第七話「雨上がりと訪問者」
ようやく雨は上がった。
太陽の光が森を照らしている。木々の葉が雨粒を弾き、きらきらと輝いていた。地面はまだ湿っていて、踏み込むたびにじわりと沈む感触があるが、空は嘘のように青く澄み渡っている。鳥のような生き物が、遠くで鳴いていた。雨の間はまったく聞こえなかったその声が、今日は清々しく耳に届く。
「やっと晴れたな……」
俺は腕を大きく広げ、久々に浴びる太陽の温かさを全身で感じた。長く続いた雨のせいで体も心も湿っぽくなっていたが、今は自然と笑顔になれる。
ゴンタも同じように両手を広げ、気持ちよさそうに伸びをしていた。
「アサヒ、キモチイイ」
「本当にな」
振り返ると、ここ何日も過ごした岩場には、俺たちの生活のあとが残っている。消えかけた焚き火の跡、積み上げた薪の残り、食料を置いていた平たい岩。あの子供が泣き止んだ夜、音楽を流したあの場所。短い間だったが、確かにここで生きていた痕跡だ。
ここで過ごすことはもうないのだと思うと、不思議とこみ上げてくるものがある。
「……よく言うよな。『止まない雨はない』って」
「ソレ、イイコトバ」
使い古されたような言葉だ。日本にいたころ、ドラマや映画の中でしか聞いたことがなかった。現実でそれを口にする人間なんて、少なくとも俺の周りにはいなかった。それをまさか、自分で口にするとは。
ゴンタの言葉に気恥ずかしくなって、頬を人差し指で掻く。
「ケイスケ、アカイ」
「……うるさい」
ゴンタがくつくつと笑う。ゴブリンが笑う姿にもすっかり慣れた。
ふと空を見上げると、遠くに黒い影が見えた。
「……久しぶりに見たな」
悠々と空を飛ぶ、あの巨体。
「ゴンタ、あれってやっぱりドラゴンなのか?」
「アレ、リュウ」
「竜……龍か。どっちだろう。まあ、どっちでもいいか」
この世界ではドラゴンではなく、リュウと呼ぶらしい。
初めてその姿を見たときは、興奮で声が出なかった。炎を吐く姿を目にしたときは、しばらく呆然と立ち尽くした。しかし今は、空にリュウが飛んでいることを当たり前のように感じている自分がいる。
人間の適応力というのは、つくづく大したものだと思う。
「ゴンタ、リュウって怖くないのか? お前たちにとって」
ゴンタはしばらく考えてから、首を傾けた。
「コワイ、チガウ。スゴイ、イダイ。スゴイ、ツヨイ」
「害はないのか?」
「コッチカラナニモシナケレバ、ナニモナイ」
「なるほど……」
今のところ、遠くから眺めているだけで実害はないが。
「その何もしなければ、ってのが、どのくらいのことか、だな」
「ナンデ、キニスル?」
「いや……知らずにリュウの期限を損ねたりしたら、やばいだろ?」
ゴンタは少し考えてから、真顔でこう言った。
「ケイスケナラ、ダイジョウブ」
「それはどういう意味だ……?」
ゴンタはまたくつくつと笑った。俺はため息をついた。
ゴブリンたちの顔は明るかった。
メイコも、ゴンスケも、ゴンザブロウも、子供たちも、揃って空を見上げ、嬉しそうに声をあげている。雨の中で失った仲間のことを思えば、手放しで喜べない部分もあるだろう。しかし彼らはそれでも、晴れた空を素直に喜んでいた。その姿が、俺にはとても眩しく見えた。
あの夜音楽で泣き止んだあの小さな子供は、今日は別の子の手を引きながら歩き回っている。俺の姿を見つけると、ぱたぱたと駆け寄ってきた。
「ギャ!」
「おう、おはよう」
子供は俺のポケットをじっと見ている。昨夜のスマホのことを覚えているらしい。
「今日は駄目だ。やることやってから、だな」
「ギャ……」
しょんぼりした顔をする子供に、思わず笑みがこぼれた。ゴンザブロウが後ろからやってきて、その子の頭を撫でながら何かを言い聞かせた。子供はむくれながらも、ゴンザブロウについて歩いていった。
