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宵ノ町迷い人  作者: 泉蛹
2/4

第二章 "朱の回廊"

 鳥居の中は、外から見たよりもずっと暗かった。


 朱色の柱が、途切れることなく並んでいる。

 その一本一本に、真っ黒な墨で何かが書かれていた。


 名前?


 そうだ。人の名前。

 掠れていて読みにくい名前。

 途中で消えている名前。

 黒く塗り潰されている名前。

 鋭利なもので引っ掻いたように削られている名前。

 それらが、鳥居の内側にびっしりと刻まれている。


 見ていると、狐面の子が手を引いた。


「あんまり読まない方がいいよ」


「どうして」


「読んでるうちに、混ざるから」


「混ざる?」


「うん。他人の名前って、案外強いんだよ。自分の名前がわからない時に見すぎると、どれが自分だったかわからなくなる」


 そう言われて、慌てて視線を下げた。

 足元には、薄く霧がかかっている。

 石畳は濡れていて、歩くたびに水音がした。


 からん。

 からん。


 狐面の子の下駄の音だけが、この道の中で確かなものだった。


「君の名前も、この中にあるのか」


「たぶんね」


「たぶん?」


「この鳥居は、なくした名前が流れ着く場所だから。落とした名前、捨てた名前、呼ばれなくなった名前、呼ばれたくなくなった名前。いろんな名前がある」


 狐面の子は淡々と言った。


「でも、見つけたからって、すぐ持って帰れるわけじゃないよ」


「どういうこと?」


「名前は、持ち主を選ぶから」


「僕の名前なのに?」


「うん。でも君は、今その名前を忘れてる。名前の方からしたら、置いていかれたのと同じだから」


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 名前を置いてきた覚えなんてない。

 捨てたつもりもない。

 けれど、忘れている。

 それはたしかに、置いてきたのと同じなのかもしれなかった。

 しばらく歩くと、鳥居の先にぼんやりと明かりが見えた。


 提灯だった。

 赤ではなく、白い提灯。

 鳥居の途中に、小さな茶屋があった。


「こんな場所に茶屋?」


「あるよ。だって長いからね、この道」


「誰がやってるんだ」


「名前を売る人」


 狐面の子の答えに、足が止まる。


「名前を、売る?」


「うん。正しくは、貸す。でも返せなくなる人が多いから、売るのとあんまり変わんない」


 んな物騒な。


 近づくにつれて、茶屋の様子が見えてきた。


 古びた木の看板。

 白い暖簾。

 軒先に吊るされた無数の短冊。

 その短冊には、やはり名前が書かれている。


 女の名前。

 男の名前。

 子どもの名前。

 聞いたことのない響きの名前。


 風もないのに、短冊だけがさらさらと揺れていた。


 店先には、老婆が座っていた。

 いや、老婆に見えた。

 背は曲がり、髪は白く、細い手で湯呑みを持っている。

 けれど顔には面をつけていた。

 目も口もない、真っ白な面。

 のっぺらぼうのような面だった。


「「おや」」


 老婆がこちらを向く。

 面に口はないのに、声だけが聞こえた。


「「珍しいねえ。まだ匂いの残っている迷い人だ」」


 狐面の子が一歩前に出る。


「この人は案内中。手を出さないで」


「「出さないよ。今日はね」」


 今日は、ってなに。


 老婆は、からからと笑った。

 笑い声が、茶碗の中で転がる氷みたいに響いた。


「「迷い人さん。名前を探しているんだろう?」」


 答えるな、と言うように、狐面の子の手に力が入った。

 けれど老婆は、こちらの返事を待たずに続けた。


「「名前がないと不安だねえ。呼ばれないと、自分がどこにいるのかわからない。誰にも呼ばれないと、生きていたのかどうかすら怪しくなっちまう」」


 その言葉は、静かに胸の内側へ入ってきた。

 呼ばれない。

 それは、なぜだかひどく寂しい言葉だった。

 老婆が、袖の中から一枚の短冊を取り出した。


「「これはどうだい」」


 短冊には、名前が書かれていた。

 知らない名前だった。

 なのに、目にした瞬間、胸が温かくなった。


 懐かしい。

 知らないはずなのに。

 その名前で誰かに呼ばれたことがある気がした。

 優しい声で。

 何度も。

 笑いながら。

 怒りながら。

 泣きながら。


 手が伸びそうになった瞬間、狐面の子が短冊を叩き落とした。


「だめ」


 老婆の方ではなく、こちらを見て言った。


「それ、君のじゃない。」


「...」


「懐かしかった?」


 頷くと、狐面の子は小さくため息をつく。


「それが名前喰いのやり方だよ。足りないところに、入り込んでくる」


 老婆が、愉快そうに笑う。


「「ひどい言い方だねえ。私はただ、寂しい子に似合う名前を貸しているだけさ」」


「似合う名前?」


「「そうとも。人はね、自分の名前に縛られすぎる。生まれた時に勝手につけられて、一生それを背負って歩く。つらい名前もある。呼ばれたくない名前もある。だったら、ここで好きな名前を選べばいい」」


