第五話「雨」
それからさらに十日が過ぎた。
俺はすっかりこのゴブリンたちの生活に馴染んでいた。
彼らの集落での生活は思っていたよりも快適で、むしろ俺のほうが文明に頼りすぎていたことを思い知らされる毎日だ。
今朝も、いつものように罠の確認をするため、森の中へと足を運ぶ。仕掛けた罠に、茶色いウサギがかかっていた。縄に絡まったまま、ピクリとも動かない。
「すまんな……」
ウサギの首元に手を添え、石のナイフで素早くしめる。
まだ完全に慣れたとは言えないが、最初の頃に比べればだいぶ手際がよくなった。
生きるために食べる。それだけのことだ。血抜きのため足を縛り、近くの木の枝に吊るす。
そのとき、遠くから低い咆哮が聞こえてきた。
顔を上げ、空を見上げる。
そこには、黒いドラゴンの姿があった。
「おおー……!!」
思わず息を呑む。
今日はいつもより高度が低い。
そのせいか、細部まではっきりとその姿が見えた。
鋭く尖った顔に、一対の長い角。全身を覆う黒い鱗は、朝の光を受けてぬらりと輝いている。翼とは別に、しっかりとした腕まである。翼を一度大きくはためかせるたびに、低い風切り音が遠くまで響いた。
その巨体は、見るたびに圧倒的だ。体長はざっと見ても三十メートルは超えているだろう。翼を広げればその倍以上の幅になる。あれほどの質量が空を飛んでいるという事実が、いまだに信じがたい。
しかも、ただ飛んでいるだけではなかった。
ドラゴンはゆっくりと旋回しながら、上昇気流を捉えるように翼の角度を細かく調整している。その動きはどこか優雅で、巨大な生き物とは思えないほど滑らかだった。
「やっぱ火とか吐くのかな……」
そう思った瞬間、まるでこちらの考えを読んだかのように、ドラゴンが大きく口を開いた。
ゴオオォォォ——!
轟音とともに、炎の柱が空へと吐き出された。
オレンジと赤が混じった炎は、風に流されながらも鮮烈な光を放ち、朝の空をひととき染め上げる。
「……本当に吐いた」
思わず立ち尽くす。
炎を吐いた後、ドラゴンはまるで満足したかのようにゆったりと翼を動かし、遠ざかっていった。
その後ろ姿が森の向こうに消えるまで、俺はずっと目で追い続けた。
「毎度見るたびに、なんかこう……興奮するな」
独り言を言いながらも、口元が緩んでいるのがわかった。
男なら誰でも好きだろう、ドラゴン。
ドラゴンが視界から消えると、俺は処理を済ませたウサギを持って急流の岩場へと向かった。
今日は一人だ。
メイコやゴンタたちは集落で別の作業をしている。
岩の上に腰を下ろし、葉っぱを敷いて座る。魔法の訓練をしてみるつもりだった。
「うーん……体の中にホワンとしたものがあるのはわかるようになってきたけど……これをどうすればいいのかがわからないな」
魔石を飲んだときに感じた、あの独特な感覚。
体の中を流れるエネルギーのようなものが確かに存在しているのはわかる。
だが、それをどう扱えばいいのかがわからない。肉体を強化する魔法とか、空を飛ぶ魔法とか、色々あるんだろうが、如何せん先に進めないのが現状だった。
「メイコが教えてくれればいいんだけど……言葉がまだ追いつかないからなあ」
彼らの言葉は、かなり理解できるようになった。日常生活に必要な会話ならほぼ問題ない。
しかし魔法に関しては話が別だ。魔法の理論や概念を、どうやって伝えればいいのかわからない。
一時間ほど瞑想を続けたが、何も進展はなかった。諦めて立ち上がる。
その瞬間、頬に冷たいものが落ちてきた。
「……雨か?」
集落へ戻ると、ゴブリンたちがいつになく慌ただしく動き回っていた。
ゴンザブロウが竪穴住居の入り口に大きな葉っぱを何枚も重ねて被せ、ゴンスケが食料を住居の奥へと運び込んでいる。
子供たちは親に手を引かれ、足早に住居へと押し込まれていた。
「何事だ?」
「アメ、オオキイアメ、クル」
ゴンタが空を見上げながら答える。その表情は珍しく険しかった。
俺も空を仰ぐ。たしかに雲の色が違う。朝とは打って変わって、黒みを帯びた灰色の雲が西の方角から猛烈な勢いで押し寄せてきていた。
「あれはまずいな……」
メイコが俺の前に来て、住居を指さした。
「ケイスケ、ハイレ」
「ああ、わかった」
しかし住居に入る前に、俺は罠を確認しに行くことにした。このまま大雨になれば罠が流されてしまうかもしれない。
