第十話「ドラゴンの暴威」
月明かりに照らされて、黒いドラゴンの威容がはっきりと見て取ることができた。
漆黒の鱗が月光を鈍く照り返し、その巨体の輪郭を浮かび上がらせている。翼を畳んでいるそのときでさえ、周囲の木々が小さく見えた。地面に食い込んだ爪の跡が、土をえぐり取っているのが見える。呼吸のたびに鼻孔から漏れる熱気が、夜の冷気の中で白く揺らめいていた。
ドラゴンは視線をゆっくりと俺たちに注ぐ。
目が合った瞬間、心臓が止まるかと思った。
赤い双眸。燃え盛るような色をしたそれが、俺を、そしてゴブリンたちを順繰りに捉えていく。品定めをするような、あるいは値踏みをするような、ゆっくりとした視線の動き。この場にいる全員の命を握っているのがそのドラゴンであることを、誰もが本能的に悟っていた。
永い永い時間に思える沈黙だった。
しかしその沈黙は、ゴブリンの一匹によって破られることになった。
――パキッ。
枝か何かを踏んだのだろう。それはひどく小さな破裂音のようなものだった。しかし、それが引き金となった。
ドラゴンの目が細められる。まるで『今無礼を働いたのは誰だ?』と言わんばかりに。
そして――。
『グガアアアアアアアア!!』
再度の咆哮。
それは音というより、衝撃だった。
咆哮の直後に訪れたのは、突風だった。まるで暴風の中心に放り込まれたような衝撃。肺の空気が一瞬で押し出され、悲鳴を上げる暇さえなかった。俺の体はまるで木の葉のように宙を舞い、地面がどんどん遠ざかっていく。木の枝が顔を掠め、葉が目に入り、何かが体に当たる感触が連続した。
――ドンッ!
激しく何かに叩きつけられる感覚。全身に鋭い痛みが走り、しばらく息ができなかった。それでも、意識だけは手放さなかった。
「ぐっ……」
呻きながら目を開ける。視界に広がるのは闇夜に浮かぶ森の木々。どうやら木の枝に引っかかったらしい。体の下には太い枝があり、それが俺の体を支えていた。地面まで十メートルはある。
ゴブリンたちに殴られた傷も、今の衝撃で一気に悪化した気がした。全身がずきずきと痛み、肋骨のあたりが特に鋭く疼く。まともに呼吸をするだけでも辛い。それでも、落ちるわけにはいかなかった。
眼下ではゴブリンたちの狂乱する声が響いていた。
「リュウ!」「ナンデ!」「ニゲロ!」
彼らは恐慌状態に陥り、悲鳴を上げながら四方八方に散り始めていた。笑みも余裕も、全部消え去っていた。つい先ほどまで俺とゴンタを弄んでいたあいつらが、今は獣のように逃げ惑っている。
その変わりようは、あまりにも劇的だった。
さっきまであれほど傲慢だったくせに。俺たちの命をゲームのように扱っていたくせに。それがたった一度の咆哮で、こうも崩れ落ちるのか。
俺の中に、奇妙な感情が湧いた。怒りでも安堵でもない。もっと冷たい、静かな何かだった。
その中には、恐怖で頭が飛んだのか、無謀にもドラゴンに立ち向かおうとする者もいた。棒を振り上げ、叫びながら突進していく。
だが、それはすべて無意味だった。
ドラゴンは圧倒的だった。
一度翼をはためかせるだけで、周囲の木々が根こそぎ引き抜かれ、地面がえぐり取られる。まるで嵐そのものが意思を持って動いているような光景だった。立っていることすら難しい。現にゴブリンの一匹は木の幹にしがみついたまま、それを離すことができないでいた。手を離せば即座に飛ばされるとわかっているのだろう。白目を剥き、ただ必死に木にしがみつきながら、震えて叫んでいる。
その光景を、俺は木の上から呆然と見ていた。
怖かった。
正直に言えば、体の震えが止まらなかった。ゴブリンたちの暴力とは、次元が違う恐怖だ。あいつらは確かに危険だったが、同じ生き物として理解できる範囲の脅威だった。しかし眼下で繰り広げられているのは、そういうものではない。
これは、災害だ。
嵐が生き物の形をして動いているような、そういう次元の話だ。
