪が混在する。俺はメイコたちとの生活に慣れすぎて、ゴブリンというものを都合よく解釈していたのかもしれない。
そんなことを朦朧とした頭で考えていると、隣にドサッと何かが転がる音がした。
視線を向けると、そこには俺と同じように縛られたゴンタがいた。頭から血が流れ、表情は苦痛に歪んでいる。それでも彼は、転がされた体勢のまま、俺を見て口を開いた。
「ゴメン、ケイスケ……! コイツラ、ダメナゴブリン」
「ゴンタ……! お前、大丈夫か!?」
「ダイジョウブ」
大丈夫に見えなかったが、ゴンタはそう言い張った。その目は、まだ燃えていた。血が額を伝い、頬を赤く染めている。それでも視線だけは、折れていなかった。
ダメなゴブリン、とはどういうことか。疑問は、目の前のゴブリンたちがすぐに答えてくれた。
ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、棒で俺を殴ったゴブリンが言う。
「ココ、メス、イナイ」
続けて、俺を蹴ったゴブリンが笑いながら言った。
「シンダ」
「……死んだ?」
俺は頭が混乱した。メスが死んだということを、笑いながら話すゴブリンたちに。
おそらく彼らも、あの大雨で集落を流され、多くの仲間を失ったのだろう。メスがいなければ、このゴブリンたちは滅びるしかない。種を繋ぐことができないのだから。危機的状況のはずだ。
それなのに、何故笑っている?
その笑みの意味が、じわじわとわかってきた。こいつらはもう、後ろを向いていない。失ったものを嘆く段階をとっくに過ぎて、次の手を打つことしか考えていないのだ。そしてその次の手が――。
尚も笑いながら、ゴンタを転がしたゴブリンが続けた。
「オマエタチノ、モラウ」
「……貰う……?」
その言葉の意味を考えた瞬間、背筋が凍った。
「メイコを……狙っているのか」
答える代わりに、ゴブリンたちは笑い声をあげた。
「ホカ、イラナイ」
「コロス、コロス」
メイコを自分たちのものにするために、ゴンスケやゴンザブロウたちを、あの集落のみんなを殺すというのか。
炎のような怒りが、腹の底から湧き上がってきた。
「ふざけるな! お前らにメイコは渡さない!」
怒りから、俺は思わず怒鳴った。縄が肉に食い込むのも構わず、身を乗り出そうとする。しかしそれがかえって奴らを刺激してしまった。
「ウルサイ! ニンゲン!」
「ドッチカ、アンナイサセル!」
笑いながら、また暴力が降りかかってきた。棒が俺の背中を叩き、腹に蹴りが入る。今度はゴンタにも向かっていった。
「やめろ! ゴンタにはっ!」
「ケイスケ、ダイジョウブッ……!」
ゴンタが声を絞り出す。しかしその声も、すぐに痛みで途切れた。
二人に何度も棒が振り下ろされ、蹴りが入る。意識がまた遠のきそうになる中、俺は歯を食いしばった。
痛い。体の各所から、悲鳴のような痛みが届いてくる。しかしそれよりも、ゴンタが傷つけられていることへの怒りの方が大きかった。俺の失敗のせいで、こいつまで――。
「……ケイスケ、メ……アケテロ」
ゴンタの声がした。見ると、彼も殴られながら、それでも俺の目を見ていた。意識を保て、ということだろう。
俺は目を開け続けた。
やがて、暴力が止んだ。
終わったのかと思い、薄く目を開ける。しかし俺が見たものは、石のナイフを取り出す一匹のゴブリンだった。やはり顔には笑みが浮かんでいる。その笑みが、今は怒りを通り越して、ひどく不気味に見えた。
「ドッチ、コロス?」
奴らは楽しげに相談しながら、俺とゴンタの間で石のナイフを弄んでいる。まるでゲームのように。俺たちの命を。
どうする。何かできることは――!?
