第二章 "朱の回廊"
鳥居の中は、外から見たよりもずっと暗かった。
朱色の柱が、途切れることなく並んでいる。
その一本一本に、真っ黒な墨で何かが書かれていた。
名前?
そうだ。人の名前。
掠れていて読みにくい名前。
途中で消えている名前。
黒く塗り潰されている名前。
鋭利なもので引っ掻いたように削られている名前。
それらが、鳥居の内側にびっしりと刻まれている。
見ていると、狐面の子が手を引いた。
「あんまり読まない方がいいよ」
「どうして」
「読んでるうちに、混ざるから」
「混ざる?」
「うん。他人の名前って、案外強いんだよ。自分の名前がわからない時に見すぎると、どれが自分だったかわからなくなる」
そう言われて、慌てて視線を下げた。
足元には、薄く霧がかかっている。
石畳は濡れていて、歩くたびに水音がした。
からん。
からん。
狐面の子の下駄の音だけが、この道の中で確かなものだった。
「君の名前も、この中にあるのか」
「たぶんね」
「たぶん?」
「この鳥居は、なくした名前が流れ着く場所だから。落とした名前、捨てた名前、呼ばれなくなった名前、呼ばれたくなくなった名前。いろんな名前がある」
狐面の子は淡々と言った。
「でも、見つけたからって、すぐ持って帰れるわけじゃないよ」
「どういうこと?」
「名前は、持ち主を選ぶから」
「僕の名前なのに?」
「うん。でも君は、今その名前を忘れてる。名前の方からしたら、置いていかれたのと同じだから」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
名前を置いてきた覚えなんてない。
捨てたつもりもない。
けれど、忘れている。
それはたしかに、置いてきたのと同じなのかもしれなかった。
しばらく歩くと、鳥居の先にぼんやりと明かりが見えた。
提灯だった。
赤ではなく、白い提灯。
鳥居の途中に、小さな茶屋があった。
「こんな場所に茶屋?」
「あるよ。だって長いからね、この道」
「誰がやってるんだ」
「名前を売る人」
狐面の子の答えに、足が止まる。
「名前を、売る?」
「うん。正しくは、貸す。でも返せなくなる人が多いから、売るのとあんまり変わんない」
んな物騒な。
近づくにつれて、茶屋の様子が見えてきた。
古びた木の看板。
白い暖簾。
軒先に吊るされた無数の短冊。
その短冊には、やはり名前が書かれている。
女の名前。
男の名前。
子どもの名前。
聞いたことのない響きの名前。
風もないのに、短冊だけがさらさらと揺れていた。
店先には、老婆が座っていた。
いや、老婆に見えた。
背は曲がり、髪は白く、細い手で湯呑みを持っている。
けれど顔には面をつけていた。
目も口もない、真っ白な面。
のっぺらぼうのような面だった。
「「おや」」
老婆がこちらを向く。
面に口はないのに、声だけが聞こえた。
「「珍しいねえ。まだ匂いの残っている迷い人だ」」
狐面の子が一歩前に出る。
「この人は案内中。手を出さないで」
「「出さないよ。今日はね」」
今日は、ってなに。
老婆は、からからと笑った。
笑い声が、茶碗の中で転がる氷みたいに響いた。
「「迷い人さん。名前を探しているんだろう?」」
答えるな、と言うように、狐面の子の手に力が入った。
けれど老婆は、こちらの返事を待たずに続けた。
「「名前がないと不安だねえ。呼ばれないと、自分がどこにいるのかわからない。誰にも呼ばれないと、生きていたのかどうかすら怪しくなっちまう」」
その言葉は、静かに胸の内側へ入ってきた。
呼ばれない。
それは、なぜだかひどく寂しい言葉だった。
老婆が、袖の中から一枚の短冊を取り出した。
「「これはどうだい」」
短冊には、名前が書かれていた。
知らない名前だった。
なのに、目にした瞬間、胸が温かくなった。
懐かしい。
知らないはずなのに。
その名前で誰かに呼ばれたことがある気がした。
優しい声で。
何度も。
笑いながら。
怒りながら。
泣きながら。
手が伸びそうになった瞬間、狐面の子が短冊を叩き落とした。
「だめ」
老婆の方ではなく、こちらを見て言った。
「それ、君のじゃない。」
「...」
「懐かしかった?」
頷くと、狐面の子は小さくため息をつく。
