第十一話「一夜明けての異変」
朝日が昇っていく。
まぶたをゆっくりと開くと、木々の間から差し込む光が目に飛び込んできた。微かな痛みを覚えながら体を起こす。全身がずきずきと軋む。
あの後、極度の緊張から解き放たれた俺は、ゴンタの体を縛る縄を解くと、そのまま意識を手放してしまった。どれくらい眠っていたのかはわからない。ただ、気づいたときには辺りはすっかり朝になっていた。
夜の間に多少の回復はしたものの、まだ体の節々が軋むように痛んでる。特に背中と腰がひどい。ゴブリンたちに散々蹴られたせいだろう。頭を強く打ったせいか、一瞬視界が揺れたが、すぐに収まった。
それでも、生きている。
その事実だけが、今の俺には何より重かった。
隣ではゴンタが寝息を立てていた。彼の呼吸は落ち着いていて、特に異常はないようだった。頭の傷は昨夜よりも血が固まり、顔色は悪いが、大きく乱れた呼吸ではない。
ゴブリンの体は人間より頑丈にできているのか、あれだけ乱暴に扱われてこの程度で済んでいるのが信じられない。それとも、ゴンタが特別タフなのだろうか。きっと、その両方だろう。
起き上がろうとして、腰に鋭い痛みが走った。思わず呻き声が漏れる。
「……いて」
声に出して、改めて自分の体の状態を把握する。肋骨のあたりが特に痛い。骨にひびが入っているかもしれないが、確認する術がない。とりあえず動けている。それでいい。
昨夜の出来事を思い出し、俺の心臓はキュッと縮み上がった。
「……ドラゴン。いや、リュウ、か」
あの圧倒的な力でゴブリンたちを蹂躙し、俺たちを視認し、確かにこちらへ近づいてきた。だというのに、何もしないまま飛び去った。
俺のことをやけに気にしていたような気がしたが……きっと気のせいだろう。ドラゴンが人間一人を気にするような理由がどこにある。
「なんで……」
呟くが、当然答えはない。俺たちが生きている――それだけが、今確かな事実だった。
ふらつく足取りで立ち上がり、昨夜の殺戮の場となった周囲を見渡す。
朝日が斜めに差し込み、その光に照らされた光景は、まるで天災の後のようだった。
地面は深くえぐれ、巨大な爪痕が刻まれている。その深さは俺の膝ほどもあった。土がそのままの形で盛り上がり、まるで地面が内側から爆発したような跡だ。倒れた木々が無造作に散乱し、根こそぎ吹き飛ばされた樹木もある。幹の直径が一メートルを超えるような大木が、まるで草のように薙ぎ倒されていた。
ゴブリンたちの亡骸は、原型をとどめていなかった。
俺は一度だけその方向に目を向け、すぐに視線を外した。黒い血が泥と混じり合い、不気味な色をした染みが地面に広がっている。空気には鉄臭い血の匂いが漂い、それが喉の奥をざらつかせた。
「すさまじいな……」
声が自然と低くなった。
これがドラゴンの力。規格外の破壊。
もし、あれが俺たちを敵と見なしていたら――そう考えただけで背筋が凍る。あの群れのゴブリンたちと同じように、俺たちも跡形もなく消えていたはずだ。
なぜ見逃したのか。なぜ、助けたのか。そもそも助けたと言っていいのかどうかすら、俺にはわからない。気まぐれにただ現れて、ただ暴れて、ただ去っていった。それだけのことかもしれない。
でも、確かにドラゴンはこちらを見ていた。俺を、ゴンタを、見ていたはずだ。あの赤い瞳の中に、ただの獣が持つ視線ではない何かを、俺は感じた。気のせいかもしれない。それでも、その感覚がどうしても頭を離れない。
考えても考えても答えは出ない。俺はひとつ息を吐いて、思考を切り替えた。
不意に、小さなうめき声が聞こえた。
「……ウゥ」
ゴンタだった。彼はゆっくりと目を開け、眠りから覚めようとしている。まぶたが重そうで、瞬きを何度も繰り返していた。
「ゴンタ、大丈夫か?」
俺が声をかけると、彼は顔をしかめながらゆっくりと頷いた。
「アア……ナントカ……」
呂律が少し回っていないが、意識はしっかりしている様子だ。
「よかった」
俺は思わず、深く息を吐いた。
「……体は動かせるか? 痛いところは——あるに決まってるか」