 老婆は両腕を広げた。

 軒先の短冊が、一斉に揺れる。


 さらさら。

 さらさら。


 名前たちが、囁いているようだった。


「「これにしなよ」」

「「こっちの方が似合うよ」」

「「君はもう、あっちの名前なんていらないよ」」


 足元の霧がさきほどよりも高く、濃くなる。

 狐面の子の手が、急に遠く感じた。


「「ねえ」」


 老婆が優しい声で言う。


「「元の名前なんて、思い出してどうするんだい。その名前で、幸せだったのかい」」


 答えられなかった。

 幸せだったか。

 自分の名前で呼ばれることが、いつも嬉しかったわけじゃない。

 呼ばれたくない時もあった。

 その名前を持つ自分ごと、消えてしまいたいと思ったことも、たぶんあった。

 思い出せないはずなのに。

 そういう感覚だけは、やけにはっきり残っていた。


 老婆は、今度は別の短冊を差し出した。


「「じゃあ、これはどうだい」」


 そこには、また別の名前があった。

 綺麗な名前だった。

 強そうで、明るくて、誰からも愛されそうな名前。

 その名前を見た瞬間、自分が少しだけ別人になれる気がした。


 息がしやすくなる。

 背筋が伸びる。

 胸の奥にあった重たいものが、ふっと軽くなる。

 これなら。

 これなら、元の自分じゃなくてもいいのかもしれない。


 狐面の子が叫んだ。


「見ないで!」


 その声で我に返った。

 目の前に、短冊があった。

 いつの間にか、指先が触れる寸前まで伸びていた。


 狐面の子がこちらの手を引っ張る。


「だめだよ。一度借りたら、君はその名前に合わせて変わっていく。声も、顔も、思い出も。最後には、元の自分も、名前を探してたことすら忘れる」


 老婆が、つまらなそうに首を傾げる。


「「忘れられるなら、それでいいじゃないか。忘れたいから、ここに来るんだろう?」」


「彼は違う」


 そう言ったのは、狐面の子だった。


「この人は迷い込んだだけ。まだ選んでない」


 選んでいない。

 その言葉が、胸の中で小さく響いた。


 自分はまだ、何も選んでいない。

 少なくとも、この場所に留まることは。

 忘れることは。

 別の名前になることは。

 まだ、何も選んでいない。


 老婆の真っ白な面が、こちらに向いた。


「「じゃあ、迷い人さん。あんたの名前はなんだい」」


 喉が詰まる。

 思い出せない。


「「じゃあ、誰があんたを呼ぶんだい」」


 それも、すぐには出てこない。


「「じゃあ、何のために帰るんだい」」


 その問いだけが、深く刺さった。


 何のために。

 名前も、呼ぶ声も、帰る場所も曖昧なまま。

 それでも帰りたいと思う理由。

 狐面の子が、こちらの手を握ったまま黙っている。

 助け舟は出してくれない。

 これは、自分で答えなければいけないものなのだとわかった。


 より濃くなった霧が足首まで上がってくる。

 短冊が揺れる。

 老婆が待っている。


 何のために帰るのか。

 世界を救うためじゃない。

 誰かに必要とされている自信があるわけでもない。

 自分が戻らなければ全部が終わるなんて、大層な話でもない。


 ただ。


 まだ、見ていない朝がある。

 まだ、返していない言葉がある。

 まだ、捨てたくないものがある。

 まだ、終わりにしたと決めたわけじゃない。

 うまく言葉にはできなかった。

 けれど、喉の奥からかすれた声が出た。


「……まだ」


 老婆が動きを止めた。


「「まだ?」」


「まだ、帰らない理由も、帰る理由も、全部は思い出せない」


 声が震える。


「でも、ここで別の名前になったら、たぶん本当に戻れなくなる。それは、まだ嫌だ」


 狐面の子の手が、少しだけ緩んだ。

 離したのではない。

 安心したみたいに、力が抜けたのだ。


 老婆は黙っていた。


 白い面には表情がない。

 けれど、その沈黙の奥で、何かがこちらを見定めているのがわかった。

 やがて老婆は、短冊を袖の中へしまった。


「「半端な答えだねえ」」


 そうかもしれない。

 けれど、その半端さが今の自分だった。


 老婆は、からからと笑った。


「「いいよ。半端な人間は嫌いだが、アンタは気に入ったよ。全部決まっているやつより、ずっと美味しそうだからね」」


