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宵ノ町迷い人  作者: 泉蛹
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第一章 "迷い人"

世界は終わらない。


ただ、少しずつ宵に沈んでいくだけだ。


夕焼けと夜の狭間に存在する町、『宵ノ町』。

そこへ辿り着くのは、何かを失くした者、

どこにも帰れなくなった者たち。


狐面の子どもと出会ったあなたは、この不思議な町で暮らす人々の想いや後悔に触れていく。


これは終わった人たちのための物語。

そして、もう一度歩き出すための物語。

 

「君は……えっと?」


 最初に聞こえたのは、鈴のような声。

 目を開けると、そこは知らない道だった。

 座り込んだ足元には、濡れた石畳。

 左右には、古い木造の店がずらりと並んでいる。けれど、どの店にも人の気配はない。いや、気配はするが人が見当たらない。空に浮く赤い提灯だけが、風もないのにゆらゆらと揺れていた。


 空を見上げると、夕暮れとも夜ともつかない色をしている。

 沈みきらない朱色と、明けることのない藍色が混ざり合って、まるで世界そのものが迷っているみたいだった。


 ここ、どこだ。

 うっ....頭痛っっったぁ....


 正面に視線を移すと、目の前に小さな影が立っていることに気づいた。

 子どもだった。

 年は十にも満たないように見えるが、狐のお面をつけていて、その顔は見えない。


 白い狐面。

 片方の耳だけが欠けていて、目元には赤い線が引かれている。着ているのは、少し大きすぎる紺色の着物。裾を引きずらないよう、細い手でつまんでいる。


 その子は首を傾げて、もう一度言った。


「君は……えっと?」


 えっと、って何。


「名簿にないんだよね」


「?????」


 子どもは袖の中から、古びた帳面を取り出した。


 ぱらぱらとページをめくる音が、やけにはっきりと響く。使い古されたものなのか紙は黄ばんでいて、ところどころ黒く滲んでいた。


「君、名前は?」


「……名前?」


「うん。こっちでは、名前がないと困るよ。迷子なのか、お客なのか、捨て子なのか、死に損ないなのか、わかんなくなっちゃうから」


 最後の言葉だけ、妙に耳に残った。

 捨て子?死に損ない?

 ふざけるな、と言いかけて、喉が詰まった。


 自分がなぜここにいるのか、思い出せなかった。


 さっきまで何をしていた?

 どこにいた?

 家にいたはずだ。いや、外だったかもしれない。駅のホーム。雨。スマホの通知。知らない誰かの声。眠気。白い光。

 記憶が水に浸したわたがしの様に、指で触れる前に溶けていく。


「ねえ」


 狐面の子が、こちらを覗き込む。


「名前、言える?」


 言える。

 言えるはずだ。


 なのに、口を開いても音が出なかった。

 自分の名前だけが、すっぽり抜け落ちていた。

 いや、名前だけじゃない。記憶もだ。自分がこれまでどうやって生きてきたのかすらなにも思い出せない。


 子どもは少しだけ黙ったあと、帳面を閉じた。


「そっか。わかんないんだね。じゃあ、やっぱり迷い人だ」


「迷い、人?」


「うん。たまに来るんだ。あっちの世界からうっかり堕ちてくる人とか、本当はまだ来ちゃいけないのこっちに来ちゃったり、道を間違えた人とか」


 その子はくるりと背を向けた。

 下駄の音が、からん、と鳴る。


「ついてきて。じゃないと、食べられちゃうから」


 え、なに。どういうこと。こわ。


「た、食べられる?」


「うん」


 狐面が少しだけこちらを振り返る。


「ここ、そういう場所だから」


 冗談を言っているようには聞こえなかった。


 周りを見渡す。

 誰もいないはずの店先で、暖簾が揺れる。閉まっていたはずの格子戸の奥から、何かがこちらを見ている気がした。

 いや、確実にこちらを見ている。

 人の形をしている。

 けれど、人ではない。

 長すぎる首。

 逆向きに曲がった指。

 暗がりの中で光る、いくつもの目。影?


