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宵ノ町迷い人  作者: 泉蛹
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第四章 "失せモノ屋敷"

 不思議なことに琴の音は、近づくほどに遠くなる気がした。


 ぽろん。

 ぽろん。


 音は確かに耳に届いている。

 けれど、どこから鳴っているのかがわからない。


 野原の奥に建つ屋敷は、古かった。


 黒ずんだ木の門。

 苔の生えた石段。

 半分だけ開いた格子戸。

 庭には白い彼岸花が咲いていて、夜露を受けてぼんやり光っている。


 月は欠けたまま、屋敷の屋根に引っかかっていた。


 灯が門の前で足を止める。


「ここから先、見えるものを全部信じちゃだめ」


「全部?」


「うん。思い出は本物だけど、見え方は本物とは限らないから」


 難しいことを言う。


 灯は狐面の奥からこちらを見上げた。


「思い出って、思い出すたびに少しずつ形が変わるでしょ。嬉しかったことが悲しくなったり、悲しかったことが綺麗になったり。ここは、その変わった後の形も見せてくる」


「じゃあ、何を信じればいい」


 灯は少し黙ったあと、自分の胸元を指差した。


「痛かったかどうか」


「痛み?」


「うん。嬉しい思い出でも、悲しい思い出でも、本当に大事だったものは痛い。胸の奥がきゅってなる。それは、嘘じゃない」


 胸の奥。

 名前の欠片が、そこに小さく熱を持っている。


【――ぎ】


 たったそれだけの響き。

 けれど、ここに来てからそれだけが自分を繋ぎ止めていた。


 灯が格子戸に手をかける。


「開けるよ。準備は良い?」


 戸が、重い音でぎい、と鳴った。

 中は真っ暗ではなかった。


 行灯がぽつぽつと灯る、長い長い廊下。

 左右には障子が並んでいる。

 障子の向こうに、影が映っていた。


 人影。

 子どもの影。

 手を振る影。

 泣いている影。

 背を向ける影。

 どれも、こちらが近づくと静かに消えた。


 灯が言う。


「障子は、勝手に開けちゃだめだよ。向こうから開いた部屋だけ見ること」


「勝手に開けたら?」


「見なくていいものまで見る」


「見なくていいものって?」


「忘れた方がいい記憶。忘れたくても忘れられない記憶。忘れたことにしておかないと壊れる記憶」


「嫌な分類ばっかりだな」


「ここ、そういう屋敷だから。できればさっさと抜けたいけど...」


 灯は淡々と歩き出した。

 廊下を進むたびに、床板が小さく鳴る。


 ぎし。

 ぎし。


 音に合わせるように、琴が鳴る。


 ぽろん。

 ぽろん。


 一つ目の障子が、静かに開いた。

 灯がこちらを見る。


「来た」


 中を覗く。

 そこは、屋敷の部屋ではなかった。

 小さな台所だった。


 湯気。

 味噌汁の匂い。

 夕方のテレビの音。

 誰かがまな板の上で野菜を切っている。


 とん、とん、とん。


 音がやけに懐かしい。

 部屋の中央には、小さな子どもが座っていた。

 背中しか見えない。

 けれど、あれが自分だとわかった。

 なぜかわかる。


 小さな自分は、テーブルの上に両腕を置いて、誰かの帰りを待っていた。

 玄関の方で音がする。


「「ただいま」」


 その声を聞いた瞬間、小さな自分がぱっと顔を上げる。

 嬉しそうに走っていく。

 画面のように切り取られた景色の中で、その小さな背中が誰かに抱きつく。

 顔は見えない。

 声も滲んでいる。

 それでも、その空気だけはわかった。


