第十七話「東の果てに」
魔法の練習は毎晩続いていた。
成果は……まあ、ぼちぼちといったところだ。
魔力を感じることはできるようになった。体の中に靄のようにたゆたっているそれを、意識すればすぐに捉えられるようになってきた。メイコには「ハヤイ」と褒められるし、リラには「すごいすごいー」と飛び回られる。
だが、外に出せない。
魔力を感じて、高めて、手のひらに集めて、そこから先が続かない。何度試しても、ただ手が少し熱くなるだけで終わる。
「イメージ、タリナイ」
メイコが言った。
「イメージか……」
「ナニカシタイト、オモウダケデナク。ソレガナッタトキノコト、ミエル?」
なるほど。ただ「火を出したい」と思うだけでなく、火が出ている状態をありありと想像しろということか。
俺はもう一度試みた。右手に魔力を集め、そこから炎が生まれる瞬間を頭の中で描く。オレンジ色の火が、指先から静かに灯る場面を。
しかし何も起きなかった。
『あははは!』
「笑うなリラ」
『だってケイスケの顔が真剣すぎてー』
「真剣じゃなきゃできないだろ」
『でも、力みすぎてるんだよー。もっとふわっとしていいんだよー』
「ふわっと、か」
『そうそう! リラが光を出すときはね、こうー……ふわっ、て感じでやってるよ』
「説明になってない」
『えへへー』
まあいいか。焦っても仕方ないし。
そうして練習の合間に、ふとした会話をすることが多くなっていた。たいていは俺が何かを質問するところから始まる。この世界のことを、俺はまだほとんど知らない。聞けることは聞いておきたかった。
ある夜、ゴンスケが練習中の俺を見ながら、思い出したように言った。
「ケイスケ、マホウツカイナノカ?」
「……つかいたいんだけど、まだ使えてないな」
「アー」
ゴンスケが妙に納得した顔をした。
「ドウイウイミノアーダ」
「ナンデモナイ」
ゴンスケは視線を逸らした。絶対何か思ってただろ、それ。
ゴンザブロウがそっと俺の背中を叩いてきた。励ましてくれているのかもしれない。言葉はなかったが、なんとなくそう感じた。
「……ありがとう、ゴンザブロウ」
ゴンザブロウは名札をそっと触ってから、小さく頷いた。
今日の会話は、少し違う方向へ転がっていった。
「そういえば、この世界にも人間っているんだよな?」
何気なしに聞いた言葉だったが、実はずっと気になっていたことだった。あの東の群れのゴブリンたちが「ニンゲン」という単語を使っていた。ということは、この世界にも俺と同じような人間がいるはず。それはあのときからずっと、頭の隅に引っかかっていた。
この村は居心地がいい。
メイコは頭が切れるし、ゴンタは頼りになるし、ゴンスケとゴンザブロウも働き者だ。食べ物を巡って喧嘩になることはたまにあるが、それだって怪我が出るほどにはならない。リラが来てからは村全体が賑やかになって、子供のゴブリンたちがリラの後を追い回す光景も当たり前になってきた。
ここは俺の居場所だと、そう思っている。
でも。
メイコは俺の言葉を聞いて、じっとこちらを見つめた。その視線に、俺は少し気まずくなった。嫌なことを聞いたかもしれない、と思ったのだ。ゴブリンたちにとって人間がどういう存在なのか、まだよくわかっていない。
ふと、メイコのお腹に目がいった。
大きくなっている。もうすぐ子供が生まれるのだろう。
父親はゴンタだとゴンタ本人から聞かされていた。ゴンタとメイコが番というわけではなく、この村で一番功績をあげた者がメイコの子供の父親になるのだという。今回はゴンタで、次はまた別のゴブリンが選ばれる。そういう文化らしかった。
メイコから俺に同じことを求められたことがあった。
村に帰ってきたあと、あからさまに「種が欲しい」と。
ゴブリンたちの文化として理解はしている。番になるわけでもなく、そういうものだとわかってはいる。だが、俺の中でどうしても踏み切れなかった。
メイコはそれをあっさりと受け入れてくれた。あわよくばくらいの提案だったのだろう。その後も俺への態度は何も変わらなかった。それが少し救われる気持ちだった。
「ニンゲン、イル。ココカラズットズット、ヒガシノホウ」
メイコがゆっくりと答えた。そして顔を上げ、東の方角を見やった。
俺も同じ方向に顔を向ける。木々の向こうに、暗い森が続いている。その先に、この世界の人間がいる。
「ここからずっと東か……」
どれくらいの距離なのかはわからない。歩いて数日なのか、それとも数週間かかるのか。この世界の地理を俺は知らない。
「ニンゲン、コワイ?」
ゴンスケが静かに聞いてきた。
「怖い? どういう意味だ」
「ニンゲン、ゴブリン、キライ。オイカケル」
「そうなのか」
「ウン。チカヅカナイ、ホウガイイト、キイタ」
ゴブリンたちが受け継いだ知恵か。ゴブリンと人間の関係は、どうやらそれほど友好的ではないらしい。
「俺はゴブリンに見えないから、大丈夫だと思うけど……」
「ソウカモ。デモ、キヲツケテ」
ゴンタが真面目な顔で言った。
「わかった。気をつける」
ゴブリンたちだって、俺にとっては仲間だ。メイコもゴンタも、大切な存在だと思っている。ここでの暮らしを手放したいわけじゃない。
でも、この世界の人間に、会ってみたい。
