第三章 "忘れ川"
狐面の子は、まだこちらの袖を掴んでいる。
「大丈夫?」
「たぶんね」
言ってから、すぐに訂正した。
「いや、大丈夫」
狐面の子は少しだけ笑ったように見えた。
「よし」
手の中を見る。
紙片は、まだあった。
けれど端が少し黒く焦げている。
狐面の子が覗き込む。
「取られかけたね」
「これ、取られるとどうなるんだ」
「その欠片に繋がってる記憶や君そのものを、向こうに持っていかれる」
「記憶や僕そのもの」
「うん。君を呼んだ誰かの声とか。その音に近い何か。君が今まで生きて感じてきたことや考え方全て」
胸の奥がざわついた。
誰だったのかは思い出せない。
けれど、失くしたら取り返しのつかないものだった気がする。
「ありがとう」
自然に言葉が出た。
狐面の子は、少し驚いたようにこちらを見た。
「何が?」
「止めてくれて」
狐面の子は、ぱっと顔を逸らした。
「案内役だから。仕事だよ」
そう言う声は、少しだけ照れているようにも聞こえた。
「照れてるの?」
「照れてない」
これは照れてるな。
河原の向こうから、舟が近づいてくる。
細長い小舟だった。
船頭はいない。
けれど舟は、水の流れに逆らうように、ゆっくりこちらへ寄ってきた。
狐面の子が言う。
「次はこの舟に乗って川を渡るよ」
「この川は?」
「忘れ川」
「また嫌な名前だな」
「うん。嫌な川だよ」
狐面の子は、当たり前のように頷いた。
「ここを渡る時、ひとつだけ忘れる。何を忘れるかは、人による」
「それ、渡っていいのか」
「でも渡らないと先に進めない」
「じゃあ、君も忘れるのか。」
そう聞くと、狐面の子は少し黙った。
「僕は案内役だから。それにもう、忘れるものがあんまり残ってない」
その言葉が、やけに寂しく響いた。
「名前は?」
思わず聞いていた。
「君の名前は、あるのか」
狐面の子は、こちらを見た。
白い狐面。
欠けた耳。
赤い目元。
しばらくして、その子は小さく答えた。
「ないよ」
「ない?」
「うん。昔はあったかもしれないけど、忘れた」
「この町じゃ名前が無いと困るんじゃないのか」
「僕は案内役だから大丈夫」
「そうか...じゃあ、なんて呼べばいい」
「呼ばなくていいよ。案内役でいい」
「嫌だ」
自分でも驚くくらい、すぐに言葉が出た。
狐面の子が首を傾げる。
「なんで?」
「呼べないのは、寂しいだろ」
言ってから、老婆の言葉を思い出した。
誰にも呼ばれないと、生きていたのかどうかすら怪しくなる。
狐面の子は黙っていた。
やがて、少しだけ俯いた。
「ん~じゃあ、仮の名前でいいよ」
「仮の名前?」
「うん。ここでは本当の名前じゃない名前を使うことがある。縛られないための名前。忘れないための名前。それこそ君の名前の手掛かりが見つかんなかったら仮の名前を付けようと思ってたしね」
「何がいい?」
聞くと、狐面の子は困ったように袖を握った。
「自分では、決められないんだ」
「じゃあ...」
少し考える。
欠けた狐面。
夜になれない町。
迷い人を案内する小さな背中。
冷たい手。
でも、確かにこちらを引いてくれる手。
灯りみたいだと思った。
暗い場所で、ここに道があると教えてくれるもの。
「じゃあ、灯」
口にした瞬間、狐面の子が動きを止めた。
「灯」
「うん。嫌なら別のにするよ」
狐面の子は、何度か小さくその音を繰り返した。
「ともり。灯」
それから、ゆっくり頷いた。
「それがいい」
声が、さっきより少し柔らかかった。
「じゃあ、灯」
呼んでみると、狐面の子――灯は、こちらを見上げた。
「なに」
「いや。呼んだだけ」
「変なの」
そう言いながらも、灯は手を離さなかった。
小舟が、岸に着く。
忘れ川の水面が、青白く揺れている。
灯が先に舟へ乗り、こちらへ手を差し出した。
「行こう。忘れる前に、覚えておきたいものをひとつ決めて」
「ひとつ?」
「うん。全部守ろうとすると、全部こぼれるから」
なるほどな。何を覚えておくべきか。
名前の欠片。
帰りたい気持ち。
灯の手の冷たさ。
老婆の言葉。
振り返り女の声。
鏡に映った部屋。
選べるわけがない。
けれど、舟は待ってくれない。
水面の光が、少しずつ強くなる。
この川は、忘れるものを選ばせてはくれない。
だからせめて、覚えていたいものだけは、自分で選ばなければいけない。
紙片を握る。
そして、灯の手を取った。
覚えておくものを決めた。
灯が尋ねる。
「何にしたの」
答える。
「君が、俺を止めてくれたこと」
灯は何も言わなかった。
ただ、狐面の奥で、ほんの少しだけ息を呑んだ気がした。
舟が岸を離れる。
忘れ川の上を、ゆっくり進み始める、青白い光が水面からふわりと舞い上がった。
それは蛍ではなかった。
小さな記憶だった。
誰かの笑い声。
夏の匂い。
雨の日の傘。
夕飯の湯気。
読みかけの文章。
眠る前の音。
画面越しの声。
失くしたと思って泣いたもの。
見つけて、まだ終われないと思ったもの。
それらが光になって、川の上を漂っている。
綺麗だった。
綺麗すぎて、怖かった。
舟の底から、誰かの声がした。