「それが名前喰いのやり方だよ。足りないところに、入り込んでくる」
老婆が、愉快そうに笑う。
「「ひどい言い方だねえ。私はただ、寂しい子に似合う名前を貸しているだけさ」」
「似合う名前?」
「「そうとも。人はね、自分の名前に縛られすぎる。生まれた時に勝手につけられて、一生それを背負って歩く。つらい名前もある。呼ばれたくない名前もある。だったら、ここで好きな名前を選べばいい」」
老婆は両腕を広げた。
軒先の短冊が、一斉に揺れる。
さらさら。
さらさら。
名前たちが、囁いているようだった。
「「これにしなよ」」
「「こっちの方が似合うよ」」
「「君はもう、あっちの名前なんていらないよ」」
足元の霧がさきほどよりも高く、濃くなる。
狐面の子の手が、急に遠く感じた。
「「ねえ」」
老婆が優しい声で言う。
「「元の名前なんて、思い出してどうするんだい。その名前で、幸せだったのかい」」
答えられなかった。
幸せだったか。
自分の名前で呼ばれることが、いつも嬉しかったわけじゃない。
呼ばれたくない時もあった。
その名前を持つ自分ごと、消えてしまいたいと思ったことも、たぶんあった。
思い出せないはずなのに。
そういう感覚だけは、やけにはっきり残っていた。
老婆は、今度は別の短冊を差し出した。
「「じゃあ、これはどうだい」」
そこには、また別の名前があった。
綺麗な名前だった。
強そうで、明るくて、誰からも愛されそうな名前。
その名前を見た瞬間、自分が少しだけ別人になれる気がした。
息がしやすくなる。
背筋が伸びる。
胸の奥にあった重たいものが、ふっと軽くなる。
これなら。
これなら、元の自分じゃなくてもいいのかもしれない。
狐面の子が叫んだ。
「見ないで!」
その声で我に返った。
目の前に、短冊があった。
いつの間にか、指先が触れる寸前まで伸びていた。
狐面の子がこちらの手を引っ張る。
「だめだよ。一度借りたら、君はその名前に合わせて変わっていく。声も、顔も、思い出も。最後には、元の自分も、名前を探してたことすら忘れる」
老婆が、つまらなそうに首を傾げる。
「「忘れられるなら、それでいいじゃないか。忘れたいから、ここに来るんだろう?」」
「彼は違う」
そう言ったのは、狐面の子だった。
「この人は迷い込んだだけ。まだ選んでない」
選んでいない。
その言葉が、胸の中で小さく響いた。
自分はまだ、何も選んでいない。
少なくとも、この場所に留まることは。
忘れることは。
別の名前になることは。
まだ、何も選んでいない。
老婆の真っ白な面が、こちらに向いた。
「「じゃあ、迷い人さん。あんたの名前はなんだい」」
喉が詰まる。
思い出せない。
「「じゃあ、誰があんたを呼ぶんだい」」
それも、すぐには出てこない。
「「じゃあ、何のために帰るんだい」」
その問いだけが、深く刺さった。
何のために。
名前も、呼ぶ声も、帰る場所も曖昧なまま。
それでも帰りたいと思う理由。
狐面の子が、こちらの手を握ったまま黙っている。
助け舟は出してくれない。
これは、自分で答えなければいけないものなのだとわかった。
より濃くなった霧が足首まで上がってくる。
短冊が揺れる。
老婆が待っている。
何のために帰るのか。
世界を救うためじゃない。
誰かに必要とされている自信があるわけでもない。
自分が戻らなければ全部が終わるなんて、大層な話でもない。
ただ。
まだ、見ていない朝がある。
まだ、返していない言葉がある。
まだ、捨てたくないものがある。
まだ、終わりにしたと決めたわけじゃない。
うまく言葉にはできなかった。
けれど、喉の奥からかすれた声が出た。
「……まだ」
老婆が動きを止めた。
「「まだ?」」
「まだ、帰らない理由も、帰る理由も、全部は思い出せない」
声が震える。
「でも、ここで別の名前になったら、たぶん本当に戻れなくなる。それは、まだ嫌だ」
狐面の子の手が、少しだけ緩んだ。
離したのではない。
安心したみたいに、力が抜けたのだ。
老婆は黙っていた。
白い面には表情がない。
けれど、その沈黙の奥で、何かがこちらを見定めているのがわかった。
やがて老婆は、短冊を袖の中へしまった。
「「半端な答えだねえ」」
そうかもしれない。