「ウン。イタイ。ドコモ、イタイ」
「俺もだ。お揃いだな」
「ウレシクナイ」
ゴンタが眉を寄せながら言った。その顔が少しだけいつもの彼に戻っていて、俺は思わず苦笑した。
「そうだな。うれしくないな」
ゴンタはゆっくりと上半身を起こし、周囲を見渡した。朝日に照らされた惨状を確認して、彼の目が少し細くなる。しばらく無言でその光景を眺めていたが、やがて短く呟いた。
「オワッタ、カ」
「ああ。終わった」
二人でしばらく、その光景を眺めた。言葉はなかったが、それでいい気がした。
ひとまず荷物を探すことにした。
とはいえ、探索は難航した。ゴブリンたちとの乱闘でそこらじゅうに荷物が飛び散り、ドラゴンの暴威でさらに散乱している。土に半分埋まっているものもあれば、木の根元に引っかかっているものもあった。
「食料は……ほとんどやられたな」
ゴブリンたちに食べられたか、踏み荒らされたか。残っていたのはわずかな乾燥した木の実と、潰れていない草の束だけだった。
「……ヨクナイ、ナ」
ゴンタがぽつりと言いながら、泥の中から使えそうな縄を引っ張り出している。
「贅沢は言えない。あるものでやっていくしかないだろ」
「ソウダナ」
それでも使えるものを丁寧に拾い集めていく。石のナイフが一本、状態のいい縄が少し、それから木の実。ないよりはずっとマシだ。
しばらく探索を続けていると、半分土に埋もれた黒いものが目に入った。
「お、あったあった! よかったー!」
スマホだった。慎重に拾い上げ、丁寧に土を払い落とす。画面は割れていないし、外観にも大きな傷はない。電源が落ちていたが、ボタンを押すとロゴマークが浮かび上がった。
「動く……本当によかった……」
スマホが生きている。それだけで、少しだけ心強く感じる。このスマホは災害時にも問題なく使えるよう設計された一品で、背面のペロブスカイト太陽電池で自己給電もできる。耐久性も普通のものよりは高く、建物の上から落としても壊れることはないというものだった。……まあ自分で試したことはないが。
ネットには繋がらなくとも、時間の確認、メモ、辞書機能、写真や映像を撮ることもできる。この世界ではそれだけでも十分すぎるほど貴重だ。
「ケイスケ、ソレ、タイセツ?」
ゴンタが覗き込んでくる。
「ああ。俺にとっては命綱みたいなもんだ」
「ソウカ、ミツカッテ、ヨカッタ」
「そうだな、ありがとう」
ゴンタは「ギャ」と短く笑った。
ひとしきり荷物を集め終えたところで、俺はふと周囲に転がるゴブリンたちの亡骸に目を向けた。
「……死体はどうする?」
正直、埋めるつもりはない。体力的にも無理だし、この人数を一人と傷ついたゴンタで処理するのは現実的じゃない。だが、このまま放置すれば腐敗して獣を引き寄せかねない。それにもしかしたら、この異世界には死体がゾンビとなって動き出すなんて定番イベントだってあるかもしれない。
しかし、ゴンタはゆっくりと首を振った。
「イイ。シバラク、ナニモ、コナイ」
「どういうことだ?」
「リュウノ、チカクニ、イタ。チカラ、ノコッテル」
「ドラゴンの力が、残ってる……?」
「ソウ。チカラ、ノコル。ソレ、コワイ。ナニモオコラナイ」
なるほど。俺は納得した。この世界には魔法のようなものが存在する。ならば、ドラゴンが残した「何か」が、ここを危険な場所として他の生物を遠ざけているのかもしれない。言われてみれば、昨夜から今朝にかけて、森の虫の声すら聞こえなかった気がする。
「じゃあ、放置でいいか」
「ウン。デモハヤク、ハナレタホウガ、イイカモシレナイ」
「俺たちも影響を受けるのか?」
「ワカラナイ。スコシナラ、ダイジョウブ、オモウケド……」
ゴンタの言葉に辺りを見渡す。
俺には特に何も感じない。
「……特に何も感じないけどな」
目に入る風景は酷いものだから、見ていると気分は憂鬱になるけど。
「ケイスケガダイジョウブナラ、イイトオモウ」
「……そうか? でもまあ、ここにはあまりいたくはないよな」
ゴブリンの肉片が散らばっている場所には留まりたくない。
