第十二話 体育の授業!!「残念、作者は来られません」
第十二話 体育の授業!!「残念、作者は来られません」
『うぅ……ちょっと休ませてよぉ……』
作者は机に突っ伏したまま、書きかけの原稿用紙を握りしめていた。
『僕も一緒に行きたい!』
「ダメ。」
涼太は考える間もなく即答した。
「青山さんに見せるための小説、ちゃんと完成させてよ。」
『そんなのあり!?』
作者が勢いよく顔を上げる。
『僕、作者なんだけど!?』
「作者だからこそ責任取って。」
『その二つ、全然関係ないよね!?』
「ダメなものはダメ。」
涼太は鞄を背負い、そのまま背を向けた。
「じゃあ、行ってくる。」
『ま、待って!』
作者が手を伸ばす。
『行かないで!!』
涼太は振り返らない。
『僕も連れてってよぉ!!』
それでも反応なし。
次の瞬間。
どこからともなく現れた真っ白なウェディングドレスが、作者の体を包み込んだ。
身長二メートルを超える、全身筋肉だらけのスキンヘッド男。
そんな男がウェディングドレス姿で床に膝をつき。
遠ざかっていく涼太の背中へ、必死に手を伸ばしていた。
『この浮気者ぉ!!』
『僕を捨てないでぇぇぇぇ——!!』
ウェディングドレスの裾が、なぜか風になびく。
作者の目尻には、なぜか一粒の涙まで浮かんでいた。
しかし涼太は。
ただひたすら。
一度も振り返ることなく歩き続ける。
なんて薄情な男なのだろう~。
『涼太ぁ~~!!』
今日も。
作者は締切地獄から抜け出せなかった。
そして涼太の体育の授業は。
作者の干渉なしで始まろうとしていた。
「まったく……また変なことしてるし……」
涼太は鞄を背負ったまま家の外へ出て、小春を待った。
ふと思い出したように、自分の部屋の窓を見上げる。
「……」
作者は。
まだウェディングドレスを着ていた。
窓にべったり張りつき、涙目になりながら下にいる涼太を見つめている。
『涼太ぁ~~』
「もうふざけてないで!」
涼太は思わず窓に向かって叫んだ。
「早く書いて! 終わったら学校に連れてってあげるから!」
『本当!?』
「本当、本当!」
涼太は気づいていなかった。
ちょうどその時。
背後の玄関が開いた。
「わっ!」
外へ出てきたばかりの小春が、突然の大声にびくっと体を震わせる。
次の瞬間。
小春は早足で涼太のところまで近づき。
ドン!
拳を腹に叩き込んだ。
「ぐっ!?」
涼太はすぐさま腹を押さえて前屈みになる。
「何すんだよ!」
小春はそれでも気が済まなかったらしい。
そのまま涼太の髪を掴んだ。
「朝っぱらから家の前で叫ばないでよ! びっくりしたじゃん!」
「分かった、分かったから! まず髪離して……痛い痛い痛い!」
ようやく小春が手を離す。
涼太は引っ張られた頭をさすりながら、不満そうに口を尖らせた。
「お前さ、もうちょっとお兄ちゃんに優しくできないの?」
「無理。」
「即答!?」
「私がどうしようと勝手でしょ。」
小春は鞄を背負い、そのまま先に歩き出した。
「早くして。遅刻するよ。」
「はいはい、待ってって。」
涼太も慌てて追いかける。
すぐに追いつき。
兄妹は並んで朝の道を歩き始めた。
しばらくして。
涼太が何気なく口を開く。
「そういえば、小春。」
「何?」
「学校に好きな男子とかいないの?」
「いない。」
考える間すらなかった。
「本当に?」
「本当。」
「一人も?」
「お兄ちゃん、うるさい。」
「妹の青春を気にしてるだけだろ。」
「いらない。」
「冷た……」
涼太はわざとらしく傷ついた顔をする。
少しして。
また口を開いた。
「じゃあ、高校は?」
「まだ。」
「全然決めてないの?」
「うん。」
「もう中三なんだから、ちょっとくらい考えたほうがよくない?」
小春は露骨に嫌そうな顔をした。
「もう、お兄ちゃんほんとにうるさい!」
「俺はただ、小春がどこの高校行きたいのか気になるだけだって。」
「まだ決めてないものは決めてないの!」
その時だった。
小春が前方に気づく。
「あっ!」
少し先に。
同じくらいの年齢の生徒たちが歩いていた。
小春の表情が明るくなる。
「友達いる。」
そして。
すぐに涼太を見る。
「お兄ちゃん、恥ずかしいからあっち行って。」