「「ひとつ、置いていけ」」
水面が揺れる。
「「ひとつ忘れれば、向こう岸」」
灯が小さく言う。
「来るよ」
「何が」
「川の主。悪い人じゃないけど、何を考えてるかはわからない」
水面が盛り上がる。
黒くはない。
透明な水の中から、巨大な影が浮かび上がる。
それは魚のようで、蛇のようで、人のようでもあった。
無数の口を持つ、口しかない阿修羅みたいな何か。
化け物のようにも、神聖なもののようにも見える。
その口が、一斉に開く。
「「ひとつ、置いていけ。痛みでもいい。愛でもいい。後悔でもいい。おまえの名前でもいい」」
舟が大きく揺れた。
灯がこちらの腕を掴む。
「名前はだめ。名前の欠片だけは、絶対に渡しちゃだめ」
川の主の声が重なる。
「「ほう。では何を置く。何を忘れる。何を捨てる」」
考えろ。忘れたいものなら、きっといくらでもある。
苦しかった記憶。
恥ずかしかった日。
誰にも言えなかった感情。
消えてしまいたいと思った夜。
戻れない後悔。
手遅れになった言葉。
これらを忘れられるなら、どれだけ楽だろう。
けれど、老婆の言葉が蘇る。
捨てたものが、本当にいらなかったかどうかなんて、捨てた後じゃないとわからない。
舟が沈みかける。
川の主が迫る。
「「ひとつ。ひとつ。ひとつ」」
灯が叫ぶ。
「選んで!選ばないと、川が勝手に選んで持っていっちゃう!」
何を。
何を忘れればいい。
痛みも、後悔も、寂しさも。
いらないように見えて、自分の形を作っている気がした。
なら。
置いていくものは。
思い出ではなく、思い込みでいい。
震える声で言った。
「……全部、終わったって諦める感覚」
川の主の口が止まる。
全部終わった。
もう戻れない。
もうどうにもならない。
そう決めつけていた感覚。
それを置いていく。
忘れるんじゃない。
手放す。
完全には無理でも、今だけ。
今だけはそれを置いていく。
この川を渡り切るには覚悟がいる。
この町から抜け出す覚悟が。
水面が、しんと静まり返った。
川の主が、こちらを見ている。
無数の口が、同時に笑った。
「「よかろう」」
次の瞬間、胸の奥から何かが引き抜かれた。
痛みはなかった。
ただ、ずっと体の中にあった冷たい石が、ひとつ水の底へ落ちていくような感覚がした。
「あ」
声が漏れる。
何かを失った。
けれど、何を失ったのか、もうはっきりとはわからない。
ただ、目の前の闇が、ほんの少しだけ闇でなくなった気がした。
舟が軽くなる。
水面の光が道を作る。
向こう岸が近づいてくる。
灯がこちらを見ていた。
「大丈夫?」
「うん」
今度は、たぶんと言わなかった。
「大丈夫」
灯は小さく頷いた。
舟が岸に着く。
降りる直前、川の主の声が背後から聞こえた。
「「迷い人よ」」
振り返らずに聞く。
「「おまえは、まだ半分だ」」
「半分?」
「「生きてもいない。死んでもいない。名前を探してはいるものの帰りたいとも、帰りたくないとも言い切れない。だからこそ、町はおまえを好くだろう」」
水面が笑う。
「「気をつけろ。宵ノ町は、半端なものに優しい」」
「優しい...」
その声を最後に、川は静かになった。
岸に上がると、そこには小さな野原が広がっていた。
夜露に濡れた草。
遠くに見える古い屋敷。
空には、欠けた月。
振り返ると、舟はもうなかった。
代わりに、背後には川に沈んだ鳥居が一本立っているだけだった。
灯が袖を払う。
「これでやっと二つ目を探しに行けるね」
「あとどれくらいあるんだろうか」
「わかんない、当たり前だけど人によるからね」
灯はいつものように言った。
「でも、君はたぶん多い」
「どうして」
「抱えてるものが多そうだから」
失礼な
「褒めてないよ」
「わかってるよ」
野原の向こう、古い屋敷の方から、かすかに音が聞こえた。
誰かが、琴を弾いている。
ぽろん。
ぽろん。
寂しくて、綺麗な音。
灯がその音を聞いて、わずかに体を強張らせた。
「あそこは?」
聞くと、灯はすぐには答えなかった。
やがて、小さく言う。
「どうせあそこも行かなきゃだしね。あそこは」
「失せモノ屋敷?」
「忘れた記憶を見せてくれる」
「いい場所じゃないの?」
灯は首を横に振った。
「見たい記憶だけ見せてくれるならね」
「じゃあ、何を見せられるんだ」
灯は、こちらの手を握り直した。
「一番綺麗だった記憶。それから、一番戻れない記憶。どっちも残酷だよ」
琴の音が、夜の野原に溶けていく。
屋敷の障子に、誰かの影が映った。
ゆっくりと、手招きをしている。
灯が言う。
「あの屋敷は基本的に敵対的じゃない。ここから先は、君が泣いても進むよ」
なんで泣く前提なんだよ。
「失せモノ屋敷で泣かない人、見たことないから」
そう言って、灯は一歩踏み出した。
こちらも歩き出す。
胸の奥には、まだ名前の欠片が熱を持っている。
【――ぎ】
たったそれだけの響き。
それでも今は、それが自分をこの世界につなぎ止めている。
欠けた狐面の案内役、灯とともに。
名前をなくした迷い人は、
次の屋敷へ向かって歩き出した。




