第二十一話「別れと平原」
木々の間隔が広がっていくのは、じわじわとした変化だった。
気づけば足元の草が柔らかくなっていて、頭上の葉のざわめきが薄くなっていた。差し込む光が増えて、目が慣れるまで少しかかった。それだけ、俺たちはずっと森の中にいたのだ。
ゴンタが黙って前を歩いている。その後ろにゴンスケ、ゴンザブロウが続き、今は俺が最後尾だった。誰も口を利かなかった。この一か月、そういうときは大体、全員が同じことを感じているときだった。
この一週間くらいは、魔獣との遭遇も少ない。一昨日からは一度も見ていない。
歩くごとに、森が薄くなっていく。
足元に踏みしめる草の感触が変わった。硬くて湿った腐葉土の感触が消えて、乾いた、少し弾力のある草地になっていく。頭上から降り注ぐ光の色が、緑がかった木漏れ日から、白くまっすぐな日差しに変わっていった。
そして、木々が途切れた。
一陣の風が吹き抜けて、木々を揺らす。
さらに一歩踏み出すと、視界が一気に開けた。
「……すげぇ」
思わず足が止まった。
目の前に広がっているのは、広大な平原だった。地平線の先まで続く草原。緑と黄金色が混ざり合ったような草が、風に揺れている。遠くの方に、なだらかな丘の稜線が見える。空が、広い。森の中では木々に遮られていた空が、今は頭上から地平線まで全部見えている。見渡す限り、遮るものが何もない。
俺はしばらく、ただその景色を眺めていた。
一か月以上歩き続けて、ようやくたどり着いた場所だ。最初は足元を確かめながら恐る恐る歩いていた。迷子になりかけたこともあった。雨に降られて体が冷えた夜もあった。山を越えるとき、ゴンタに手を引いてもらった。川を渡るとき、ゴンスケが変な声を上げ続けた。ゴンザブロウが橋代わりの倒木を名札を押さえながら慎重に渡った。リラが何度「あれは何ー」と聞いてきたかわからない。
それでも、ここまで来た。
この先に何があるのかはまだわからない。人間の村があるとゴンタは言っていた。どんな人たちがいるのか、どんな暮らしをしているのか、俺のことをどう受け取るのか、まるでわからない。
でも確実に、新しい世界が待っている。
『わあ、ひろーい!』
リラが歓声を上げて、平原の上をふわりと飛んだ。俺の影から飛び出したリラが、草の上を低く滑るように進んでいく。風に揺れる草の穂が、その下をくぐるようにして流れていく。それを見ているだけで、なんだか少し気持ちが軽くなった。
『ねえ、あそこの丘の向こうに何があるんだろー? 行ってみてもいい?』
「行くな。迷子になる」
『リラはどこでもケイスケのそばにいられるもん。迷子にはならないよ』
「俺が迷子になるんだよ」
『あー……、そっかー』
リラが戻ってきた。俺の足元の影の中にするりと入り込む。
俺はもう一度、平原に目を向けた。それから後ろを振り返った。ゴンタたちに感想を言おうとした。
その瞬間だった。
「ケイスケ、オレタチ、ここマデ」
ゴンタが静かにそう言った。
「……え?」
振り返ると、三人は森の境界線でじっと立っていた。木々の影の中に、ゴンタ、ゴンスケ、ゴンザブロウが並んでいる。平原には一歩も踏み出していない。足が、森の端でぴたりと止まっていた。
わかっていたことだ。ゴブリンたちは人間の領域の手前まで、という取り決めだった。頭ではわかっていた。こうなることはわかっていた。でも、いざその瞬間が来ると、言葉が出てこなかった。
「コノサキ、ニンゲン、ムラアル」
ゴンタが言った。
「……そうか」
俺は自分の声が、少し掠れているのに気がついた。
ゴンタたちを見た。三人とも、こちらをじっと見ている。
ゴンスケは口をへの字に結んでいた。感情を表に出すのが苦手なわけじゃないのに、今は何も言わなかった。