「やっぱり食べる気だったのか」


「食べないよ。今日はね」


 それやめろ。怖い。


 老婆は軒先から、一枚の小さな紙片を取った。


 名前の短冊ではなかった。

 もっと小さい、破れた札のようなもの。


「「受け取りな」」


 狐面の子が警戒する。


「何それ」


「「この子の名前の欠片さ」」


 その言葉に、息が止まった。

 名前の、欠片。

 老婆は紙片をこちらへ差し出した。


「「アタシも知らないうちに紛れこんでたんだ。全部じゃない。ただの響きの端っこだよ。でも、ないよりはましだろう」」


 狐面の子はしばらく老婆を見ていたが、やがてこちらを振り返った。


「受け取って。これはたぶん、本物」


「たぶんって」


「僕も全部はわかんないよ」


 それでも、その子が言うならと思った。

 紙片を受け取る。

 瞬間、指先が熱くなった。

 頭の奥で、誰かの声がした。


 【――ぎ】


 たったそれだけ。

 一音にも満たない、名前の端。

 けれどその響きが、胸の中に落ちた瞬間、何かが確かに繋がった。

 頭痛とともに膝から力が抜けそうになった。

 狐面の子が支えてくれる。


「思い出した?」


「全部じゃない。でも、何か」


 狐面の子は頷いた。


「それでいいよ。最初は、欠片でいい」


 老婆が湯呑みを置いた。


「「さあ、行きな。長居すると、次は本当に新しい名前が欲しくなるよ」」


 老婆の声が低くなる。


「「人間はね、自分をやり直せると思った時が一番危ない。やり直すために、今の自分を簡単に捨てようとする。でも捨てたものが、本当にいらなかったかどうかなんて、捨てた後じゃないとわからないんだよ」」


 その言葉だけは、妙に人間らしかった。


 狐面の子が老婆に小さく頭を下げる。


「行こう」


 手を引かれ、茶屋の横を通り過ぎる。


 背後で、短冊がまた揺れた。


 さらさら。

 さらさら。


 まるで誰かが、名前を呼んでいるみたいだった。

 鳥居の道へ戻ると、霧は少し薄くなっていた。

 さっきまで無数に見えていた名前の文字も、今はあまり目に入らない。

 代わりに、胸の奥で小さな響きが残っている。


 【――ぎ。】


 それが自分の名前のどこなのかはわからない。

 最初なのか。

 最後なのか。

 途中なのか。

 それでも、何もないよりはずっとよかった。


 狐面の子が隣を歩きながら言う。


「よかったね」


「よかったのかな」


「うん。名前の欠片を受け取れた迷い人は、少なくとも完全には町のものじゃないってことだから」


 完全には、か。


「まだ油断しちゃだめだよ。欠片は、失くしやすいから」


「失くす?」


「うん。怖いものを見た時とか、寂しくなった時とか、誰かの声に呼ばれた時とか。自分なんてどうでもいいって思った時にも、ぽろっと落ちる。それに、この町には名前に執着している輩が多い。気を抜いたら奪われちゃうよ」


 この町での"名前"はそれほどまでに甘美な響きなのだろうか。

 狐面の子は、当たり前のように言った。


「落としたり奪われたらどうなる?」


「また探す。見つけて取り返す。見つからなかったら、その分だけ君が薄くなる」


 自分が薄くなる。

 その表現が、なぜかすんなり理解できた。

 ここに来てからずっと、自分の輪郭が曖昧だった。

 名前を忘れたせいだと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。


 帰りたい理由。

 覚えていたい声。

 捨てたくないもの。

 それら全部が、自分の輪郭を作っている。

 名前は、その中心にある杭のようなものなのだ。


 狐面の子が、不意に足を止めた。


「——しっ、静かに」


 言われて、息を潜める。

 鳥居の向こう。

 少し先の暗がりに、誰かが立っていた。


 女だった。


 長い黒髪。

 白い着物。

 裸足。

 顔は見えない。

 うつむいている。

 さっきの老婆ではない。。

 面もつけていない。


 それが逆に、ひどく不気味だった。


 狐面の子が、小さな声で言う。


「あれは、振り返り女」


「振り返り女?」


「うん。鳥居に削られた名前があったの、見たでしょ?あれはやつの仕業なんだ。その人にとって懐かしい声でおびき寄せて捕まえる」


 こわすぎない?