逃げたかった。しかし体が動かない。それは恐怖で固まっているせいだけじゃなく、ゴブリンたちに受けた傷が、全身をそうさせていた。
「……リュウ!」
果敢にも、一匹のゴブリンがドラゴンの巨体にしがみついた。鱗の隙間に指を突っ込み、必死によじ登ろうとしている。
木の上から見ていて、俺はその姿に複雑な感情を抱いた。
こいつは確かに、俺たちを殺そうとした敵だ。それは間違いない。しかし今この瞬間、命がけで抗おうとしているその姿は、惨めで、哀れで――どこかわずかに、悲しかった。
しかしあの黒い鱗に覆われた巨体に、素手で傷を負わせることなど敵わない。
鬱陶しいとばかりにドラゴンが僅かに身を震わせた。それだけで十分だった。
ゴブリンは弾き飛ばされ、放物線を描いて地面に叩きつけられた。鈍い音がした。絶叫が上がり、次の瞬間には巨大な足が振り下ろされた。地面が揺れた。そのゴブリンが上げていた声が、完全に途絶えた。後に残ったのは、黒い大きな地面のしみだけ。
木の上から見ていた俺は、思わず目を逸らした。
胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてくる感覚がした。吐き気をこらえながら、俺は枝をきつく掴んだ。
ドラゴンは止まらない。
尻尾がうなりを上げ、逃げようとしたゴブリンを横薙ぎに弾き飛ばした。直撃したゴブリンは声も出さず、木の幹に激突して地面に落ちた。もう動かなかった。別の一匹が必死に茂みに逃げ込もうとするが、ドラゴンの爪が大地を抉り、その逃げ場ごと消し飛んだ。
さらに別の一匹が、全力で森の奥へと走っていく。必死の逃走だった。その速さは、俺がこれまで見たゴブリンの中でも群を抜いていた。恐怖が足を動かしているのだろう。
しかしドラゴンはそれを見逃すような存在ではなかった。
ゆっくりと首を巡らせ、逃げるゴブリンを視界に捉える。そして――大きく息を吸い込んだ。
あの動作を、俺は知っていた。
「っ……!」
目を閉じた。
次の瞬間、熱気が木の上まで届いた。轟音と炎の光が瞼越しに赤く滲んだ。悲鳴が上がり、そして消えた。焦げた匂いが鼻を突く。
俺は目を開けなかった。しばらくの間、ただ枝にしがみついたまま、固まっていた。
ドラゴンの前では、逃げることも、抗うことも、意味をなさない。
そのことを、俺は今、骨の髄まで理解させられた。
「くそっ……ゴンタ……」
痛みをこらえながら視線を巡らせる。下の方に、縛られたまま木の根元に転がっているゴンタの姿を見つけた。動きがない。
「ゴンタ!」
急いで木から降りようとする。しかし体がまともに動かなかった。全身が悲鳴を上げている。それでも歯を食いしばり、枝を掴みながら少しずつ下へと降りていく。途中で何度もバランスを崩しかけたが、落ちるわけにはいかなかった。
正直、かなり怖かった。
あの暴威がこちらに向けられたら――いや、少しでも流れてきただけでも俺は終わりだ。しかしゴンタのそばに行かなければ、という思いの方が、その恐怖を上回っていた。
「……頼むから、こっちに来ないでくれよ……」
祈るように呟きながら、一段また一段と降りていく。
眼下ではまだドラゴンの暴威が続いていた。断末魔が飛び交い、そして次第に途絶えていった。
ようやく地面に降り立った。足元には見たくないものが広がっていたが、それを見る余裕はなかった。ただゴンタのもとへと、転びそうになりながら駆け寄る。
「ゴンタ、大丈夫か!?」
膝をつき、彼の体を揺さぶる。返事はない。しかし胸が微かに上下しているのが見えた。呼吸がある。生きている。
その事実に、全身から力が抜けそうになった。
「よかった……本当に、よかった」
思わず、声に出ていた。
縛られた縄を急いで解こうとする。しかし指先がうまく動かない。痛みと震えで、細かい作業ができなかった。歯を食いしばりながら、それでも縄を引き続ける。ゴブリンたちに殴られた手が、じくじくと疼いた。
