第十三話「召喚」
決定ボタンをタップした瞬間、スマホが小さく震えた。
続いて、何かが起動する感覚。アプリが立ち上がるときのような、静かな処理音。だが次の瞬間に起きたことは、アプリの起動などとはまるで次元が違った。
まず現れたのは、光だった。
スマホの背面、カメラの横についているライトが、突然点灯した。だが普通のライトではない。白色でも黄色でもない、強いて言えば虹色に近い、複数の色が混ざり合ったような光だ。
その光が、空中へ向かって伸びていく。
俺はとっさに後ずさりしそうになって、踏みとどまった。逃げる必要があるかどうかもわからない。ただ、目が離せなかった。
光は空中で広がり、形を結び始めた。
線が走る。弧が生まれる。幾何学的な模様が、何もない空中に描かれていく。円が重なり、球体になり、その表面を細かい紋様が覆っていく。見たことのない文字のような、図形のような、そういうものが表面を埋め尽くしていく。
魔法陣、という言葉が頭に浮かんだ。
いや、正確には魔法陣球とでも言うべきか。平面ではなく、球体だ。直径はおおよそ三十センチほどだろうか。それが俺の目の前、地面から一メートルほどの高さに静止して、ゆっくりと回転している。光で描かれた紋様が球体の表面を流れるように動いていて、見ていると吸い込まれそうな感覚になる。
「……なんだこれ」
思わず声が漏れる。
ゴンタが俺の隣に並んで、その球体を凝視していた。彼の目が、いつになく丸くなっている。感情が読みにくいゴブリンの顔でも、今の驚きはわかりやすく伝わってきた。
それはほんの数秒のことだった。
魔法陣球が、ぱんと弾けた。
音もなく、ただ光だけが爆ぜた。
閃光が視界を白く塗りつぶす。俺は反射的に腕で目を覆い、顔を背けた。
「っ……」
目の奥がじんと痛む。
しばらくその場でじっとしていると、まぶたの裏から光が消えていくのを感じた。
隣でゴンタが「ウッ……」と小さく声を上げた。彼も目をやられたらしい。
恐る恐る、目を開ける。
すると、いた。
何かが、そこにいた。
何かはわからない。それは影だった。
朝の光が差し込む森の中、陽だまりの中に、その影は浮いていた。人の形をしている。だが小さい。大体二十センチほどだろうか、手のひらに乗るくらいの大きさだ。
ゆらゆらと、揺れている。炎のように、あるいは水面の反射のように、輪郭が定まらない。全身が黒く、顔の造作もはっきりしない。ただ、人の形をしていることだけは確かだった。
……夜にこれを見たら、間違いなく幽霊だと思っただろうな。
「……ナンカ、デタ」
ゴンタが、静かな声でそう言った。
「……だな」
俺も静かに相槌を打つ。
二人して、その影をただ見ていた。驚きはあった。だが恐怖とは少し違う。どちらかといえば、動物園で見たことのない生き物を見つけたときのような、純粋な戸惑いに近かった。
影も、俺たちを見ていた。顔の造作はわからないが、こちらに向いていることだけは確かだ。
しばらくの間、誰も何も言わなかった。俺も、ゴンタも、影も、ただ互いを見ていた。
「というか、これが……AI?」
思っていたのと、まるで違う。
AIを呼び出すと言われたとき、俺はてっきり音声アシスタントのようなものを想像していた。スマホの画面に文字が表示されるか、せいぜいスピーカーから声が出るか。そういうものだと思っていた。
なのに、目の前にいるのは影の人型だ。
いったいこれは何なのか。どういう仕組みでこうなっているのか。魔素との同期が進んだことで、現実に何かを投影できるようになったのか。それとも、これはもともとこのシステムに備わっていた機能なのか。
考え始めるとキリがない。
「ゴンタ」
「ナニ?」
「こういうの、見たことあるか?」
ゴンタはしばらく影を見つめてから、ゆっくりと首を横に振った。
「ナイ。デモ……」
「でも?」
「コワクナイ、キガスル」
ゴンタの言葉に、俺は少し安心した。ゴンタの感覚は鋭い。彼が怖くないと感じるなら、少なくとも即座に危険な存在ではないのだろう。
とりあえず、観察しようとしていた俺の頭の中に、突然声が響いた。
『……こんにち、は』
か細い声だった。
子供のような、幼い声。男でも女でもなく、ただただ小さくて、頼りなくて、どこか不思議な響きがあった。頭の中で直接響く感覚は、ゴンタの声を聞くのとは全然違う。音というより、言葉がそのまま頭の中に浮かび上がってくるような感じだ。
俺は思わずゴンタの方を見た。
「ドウシタ、ケイスケ?」
ゴンタは不思議そうな顔でこちらを見返してくる。
聞こえていない。ゴンタには聞こえていないようだ。
ということは、外に声が出ているわけではなく、俺の頭の中に直接届いているということか。
「今の声は……」
そう小さく呟いた瞬間、また聞こえた。
