第十三話 おしゃれなスズメ、ぐうたらウサギ、大きなクマ
第十三話 おしゃれなスズメ、ぐうたらウサギ、大きなクマ
『涼太ぁ~』
『今日は週末なんだし、休ませてくれない?』
「ダメ~」
『えぇ~~なんで!?』
作者は机に突っ伏していた。
手にはまだペンを握ったまま。
机の上には、いまだに清書し終わっていない小説が積まれている。
『ちょっとくらい休ませてよぉ!』
『適度に休むのも大事って知らないの!?』
涼太はベッドに寝転んだまま。
作者の悲鳴を完全に無視していた。
むしろ気持ちよさそうに、大きく伸びをする。
「ん~~!」
そして。
長く息を吐いた。
「気持ちいい。」
『僕の話聞いてる!?』
「聞いてるよ。」
『じゃあ休ませて!』
「やだ。」
『なんでだよぉ!』
涼太は寝返りを打つ。
口元が少しだけ緩んだ。
「だって、もう一日くらい静かに過ごしたいし。」
『こいつ……』
作者がゆっくり顔を上げる。
その目には恨みがこもっていた。
『もしかして君、僕がいないほうがいいって思い始めてない?』
「うん。」
『せめて一瞬くらい迷ってよ!?』
「ははは!」
涼太はベッドから起き上がった。
今日は学校もない。
急いで出かける必要もない。
せっかくの週末。
カーテンの隙間から、朝の日差しが部屋へ差し込んでいる。
いつもの朝より。
ずっとのんびりしていた。
ただし。
作者だけは別だった。
『くそぉ……』
作者は目の前の清書を見下ろす。
『僕が作者なのに……』
『なんで週末まで小説を書き写してるんだ……』
「一文字ちょっと曲がっただけで、一枚全部書き直す人がいるからでしょ。」
『クオリティ!』
作者が勢いよく机を叩いた。
『これはクオリティの問題なの!』
「はいはい。」
涼太はベッドから降りる。
適当に髪を整えた。
『待って。』
作者が警戒するように顔を上げる。
『どこ行くの?』
「ちょっと出かけてくる。」
『僕も行く!』
「ダメ。」
『なんで!?』
「清書。」
『……』
涼太は机の上を指差した。
作者は清書を見る。
涼太を見る。
もう一度、清書を見る。
『……』
『連れてってよぉ。』
「ダメ。」
『帰ってきてからやるから!』
「昨日もそう言ってたよね。」
『……』
涼太は上着を手に取った。
「頑張ってね。」
『涼太!!』
バタン。
ドアが閉まった。
『また僕を置いていかないでぇぇぇぇ——!!』
週末。
作者が隣にいない三日目。
その一日が始まった。
◇
「ふぅ~」
涼太はポケットに両手を突っ込んだまま。
目的もなく街を歩いていた。
今日は別に。
行きたい場所があるわけでもない。
ただ。
せっかくの休日だ。
家でずっと作者の叫び声を聞いているより。
外に出たほうがずっと快適だった。
街には平日より多くの人がいた。
学生。
カップル。
子供を連れた家族。
買い物を楽しんでいる人たち。
涼太は歩きながら。
なんとなく周りの店を眺めていた。
「何か買って帰ろうかな……」
ショッピングモールの近くまで来た時。
ふと。
足が止まる。
「……ん?」
少し離れた場所に。
見覚えのある姿があった。
「……」
涼太はしばらく見つめる。
けれど。
すぐには確信できなかった。
いつもと違う。
まったく違う。
学校の制服ではない。
教室で見る。
きちんと整ったいつもの姿とも違っていた。
今日の明日奈は、シンプルなトップスの上に短めのジャケットを羽織り。
下には、少し重なりのあるロングスカートを合わせている。
靴も。
小さなバッグも。
ちゃんと全体に合わせて選んでいるのが分かった。
髪も学校にいる時のようにきっちり整えているわけではなく。
少しだけアレンジされている。
普段より少し大人っぽい。
でも。
明日奈らしい柔らかい雰囲気は残っていた。
「……」
涼太は瞬きをした。
——早川……
一瞬止まる。
——違う。
——明日奈さん。
なぜだか。
頭の中で呼び方を変えただけなのに。
少しだけ気分がよくなった。
「……」
もう一度見る。
——すごく似合ってる。
制服姿だって。
もちろん可愛い。
けれど今日は……
まるで別の印象だった。
声をかけようか。
涼太が迷っていると。
明日奈の前に。
知らない男子が何人か立っていることに気づいた。
「……?」
何か話しかけているらしい。
明日奈はまだ愛想よく笑っていた。
けれど。
体は明らかに少し後ろへ下がっている。
「すみません、本当に友達を待ってるので。」
「別にいいじゃん。ちょっと話すだけだって。」
「そうそう。友達まだ来てないんでしょ?」
「一緒に何か飲みに行かない?」
「本当に大丈夫です……」
明日奈の笑顔が少しずつ固くなっていく。
「……」
涼太は少し離れた場所で。
完全に固まった。
——これ……
——ナンパだよな?