「ゴンザブロウ、面倒見がいいな」
「ギャッ!」
遠くからゴンザブロウが胸を張るのが見えた。
「夜にでも聞かせてやるか」
俺は笑みを浮かべて、大きく背伸びをした。
だが、喜んでばかりもいられない。
集落は、ほぼ流されてしまっていた。
昨日、恐る恐る元の場所を確認しに行ったところ、竪穴式の住居のほとんどが泥に埋まるか、川の流れに削り取られていた。祭壇の丸い石も泥の中に埋もれていて、探すのは困難な状態だった。
これからまた、一から集落を再建しなければならない。
思えばゴブリンたちの集落の建物は、原始的で簡素だった。木と土と葉っぱで作られた、嵐が来れば壊れることを前提とした造りだ。こういった経験を何度も繰り返すうちに、自然とそういった形に落ち着いたのだろう。建て直せる構造にしておくことが、この過酷な環境での生存戦略なのだ。
「手伝えることは手伝うぞ」
俺がそう言うと、メイコが少し驚いたような顔をしてから、嬉しそうに頷いた。
「ケイスケ、ムリシナイ」
「大丈夫だ。じっとしてる方が性に合わない」
メイコはもう一度頷いてから、指示を出し始めた。
再建作業が始まるまでの間、俺はスマホを取り出してアペイロスのアプリを立ち上げた。
「まだ、同期は完了しないか」
ローディング画面は動いている。読み込んでいるのは確かだ。しかし進捗を示すバーは、昨日と変わらないように見えた。
「というか、全然進んでいないな……」
ネットにも繋がっていないのに、何を読み込んでいるのか。そもそも、なぜこのアプリが起動しているのか。
俺はアプリの画面をしばらく眺めてから、ふと思った。魔石を飲んだとき、体の中に感じたあの温かさ。体の内側を流れるような、あのエネルギーの感覚。もしかして、あれと関係があるのだろうか。
アペイロスは量子通信を利用したシステムだった。量子レベルの信号のやり取りが基盤にある。そして魔石は――この世界に満ちている何らかのエネルギーの結晶だ。
「……まさかな」
俺は苦笑して、スマホをポケットに戻した。考えすぎかもしれない。ただ、頭の片隅にひっかかりが残った。
午後になり、集落の再建作業が本格的に動き始めた。
ゴンタとゴンスケが太い木の枝を運び、ゴンザブロウが器用に蔓を使ってそれを結わえていく。子供たちも小さな石を集めたり、枯れ葉を運んだりと、それぞれ自分にできることをやっていた。
俺も穴を掘る作業に加わった。石のナイフと木の棒を使った原始的な作業だが、やることが明確だと体が動きやすい。汗が滲んでくるが、久しぶりの太陽の下での作業は悪くなかった。
「ケイスケ、ソコ、モウスコシ、フカク」
メイコが指示を出しながら通りかかる。
「これくらいじゃ足りないか?」
「アメ、フルト、チガウ。フカイホウガ、イイ」
「なるほど、雨で地盤が緩むからか」
「ソウ。マエモ、ソレデ、ナガレタ」
俺は黙って掘り続けた。こういう細かい知恵が、彼らの生存を支えているのだろう。住居の深さひとつとっても、何度もの失敗から学んだ結果が反映されている。
しばらく作業を続けていると、ゴンスケが妙に張り切っているのに気づいた。重い枝を一人で抱えようとして、よろけている。
「ゴンスケ、二人でやれ」
「ギャッ! ダイジョウブ!」
「絶対大丈夫じゃないだろ、それ」
俺が手を貸そうとすると、ゴンスケはむきになってさらに踏ん張った。結果、見事にバランスを崩して枝ごと横倒しになった。
「ギャ……」
地面に転がったゴンスケを、俺とゴンタで引き起こす。ゴンタが何か言いながら呆れた顔をしている。ゴンスケは照れ隠しなのか、プイッと顔を背けた。
「大丈夫か?」
「ダイジョウブ」
強がりながらも耳が赤くなっているのが、なんとも愛嬌があった。
やがて、ゴンザブロウが歓声をあげた。
「アッタ!」