 安心。


 自分にも、そういうものがあったのだと思った。

 何も考えずに、誰かが帰ってきたことを喜べる時間。

 名前を呼ばれたら返事をするだけでよかった時間。

 明日が来ることを疑っていなかった時間。


 胸が痛くなる。

 懐かしいのに、苦しい。

 灯が隣で言った。


「一番綺麗だった記憶」


「これが?」


「たぶんね。屋敷が最初に見せるのは、その人が帰りたいと思うための記憶だから」


 帰りたい。

 そう思うべきなのに、すぐにはそう思えなかった。

 綺麗すぎる。

 綺麗なものは、戻れないとわかった瞬間に刃物になる。

 小さな自分が、誰かに名前を呼ばれる。

 音は聞こえない。

 けれど、口の形が見えた。


【――ぎ】


 胸の中の欠片が熱くなる。

 今、何かが繋がりかけた。

 反射的に一歩踏み出そうとする。


 灯が袖を掴んだ。


「入っちゃだめ」


「でも、今」


「うん。名前に近かった。でも、入ったらそこから出られなくなる」


 部屋の中の小さな自分が、こちらを振り返った。

 顔は見えない。

 顔だけが、ぼやけている。

 それなのに、小さな自分は笑っている気がした。


「「帰ってきなよ」」


 声がした。

 子どもの声だった。


「「ここは、まだあたたかいよ」」


 足が止まる。

 台所の湯気。

 味噌汁の匂い。

 夕方のテレビ。

 誰かが自分の名前を呼ぶ声。


 戻れるなら戻りたい。

 あの頃に。

 まだ何も壊れていなかったかもしれない頃に。


 灯が静かに言った。


「帰るのと、戻るのは違うよ」


 その言葉で、息が詰まった。

 戻る。


 そうだ。

 自分が今、欲しがったのは帰ることではない。

 戻ることだった。

 もう戻れない場所に、戻りたいと思った。

 それは、宵ノ町よりずっと危ない願いなのかもしれなかった。

 障子が、すうっと閉まる。

 台所の光が消える。

 廊下に戻ると、胸の奥だけが熱かった。


 灯は何も言わず、少し待ってくれた。


「大丈夫?」


「大丈夫」


 嘘ではなかった。

 ただ、痛かった。


 灯が頷く。


「次、来るよ」


 二つ目の障子が開く。

 今度は、雨の匂いがした。

 見えたのは、学校の昇降口だった。


 外は雨。

 灰色の空。

 濡れた傘が傘立てに詰め込まれている。

 廊下の奥から、誰かの笑い声が聞こえる。

 そこに、先ほどより少し成長した自分が立っていた。


 靴箱の前で、動けずにいる。

 誰かを待っている。

 いや、待っているのではない。

 声をかけようとして、できずにいる。

 少し離れた場所で、同級生らしき子どもたちが話していた。

 笑っている。

 楽しそうに。

 何気なく。


 そこに自分が入る隙間は、あるようでなかった。

 小さな自分は、何度も口を開こうとする。

 でも、声が出ない。

 やがて友達たちは、こちらに気づかないまま行ってしまう。

 昇降口に、自分だけが残る。

 雨の音だけが響く。


 灯が小さく言った。


「一番戻れない記憶」


「さっきの方が、戻れなかったけど」


「うん。でも、こっちは戻ってやり直したい記憶。後悔が正しいね」


 胸が、さっきとは違う痛み方をした。

 あの時、声をかけていれば。

 あの時、笑っていれば。

 あの時、怒っていれば。

 あの時、泣いていれば。

 あの時、引き止めていれば。


 たった一瞬の後悔が、何年も残ることがある。

 昇降口の自分は、濡れた外を見ている。

 誰もいない。

 誰も戻ってこない。

 それなのに、その場を動けない。


 後ろから声がした。