左右を見る。
——行ったほうがいい?
——いや待て。
——今急に出ていったら、逆に変じゃないか?
——ていうか、俺は何として行けばいいんだ?
クラスメイト?
友達?
知り合い?
涼太の頭が一気に回り始める。
——でも明日奈さん、明らかに困ってるだろ!?
——行け!
——行けよ俺!
足。
動かない。
「……」
——動けって!!
それでも動かない。
そのうち。
一人の男子がまた明日奈へ近づいた。
「本当にちょっとだけだからさ。」
明日奈がまた一歩下がる。
「……」
涼太は歯を食いしばった。
「ああ、もう……!」
次の瞬間。
そのまま歩き出した。
「明日奈さん!」
「!」
明日奈が勢いよく顔を上げる。
涼太を見つけた瞬間。
固くなっていた表情が、明らかにほっと緩んだ。
「涼太くん?」
「うん。」
涼太は明日奈の隣まで歩いていった。
そして。
「……」
続きが出てこない。
——やばい。
——来ることしか考えてなかった。
——次の台詞、何も考えてない!!
男子たちが涼太を見る。
「誰?」
「あ……」
涼太の頭が真っ白になる。
明日奈もこちらを見ている。
「……」
涼太はごくりと唾を飲んだ。
「俺……」
「俺は……」
急に明日奈を指差す。
「この人のクラスメイト!」
「……」
「……」
明日奈がぱちぱちと瞬きをする。
男子たちも一瞬黙った。
そのうち一人が口を開く。
「クラスメイトなだけ?」
「……」
涼太の口元が引きつった。
——そうだよ!
——クラスメイトって何の威圧感もないじゃん!!
再び頭が高速回転する。
そして。
もう勢いだけで言った。
「でも、ずっと待ってる人がいるって言ってるでしょ。」
「嫌がってるのにずっと引き止めるの、よくないんじゃない?」
「……」
今度は。
男子たちもすぐには返事をしなかった。
涼太が本当に明日奈の知り合いだと分かったからなのか。
それとも。
これ以上続けるのが面倒になっただけなのか。
一人が肩をすくめる。
「分かったよ。」
「行こうぜ。」
結局。
数人はそのまま離れていった。
「……」
涼太はその背中を見送った。
本当に見えなくなるまで確認して。
ようやく。
全身から力が抜けた。
「はぁ……」
「緊張した……」
「ふふっ。」
横から。
小さな笑い声が聞こえた。
「ん?」
涼太が振り向く。
明日奈が口元を手で少し隠していた。
「何笑ってるの?」
「だって……」
明日奈は笑いを堪えながら。
「涼太くんがさっき、『クラスメイトです!』って言った時。」
「全然迫力なかったから。」
「分かってるよ!」
涼太の顔が一気に赤くなる。
「その時、何言えばいいか分かんなかったんだって!」
「でも。」
明日奈は手を下ろした。
笑顔も少し柔らかくなる。
「ありがとう。」
「……」
「さっき、本当にちょっと困ってたから。」
涼太は一瞬止まり。
頬を掻いた。
「別にいいよ。」
「たまたま見かけただけだし。」
少し止まって。
つい付け足した。
「それに、明日奈さん本当に困ってるように見えたから。」
「うん。」
明日奈が小さく頷く。
「何回も断ったんだけど……」
「なかなか行ってくれなくて。」
「だったら、なおさら放っておけないでしょ。」
涼太は反射的に答えた。
「……」
明日奈がじっと見る。
「何?」
「ううん。」
明日奈は小さく笑った。
その時。
「明日奈~?」
少し離れた場所から。
気の抜けたような声が聞こえた。
二人が同時に振り向く。
ショッピングモールの中から。
千夏が出てきたところだった。
手にはスマホ。
顔には。
何が起きているのかさっぱり分からない、と書いてある。
「ん?」
明日奈を見る。
涼太を見る。
「相原くん?」
「青山さん?」
千夏がゆっくり近づいてくる。
「なんでここにいるの?」
「それ俺が聞きたいんだけど。」
涼太は明日奈を見る。
「二人で来てたの?」
「うん。」
千夏は自然に答えた。
「さっきお手洗い行ってた。」
そして。
二人を見る。
「で、何かあったの?」
明日奈は小さくため息をついた。
「さっき、何人かにナンパされてたの。」
「え?」
