第二十話「森の果て」
旅というのは、続けていると不思議なもので、最初はひとつひとつが驚きだったことが、だんだんと当たり前になっていく。
朝に起きて、歩いて、食料を探して、また歩いて、夜に眠る。それだけのことがずっと繰り返されると、体に染みついてくる。足の痛みも、荷物の重さも、最初の頃より気にならなくなっていた。
それでも、道中は決して単調ではなかった。
山を登った。思ったより急な斜面で、ゴンタに手を引いてもらう場面もあった。頂上から見渡した景色は、息をのむほど広かった。木々の海が地平線まで続いていて、その向こうに何があるのかまるで見えなかった。
「こんなに広いのか……」
思わず呟くと、リラが「ひろーい!」と言いながら飛び上がった。ゴンスケが「ドコマデモアルナ」と言い、ゴンザブロウが静かに名札を触った。ゴンタだけは頂上に着くなり周囲を見渡して、「タベモノ、ミエナイ」と言った。
「お前の優先事項は常に食い物だな」
「タベモノ、タイジ」
「まあ、そうだけど」
谷を下りた。深い切れ込みの底に川が流れていて、橋などあるはずもなかった。浅瀬を探して迂回し、膝まで水に浸かりながら渡った。冷たかった。
「ゴンスケは水が嫌いなのか?」
渡る間ずっと変な声を上げているゴンスケに聞くと、
「キライジャナイ。ツメタイガキライ」
「それが嫌いってことだろ」
「チガウ。ミズハスキ。ツメタイミズガキライ」
「細かいやつだ」
そして大きな川を渡った。こちらは幸いなことに、倒木が橋代わりになっていた。ゴンザブロウが名札を胸に押さえながら慎重に渡っていく姿が印象的だった。
「ゴンザブロウ、その名札、落ちないように気をつけろよ」
「ウン。ゼッタイ、ナクサナイ」
ゴンザブロウが真剣な顔で答えた。生えていた苔に足を滑らせそうになりながらも、名札だけはしっかり守っていた。その優先度が正しいのかどうかわからないが、本人が大切にしているものはそれでいいのだろう。
旅に出て十日ほど経ったある昼のことだった。
ゴンタが先頭を進み、俺とゴンザブロウが真ん中を、最後にゴンスケが続く。リラは気ままにあちらこちらに飛び回ったり、影に潜んだり。いつの間にかこのフォーメーションが定着していた。
リラが「あっちに大きいの!」と声を上げた。
茂みの向こうをそっと覗くと、開けた草地に大きな獣がいた。鹿に似ているが、一回り以上大きい。立派な角が一対、まっすぐ天に向かって伸びている。毛並みは深い茶色で、日の光を受けてつやつやと輝いていた。
「でかいな……」
「ウン。アレ、ウマソウ」
ゴンタが目を輝かせた。食への反応が早い。
作戦を立てた。まずリラが目くらましをして動きを止め、そこへゴンタとゴンスケが仕掛ける。ゴンザブロウは退路を塞ぐ役だ。俺は後方から短剣で援護する。
「リラ、頼めるか」
『まかせてー!』
リラが静かに獣の前方へ回り込んだ。影なので気づかれにくい。そして、タイミングを見計らって、
『えーい!』
閃光が放たれた。視界を奪われ、獣が一瞬硬直した。その隙を逃さず、ゴンタとゴンスケが飛びかかっていく。ゴンザブロウが背後を塞ぎ、俺も遅れて駆け込んだ。
数の暴力である。
数分の格闘の末、獣は地に伏した。
「よし! 今日はご馳走だな!」
「ケイスケ、ヨロコブ」
ゴンタが少し呆れたような、でも嬉しそうな声で言った。ゴンスケとゴンザブロウも牙を見せて笑っていた。
みんなと連携して、こんなに大きな狩りを成功させたのは初めてのことだった。それだけでテンションが上がる。仲間と一緒に何かを成し遂げた、という感覚は、いつになっても悪くない。
しかし問題はその後だった。
焚火を起こし、肉を焼いた。香ばしい匂いが辺りに広がる。久しぶりのまともな肉だ。俺もゴブリン三人も、無言で食べ続けた。
食べて、食べて、食べて。
「食べきれない……」
「モウ、ムリ……」
腹がはち切れそうだった。それでも目の前には大量の肉が残っている。獣が大きすぎたのだ。俺たちの胃袋では、どうやっても追いつかない。
それでもゴンザブロウが朧気な目で、ヨロヨロとした手つきで肉を口に運ぼうとしているのを見て、流石にみんなで止めた。
『もったいないねー』
「わかってる。でも持ち歩けないしな……」
干し肉にする時間と材料もなかった。俺たちは顔を見合わせてから、残った肉を土に埋めることに。
ゴンザブロウだけが地面に転がったまま「マ……マダ、タベレル……」と力なく呟いていたが、皆でそれを見て見ぬふりをして実行した。
「シカタナイ」
「だよな……」
ゴンザブロウが埋めながら、何か呟いていた。冥福を祈っているのかもしれない。
ただ、その獣からはいいものが残った。