「「ねえ」」


 振り返り女の声かと思った。

 違った。

 これは、記憶の中の声だ。

 小さくて、近くて、でももう届かない声。


「「ねえ、なんで来なかったの」」


 息が止まる。

 画面の中の自分ではなく、今の自分に向けられた声だった。


「「なんで、言ってくれなかったの」」


 障子の向こう、雨の中に人影が立っている。

 顔は見えない。

 けれど、知っている気がした。

 知っている。

 でも、思い出したら壊れそうだった。


 灯がこちらの前に立つ。


「見すぎ」


「だめ」


 灯の声が少し強くなる。


「これは思い出じゃない。君の中の後悔が勝手に喋ってる」


「でも——」


 言葉が出ない。

 雨の中の影が、こちらへ一歩近づく。


「「ねえ。置いていったのは、そっちでしょ」」


 違う。

 そう言いたかった。

 でも、本当に違うのかがわからない。


 自分が誰かを置いていったのか。

 誰かに置いていかれたのか。

 それとも、どちらでもなかったのか。

 記憶はいつも、自分に都合よく形を変える。

 だから怖い。


 雨の中の影が笑う。


「「思い出してよ。思い出したら、もう帰れなくなるから」」


 その言葉で、灯が動いた。

 懐から小さな鈴を取り出し、ちりん、と鳴らす。


 澄んだ音が廊下に響いた。


 瞬間、雨の景色が歪む。

 昇降口。

 傘立て。

 友達。

 雨の中の影。

 すべてが水に溶けるように崩れていく。

 障子が閉まった。

 廊下に静寂が戻る。

 気付かないうちに息が荒くなっていた。


 灯を見る。


「今のは」


 灯は鈴をしまいながら言った。


「鈴のことなら知っても意味ないよ。もうしばらくは使えないから。さっきの記憶のことなら、失せモノ屋敷は、途中から嘘を混ぜるんだ」


「嘘?」


「そう。でも、完全な嘘じゃない。本当の痛みに、嘘の情景を足す。そうすると、人は勝手に自分を責めるから」


「嫌な場所だな」


「うん。だから嫌い」


 灯が、珍しくはっきりそう言った。

 その発言に引っかかる。


「来たことがあるのか」


 灯は答えない。

 代わりに答えた。


「この屋敷の本当の名前はね、"思い出屋敷"って言うんだ。でも今みたいにもう戻らない、戻れない記憶ばかり見せてくる。だからみんな嫌って"失せモノ屋敷"って呼んでるんだ。」


「行こう。次が最後」


 三つ目。

 一番綺麗だった記憶。

 一番戻れない記憶。


 それなら、次は。


「本当は忘れたかった記憶」


 灯は、こちらを見ずに言った。


「廊下の奥」


 そこだけ行灯が消えていた。

 暗い。

 障子は一枚だけ、他のものより古く、黒い染みが広がっている。

 その前に立つと、琴の音が止まった。

 屋敷全体が息を潜めたようだった。


 灯が低い声で言う。


「開いても、すぐには見ないで」


「どうすればいい」


「僕の手を握って。それから、足元を見る。声がしても、返事しない。呼ばれても、近づかない」


「振り返り女の時みたいだな」


「うん。でも、もっと質が悪い」


 障子が、音もなく開いた。

 部屋の中は、暗い自室だった。

 見覚えがあった。


 鏡で見た部屋。

 元の世界に残してきた部屋。


 机。

 スマホ。

 カーテン。

 脱ぎ散らかされた服。

 倒れている自分。

 ただし、鏡で見た時よりもずっと近い。

 部屋の空気が、こちらまで流れ込んでくる。


 眠気。

 息苦しさ。

 重たい体。

 もうどうでもいいという感覚。


 息が詰まり、胸の奥が冷える。

 これが、忘れたかった記憶?