 息を呑んだ瞬間、狐面の子が目の前に手をやった。


「あんまり見ない方がいいよ。じっと見てると、向こうも君に干渉していいことになっちゃうから」


 えぇ。こわ。

 その言葉で、慌てて視線を逸らした。


 狐面の子は、何事もなかったように歩き出す。


「ここはね、宵ノ町っていうんだ」


「よいのまち?」


「うん。夜になりきれなかったものと、朝になれなかったものが流れ着くところ」


 意味がわからなかった。

 でも、その説明だけで、なぜか少し納得してしまった。

 この町には確かに、終わりきれなかった何かが溜まっている。そんな気がした。


 提灯の赤。

 濡れた石畳。

 誰もいない商店。

 遠くから聞こえてくる祭囃子。

 大小さまざまな大きさの鳥居。


 楽しげで儚げなのに、どこか葬式のような感覚に似ていた。

 しばらく歩くと、ひとつの大きな鳥居が見えてきた。


 朱色の鳥居。

 けれど、普通の鳥居ではない。柱にはおびただしい数の札が貼られていて、その一枚一枚に墨で名前らしきものが書かれている。

 中には、黒く塗りつぶされた札もあった。


「あの黒いのは?」


「聞かない方がいいやつ」


 狐面の子は即答した。


「でも、聞きたいなら教えるよ。あれのほとんどは帰れなかった人の名前」


 胸の芯が冷えた。


「帰れなかったら、どうなる?」


「町のものになる」


「さっきのやつらみたいになるってこと?」


「基本的にはそうだね。でもたまに"そうじゃない人"もいるよ」


 その言い回しが妙に引っかかったが、狐面の子は続けて言った。


「最初は人の形をしてるんだけどね。だんだん忘れていくんだ。名前とか、顔とか、帰りたい理由とか記憶とか。全部忘れたら、ここの住人」


「じゃあ、君も?」


 そう聞いた瞬間、子どもの足が止まった。


 からん、と下駄の音が途切れる。


 狐面の子は、こちらを見ないまま答えた。


「僕は案内役。だから、まだ大丈夫」


 まだ、という言葉が引っかかった。

 けれどそれ以上を聞く前に、鳥居の奥から風が吹いた。


 生ぬるい風だった。

 潮の匂いと、線香の匂いと、甘く煮詰めた砂糖の匂いが混ざっている。はっきり言って最悪だ。


 風に乗って、誰かの声が聞こえてきた。


「おいで」


 女の声。

 知らないはずなのに、ひどく懐かしく感じた。


「おいで。こっちにおいで」


 足が勝手に前へ出そうになった。

 その瞬間、狐面の子がこちらの袖を掴んだ。


「行っちゃだめだよ」


 声が、さっきまでと違っていた。

 子どもらしい軽さが消えて、切実な響きだけが残っていた。


「あれ、君が知ってるであろう声で呼ぶから。でも、声の主が本当に知ってる人間とは限らない。」


 袖を掴む手に、力がこもる。


「君、まだ名前も思い出せないでしょ。そんな状態で呼ばれた方に行ったら、もう戻れないよ」


 戻ろう。

 その言葉で、ようやく自分が震えていることに気づいた。


「僕は、戻れるのか」


「戻れるよ」


 狐面の子は言った。


「たぶん」


「たぶん?」


 たぶんて。


「うん。だって君みたいな人、最近多いから。帰れる人もいるし、帰れない人もいる。でも、ここに着いてすぐ食べられるよりは、ずっとまし」


 その子はまた歩き出した。


 鳥居の横を抜け、細い獣道へ入る。

 その奥へと進んでいくと、小さな橋がかかっていた。


 橋の下を流れているのは、水ではなかった。

 黒い川だった。

 光を吸い込むような、真っ黒な流れ。

 その水面に、いくつもの白いものや赤いものが浮かんでいる。


 花かと思った。

 違った。

 お面だった。

 狐、ひょっとこ、おかめ、般若、七福神。

 いろんなお面が、顔を上に向けて流れているものもあればその場で漂っているものもある。


 ひえっ、なにあれ。こわい。


「見ないで」


 狐面の子が言った。


「あれもここに堕ちてきた人の成れの果てだよ。成れの果てとはいってもお面には魂が宿っていてね、あの人たちはまだ生きてる。厄介なことに彼らも近づいたり知覚するとこっちに来ちゃうんだ。この町では、見ちゃいけないものが多すぎる。」