「なんてこと言うんだよ!?」
小春は笑いながら涼太を押した。
もちろん。
本気で追い払おうとしているわけではない。
いつもの兄妹同士のじゃれ合いだ。
「早く行ってよ!」
「やだね。」
涼太は逆に小春の肩へ腕を回し。
そのまま頭を自分の脇に抱え込んだ。
「ちょっ!」
小春がすぐに暴れ始める。
「離して!」
「やだ。」
そして涼太はわざと声を張り上げた。
「俺は小春のお兄ちゃんでーす!!」
「ほんっとウザい!!」
前を歩いていた友人たちが、声に気づいて振り返る。
「離してってば! 恥ずかしい!」
「ははは!」
「お兄ちゃん!!」
小春の友人たちの近くまで来て。
涼太はようやく手を離した。
「はいはい。もうやめるよ。」
小春へ手を振る。
「じゃ、俺行くから。」
小春は乱れた髪を整えながら。
「うん。じゃあね。」
そう言って歩き出す。
……かと思いきや。
一歩進んだところで突然振り返り。
涼太の脇腹を思い切りつねった。
「痛っ!?」
涼太が飛び上がる。
「お前っ!」
すぐに捕まえようと手を伸ばす。
けれど。
小春は笑いながらひょいっと避けた。
「捕まらないよ~」
「待てこら!」
「やだ~」
笑いながら友達のところへ走っていく。
涼太はその場に残り。
遠ざかる背中を見て。
結局、呆れたようにため息をついた。
「まったく……」
その場を離れる前。
涼太は何度か振り返った。
小春がちゃんと友達と一緒に歩いているのを確認してから。
ようやく自分の学校へ向かう。
しばらく歩いたところで。
前方の角に。
ひときわ背の高い人影が見えた。
大きめの上着に、体のほとんどが隠れている。
涼太はその後ろ姿を数秒見つめた。
「……」
首を傾げる。
「橘さんかな?」
反対側にも傾げる。
「そうかな? そうかな?」
横顔を確認しようとしながら、少しずつ歩く速度を上げていく。
結果。
歩き方がだいぶ怪しくなった。
「涼太、何してるの?」
「なんでそんな変な歩き方してんの?」
ぽん。
突然、肩を叩かれる。
「うわっ!?」
涼太の体がびくっと跳ねた。
振り返ると。
蓮が立っている。
「蓮! びっくりするだろ!」
涼太は胸を押さえた。
「なんで足音全然しないんだよ!」
「悪い悪い。」
蓮が笑う。
「ただ、何してるのか気になって。」
「前にいるのが橘さんか見てたんだよ。」
涼太は前方の高い人影を指差した。
蓮もそちらを見る。
「じゃあ普通に声かければいいじゃん。」
「なんでこっそり後ろからついてってるの?」
「ついてってない!」
涼太はすぐ否定した。
「今ちょうど確認しに行こうとしてたんだよ。」
「ただ橘さんが結構前にいるから、横から見えないかなって思って。」
「……」
蓮は少し黙った。
その妙に遠回りな確認方法を理解しようとしたらしい。
やがて。
「じゃあ普通に追いつけばいいか。」
「それでいいか。」
二人は一緒に歩く速度を上げた。
一方。
前を歩く橘は。
後ろで二人が何を話しているのか、まったく知らない。
ただゆっくり歩きながら。
「ふぁ~……」
大きなあくびをしていた。
距離が縮まったところで。
涼太が声をかける。
「橘さーん!」
「橘さんだよね?」
「!」
前方の人影が明らかにびくっとした。
足を止め。
振り返る。
近づいてくる涼太と蓮に気づいた。
「……おはよう。相原くん、高橋くん。」
「おはよう、橘さん!」
涼太が隣まで追いつく。
「偶然だね。」
「うん。」
橘は小さく頷く。
「偶然だね、相原くん。」
三人はそのまま自然に並んで歩き始めた。
何歩か進んだところで。
涼太がふと口を開く。
「そうだ、橘さん。」
「ん?」
「俺のこと、涼太って呼んでいいよ。」
蓮も続く。
「俺も。」
自分を指差した。
「蓮でいいよ。」
「……」
凪は二秒ほど黙った。
どう返せばいいのか考えているようだった。
やがて小さく頷く。
「じゃあ……涼太、蓮。」
初めて名前で呼ばれ。
涼太はすぐに笑った。
「うん!」
蓮も頷く。
「じゃあ、俺たちも凪って呼んでいい?」
「うん。」
凪の返事は相変わらず短い。
「いいよ。」
こうして。
ただの登校中の偶然だったはずなのに。
なぜか三人で学校へ向かうことになった。
そしてその頃。
こういう場面を見ると真っ先に——