 今の自分が、ここへ来る直前の記憶。

 床に倒れている自分の横に、もう一人いた。

 黒い影だった。

 人の形をしている。

 けれど顔がない。

 ただ、こちらと同じ声で喋った。


「「もういいよ」」


 心臓が跳ねる。


 影は、倒れている自分のそばに座り込んでいる。


「「もう終わりでいい」」

「「疲れたでしょ」」

「「よく頑張ったよ」」

「「だから、もう起きなくていい。」」


 優しい声だった。

 だから、怖かった。


 責める声ではない。

 怒る声でもない。

 泣いて止める声でもない。


 ただ、全部を許すような声。

 自分が一番聞きたかった声に似ていた。


 灯が手を強く握る。


 聞いちゃだめ


 聞いているつもりはなかった。

 しかし、声は勝手に入ってくる。


 影が、こちらを見た。

 顔はないのに、目が合ったとわかった。


「「ねえ。帰ってどうするの?」」

「「なにをするの?」」

「「なにがしたいの?」」


 障子の向こうの部屋で、倒れている自分は動かない。

 スマホだけが震えている。

 誰かからの通知。

 でも、手は伸びない。


 影が笑う。


「「戻ったって、また苦しいだけだよ。また眠れなくて、また怖くて、また寂しくて、また全部嫌になる。それならここで終わりにしよう」」


 声が、あまりにも自然だった。

 まるで自分自身の考えみたいに。


 いや。


 たぶん、本当に自分の一部なのだ。

 終わりたいと思った自分。

 もう頑張れないと思った自分。

 誰にも呼ばれなくていいと思った自分。

 全部投げ出したかった自分。


 影は、倒れた自分の頭を撫でる。

 優しい手つきだった。


「「ほら。眠ってる時だけは、痛くない」」

「「もういいんだよ」」


 灯が小さく息を呑んだ。

 その瞬間、影の声が変わった。


「「灯」」


 二人の体が固まる。

 影がゆっくり顔を上げる。


「「君もそうだったでしょ?」」


 空気が凍った。

 灯の手が震えている。


 影は、こちらではなく灯を見ていた。


「「疲れたんだよね。呼ばれなくなって、探されなくなって、名前もなくして。だから案内役になった。誰かを帰すふりをして、自分が帰れない理由を増やしてる」」


 灯が一歩下がる。


「......違う」


 影が笑う。


「「違わないよ」」


 部屋の暗闇が広がる。

 いつの間にか、自室の床にもう一人、子どもが倒れていた。

 紺色の着物ではない。

 普通の服を着た、小さな子ども。

 顔は見えない。

 でも、その子のそばに、白い狐面が落ちている。


「灯」


 思わず呼ぶと、灯はびくりとした。


「見ないで」


 声が震えていた。


「「見ないでって言った」」


 障子の中の影が、楽しそうに囁く。


「「ほら。この子にもあるんだよ。本当は忘れたかった記憶が」」


 灯は首を横に振る。


「僕は案内役。僕の記憶は関係ない」


「「あるよ」」


 影は優しく言う。


「「名前をつけられたから、思い出しかけてる。灯。いい名前だね。暗いところで道を照らす名前」」


 灯の手を握る力が、どんどん弱くなる。


「「でも、灯りってさ」」


 影が笑った。


「「消えるためにあるんじゃないの?」」


 その瞬間、灯が手を離した。


 あ。


 小さな手が、指の間から抜ける。

 灯は後ずさり、廊下の暗がりに立ち尽くした。

 狐面の奥は見えない。

 けれど、その子が泣きそうになっていることだけはわかった。


 影が囁く。


「「置いていけばいい。その子は案内役だよ。君を帰すための道具。一緒に帰れるわけじゃない」」


 胸の奥の名前の欠片が、熱を持った。


【――ぎ】


 痛い。

 でも、その痛みで目が覚めた。


「違う」


 声が出た。

 影がこちらを見る。


「「違う?」」


「灯は道具じゃない」


 言った瞬間、廊下の行灯が一つ灯った。

 影が黙る。

 自分でも驚いた。

 けれど、言葉は止まらなかった。


「案内役かもしれない。この町のものかもしれない。本当の名前がないのかもしれない。でも、俺を止めた。手を引いた。名前を探してくれた。だから、道具じゃない」


 灯がこちらを見る。


 白い狐面が、わずかに揺れる。


 影は、今度はこちらに向かって笑った。


「「じゃあ、どうするの。連れて帰る?名前もない、帰る場所もない、町のものになりかけてる子を?」」


「「どうやって?」」


 答えられない。