「やつに捕まるともう二度とこの町から出られなくなる。呼ばれても振り返っちゃだめ。声が聞こえても返事しちゃだめだよ。あっちが振り返る前に、急いで横を通り過ぎる」


「あっちが振り返ったら?」


 狐面の子は、少しだけ黙った。


「君が、誰かを思い出す」


「それは悪いことなのか」


「簡単に言うと酷い思い出し方をする」


 女は、道の真ん中に立っている。

 通るしかなかった。


 狐面の子が、こちらの手を強く握る。


「いい?足元だけ見て。僕の下駄の音だけ聞いて。何を言われても、顔を上げないで」


「わかった」


「本当に大丈夫?」


「たぶん」


 狐面の子は、少しだけ不満そうにこちらを見た。


「たぶんはだめ。ここでは、たぶんって答えた人から連れていかれる」


「……わかった。極力頑張るよ。」


「うん」


 からん。


 狐面の子が歩き出す。


 からん。


 それに合わせて、こちらも足を出す。


 石畳。

 霧。

 朱色の柱。

 下駄の音。

 女との距離が近づいていく。

 顔は上げない。

 足元だけを見る。


 三歩。

 二歩。

 一歩。


 女の横を通り過ぎる瞬間、冷たい風が頬を撫でた。

 そして、耳元で声がした。


「「ねえ」」


 足が止まりかける。

 狐面の子の手に力が入る。


「歩いて」


 声は、すぐ後ろから聞こえた。


「「ねえ、置いていくの?」」


 知らない声だった。

 いや。知らないはずだった。

 なのに、胸が痛い。


「「ねえ。また何も言わずに行くの?」」


 足が重くなる。

 違う。

 知らない。知らないはずだ。

 でも、謝らなければいけない気がした。

 振り返ってはいけない。

 そうわかっているのに、首の後ろが強張る。


 女の声が、少しだけ変わった。


「「――ぎ」」


「ッッ!!!」


 名前の欠片。

 さっき拾ったばかりの響きが、背後から呼ばれた。

 全身が固まる。


 狐面の子が息を呑むのがわかった。


「だめ。」


 小さく、必死な声。


 それでも、背後の声は続ける。


「「――ぎ。こっちを見て」」


 胸の奥の欠片が、ぐらりと揺れた。

 その声を、知っている気がした。

 知っていなければいけない気がした。

 忘れてはいけない誰かの声。

 置いてきてしまった誰かの声。

 振り返れば、思い出せる。

 そんな確信があった。


 だから、危なかった。


 狐面の子が叫ぶ。


「君の名前を呼べるのは、君が知ってる人だけじゃない!」


 その言葉が、ぎりぎりで首を止めた。


 まだだ。こんなところで終われない。


 歯を食いしばる。

 見ない。

 振り返らない。


 背後の女が、初めて笑った。


「「ふふ」」


 笑い声はもう、知らない声だった。


「「惜しい」」


 その瞬間、背中に氷を入れられたような寒気が走った。


 狐面の子が手を引く。


「走って!」


 今度は迷わなかった。

 走る。

 鳥居の下を、ひたすら走る。

 背後から、裸足で石畳を叩く音が追ってくる。


 ぺた。

 ぺた。

 ぺた。


 近い。

 ありえないほど近い。

 女の声が笑いながら追いかけてくる。


「「ちょうだい。その欠片、頂戴。どうせ全部思い出せないなら、いらないでしょう」」


 胸が痛む。

 紙片を握りしめる。

 熱い。燃えるように熱い。


 狐面の子が前方を指差した。


「あそこ!」


 鳥居の先に、細い注連縄が張られていた。

 縄の向こうは、闇ではなく淡い青色に光っている。


 境目だ。

 狐面の子が叫ぶ。


「飛んで!」


 手を引かれたまま、注連縄の下をくぐるように飛び込む。

 その瞬間、背後から白い手が伸びた。

 冷たい指先が、背中に触れる。


 やっっばい!!!

 振り返りそうになる。


 その前に、狐面の子がこちらを抱き寄せた。


「見ちゃだめ!」


 視界が紺色の着物で塞がれる。

 直後、耳元で女の声がした。


「「……つまらない子」」


 そして、気配が消えた。

 しばらく、何も聞こえなかった。


 下駄の音も。

 祭囃子も。

 短冊の揺れる音も。


 ただ、自分の荒い息だけがあった。

 ゆっくり顔を上げると、そこは鳥居の外だった。


 広い河原。


 さきほどのような黒い川ではなく、今度は浅い水の流れる川だった。

 水面には青白い光が浮かび、蛍のようにゆらゆらと漂っている。

 向こう岸には、小さな灯りが点々と続いていた。


「次はこの舟に乗って川を渡るよ」


 その発言とともに、どこからか舟が流れてくる。船頭はいない。

 狐面の案内役と名前の欠片をみつけた迷い人のは、更なる奥地へと足を進めた。

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