 じゃあ何を見ればいいんだ。

 そんな考えを見透かしたかのように続ける。


「足元。それと、僕の背中。ええと、空はダメだよ。たまにアレが出るから」


 "アレ"ってなんだよ...と思いつつも、何もわからない自分にとって、その答えがとても頼もしかった。

 とはいえ小さな背中だった。

 紺色の着物。欠けた狐面。細い肩。


 この子だって、守られる側に見えるのに。

 なのに今は、この子の背中だけが、この世界で唯一まともなものに思えた。


 橋を渡り終えると、開けた場所に出た。


 そこには祭りがあった。

 人影で埋め尽くされた参道。

 屋台の明かり。金魚すくい、りんご飴、焼き団子、射的、綿あめ。 お面売り。


 さっきまで誰もいなかった町が、嘘のように賑わっていた。

 けれど、誰ひとりとして顔を出していない。


 全員がお面をつけていた。

 狐。鬼。鳥。猿。鹿。知らない獣。ぐちゃぐちゃなナニカ。

 お面の奥から、笑い声だけが聞こえる。


 楽しそうなのに、寒気がした。

 狐面の子が小さく手を差し出す。


「ここから先は、手、離さないで」


「どうして」


「はぐれるから」


「それだけ?」


「ううん」


 子どもは少し考えてから言った。


「君、たぶん美味しそうだと思われるだろうから」


 意味のわからないことを言うな。


 でも、周囲の面たちが一斉にこちらを向いたことで、その意味は嫌でもわかった。


 笑い声が止まる。

 ざわめきが引いていく。


 お面の奥の目が、すべてこちらを見ていた。


 ヒュッ

 一瞬にして息が詰まる。


 狐面の子が、こちらの手を強く握り小さく喋る。


「走るよ」


「え?」


「数える前に走るよ。三つ数えてたら遅いから」


 次の瞬間、子どもは駆け出した。


 手を引かれ、石畳を蹴る。

 屋台の灯りが滲む。面をつけた何かが、ゆっくりと道を開ける。いや、開けているのではない。追いやっている。誘導している。


 まるで、どこかへ追い込むように。


 後ろから、ざわざわと声が追いかけてきた。


「「名前は」」

「「名前を置いていけ」」

「「顔を置いていけ」」

「「帰り道を置いていけ」」


 狐面の子が叫ぶ。


「聞かないで!」


 でも声は耳の中に入り込んでくる。


 帰らなくていい。

 忘れれば楽になる。

 終わったものは、ここにいればいい。

 足がもつれそうになった。

 その言葉が、なぜだか甘く聞こえた。


 忘れればいい。

 帰らなくていい。

 何も思い出さなくていい。


 それは恐ろしいはずなのに、ひどく優しかった。


 だからこそ、危なかった。


 狐面の子が振り返る。


「だめ!」


 白い狐面の奥で、目が光った気がした。


「君はまだ、忘れちゃだめ!」


 その声で、胸の奥に何かが刺さった。

 痛みだった。

 けれどその痛みのおかげで、足が前に出た。


 こんなわけのわかんない場所で死んでたまるかよ!