 連れて帰れるのかなんて、わからない。

 無責任に「連れて帰る」とは言えなかった。


 でも。

 このまま置いていくとは、もっと言えなかった。


「灯」


 呼ぶ。

 灯は動かない。

 もう一度呼ぶ。


「灯」


 狐面の子が、小さく肩を震わせる。


「呼ばなくていいって言った」


「呼ぶよ」


「なんで」


「呼べないのは寂しいだろ」


 前にも言った言葉。

 でも今度は、もっと強く思った。


 ——誰にも呼ばれないと、生きていたのかどうかすら怪しくなる。


 それなら、呼ぶ。

 本当の名前じゃなくても。

 仮の名前でも。

 今だけの名前でも。

 ここにいると、わかるように。


「灯」


 手を伸ばす。


「こっちに来て」


 灯はしばらく動かなかった。


 影が囁く。


「「来ちゃだめ。その手を取ったら、また苦しくなるよ。誰かを案内するだけなら傷つかない。名前なんて持たなければ、失くすこともない。君は幸せのままだ」」


 灯の足が止まる。

 その言葉は、灯に向けられているのに、自分にも刺さった。

 名前を持つから、失くす。

 誰かを大事にするから、置いていかれる。

 帰りたいと思うから、帰れない時に苦しくなる。


 それでも。


 それでも、何も持たないまま消えていくよりは。


「灯!」


 三度目。

 その声が、廊下にまっすぐ響いた。

 灯はゆっくり顔を上げ、小さな手を伸ばした。


 指先が触れる。

 冷たい。

 けれど、確かにそこにあった。

 手を掴む。


 次の瞬間、障子の中の影が絶叫した。


「「どうして!」」


 声が、いくつもの声に割れる。


「「どうして戻る」」

「「どうして忘れない」」

「「どうして終わらせてくれない。」」


 障子の奥の部屋が崩れ始める。


 机が歪む。

 スマホが割れる。

 倒れていた自分の体が、黒い水のように溶ける。


 影が笑いながらこちらへ手を伸ばす。


「「帰ったって、また来るくせに」」


 その言葉に、足が止まりかけた。


 影が笑う。


「「そうだよ。君はまたここへ来る。何度でも、終わりたくなる。そのたびに誰かの手を借りて、また苦しくなる場所へ戻る。それの何が救いなの」」


 答えは出なかった。

 でも、灯の手を握っていた。

 それだけで、今は充分だった。


「わからない」


 そう言った。


 影が止まる。


「わからないけど、今は戻る。また来るかもしれない。また終わりたいって思うかもしれない。でも、今はまだ、ここで終わるって決めたわけじゃない」


 忘れ川で置いてきた感覚。

 全部終わったという決めつけ。


 それが、少しだけ効いていたのだろうか。


 影は、こちらを睨むように黙った。


 顔はない。

 それでも、悔しそうだった。


 灯が震える声で言った。


「出るよ」


「うん」


「走るよ」


 障子の向こうから、いくつもの手が伸びる。


 小さな手。

 大人の手。

 白い手。

 黒い手。


「「待って」」

「「見て」」

「「思い出して」」

「「忘れないで」」

「「忘れて」」

「「戻って」」

「「置いていって」」


 声が重なる。

 行灯が次々に灯る。

 暗かった廊下に、道ができる。


 ぽろん。


 止まっていた琴の音が、また鳴った。


 ぽろん。

 ぽろん。


 今度は遠ざかっていく音だった。

 出口の格子戸が見える。


 灯が叫ぶ。


「飛んで!」


 またかよ、と思う余裕もなく、二人で外へ転がり出た。


 夜露に濡れた草の上。

 背後で屋敷の戸が勢いよく閉まる。


 どん。


 その音と同時に、屋敷の明かりがすべて消えた。

 琴の音も消えた。

 野原には、欠けた月と、二人分の荒い息だけが残った。


 しばらく動けなかった。


 草の匂い。

 冷たい空気。

 胸の奥の熱。


 手を見る。

 灯の手を、まだ握っていた。

 離そうとすると、灯の方が少しだけ握り返した。

 だから、そのままにした。


「大丈夫か」


 聞くと、灯は答えなかった。


 狐面の下から、小さく鼻をすする音がした。


「泣いてる?」


「泣いてない」


 即答だった。


 でも声が完全に泣いていた。


「そうか」


「うん。泣いてない」


「わかった」


 しばらく沈黙が流れる。

 やがて灯が、小さく言った。


「見た?」


「何を」


「僕の、記憶」


「少し」


 灯の手が強張る。


 気持ち悪かった?