千夏が一瞬固まる。
そして。
「また?」
「また?」
涼太が千夏を見る。
千夏は頷いた。
「明日奈、結構ナンパされるよ。」
「……結構?」
「うん。」
千夏は当然のように答える。
「可愛いから。」
「千夏!」
明日奈の顔がすぐ赤くなった。
「急に言わないでよ!」
「でも本当じゃん。」
千夏は首を傾げる。
「今日は特に可愛いし。」
「……」
明日奈の表情が一瞬止まった。
そして。
目に見えて嬉しそうになる。
「本当?」
「本当だよ。」
「……へへ。」
涼太:「……」
まただ。
あの小さなスズメ。
一言褒められただけで。
すぐご機嫌になる。
千夏が涼太を見る。
「じゃあ、相原くんが助けたの?」
「まあ……一応。」
明日奈がすぐに頷いた。
「涼太くんが助けてくれたの。」
「へぇ~」
千夏は涼太を見る。
「カッコいいじゃん、相原くん。」
「べ、別に大したことじゃないよ。」
「本当だよ。」
明日奈も続ける。
「さっき、すごく頼もしかった。」
「……」
今度は涼太が黙った。
「……」
千夏が瞬きをする。
「相原くん?」
「何でもない。」
「耳赤いよ。」
「赤くない!」
「赤いって。」
「赤くないって!」
明日奈がまた笑った。
少しして。
何かを思い出したように口を開く。
「そうだ。」
明日奈が涼太を見る。
「涼太くん、このあと何か予定ある?」
「俺?」
涼太は首を横に振った。
「ないよ。」
「じゃあ……」
明日奈は近くのドリンクショップを指差した。
「何か奢らせて。」
「え?」
「さっきのお礼。」
「いいよ、そのくらい。」
「ダメ。」
明日奈は真剣に首を振った。
「私が奢りたいの。」
「……」
涼太は明日奈を見る。
返事を待っているその姿が。
また少し。
小さなスズメみたいに見えた。
「分かった。」
「じゃあ、ご馳走になります。」
「うん!」
明日奈がすぐ嬉しそうに頷く。
千夏は横で大きく伸びをした。
「じゃあ私も飲む~」
明日奈が振り向く。
「千夏は自分で買って。」
「冷たい!」
「だって助けてくれたの千夏じゃないし。」
「明日奈が変わった!」
「変わってない!」
二人のやり取りを見て。
涼太はつい笑った。
すると明日奈がすぐ振り返る。
「涼太くん、何笑ってるの?」
「何でもない。」
「本当?」
「本当。」
三人は一緒にドリンクショップへ向かった。
この週末。
涼太が思っていたよりも……
少しだけ。
賑やかな一日になりそうだった。
◇
三人は窓際の席に座った。
飲み物が届いて。
まだほとんど時間も経っていないのに。
千夏はテーブルへぐでっと突っ伏した。
「疲れた~」
「……」
涼太はその姿を見る。
「今日、何したらそんなに疲れるの?」
千夏は顔すら上げない。
自分の飲み物だけ手元へ引き寄せ。
ストローをくわえる。
ゆっくり一口。
「買い物って疲れるんだよ。」
「昨日の体育、ずっと跳ねてなかった?」
「昨日は昨日~」
「そういうものなの?」
千夏は答える気すらないらしい。
テーブルの上で。
完全にだらけきっていた。
昨日。
ゴール下でぴょんぴょん跳ね続けていたウサギ。
今日は。
動くことすら面倒くさそうだ。
「……ぐうたらウサギ。」
涼太が小さく呟く。
「ん?」
「何でもない。」
涼太は慌てて飲み物を一口飲んだ。
そして。
ふと。
向かい側に座る明日奈へ視線が向く。
いつもは制服。
けれど今日は。
服。
靴。
バッグ。
髪型まで。
全部きちんと合わせているように見えた。
褒められるだけですぐ嬉しそうになる。
あの小さなスズメなのは同じなのに。
今日は。
妙におしゃれに見える。
「……」
「涼太くん?」
視線に気づいた明日奈が首を傾げる。
「どうしたの?」
「あ。」
涼太は少し迷った。
けれど。
結局そのまま口にした。
「その……」
「明日奈さん、今日の服すごく似合ってる。」
「……!」
明日奈が一瞬で背筋を伸ばした。
目まで分かりやすく輝く。
「本当?」
「うん。」
「本当に似合ってる。」
「……へへ。」
やっぱり。
同じだ。
体育の時も。
普段も。
褒めれば。
この小さなスズメはすぐにご機嫌になる。