けれど、その半端さが今の自分だった。
老婆は、からからと笑った。
「「いいよ。半端な人間は嫌いだが、アンタは気に入ったよ。全部決まっているやつより、ずっと美味しそうだからね」」
「やっぱり食べる気だったのか」
「食べないよ。今日はね」
それやめろ。怖い。
老婆は軒先から、一枚の小さな紙片を取った。
名前の短冊ではなかった。
もっと小さい、破れた札のようなもの。
「「受け取りな」」
狐面の子が警戒する。
「何それ」
「「この子の名前の欠片さ」」
その言葉に、息が止まった。
名前の、欠片。
老婆は紙片をこちらへ差し出した。
「「アタシも知らないうちに紛れこんでたんだ。全部じゃない。ただの響きの端っこだよ。でも、ないよりはましだろう」」
狐面の子はしばらく老婆を見ていたが、やがてこちらを振り返った。
「受け取って。これはたぶん、本物」
「たぶんって」
「僕も全部はわかんないよ」
それでも、その子が言うならと思った。
紙片を受け取る。
瞬間、指先が熱くなった。
頭の奥で、誰かの声がした。
【――ぎ】
たったそれだけ。
一音にも満たない、名前の端。
けれどその響きが、胸の中に落ちた瞬間、何かが確かに繋がった。
頭痛とともに膝から力が抜けそうになった。
狐面の子が支えてくれる。
「思い出した?」
「全部じゃない。でも、何か」
狐面の子は頷いた。
「それでいいよ。最初は、欠片でいい」
老婆が湯呑みを置いた。
「「さあ、行きな。長居すると、次は本当に新しい名前が欲しくなるよ」」
老婆の声が低くなる。
「「人間はね、自分をやり直せると思った時が一番危ない。やり直すために、今の自分を簡単に捨てようとする。でも捨てたものが、本当にいらなかったかどうかなんて、捨てた後じゃないとわからないんだよ」」
その言葉だけは、妙に人間らしかった。
狐面の子が老婆に小さく頭を下げる。
「行こう」
手を引かれ、茶屋の横を通り過ぎる。
背後で、短冊がまた揺れた。
さらさら。
さらさら。
まるで誰かが、名前を呼んでいるみたいだった。
鳥居の道へ戻ると、霧は少し薄くなっていた。
さっきまで無数に見えていた名前の文字も、今はあまり目に入らない。
代わりに、胸の奥で小さな響きが残っている。
【――ぎ。】
それが自分の名前のどこなのかはわからない。
最初なのか。
最後なのか。
途中なのか。
それでも、何もないよりはずっとよかった。
狐面の子が隣を歩きながら言う。
「よかったね」
「よかったのかな」
「うん。名前の欠片を受け取れた迷い人は、少なくとも完全には町のものじゃないってことだから」
完全には、か。
「まだ油断しちゃだめだよ。欠片は、失くしやすいから」
「失くす?」
「うん。怖いものを見た時とか、寂しくなった時とか、誰かの声に呼ばれた時とか。自分なんてどうでもいいって思った時にも、ぽろっと落ちる。それに、この町には名前に執着している輩が多い。気を抜いたら奪われちゃうよ」
この町での"名前"はそれほどまでに甘美な響きなのだろうか。
狐面の子は、当たり前のように言った。
「落としたり奪われたらどうなる?」
「また探す。見つけて取り返す。見つからなかったら、その分だけ君が薄くなる」
自分が薄くなる。
その表現が、なぜかすんなり理解できた。
ここに来てからずっと、自分の輪郭が曖昧だった。
名前を忘れたせいだと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。
帰りたい理由。
覚えていたい声。
捨てたくないもの。
それら全部が、自分の輪郭を作っている。
名前は、その中心にある杭のようなものなのだ。
狐面の子が、不意に足を止めた。
「——しっ、静かに」
言われて、息を潜める。
鳥居の向こう。
少し先の暗がりに、誰かが立っていた。
女だった。
長い黒髪。
白い着物。
裸足。
顔は見えない。
うつむいている。
さっきの老婆ではない。。
面もつけていない。
それが逆に、ひどく不気味だった。
狐面の子が、小さな声で言う。
「あれは、振り返り女」
「振り返り女?」
「うん。鳥居に削られた名前があったの、見たでしょ?あれはやつの仕業なんだ。その人にとって懐かしい声でおびき寄せて捕まえる」
こわすぎない?