「なんでそうなるんだ」


「だって」


 灯は俯いた。


「案内役なのに。迷い人を案内する側なのに。僕も、たぶん迷い人だった。」


「それは——」


 何か言おうとして、言葉を探した。


 慰めるのは簡単だった。

 でも、この場所で軽い言葉を言うのは危ない気がした。


 だから、正直に言った。


「まだ全部わかんない」


 灯がこちらを見る。


「でも、案内してくれたのは本当だろ。俺を止めてくれたのも、名前の欠片を守ってくれたのも、本当だろ」


「うん」


「じゃあ、それでいい」


 灯は黙った。

 少ししてから、小さく言う。


「君、変なの」


「よく言われる気がする」


「思い出したの?」


「いや。なんとなく」


 灯はほんの少しだけ笑った。

 その時、胸の中の名前の欠片が熱くなった。


【――ぎ】


 それに続いて、今度はもう少しだけ音が聞こえた。


【――なぎ】


 息が止まる。

 灯が気づいて、こちらを見る。


「どうしたの?」


「名前?」


 頷く。

 全部ではない。

 でも、さっきよりはっきりしている。


【なぎ】


 それが名前のどこなのかはわからない。苗字かもしれないし名前かもしれない。

 でも、確かに自分の内側から聞こえた。


 灯が小さく言った。


「二つ目の欠片だ」


「思い出屋敷で?」


「うん。ちゃんと出てこられたから、屋敷が返したんだと思う。君が、屋敷の誘惑に飲まれなかったから」


【なぎ。】


 もう一度、心の中で繰り返す。

 その音には、懐かしさがあった。

 痛みもあった。

 でも、嫌ではなかった。


 灯が、少しだけ明るい声で言った。


「よかったね」


「うん」


 そこで、ふと思った。


「灯」


「なに」


「お前の名前も、探せるのか」


 灯は動きを止めた。

 風が、白い彼岸花を揺らす。


 長い沈黙のあと、灯は小さく答えた。


「探さない方がいい」


「どうして」


「思い出したら、僕は案内役じゃいられなくなるかもしれない」


「それは困るのか」


「困るよ。君を帰せなくなるかもしれない」


 灯の声は、少しだけ震えていた。


「案内役じゃなくなったら、僕がここにいる理由がなくなる」


 胸が詰まる。

 ここにいる理由。

 それは、帰る理由と同じくらい大事なものなのかもしれなかった。


 灯は立ち上がり、着物についた草を払う。


「行こう。長居すると、屋敷がまた呼ぶ」


 その背中は、いつもより少し小さく見えた。

 でも、さっきまでとは違う。

 ただの案内役ではない。


「灯」


 呼ぶと、灯は振り返った。


「なに」


「ありがとう」


 灯は一瞬黙り、それからそっぽを向いた。


「仕事だってば」


 その声は、もう泣いていなかった。

 野原の向こうに、次の道が見えていた。


 白い彼岸花の間を抜ける、細い石道。

 その先に、小さな町灯りが見える。


 先ほどの祭りとは違う。

 もっと静かで、もっと冷たい灯り。


 灯が言う。


「次は、面市だね」


「めんいち?」


「うん。顔を売る市場」


「嫌な予感しかしない」


「正解、さすがにもうわかるね」


 灯は少しだけ笑った。


「そこでは、みんな自分に似合う顔を買う。なりたい顔。忘れたい顔。誰かに愛された顔。誰かを騙すための顔」


 そして、ふとこちらを見た。


「君はまだ、自分の顔を思い出してないでしょ」


 言われて、はっとする。確かにそうだ。

 名前だけではない。

 自分の顔も、まだ思い出せていなかった。


 鏡に映らなかった自分。

 部屋に倒れていた自分。

 幼い記憶の中で顔だけがぼやけていた自分。

 名前の次は、顔。

 自分が自分であるための、もう一つの輪郭。


 灯が手を差し出す。


「行こう、なぎ」


 その音で呼ばれた瞬間、胸の奥が強く鳴った。

 まだ完全な名前ではない。

 でも、初めてこの世界で、自分が自分として呼ばれた気がした。

 手を取る。


 月の欠けた夜。

 白い彼岸花の道を、灯と並んで歩く。

 背後の思い出屋敷は、もう見えない。

 けれど、そこに置いてきた痛みと、取り戻した響きだけが、確かに残っていた。


【――なぎ】


 名前をなくした迷い人と灯は、二つ目の欠片を胸に抱え今度は自分の顔を探すため、面市へ向かった。

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