「ゴンタ、俺はちょっと罠を――」
「ダメ! ハヤク、カエレ!」
ゴンタが珍しく大きな声を上げた。その剣幕に、思わず言葉を呑む。
「……わかった、戻る」
俺が頷くと、ゴンタはホッとした顔をした。どうやら本当に危険な雨らしい。
住居の中では、ゴンスケとゴンザブロウがすでに食料の整理を終え、所在なさげに座っていた。メイコが奥で子供たちをあやしている。
「ギャ……」
ゴンザブロウが、自分の名札をそっと握りしめながら外の音に耳をすませていた。その横顔が、どこか不安そうに見えた。
「大丈夫だ、ゴンザブロウ」
俺がそう声をかけると、彼はこちらを見て、小さく頷いた。
雨はすぐにスコールのような土砂降りになった。
瞬く間に空は灰色に染まり、大粒の雨が容赦なく降り注ぐ。風も強く、木々の枝が激しく揺れて葉が舞い散る。住居の入り口に被せた葉っぱがバタバタとはためき、隙間から雨粒が吹き込んでくる。
外の様子を少し覗くと、集落の広場はすでに水浸しになっていた。あの丸い石の祭壇も、今は泥水に半分浸かっている。
「うわ……すごい降りだな」
「コレ、フツウ」
ゴンタが淡々と言った。
「これが普通なのか……」
俺が驚いていると、ゴンスケが木の実を差し出してきた。暇つぶしに食えということらしい。
「……ありがとう」
木の実を齧りながら、外の雨音を聞く。住居の中は狭くて薄暗いが、体を寄せ合うゴブリンたちのおかげか、思ったより温かかった。
しばらくすると、ゴンザブロウが俺の膝に頭を乗せてきた。
「……お前な」
見れば、ゴンタとゴンスケも俺の両隣にぴったりとくっついてきている。
「お前ら、犬か」
三人は知らん顔だ。
メイコだけが少し離れたところから、呆れたような、でもどこか嬉しそうな顔でこちらを眺めていた。
それからしばらく経ったころ、住居の外からゴンタの名を呼ぶ声が聞こえた。
ゴンタが顔を上げ、外に飛び出していく。俺も続いて外に出ると、別の集落のゴブリンらしき個体が息を切らせて立っていた。二人はしばらく話し込んだあと、ゴンタが振り返った。
「カワ、カワッタ、アブナイ」
俺ははっとした。
川の増水で流れが変わる可能性がある。治水も何もない自然の川だ。大雨のたびに川筋が変わるというのは、十分あり得る話だった。
集落の近くを流れているあの急流が向きを変えれば、ここまで水が来かねない。
「みんなを高いところへ移動させないといけないな」
「ソウ、モウ、イドウスル」
ゴンタが頷く。
メイコがすでに子供たちをまとめ、出発の準備を始めていた。さすが集落の女王だ、判断が早い。
俺たちは食料と最低限の道具を持ち、上り坂へと向かって走り出した。
道はぬかるみ、足を取られるたびに転びそうになる。大粒の雨が顔に打ちつけ、視界が悪い。それでも、ゴンタが前を走りながら何度も振り返り、俺の様子を確認してくれた。
やがて、雨風をしのげる岩場の陰にたどり着いた。岩の張り出しが屋根のように雨を遮り、地面も比較的乾いている。
「はぁ……」
俺は深く息をつき、ずぶ濡れの体を抱えた。子供たちを確認すると、全員無事だ。メイコが一人ひとりの体を確かめながら、安堵した様子で頷いている。
「タブン、コノママ、ズットフル」
ゴンタが空を見上げて言った。灰色の雲は厚く、どこまでも続いている。
「暖を取らないとまずいな……火を起こすにも薪が——」
俺が周囲を見回すと、岩の陰に乾いた枯れ枝が束ねて置かれていた。
「……用意してたのか?」
「マエモ、コウナッタ」
ゴンタが当然とばかりに答える。
俺は思わず笑った。彼らはこの嵐を何度も経験してきたのだ。どこへ逃げるか、何を持ち出すか、何を準備しておくか――全部、体に染み込んでいる。
俺が火を起こすと、子供たちが集まってきた。ゴンザブロウが俺の隣に陣取り、その隣にゴンタとゴンスケが続く。
炎の揺らめきが岩場を温かく照らす中、ゴブリンたちの顔が穏やかに緩んでいくのが見えた。
「生き延びるために、できることをする。それだけだな」
俺は小さく呟いた。
雨音は続いている。でも、この岩場の中は不思議と、悪くない気分だった。
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