「さっさと離れようか」
「ウン」
俺たちは最低限の荷物をまとめ、出発の準備を始めた。
ゴンタが黙々と荷物を整理しながら、ふと手を止めた。そして、静かな声で言った。
「ケイスケ……タスケテ、クレタ?」
俺は少し面食らって、ゴンタを見た。彼は俺をまっすぐ見ていた。いつもの飄々とした様子はなく、真剣な目だった。
「俺は何もできなかったけどな」
正直な感想だった。あの場面で俺がしたのは、ゴンタに覆いかぶさっただけ。ドラゴンを退けたのでも、敵を倒したのでもない。
「ソレデモ、ケイスケ、キタ」
「当たり前だろ。お前を置いて逃げるわけないじゃないか。というか、意識があったのか?」
「……ナントナク、アッタ」
「そうなのか」
ゴンタはそれだけ言って、また荷物の整理に戻った。
俺はしばらくその横顔を見ていた。
こういうやつだよな、ゴンタは。多くを語らないくせに、肝心なことはちゃんと伝えてくる。
「ゴンタ」
「ナニ」
「お前こそ、俺を庇って散々殴られてただろ。あれは俺のせいだ」
「チガウ」
「違わないだろ」
「ワナ、ダッタ。ケイスケ、ワルクナイ。ナンドモ、イワナイ」
ゴンタは少しだけ語気を強めて言った。俺はそれ以上言い返せなかった。
俺も何か言おうとして、結局うまい言葉が出てこなかった。ただ、小さく「お互い様だ」とだけ呟いた。
「ソウ、オタガイサマ」
ゴンタが繰り返した。その言葉を聞いて、なんだか少し、胸が軽くなった気がした。
準備が整い、いよいよ出発しようとしたとき、ふと手元のスマホを確認した。起動して少し時間も経った。そろそろ完全に立ち上がっているはずだ。
「さて……」
軽い気持ちで画面を覗き込んだ瞬間、俺の思考が停止した。
「……え?」
画面には、見慣れたはずのシステムメッセージが表示されていた。いや、以前ならば、確かに見慣れていたはずのものだった。しかしこの世界では、ありえないはずのものだった。
そこに映し出されていたのは――。
『アップデートが完了しました』
俺は、しばらくそれを凝視した。
……あり得ない。
ネットに繋がるはずのないこの世界で、なぜシステムアップデートが行われた? 誰が? どうやって?
震える指で画面をスワイプする。通知の詳細を確認しようとするが、表示されているのはその一文だけだ。どのアプリがアップデートされたのか、何が変わったのか、それ以上の情報がない。
アペイロスのアプリを開く。ローディング画面は相変わらず表示されているが、昨日と何かが違う気がした。よく見ると、進捗を示すバーが、わずかだが――確かに、動いていた。
「……アップデートが完了しました、だって!?」
驚愕の声が、静かな森に響き渡った。
「ドウシタ?」
ゴンタが振り返る。
「これを見ろ」
俺はスマホの画面をゴンタに差し出した。ゴンタは首を傾けながら画面を覗き込み、それからまた俺を見た。
「ワカラナイ」
「まあそうだよな。でも、これはおかしいんだ。ネットに繋がってないのに、更新されてる」
「ネット?」
「俺の世界の情報の流れ、みたいなもんだ。これが届くはずのない場所で、届いてる。いや……何かに繋がってる、のか?」
「ツナガル……」
ゴンタはしばらく考えてから、ぽつりと言った。
「リュウ、キタ」
「リュウ……?」
俺は画面を見つめながら、昨夜のことを思い返した。あの赤い瞳。俺を見つめていた視線。巨体が放つ圧倒的な熱気。
「リュウ、マソノカタマリ」
「魔素の、塊……?」
その魔素と、アペイロスになんの繋がりが?
俺の手の中のスマホが、静かに光っている。
魔素の塊であるリュウが、俺のすぐそばまで来た。そして、アペイロスのアップデートが完了した。
「でも、無関係だとは言い切れない、か」
思考は止まらない。でも、とにかく情報が足りなすぎた。
「ケイスケ、カオ、コワイ」
「……そうか?」
「コワイ。ドウシタ」
「いや、考えてることがあってな」
俺は少し震えている手で、通知を眺めた。
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