ゴンザブロウは名札を両手でそっと握っていた。その手が、わずかに白くなっている。
そしてゴンタが俺をじっと見つめた。それから、ニカっと笑った。隠すものが何もない、あの屈託のない笑顔だ。村で初めて出会ったときから変わらない。それどころか、この旅の間で何度も見た顔だ。転んで泥だらけになったときも、川を渡るのに手こずったときも、夜の焚き火の前でも、あの顔で笑ってくれた。
「ケイスケ、ダイジョウブ」
その一言で、胸の奥に何かが込み上げてきた。
「ケイスケ、ツヨイ。シッテル」
「……そうか」
「ニンゲン、コワクナイ。ゴンタ、シッテル」
ゴンタはまっすぐに俺の目を見たまま、静かに続けた。
「ケイスケ、ヒカリ、モッテル。ダイジョウブ」
光を持っている。ゴンタがそう言う意味が、俺には伝わった。魔法のことだけじゃないと思った。
俺はゴンタたちに向き直り、深く頭を下げた。
「……本当に、ありがとう」
言葉にすると陳腐になる気がして、ずっと言いそびれていたことだった。でも今は、それしか言えなかった。
ゴンタたちがいなければ、俺はここまで来られなかった。森での生き方を教えてくれたのはゴンタだ。初めて食料を分けてくれたのもゴンタだ。危ない場面では体を張ってくれた。文句ひとつ言わずについてきてくれた。命の恩人で、頼もしい友人で、最高の旅の仲間だった。
頭を上げると、ゴンタが少し困ったような、照れたような顔をしていた。
「ケイスケ、タノシカッタ」
ゴンタが言った。
「俺もだ」
俺は右手を差し出した。
ゴンタは不思議そうな顔をした。この世界に握手という文化はないのだろう。じっと俺の右手を見て、それから顔を上げた。
「手を、握ってくれないか」
そう言うと、ゴンタはゆっくりと手を伸ばしてきた。
ゴンタの手は、俺の手より一回り小さかった。でも、ごつごつとして、硬かった。長い間一緒に歩いてきた手だ。山を越えるとき、俺の腕を引っ張ってくれた手だ。川を渡るとき、流されそうになった俺を受け止めてくれた手だ。
しっかりと握った。ゴンタも握り返してきた。力強く、まっすぐに。
どれだけそうしていただろう。たぶん数秒だったと思う。でも、なんだかもっと長い時間のような気がした。
ゴンタが先に手を離した。離す瞬間、指が少しだけ名残惜しそうだった。
「ゴンタ、マツ」
「……待っていてくれるのか」
「ケイスケ、カエッテクル。ゴンタ、シッテル」
俺は何も言えなかった。ただ頷いた。
ゴンスケが「オレモ!」と言って勢いよく手を伸ばしてきた。俺が握ると、想像以上の握力が返ってきた。思わず顔をしかめると、ゴンスケが嬉しそうに笑った。力加減なんてものをゴンスケは知らない。それがゴンスケらしかった。
「ゴンスケ、マツ」
「ああ。待っていてくれ」
ゴンスケはもう一度力強く手を握ってから離した。その目が少し赤くなっているように見えたが、本人は全く気にしていない様子だった。それも、ゴンスケらしかった。
ゴンザブロウは少し間を置いてから、そっと手を差し出してきた。
ゴンザブロウの手は、三人の中で一番小さかった。俺が握ると、ゴンザブロウはもう一方の手で胸元の名札をそっと押さえた。
名前をつけてもらったことを、ずっと大切にしていた。その名前と一緒に、この別れも覚えていてくれるのだろう。
何も言わなかった。ゴンザブロウも何も言わなかった。でも、それだけで十分だった。
言葉はそれ以上続かなかった。続ける必要もなかった。
俺は手を離すと、前を向いた。
一歩、平原へ踏み出す。草が足元でかさりと鳴った。
背後に、三人の気配を感じた。じっとこちらを見送っている。その気配が、背中に伝わってくる。
振り返らなかった。
振り返ったら、いつまでもここに立っていそうだったから。