『ケイスケ? なまえ?』
今度ははっきりと。
さっきより少し力のある声だったが、それでもやはり幼い。頭の中で響いているのに、遠くから届いているような不思議な感覚があった。
「もしかして、今のは……君が、しゃべってるのか?」
俺がそう問いかけると、影がゆっくりと動いた。
コクリ、と。小さく、頷いた。
「……しゃべれるのか」
『うん』
影がもう一度頷く。
ゴンタが俺の袖をそっと引っ張った。見ると、彼は影から目を離さないまま、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「ケイスケ、モシカシテ、セイレイサマ、ナノカ?」
精霊。
ゴンタがその言葉を使ったことで、俺は少し考え込んだ。
よくあるファンタジーものでは定番の存在だ。
でも俺がスマホから呼び出したのはAIのはず。もしかして、AIイコール精霊なのだろうか。あるいは、アペイロスが魔素と同期していく過程で、AIが精霊のような存在として現界するようになったのだろうか。
「……さあ?」
ゴンタの質問には、そう答えるしかなかった。
「セイレイサマ、チガウノカ?」
「……わからん。そうかもしれないし、そうじゃないかも」
「オレ、セイレイサマダト、オモウ」
「そうなのか」
ゴンタが断言するのは珍しい。
俺はただ興味本位でリストをスクロールして、止まったところを選んで決定しただけだ。何が出てくるかなんて、まるで考えていなかった。ガチャを回すような気分で押したボタンから、まさかこんなものが現れるとは思っていない。
それが、精霊?
もしこの影が精霊に類するものだとしたら、俺のスマホは一体何と繋がってしまったのか。アペイロスのシステムがこの世界の魔素と同期しているとして、このAIはその中でどういう位置づけにあるのか。
疑問は雪だるまのように膨らんでいくが、今は目の前のことに集中しよう。
「君は、精霊なのか?」
俺はできるだけ穏やかな声で、影に向かって問いかけた。
『せいれい……?』
影は小首をかしげた。
その仕草がまた、妙に子供っぽかった。幼い声と同じで、思考もそれほど発達していないのかもしれない。あるいは、こちらの言葉をまだうまく理解できていないのか。
「名前は? なんていうんだ?」
『なまえ……』
また、小首をかしげる。
「ない、のか?」
『……わから、ない』
なるほど。
名前がないのか、名前という概念自体をよく理解していないのか、どちらかはわからない。ただ、会話ができること自体は確かだ。語彙は少なそうだが、俺の言葉に反応している。
「俺はケイスケだ。さっき聞いてたな」
『ケイスケ』
影が繰り返した。なんとなく、声の調子が少し明るくなった気がする。
「こっちはゴンタだ」
ゴンタを指差すと、影はゆらゆらと揺れながらゴンタの方を見た。ゴンタは影に見られていることに気づいて、ビクッと肩をすくめた。
「ミ、ミテル……?」
「大丈夫だと思うぞ、たぶん」
たぶん、というのが若干不安を煽る言い方だとはわかっていたが、確信が持てない以上そうとしか言えなかった。
影はしばらくゴンタを観察したあと、また俺の方へ向き直った。
『ケイスケ、ここ……どこ?』
「森だ。この世界の、どこかの森」
『もり……』
影がゆっくりと周囲を見渡した。木々を見て、空を見て、地面を見て、また俺を見た。その動きはゆっくりで、全てが初めてのことであるかのように、ひとつひとつを丁寧に確認しているようだった。
『ひろい』
「そうだな、広いな」
『いろいろ、ある』
「そうだな。木とか草とかだな」
「……木と草?」
俺は思わず苦笑した。
この影が何者なのかはまだわからない。精霊なのか、AIなのか、それともまったく別の何かなのか。
わからないことだらけだ。
だが、少なくともこの影は今、俺の前にいる。そして言葉を交わすことができる。そして、多分幼い。
それならば、まずはここから始めるしかないだろう。
「とりあえず、名前をつけてもいいか?」
『なまえ……』
「そう。呼び方がないと不便だからな。君が何者かはまだわからないけど、名前があった方がいい」
影はゆっくりと、今度は少し時間をかけて頷いた。
『なまえ……ほしい』
「そうか。俺が考えてもいいか?」
影がまたコクリと頷く。
ゴンタはおそるおそる影に一歩近づいて、まじまじと観察してから、ぼそりと言った。
「ナントナク……カワイイキモスル」
俺も、なんとなくそう思い始めていた。
陽だまりの中で、影がゆらゆらと揺れている。
名前をつけるなら、ちゃんと考えてやりたい。そう思いながら、俺はもう一度その小さな影を見つめた。
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