そして、その時だった。
強烈な視線を感じた。
背中の産毛が、一斉に逆立つような感覚があった。振り向きたくなかった。しかし、視線の主が何であるか、俺には既にわかっていた。
ゆっくりと顔を上げる。
そこにいたのは、ドラゴンだった。
いつの間にか、ゴブリンたちの声は完全に途絶えていた。森の中に死の静寂が広がっている。呻き声ひとつない。残っているのは、焦げた匂いと、ドラゴンの呼吸音だけだった。
その赤い瞳が、俺だけを捉えている。
全身が硬直した。逃げようにも体が動かない。立ち上がることも、叫ぶことも、できなかった。目の前の存在が放つ圧倒的な威圧感が、俺の体を地面に縫い付けていた。
頭の中が、妙に冷静になっていた。
不思議なことだと思う。あれほど恐怖していたのに、今この瞬間、俺の頭の中は静かだった。体は震えている。歯は鳴りそうになっている。それでも、思考だけは奇妙なほど澄んでいた。
こいつは、俺を殺すのか。
それとも――。
赤い瞳がこちらを見続けている。その眼差しの中に、ただの殺意だけではない何かを、俺は感じた。それが何なのかはわからない。しかし確かに、何かがあった。
「っ……!」
俺が唯一できたのは、咄嗟にゴンタの上に覆いかぶさることだけだった。
意味があるかどうかなんてわからない。ゴンタを守れるかどうかも。ただ、今の俺にできることはそれしかなかった。
このまま見逃してくれ。どこかへ行ってくれ。頼む。ゴンタだけは、助けてくれ。
しかし。
ズシン……ズシン……。
俺の願いは通じず、巨大な足音が、ゆっくりと近づいてくる。
一歩ごとに地震のように地面が揺れる。足音が近づくたびに、心臓が喉元まで跳ね上がってくる感覚がした。息遣いが聞こえてくるほどの至近距離。鼻を突く熱気が、吐き出される息のたびに頬を撫でた。焦げた匂いと、獣の匂い。生臭さと熱気が混ざり合った、逃げ場のない臭い。
耳元で、低いうなり声が聞こえた。
俺の真上に、ドラゴンの顔があるのだろう。
生きた心地がしなかった。体の震えが止まらない。歯が鳴りそうになるのを、必死で堪えた。ゴンタの体を、できる限りきつく抱きしめた。せめてこいつだけは、俺の体を盾にして守りたかった。
目を強く閉じた。
次の瞬間に何が起きるのかを、考えることができなかった。いや、考えたくなかった。ただ、ゴンタの微かな呼吸の感触だけを確かめながら、俺はじっとしていた。
しかし――何も起きなかった。
代わりに、ふと空気が変わる感覚があった。あれほど重く肌に貼り付いていた圧が、潮が引くように薄れていく。
熱気が遠のいた。足音が、ない。
うなり声が、止んでいた。
そして次に訪れたのは、再び吹き荒れる突風だった。
「――っ!?」
反射的に身を縮こまらせ、ゴンタをより強く抱える。髪が激しくなびき、地面の枯れ葉や土が一斉に舞い上がった。それが俺たちの上に容赦なく降りかかってくる。目を開けていられない。
それでも、わずかに視界の隙間から見えたのは、漆黒の巨影が夜空へと舞い上がっていく姿だった。
翼が大気を叩く音が遠ざかっていく。一度、二度。その音がどんどん小さくなっていった。
やがて風が止み、静寂が森を支配した。耳鳴りだけが、しばらく残り続けている。
「……助かった、のか?」
呆然と、ドラゴンが飛び去った方向の夜空を見上げ続ける。木々の間から覗く空には、異世界の象徴とも言える三つの月が、青白く静かに輝いていた。
それはひどく、穏やかな光景だった。
俺はしばらく、その光景を見つめたまま動けなかった。体の震えが、なかなか収まらなかった。
「……ゴンタ」
腕の中で、ゴンタが小さく唸った。
生きている。
それだけで、今は十分だった。
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