立派な一対の角だ。まっすぐに伸びたそれは見た目にも美しく、手触りも滑らかだった。ゴンタたちと一本ずつ分け合った。
「ナカナカ、イイモノ」
ゴンタが満足げに角を見つめた。俺も自分の分を手の中で転がしながら、なんとなく誇らしい気持ちになった。小さなことだが、みんなで分け合ったものというのは、それだけで価値がある気がする。
さらに獣の体内には小さな魔石もあった。色は茶色で、これまで見てきたものとは少し違う。何かの力を秘めているのだろう。俺はゴンタたちに譲ろうとしたが、三人とも首を振った。
「イラナイ、ケイスケ、モツ」
「……じゃあ、ありがたくもらうよ」
これを飲めば同期率は上がるのだろう。
スマホのステータス画面が少し気になったが、飲むのはもう少し慎重に考えてからにした。何の属性なのかもわからないうちに飲み込むのは怖い。
それを機に、魔獣との遭遇頻度は上がっていった。
大型の獣から小型のものまで、相手は様々だったが、いつの間にか一日に一体から三体くらいは遭遇するようになっていた。
「やけに遭遇頻度増えてないか?」
絶対に気のせいではない。
魔獣は好戦的で、肉の調達にもなるからいいのだが、こう頻繁だと気になってくる。
俺の疑問に、ゴンタが少し考えてから答えた。
「タブン、オレタチノモリ、トオクナッタカラ」
「あの森が遠くなると、なんで魔獣が増えるんだ?」
「アノモリ、セイイキ。マジュウ、アマリデナイ」
「セイイキ……、聖域? え? そうだったのか?」
ここに来て明かされる真実だった。
「それにしては、あの大雨とか、守られてる感はなかったけどな……?」
そもそも聖域なら、そこに住む生き物は守護されるのではないか?
普通に大雨が降ったりして大変だった……。確かに魔獣はここに比べて少なかったのかもしれないが。
「セイイキ、マモルノハ、セイイキダケ」
「ソウ、オレタチ、ツイデ」
「メイコ、イッテタ」
ゴンタ、ゴンスケ、ゴンザブロウがそれぞれ口に出す。
「聖域が守るのは聖域だけ? その土地を守るってことで、住んでる生き物が守られるわけじゃないということか」
いわば、ゴブリンたちは勝手に住み着いてるような感じ?
「タブン、ソウイウコト。クワシイコト、メイコジャナイトワカラナイ」
「機会があれば、聞いてみたいところだな……」
「ケイスケ、カエッテキタラキクトイイ」
「そうするよ」
リラが「精霊的には、そういう場所って特別なんだよねー」と静かに言った。
「リラ、詳しいのか?」
『んー、なんとなくわかる感じがするだけだよー。言葉にはできないんだけどー』
「なんとなくわかる、か」
ゴンタと同じ言い方だ。この世界の感覚というものは、言語化できない部分に宿っているのかもしれない。
旅を通じて、幻想的な場面にも出くわした。
晴れた日の午後、俺たちの行く手に蝶の群れが現れた。羽根の色は青と金が混ざり合ったような色で、それが何百匹も舞っていた。花弁が風に吹かれているようで、しばらく全員で立ち止まって眺めていた。ゴンザブロウが名札を胸に当てながら、感慨深そうにしていた。
「ゴンザブロウ、きれいだと思うか?」
「……ウン」
「そうだな、きれいだな」
ゴンスケが「タベレルカ?」と言い出したので、ゴンタが「タベナイ」と即座に答えた。それでいい。
空を見上げれば、渡り鳥の群れが整然と隊列を組んで飛んでいくのを見た。規則正しい編隊はどこか軍隊のようで、それでいて美しかった。リラが「すごいねー」と言いながら、その後を少しだけ追いかけていった。
「リラ、あまり遠くに行くなよ」
『わかったー!』
案の定少し遠くまで行って、慌てて戻ってきた。
ある夜、星空を見上げながらゴンタが言った。
「ケイスケ、アノホシ、シッテルカ?」
「あの星? どれだ?」
「アソコ、ヨツツナランデルヤツ」
ゴンタが指さした先を見ると、確かに四つの星がほぼ等間隔に並んでいた。
「見たことあるかな……この世界の星座は知らないから、なんとも言えないけど」
「アレ、メイコノムラノホウコウ、シメス。ムカシカラ、ソウイワレテル」
「北極星みたいなものか」
「ホッキョクセイ?」
「俺のいたところにも、方角を示す星があったんだ」
「ヘー」
ゴンタが珍しそうに空を見上げた。ゴンスケが「ホシ、オイシクナイ」と言い、ゴンザブロウが小さくため息をついた。それが今夜一番の笑いだった。
ふと、スマホのカメラで夜空の星々を写して調べてみたが、俺の知っている星座はなかった。
微妙に似ているような星座があったが、やはり別物。
「月が三つで、星座も違う……。異世界だよなあ」
ただそれを改めて確認するだけだった。
笑えることがあった一方で、笑えない場面もあった。
岩場を歩いていたとき、俺は足を踏み外したのだ。
「――っわ!」