「そういえば、明日奈?」
テーブルに突っ伏していた千夏が突然声を出した。
さっきの会話を思い出したらしい。
少しだけ顔を上げ。
明日奈を見る。
そして涼太を見る。
「なんで相原くんのこと、名前で呼んでるの?」
「え?」
明日奈が固まる。
一方。
千夏の目はすでに輝いていた。
さっきまで寝そうだったウサギが。
急に復活した。
「いいな!」
「私も名前で呼びたい!」
すぐに涼太を見る。
「いい? 相原くん?」
「いいよ。」
涼太はそれほど迷わず頷いた。
「本当?」
「うん。」
「じゃあ——」
千夏が少しだけ声を伸ばす。
そして笑った。
「涼太くん!」
「……」
急にそう呼ばれると。
涼太のほうが少し落ち着かない。
「うん。千夏さん。」
「おお!」
千夏がすぐ満足そうな顔になる。
「こっちのほうがいい!」
明日奈は横で困ったように笑った。
「ごめんね、涼太くん。」
「千夏って昔からこうなの。思ったことすぐ言っちゃうから。」
「大丈夫だよ、明日奈さん。」
涼太は笑いながら手を振る。
千夏がすぐ明日奈を見る。
「ほら!」
「涼太くんもいいって言ってる!」
「もう慣れるの早すぎない……?」
「名前って呼ぶためにあるものでしょ。」
「正しいような、何か違うような……」
涼太が思わず突っ込む。
「そうだ!」
千夏がまた何かを思い出した。
「せっかく名前で呼ぶようになったんだし。」
スマホを取り出す。
「LINE交換しようよ!」
「え?」
涼太が瞬きをする。
「私たち、まだ連絡先知らないよね?」
「……そういえば。」
「でしょ?」
千夏はスマホを涼太へ向けた。
「ほらほら。」
「追加しよ。」
「はいはい。」
涼太もスマホを取り出す。
二人はすぐにLINEを交換した。
画面に。
新しい名前が追加される。
【青山千夏】
「できた!」
千夏はスマホを見る。
そして。
指を素早く動かした。
ピコン。
涼太のスマホがすぐ鳴る。
画面を見る。
千夏から。
ウサギのスタンプが送られていた。
「……」
「なんで最初のメッセージがウサギなの?」
「可愛いから。」
「確かに千夏さんっぽい。」
「どういう意味?」
「何でもない。」
「怪しい。」
二人を見ながら。
明日奈がつい笑った。
そこで涼太も思い出す。
「そうだ。」
明日奈を見る。
「俺と明日奈さんも……まだだよね?」
「ん?」
明日奈は自分のスマホを見る。
そこでようやく気づいた。
「あ、本当だ。」
「じゃあ交換する?」
「うん。」
明日奈は自然に頷いた。
少しして。
涼太の連絡先に。
もう一つ名前が増えた。
【早川明日奈】
「……」
なぜだろう。
涼太はその名前を二秒ほど長く見つめてしまった。
「涼太くん?」
「あ、何でもない。」
「?」
慌ててスマホをしまおうとする。
その直後。
ピコン。
明日奈からもスタンプが届いた。
可愛らしいキャラクターが。
嬉しそうに両手を上げている。
横には——
【よろしく!】
「……」
涼太はスタンプを見つめる。
なぜだか。
嬉しそうにこちらの反応を待っているような、その姿が。
また。
小さなスズメを連想させた。
「どうしたの?」
明日奈が聞く。
「何でもない。」
涼太は笑いそうになるのを堪えた。
「また変なこと考えてない?」
「本当に何も考えてないって!」
「怪しい。」
千夏が目を細める。
「千夏さんまで疑わないでよ!」
三人の声が重なり。
時間はいつの間にか過ぎていった。
◇
三人が店を出た頃には。
もう午後になっていた。
朝ほど強かった日差しも。
少しずつ柔らかくなっている。
街に伸びる影も。
だいぶ長くなっていた。
「じゃあ、そろそろ帰ろっか。」
千夏が大きく伸びをした。
ようやく椅子から動く気になったらしい。
「今日はありがとね、涼太くん。」
「飲み物奢ったのは明日奈さんでしょ?」
「でも一緒に喋ったのも立派な貢献だから。」
「基準ゆるすぎない?」
明日奈が横で小さく笑う。
「じゃあ……涼太くん。」
「ん?」
「今日は本当にありがとう。」
明日奈はバッグを持つ手に少し力を入れた。
「さっき涼太くんが来てくれなかったら、もっと困ってたと思う。」