ただ前だけを向いて、歩いて。歩いて。そしてまた歩いた。
草が揺れている。風が頬を撫でる。空が広い。足が重い気もする。それでも歩いた。遠くの丘の稜線を見据えて、ただ前へ。
歩きながら、俺は色々なことを思い出した。
ゴンタと初めて出会ったとき、俺はゴブリンが怖かった。それがいつの間にか、俺を守ってくれる仲間になっていた。ゴンスケが幼虫を食っているのを見て、この世界に慣れるのは無理だと思ったこともあった。ゴンザブロウが名札を大切そうに触るのを見て、名前というものの重みを改めて感じた。
それら全部が、もうずっと昔のことのように思える。
でも、ついさっきまで一緒にいた。
どれだけ歩いただろうか。
気づくと、足が少し重くなっていた。俺はなんとなく立ち止まった。
ふと振り返ると、森はもうかなり遠くなっていた。
「……あ」
森の入り口に、小さな影が三つあった。
ゴンタたちは、まだそこにいた。
こんなに歩いてきたのに、まだ見送ってくれていた。俺が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていてくれたのだ。
景色が急にぼやけだした。
まるで急に水の中に入ってしまったようだった。息もうまくできない。喉の奥に、何かが詰まってしまったかのように。
目から溢れ出るものを、止めることができなかった。
三つの小さな影は動かなかった。風が草を揺らす。その向こうで、三人が立っている。
「……ありがとう、みんな」
声は、きっと届いていない。でも言わずにいられなかった。
目を拭わないまま、俺は無理やり森に背を向けた。ぼやけた視界のまま、足を踏み出す。
涙が零れても、足取りは確かに大地を踏みしめていた。
この広大な異世界で、俺の新たな旅が始まる。そのことが、悲しさと一緒に、胸の奥でじわりと温かかった。
『なんで泣いてるのー? また帰ってくるんでしょ?』
不意に、明るい声が降ってきた。リラだった。俺の少し前を、ふわふわと飛んでいる。
俺は思わず、小さく笑った。
「……そうだな、その通りだ」
『じゃあ泣かなくていいじゃーん』
「それとこれとは別だ」
『悲しいの? ケイスケ』
「……多分、違う」
『悲しくないのに、泣くの?』
「そういうこともあるんだよ」
『……ふーん?』
リラはよくわかっていないようだったが、それでいい。リラはリラのままでいてくれれば、それで十分だ。
「リラ」
『なにー?』
「一緒に来てくれてありがとう」
『えっ』
リラがぴたりと止まった。
『……えへへー。どういたしましてー』
少し照れているような、そんな声だった。リラの体が白く光を放って、キラキラと揺れた。
それを見て、思いつくことがあった。
「光、か……」
『どうしたのー?』
俺は徐に立ち止まって、手を上げた。
三人はまだきっとこちらを見ているはずだ。
俺に仕える唯一の魔法。――光球。
「あいつらに届くように、大きく――空の太陽よりも強い光を」
大きく輝くように、ありったけの魔力を籠める。
『わー!』
リラの歓声があがる。
出現した光球は、まるで地上に降りてきた太陽のようだった。
強く、そして暖かで、優しい光。
「あいつらに届いたかな……?」
『ふふふー! 絶対に届いてるから、安心して―!』
「そっか」
やがて光球は静かに消えていく。魔力の余韻を残して。
気づくと、足取りが少し軽くなっていた。
平原の草が風に揺れている。空には三つの月が、昼間だというのにうっすらと浮かんでいた。地平線の向こうに、丘の稜線が見える。
俺は前を向いたまま、ゆっくりと大きく息を吐いた。
さあ、行くか。
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