斜面を転がり落ちた。途中で何かにぶつかりながら、草むらに着地した。
「ケイスケ!?」
「大丈夫、大丈夫……――」
体中がひりひりと痛むが、骨が折れたりというような感じはない。
体を起こすと、目の前に蛇がいた。俺を見て固まっている。俺も固まった。
数秒の沈黙。
冷や汗が頬を伝って下に落ちる。ジリッ……と、互いに動きが発生しようとしたその瞬間、ゴンタが上から飛び降りてきて、あっという間に蛇を捕まえた。
「ショクリョウ」
「……助かった。いろんな意味で」
リラが上から「大丈夫ー?」と言いながら笑っていた。笑うな。
また別の日には、木の実を見つけて食べてみたら、渋くて食えたものじゃなかった。ゴンタが「ソレ、タベナイ」と後から教えてくれた。先に言ってくれ。
「なんで黙ってたんだ」
「ケイスケ、タベルカナ、ト。タベナイト、オモッタ」
「食べたじゃないか」
「ソウダナ。コンドカライウ」
「今度から頼む」
ゴンスケが「ソノミ、ワルクナイ」と言った。
「まずかったぞ」
「マズイケド、ハラノチョウシ、ヨクナル」
「整腸作用があるのか」
「ウン」
腹の調子が悪いときには食べろということか。貴重な情報だが、あの渋さを思い出すと素直に頷けない。
さらには、一度だけかなり大型の魔獣に鉢合わせたことがあった。全身が鱗で覆われた、大型の蜥蜴のような生き物だ。一瞬ドラゴンかと思ったが、違うらしい。四本足で地を這い、尻尾の先が赤く光っていた。
「……あれは何だ」
「ワカラナイ。マジュウ。キケン。ニゲル」
ゴンタが即座に判断を下した。
『えーい!』
リラが光を放ったが、鱗が光を弾いてしまった。もともと目に頼ることがないのか、怯む様子もない。
「リラ、効かないのか?」
『うーん、鱗が邪魔だよー!』
「マジか……逃げるぞ!」
全力で走った。魔獣は少し追いかけてきたが、やがて追跡をやめた。縄張りの境目があるらしかった。
息を整えながら、俺は改めて思った。
「魔獣って、本当に強いな」
「ウン。アレ、マジデキケン。マジュウノナカデモ、キットツヨイホウ」
まさか、リラの『えーい』が効かない相手がいるとは思わなかった。
「あの鱗に弾かれたのか、リラ?」
『そうなんだよねー。全部の光を弾くわけじゃないんだけど、あの強さでやっちゃうと弾かれちゃうんだよー。もっと細くするとか、工夫がいるんだよねー』
「リラでも弾かれるのか……」
『弾かれたというか、威力が分散した感じかなー? もっと集中させればいけると思うよー』
「光魔法の応用か」
『そうそう! いろいろできるんだよー。まあ、今日は逃げて正解だったとは思うけどー』
光魔法の奥深さを、思わぬ形で実感した出来事だった。
そして一か月ほどが経った頃、俺たちの周囲の景色は明らかに変わっていた。
「だいぶ景色が変わってきたな」
足を止めて、周囲を見渡した。空気が乾いている。木々の様子が違う。葉の形が細長く、色も深い緑から明るい緑に変わってきた。地面を覆う草の種類も変わった。ゴブリンたちの集落があった辺りは、どこか熱帯に近いじっとりとした空気があったが、今はもっと見慣れた、どこか日本の秋口に似たような空気感がある。
「落葉広葉樹林ってやつかな……」
専門的な知識があるわけじゃないから自信はないが、見慣れたような、それっぽい雰囲気だった。
「ゴンタ、この辺りは来たことあるか?」
「ナイ。コノアタリ、シラナイ」
ゴンタが正直に答えた。ゴンスケとゴンザブロウも首を振った。未知の領域に入ってきているということだ。
『ねえ、ケイスケ』
「なんだ」
『最近、龍見てないね』
言われて気づいた。確かに、ここ一週間ほど空に龍の影を見ていない。あの漆黒の龍も、旅に出てから一度も見かけなかった。
「そういえばそうだな」
昨夜、夜空に黒い影が横切るのを見てドキッとすることがあったが、よく見れば大きめの鳥だった。
考えてみれば、この度ではゆっくりと空をみあげることも少なくなっていた。
「やっぱり聖域から離れると、龍もいなくなるのか」
「ソウ。モウコノアタリ、セイイキカラカナリトオイ」
「モリノオワリ、チカイ」
ゴンタが静かに言った。俺も同じことを思っていた。
木々の隙間から差し込む光が、少しずつ明るくなってきている気がする。森が薄くなっている。その向こうに何があるのか、まだ見えない。
でも、近い。
『楽しみだねー』
リラがふわりと前方へ飛んでいった。
「ああ」
俺は答えながら、また歩き始めた。
ゴンタ、ゴンスケ、ゴンザブロウが後に続く。足音が、乾いた地面に吸い込まれていく。
森の果てが、もうすぐそこにある。
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