「大丈夫だって。」
涼太は笑った。
「たまたま見かけただけだし。」
「それでもありがとう。」
明日奈は真剣な顔で言った。
「……うん。」
涼太は少し視線を逸らす。
なぜだか。
また少し恥ずかしくなった。
千夏が二人を見る。
「じゃあ、私たち行くね。」
「うん。」
涼太は二人に手を振った。
「明日……じゃないや。月曜ね。」
「月曜日ね、涼太くん。」
明日奈も手を振る。
千夏は大きく手を上げた。
「また月曜ね、涼太くん!」
「分かったって!」
二人は少しずつ遠ざかっていく。
涼太はその場で。
二人が人混みの中へ消えるまで見送った。
「……」
それから。
スマホを取り出す。
連絡先に。
新しい名前が二つ。
「へへ……」
つい口元が緩んだ。
次の瞬間。
涼太は自分の頬を軽く叩いた。
「違う。」
「落ち着け。」
「LINE交換しただけだろ。」
そう言って。
もう一度画面を見る。
「……」
やっぱりちょっと嬉しい。
スマホをポケットへしまい。
家へ向かって歩き始める。
その途中。
あまり大きくない書店の前を通った。
入るつもりはなかった。
ただ。
何となくガラス越しに中を見ただけだった。
「……ん?」
足が止まる。
書店の中。
一際目立つ。
大きな人影があった。
二メートル近い身長。
大きめの上着に。
すっぽり包まれている。
静かに本棚の前に立っている姿は。
なぜだか。
大きなクマみたいだった。
「……」
涼太は目を細める。
「凪?」
思わず。
ショーウィンドウへ少し近づいた。
「まさか……」
じっと見る。
見れば見るほど。
似ている。
「やっぱり凪に見えるんだけど。」
その大きな人影は。
本棚の前で。
一冊の本を手にしていた。
涼太は少し体をずらす。
表紙を見ようとする。
「……」
見えた。
「……え?」
涼太の動きが止まる。
その本の表紙は……
何というか。
ものすごく過激というほどではない。
ただ。
普通の恋愛漫画と比べると。
少しだけ刺激が強い。
表紙だけでも。
妙に長く見つめるのが恥ずかしくなるような。
そんな雰囲気があった。
「……」
涼太は瞬きをする。
大きな背中を見る。
本を見る。
「……ないな。」
即座に結論を出した。
「絶対凪じゃない。」
その人影が一ページめくる。
それを見て。
涼太はさらに確信した。
「凪がこんなの読むわけないって。」
涼太の中での凪は。
静かで。
口数も少ない。
時には。
何を話せばいいのか分からなくなるような人だ。
昨日。
自分と蓮がこそこそ話していた時も。
ただ淡々と。
「……聞こえてるよ。」
そう言っただけだった。
どう考えても。
一人で書店に立って。
平然とこんな本を読んでいる姿とは。
結びつかない。
「うん。」
涼太は真剣に頷いた。
「背が似てるだけだ。」
「世界に背が高い人が凪しかいないわけじゃないし。」
とはいえ。
百九十八センチ前後の人が。
道を歩けば簡単に何人も見つかるかと言われれば。
まったくそんなことはない。
「……」
涼太は少し黙った。
「でも違うものは違う。」
そのまま立ち去ろうとする。
二歩ほど歩き。
また止まった。
「……でも。」
もう一度。
書店を見る。
「男なら……」
顎に手を当てる。
「こういうの、多少気になったりはするよな。」
「……」
頭の中に。
あまり認めたくない過去の記憶が少し浮かんだ。
「俺も昔……似たようなの、こっそり見たことある気がするし。」
涼太の表情が少し気まずくなる。
「でも俺は、書店で堂々とは読まないからな!」
小さな声で自分を弁護する。
誰に説明しているのかは。
本人にも分からない。
「うん。」
「だから凪じゃない。」
涼太はもう一度。
まったく同じ結論へ辿り着いた。
そして。
今度こそ。
振り返らずに歩いていった。
書店の中。
大きなクマは。
相変わらず静かに立っていた。
一ページ。
「……」
そして。
もう一ページ。
さっきまで窓の向こうで。
誰かが自分について。
まるで根拠のない推理を延々としていたことなど。
まったく気づいていないようだった。