見ると、泥の中から祭壇の丸い石を掘り出していた。あの集落の中央に祭られていた、人の頭ほどの大きさの丸い石だ。
「よかったな、無事だったか」
「ギャ!」
ゴンザブロウは大事そうに石を抱えると、新しい集落の中央になりそうな場所へと運んでいった。その後ろを、子供たちが興奮した様子でついていく。
あの石が戻ってきただけで、ここがもう集落に見えてくるから不思議だ。
石を置いた場所で、ゴンザブロウは丁寧に泥を拭い、それから深く頭を下げた。子供たちも真似をして、並んで頭を下げている。
その光景を見て、俺も黙って頭を下げた。
何に祈っているのかはわからない。しかし、祈るという行為そのものが、今この場には必要な気がした。
休憩の時間になり、俺はゴンタの隣に腰を下ろした。ゴンタは木の実を齧りながら、そのうちの一つを俺に差し出してくる。
「ありがとう」
受け取って口に入れる。酸味と甘みが混じった、この世界に来てから何度も食べた味だ。
いつの間にか、これが普通になっていた。
日が傾き始めたころ、森の方から物音がした。
ゴンタが真っ先に気づき、素早く立ち上がった。その表情が一瞬、鋭くなる。
「……ナニカ、クル」
俺も音のした方向に目を向けた。木々の間から、何かが近づいてくる気配がある。ゴンスケとゴンザブロウも作業の手を止め、警戒した様子で身構えた。メイコが素早く子供たちを背後に下がらせる。
ゴンザブロウが俺の前に立った。庇うような位置取りだ。
「ゴンザブロウ、大丈夫だ」
「ギャッ」
退かない。俺は苦笑しながら、その肩越しに前方を見つめた。
やがて、草をかき分けて姿を現したのは——二体のゴブリンだった。
俺たちの集落のゴブリンたちとは、明らかに雰囲気が違う。腰ミノの素材も色も違うし、体のあちこちに泥がこびりついている。片方は足を引きずっていた。もう片方が、その体を支えるようにしながら歩いてきている。目は落ちくぼみ、頬もこけていた。何日も満足に食べていないのかもしれない。
二体は俺たちの姿を見て立ち止まった。そして——俺の姿を見て、明らかに動揺した。片方が後退りし、もう片方がその腕を掴む。二体の間で素早く言葉が交わされた。
「ゴンタ、俺を見て怖がってるのか?」
「タブン、ニンゲン、ハジメテミタ」
「そうか……」
俺は一歩後ろに退いた。まずはゴンタたちに任せた方がいい。
二体はしばらく迷っていたが、やがて意を決したように前に出て、ゴンタに向かって何かを叫んだ。
「ギャギャ、ギャーッ! ギュギャ、ギャギャギャ!」
必死な様子だった。叫びながら、来た方角を何度も指さしている。その目には、疲弊と恐怖が滲んでいた。
ゴンタの表情が、みるみる険しくなった。
「ケイスケ」
「なんだ?」
「アッチノ シュウラク、タスケ、モトメテル」
俺は二体のゴブリンを見た。足を引きずっている方の傷は、乾いた血と泥が混じって固まっていた。相当な距離を歩いてきたのだろう。
「何があったんだ?」
ゴンタはしばらく二体と言葉を交わした。二体は交互に話し、時折声を詰まらせながら、何かを伝えようとしていた。
やがてゴンタが俺の方を向いた。その目が、何かを測るように俺を見ていた。
「ヨク、キイテクレ」
ゴンタの声は、いつになく静かだった。
俺は頷き、耳を傾けた。
遠くで、あの小さな子供がゴンザブロウの手を握りながら、こちらをじっと見ていた。
最後までお読みいただきありがとうございます!
ちょっとでも楽しんでいただけたなら、何よりです!
もし「いいな」と思っていただけたら、
お気に入り登録や評価をポチッといただけると、とても励みになります!
コメントも大歓迎です。今後の執筆の原動力になりますので、
どんな一言でも気軽に残していただけたら嬉しいです。
これからも【悠久の放浪者】をどうぞよろしくお願いします!