「やつに捕まるともう二度とこの町から出られなくなる。呼ばれても振り返っちゃだめ。声が聞こえても返事しちゃだめだよ。あっちが振り返る前に、急いで横を通り過ぎる」
「あっちが振り返ったら?」
狐面の子は、少しだけ黙った。
「君が、誰かを思い出す」
「それは悪いことなのか」
「簡単に言うと酷い思い出し方をする」
女は、道の真ん中に立っている。
通るしかなかった。
狐面の子が、こちらの手を強く握る。
「いい?足元だけ見て。僕の下駄の音だけ聞いて。何を言われても、顔を上げないで」
「わかった」
「本当に大丈夫?」
「たぶん」
狐面の子は、少しだけ不満そうにこちらを見た。
「たぶんはだめ。ここでは、たぶんって答えた人から連れていかれる」
「……わかった。極力頑張るよ。」
「うん」
からん。
狐面の子が歩き出す。
からん。
それに合わせて、こちらも足を出す。
石畳。
霧。
朱色の柱。
下駄の音。
女との距離が近づいていく。
顔は上げない。
足元だけを見る。
三歩。
二歩。
一歩。
女の横を通り過ぎる瞬間、冷たい風が頬を撫でた。
そして、耳元で声がした。
「「ねえ」」
足が止まりかける。
狐面の子の手に力が入る。
「歩いて」
声は、すぐ後ろから聞こえた。
「「ねえ、置いていくの?」」
知らない声だった。
いや。知らないはずだった。
なのに、胸が痛い。
「「ねえ。また何も言わずに行くの?」」
足が重くなる。
違う。
知らない。知らないはずだ。
でも、謝らなければいけない気がした。
振り返ってはいけない。
そうわかっているのに、首の後ろが強張る。
女の声が、少しだけ変わった。
「「――ぎ」」
「ッッ!!!」
名前の欠片。
さっき拾ったばかりの響きが、背後から呼ばれた。
全身が固まる。
狐面の子が息を呑むのがわかった。
「だめ。」
小さく、必死な声。
それでも、背後の声は続ける。
「「――ぎ。こっちを見て」」
胸の奥の欠片が、ぐらりと揺れた。
その声を、知っている気がした。
知っていなければいけない気がした。
忘れてはいけない誰かの声。
置いてきてしまった誰かの声。
振り返れば、思い出せる。
そんな確信があった。
だから、危なかった。
狐面の子が叫ぶ。
「君の名前を呼べるのは、君が知ってる人だけじゃない!」
その言葉が、ぎりぎりで首を止めた。
まだだ。こんなところで終われない。
歯を食いしばる。
見ない。
振り返らない。
背後の女が、初めて笑った。
「「ふふ」」
笑い声はもう、知らない声だった。
「「惜しい」」
その瞬間、背中に氷を入れられたような寒気が走った。
狐面の子が手を引く。
「走って!」
今度は迷わなかった。
走る。
鳥居の下を、ひたすら走る。
背後から、裸足で石畳を叩く音が追ってくる。
ぺた。
ぺた。
ぺた。
近い。
ありえないほど近い。
女の声が笑いながら追いかけてくる。
「「ちょうだい。その欠片、頂戴。どうせ全部思い出せないなら、いらないでしょう」」
胸が痛む。
紙片を握りしめる。
熱い。燃えるように熱い。
狐面の子が前方を指差した。
「あそこ!」
鳥居の先に、細い注連縄が張られていた。
縄の向こうは、闇ではなく淡い青色に光っている。
境目だ。
狐面の子が叫ぶ。
「飛んで!」
手を引かれたまま、注連縄の下をくぐるように飛び込む。
その瞬間、背後から白い手が伸びた。
冷たい指先が、背中に触れる。
やっっばい!!!
振り返りそうになる。
その前に、狐面の子がこちらを抱き寄せた。
「見ちゃだめ!」
視界が紺色の着物で塞がれる。
直後、耳元で女の声がした。
「「……つまらない子」」
そして、気配が消えた。
しばらく、何も聞こえなかった。
下駄の音も。
祭囃子も。
短冊の揺れる音も。
ただ、自分の荒い息だけがあった。
ゆっくり顔を上げると、そこは鳥居の外だった。
広い河原。
さきほどのような黒い川ではなく、今度は浅い水の流れる川だった。
水面には青白い光が浮かび、蛍のようにゆらゆらと漂っている。
向こう岸には、小さな灯りが点々と続いていた。
「次はこの舟に乗って川を渡るよ」
その発言とともに、どこからか舟が流れてくる。船頭はいない。
狐面の案内役と名前の欠片をみつけた迷い人のは、更なる奥地へと足を進めた。