 どれくらい走っただろうか。息も絶え絶えの中祭りを抜けた先の階段の上。

 苔むした石段の先に、小さな拝殿が見えてきた。

 その奥には古い社が建っている。


 狐面の子は息を切らしながら、そこへ駆け込んだ。


「中に入って!」


 言われるままに飛び込む。

 直後、背後で戸が閉まった。

 どん、どん、と扉を叩くような鈍く重い音が響く。


 しばらく経って、外のざわめきが嘘みたいに遠くなった。


 社の中は薄暗かった。

 灯りは、中央に置かれた一本の蝋燭だけ。奥には鏡が祀られている。


 けれど、その鏡には何も映っていなかった。

 自分の姿も。

 狐面の子の姿も。


「ここは?」


 狐面の子は、肩で息をしながら答えた。


「一時預かり所」


「何を預かるんだ?」


「迷い人」


 僕じゃないか。

 それから少し間を置いて、子どもは続けた。


「それと、帰りたい気持ち」


「帰りたい気持ち?」


「うん。それがなくなると、もうここから帰れないから。だから、ここで確かめる」


「何を」


「君が本当に帰りたいかどうかだよ」


 蝋燭の火が揺れた。


 外から、再び祭囃子が聞こえてきた。

 笛と太鼓。人ならざるものたちの笑い声。

 狐面の子は、ゆっくりとこちらへ向き直った。


「ねえ、迷い人。君は、あっちに帰りたい?」


 すぐには答えられなかった。

 本来なら今すぐに帰りたい、と思うべきなのだろう。

 元の世界へ。自分の場所へ。自分の名前へ。


 けれど、名前を忘れてしまっている。

 それに記憶も抜け落ちていて、自分がどこへ帰るべきなのかもわからない。


 帰る場所が思い出せないのに、帰りたいと言っていいのだろうか。


 黙っていると、狐面の子が小さく笑った。


「大丈夫。こんな状況だしすぐ答えられる人なんてあんまりいないよ」


「それにね、帰りたいって言えなくても、帰れることはある。帰りたくないって言ってても帰ったり、帰した方がいい人もいる」


「君は...案内役なんだろ。」


「うん」


「じゃあ、俺を帰してくれるのか」


 狐面の子は、狐面の奥でしばらく黙った。


 そして、首を横に振った。


「そうしてあげたいけど、僕は案内するだけ。帰るかどうかを決めるのは、僕じゃない」


「じゃあ誰が」


「君とこの町」


 その瞬間、社の奥の鏡が鳴った。


 シャン、と鈴の音に似た音。


 何も映していなかった鏡の表面に、ゆっくりと景色が浮かぶ。


 暗い部屋。

 見慣れた天井。

 机の上に置かれたスマホ。

 脱ぎ散らかされた服。

 飲みかけのまま置かれたカップ。

 半分だけ開いたカーテン。


 そして、そこに倒れている誰か。


 それが自分だと気づくまで、少し時間がかかった。


 息を呑む。


 身体がある。

 向こう側に。

 元の世界に。


 でも動いていない。


 狐面の子が静かに言った。


「まだ間に合うね」


「まだ?」


「うん。君は完全にこっちに落ちてきてるわけじゃない。身体があっちにあるってことは意識だけこっちに落ちてきてるんだ」


 鏡の中で、スマホが震えている。

 画面が光る。


 誰かからの通知。


 内容は見えない。

 けれど、その光だけがやけに強く見えた。


 狐面の子がこちらを見上げる。


「思い出せる?君の名前。君を呼ぶ人。君が帰らなきゃいけない理由」


 胸が苦しくなった。


 名前はまだ出てこない。


 でも、誰かの声なら思い出せそうだった。

 たった一言。

 何気ない言葉。

 笑った顔。

 明日でもいい約束。

 途中で投げ出した文章。

 返していない連絡。

 食べかけのパン。

 見ようと思っていたドラマ。

 捨てられないモノ。

 失くしたら終わると思ったもの。

 それでも、あった、と泣いたこと。


 どれも小さなものばかりだった。


 でも。


 帰らなきゃ、と思った。

 狐面の子が、そっと手を伸ばす。


「じゃあ、行こうか」


「どこに?」


「君の名前を探しに」


「見つかるのか?」


「少しずつになるけどね」


 社の戸が、ひとりでに開く。

 外に出ると、祭囃子はもう聞こえなかった。


 代わりに、先ほどまでは無かったはずの、果てしなく続く鳥居が立っていた。

 朱色の鳥居が、夜と夕暮れの狭間へ向かって、どこまでもどこまでも並んでいる。


 いわゆる千本鳥居ってやつか?いや、見上げても終わりが見えない。もっとありそうだな。


 その奥から、また声がした。


「「おいで」」


 今度は、ひとつではなかった。


 懐かしい声。

 知らない声。

 優しい声。

 責める声。

 泣いている声。

 笑っている声。


 そのすべてが、こちらを呼んでいた。再び意識が持っていかれそうになったが、なんとか持ち堪える。


 狐面の子が、手を差し出す。


「離さないでね。ここから先は、君が君を忘れたら終わりだから」


 その手を取った。

 小さくて冷たい手だった。

 けれど、確かにそこにあった。


 名前も、帰り道も、まだ思い出せない。

 それでも一歩、鳥居の中へ踏み出した。


 からん。


 鳥居をくぐり、下駄の音が鳴る。


 その音を合図に、宵ノ町の空が少しだけ暗くなった。


 夜になりきれない世界で。

 朝に戻れない迷い人は。


 欠けた狐面の小さな案内役に手を引かれて、自分の名前を探す旅を始めた。

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