しかし手足を縛られたままでは何もできなかった。この無力感が、怒りよりも重くのしかかってくる。縄を引いても引いても、肉に食い込むだけで緩む気配がない。手首から血が滲んでいるのを感じた。歯を食いしばるしかない。
「コッチニスル?」
「イヤ、コッチガイイ」
笑いながら相談するゴブリンたちは、やがて一つの結論を出した。
「ニヒキトモサシテ、イキノコッタホウニ、アンナイサセル」
最悪の結論だった。他のゴブリンたちは名案だとばかりに喜んでいる。
二人とも刺して、生き残った方に案内させる。
俺たちをゲームの駒としか思っていない。その事実が、冷たく頭に落ちてきた。
「……ゴンタ」
俺は隣に転がるゴンタに小声で呼びかけた。
「ナニ」
「すまない。俺のせいで、お前まで……」
「ケイスケノセイジャナイ」
ゴンタはそう言い切った。その声には迷いがなかった。
「コイツラ、サイショカラ、コウスルツモリダッタ。タスケヲモトメテキタノモ、ウソ。ワナ、ダッタ」
「……罠、か」
「ソウ。ケイスケ、ワルクナイ」
ゴンタの声は穏やかだった。俺を責めていない。それがかえって、胸に刺さった。
「メイコ、アブナイ。ハヤク、ケイスケダケデモニゲナイト」
「お前を置いて逃げるわけないだろ」
「ケイスケ……」
「黙ってくれ」
俺はゴンタの言葉を遮った。
逃げない。逃げられない。それだけじゃない。ゴンタを置いて逃げるなんて、考えたくもなかった。
縄を引く。肉に食い込む。血が滲む。それでも引き続ける。
何かが、何かが――。
しかし、縄は緩まなかった。
ナイフを持ったゴブリンが、まずは俺からということで、石のナイフをゆっくりと振り上げた。
月明かりを反射した刃が、冷たく光る。
俺は目を逸らさなかった。逸らしたくなかった。せめて最後まで、目を開けたままでいたかった。
どうにもならないのか――!?
そう思いかけた、その瞬間だった。
『グガアアアアアアアア!!』
夜の静寂を引き裂くような咆哮が、森全体を震わせた。
それは音というより、衝撃だった。鼓膜が痺れるほどの音圧が、空気を伝わって体ごと揺らす。地面が揺れた。木々がざわめき、枝から鳥が一斉に飛び立つ気配がした。遠くの獣が怯えた鳴き声をあげ、そして静まり返った。
まるで森全体が、息をひそめているようだった。
ゴブリンたちの動きが、一斉に止まった。ナイフを振り上げた腕も、そのままの形で固まっている。笑みが消えた。顔が青ざめているのが、月明かりの中でもわかった。
咆哮は遠くからではない。すぐそこから聞こえた。
一匹のゴブリンが、ゆっくりと音のした方向に顔を向けた。それに続いて、残りのゴブリンたちも、吸い込まれるように視線を向ける。俺も、ゴンタも、同じ方向を導かれるように見た。
木々がざわめいている。
最初は風のように思えた。しかしすぐに違うとわかった。風ではない。何かが近づいてくる気配だ。それも、途轍もなく大きな何かが。
地面の振動が、少しずつ大きくなっていく。一歩、一歩。その足音が、大地そのものを揺らしていた。
それが何なのか、思いを馳せる暇もなく、それは来た。
葉が舞い散り、細い枝が折れて飛んでいく。強烈な風圧が周囲を薙ぎ払い、俺は思わず目を細めた。地面が再び揺れた。今度は、はっきりと。木の根が浮き上がり、土が捲れ上がる。
そして焚き火が、突風に吹き消えた。
一瞬、完全な暗闇に包まれた。
月明かりの中で、巨大な影がゆっくりと身を起こしていく。
黒い鱗が月光を鈍く反射し、鋭い爪が大地に深々と食い込んだ。長い首がゆっくりと持ち上がり、燃え盛るような双眸が、この場にいる全員を静かに見渡した。
間近で見るその姿は、空から眺めていたときとはまるで別物だった。
体長は優に三十メートルを超える。翼を畳んでいるそのときでさえ、周囲の木々が小さく見えた。漆黒の鱗の一枚一枚が夜の空気の中でぬらりと輝き、その巨体から発せられる圧は、空気そのものを重くしているようだった。呼吸のたびに鼻孔から漏れる熱気が、夜の冷気の中で白く揺らめいている。
地面に食い込んだ爪の跡が、土を深くえぐり取っていた。
燃え盛るような赤い双眸が、ゆっくりと動いた。ゴブリンたちを見渡し、そして——俺を、見た。
その視線が自分に向いた瞬間、時間が止まったような感覚があった。
恐怖とは少し違う。もっと根源的な、言葉にできない何かが、背筋を走り抜けた。
「ドラゴン……」
俺はそれだけを呟いた。
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