俺と同じように言葉を持ち、文化を持ち、この世界で生きている人間が、ずっと東にいる。それを知っていて、まるで興味がないふりをするのは無理だった。
そんな気持ちがメイコにも伝わったのだろう。
「ケイスケ、ニンゲン、アイタイ?」
メイコが静かに聞いてきた。
「そうだな……ここの暮らしが嫌いなわけじゃないけど。会ってはみたい、かな」
「……ソウ」
メイコはそれだけ言った。責めるような色も、悲しむような色も、その声にはなかった。ただ、静かに受け止めてくれた。
会話はそこで終わった。
夕食の後、ゴンタが俺の隣に腰を下ろした。
「ケイスケ、ヒガシニイクノカ?」
「……まだわからない。でも、そのうちはそうなるかもしれないな」
「ソウカ」
ゴンタはしばらく黙っていた。焚き火の炎が揺れて、その横顔を照らしている。
「ケイスケ、カエッテクル?」
「帰ってくる。ここは俺の村だからな」
ゴンタが少し目を細めた。笑っているのかもしれない。
「ソウカ。ジャア、イイ」
それだけ言って、ゴンタは焚き火に目を戻した。
なんとも素直な反応だと思って、俺は少しおかしくなった。もっと引き止めるとか、寂しいとか言いそうなものだが、ゴンタはそういう男ではないのだ。帰ってくると言えば、それを信じる。それだけで十分だとわかっている。
ゴンスケが「オレモイク」と言い出した。
「どこに」
「ヒガシ」
「お前も行くのか」
「ウン、ニンゲン、ミタイ」
「ゴブリンは人間に追いかけられるって、さっき自分で聞いてただろ」
「ソウカ、ジャア、ヤメル」
即決だった。ゴンスケの判断は早い。
ゴンザブロウが名札をそっと触りながら、何かを考えている様子だった。
「ゴンザブロウは?」
ゴンザブロウはしばらく黙ってから、ゆっくりと俺を見た。
「ケイスケ、マタクル」
「ああ、また来る」
「ソレナラ、イイ」
ゴンザブロウも、それだけでいいらしかった。
俺はなんとなく、この三人のことが好きだと思った。
その夜、なかなか寝付けなかった。
横になっていても、目が冴えたままだ。人間のことを考えているのか、それとも別の何かが引っかかっているのか、自分でもよくわからない。
俺はそっと起き上がり、スマホを持って外に出た。夜の空気は少し冷たくて、目が覚めるような清潔さがあった。焚き火の跡がまだ微かに温かく、その傍に腰を下ろす。
空を見上げた。
三つの月が、夜空に並んでいる。大きいもの、中くらいのもの、小さいもの。それぞれが少しずつ異なる輝きを持ち、夜の森を柔らかく照らしていた。
「……相変わらず、すごい光景だな」
この世界に来てから何度も見てきた夜空なのに、いまだに慣れない。いや、慣れたくないのかもしれない。これを当たり前だと思い始めたら、俺はこの世界の人間になってしまう気がして。
スマホの画面を点けた。
時刻を確認する。深夜だ。もっとも、この世界に来てから時刻にどれほどの意味があるのかはわからないが。
ふと、アペイロスの管理画面を開いてみた。
相変わらず、ほとんどの項目はグレーアウトされている。リストにあるハタノの名前も、グレーアウトされたままだ。
「……生きてるかな」
誰に言うでもなく、呟いた。
ハタノのことは、たまに思い出す。あのテロの日、コールドスリープの装置に押し込まれ、ハタノの姿が見えなくなった。ハタノが間に合ったのか、間に合わなかったのか。今でもわからない。
グレーアウトは、呼び出せないということだ。それが生死を示しているのかどうかも、俺には判断できない。ただ繋がっていないだけなのか、それともそもそも存在していないのか。
「ハタノ、お前はどこにいるんだ」
答えはない。当然だ。
考えても答えは出ない。スマホを閉じて、また夜空を見上げた。
三つの月が、静かに輝いている。
東の方角を、俺はぼんやりと眺めた。木々の向こうに何があるのか、今の俺には見えない。ただ、その先に人間がいるという事実だけが、静かに胸の中にある。
いつか、行くことになるのだろう。
この村を離れるわけじゃない。ただ、東に向かう日が来る。なんとなく、そんな予感がしていた。
『ケイスケ、ねむれないのー?』
ふわりと影が隣に浮いた。リラだった。
「起こしたか?」
『ううん、私ねむらないもん』
「精霊は眠らないのか」
『ねむくなったらねむるけど、あんまりねむくならないんだよねー。ケイスケのこと、なんとなく気になったから来たー』
「なんとなくか」
『うん。なんか、さみしそうだったから』
俺は少し驚いた。
「さみしいか……そうかもしれないな」
『東に行きたいの?』
「そのうちな」
『そっかー。リラも行くよ?』
「ああ、一緒に来てくれ」
『うん! 絶対行くー!』
リラがくるりと回転した。
それから、また静かになった。
リラはそれ以上何も聞かなかった。ただ静かに、隣で揺れていた。
三つの月の光が、村をやわらかく包んでいた。
俺は膝を抱えたまま、しばらくそこに座っていた。
急ぐことはない。でも、いつかは動き出す。
その日が来るまで、ここで力をつけておこう。そう思いながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
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