『新キャラ友情イベント発生!』
などと叫びそうな作者は。
まだウェディングドレス姿で。
家に残り。
必死に原稿と格闘していた。
◇
「次、体育か~。やっと体動かせるな。」
涼太は大きく伸びをして。
ついでに一つ、あくびをした。
「凪、蓮。着替えに行こうぜ。」
凪は机の上にある教科書や文房具を片づけていた。
涼太の声を聞き。
顔を上げる。
「先に行ってて。」
「あとで直接グラウンド行くから。」
「そっか。」
涼太は頷いた。
「じゃあ、あんまり待たせないでよ。行こう、蓮。」
「うん。」
二人は更衣場所へ向かう。
その途中。
見覚えのある二人が目の前を通り過ぎた。
千夏と明日奈だった。
二人も体育着に着替えに行くらしい。
涼太は思わず、少しだけ目で追った。
——あの二人も着替えに行くのか。
「……」
「何考えてるの?」
突然、蓮の声が横から飛んでくる。
涼太がびくっとする。
「何が?」
「今の顔。」
蓮は微妙な目でこちらを見る。
「本当に変態だと思われるぞ。」
「な、何も考えてないって!」
涼太はすぐに歩く速度を上げた。
「ほら、早く着替えに行くぞ!」
「へえ~」
「その『へえ~』やめろ!」
体育着へ着替えたあと。
涼太と蓮は一緒にグラウンドへ向かった。
他の生徒たちも、次々と集まってくる。
授業開始を待っている間。
涼太の視線は。
時折、無意識に明日奈のほうへ向かっていた。
やがて。
チャイムが鳴る。
クラスメイトもほぼ全員揃った。
「……ん?」
涼太はそこで初めて気づいた。
いつの間にか。
凪が自分と蓮の近くに立っている。
「いつ来たの?」
「さっき。」
「全然気づかなかった……」
先生がみんなの前に立ち、パンパンと手を叩いた。
「はい! まずはストレッチから!」
かなり元気な声だった。
「ちゃんと体ほぐしておけよ! あとで怪我するぞー!」
「はーい!」
全員でストレッチを始める。
涼太も腕を上へ伸ばし。
ゆっくり体を倒していく。
「っ……」
すぐに顔が歪んだ。
「痛い……」
「俺、どんだけ運動してなかったんだ……」
苦しそうなまま横を見る。
「蓮は?」
「ん?」
蓮は見本みたいな姿勢でストレッチをしていた。
まったく辛そうではない。
「別に何ともないけど。」
「……」
涼太は反対側を見る。
凪も同じようにストレッチしている。
しかも。
蓮以上に余裕があるように見えた。
「……」
自分の姿勢を見る。
二人を見る。
「なんで俺だけこんな痛いの……」
蓮が思わず笑った。
「涼太、運動不足なんじゃない?」
「ち、違う!」
涼太は歯を食いしばって、さらに体を倒す。
「俺だってできる!」
そんな無理をしている涼太を。
隣の凪が見ていた。
「……」
口元が少しずつ緩む。
「ふっ。」
「凪!」
涼太がすぐ顔を上げた。
「今笑っただろ!」
「……ごめん。」
凪は少しだけ顔を逸らした。
「つい。」
「笑うなよ!」
まだ口元には微かな笑みが残っている。
「ごめん。」
「全然反省してないだろ!」
涼太は不満そうにぶつぶつ言った。
そして。
また別の方向を見る。
千夏は明らかに柔軟性が高かった。
周りがまだゆっくり体を倒している中。
ほとんど苦もなく動きをこなしている。
おまけに。
「ふぁ~……」
あくびまでしていた。
「……柔らかすぎない?」
涼太は呆然とする。
一方。
明日奈は千夏ほどではない。
けれど。
涼太よりずっとスムーズだった。
少し眉を寄せながら、できる限り体を低くしていく。
限界まで伸ばした時には。
力が入っているせいか、頬もほんのり赤くなっていた。
涼太は自分の姿勢を見る。
「……」
なんだか急に。
少し情けなくなった。
先生が全体を確認して。
また手を叩いた。
「よーし! そのくらいでいいぞ!」
みんなが立ち上がる。
涼太は生き返ったように、長く息を吐いた。
「助かった……」
「このあとは自由に運動していいぞ!」
先生は器具庫のほうを指差す。
「ボール使いたいやつは自分で持ってけ! 走りたいやつは走ってもいい!」
「ただし、ふざけすぎて怪我するなよ!」
「おおー!!」
クラス中から歓声が上がった。
整列していた生徒たちは一気に散っていく。
バレーボールを取りに行く者。
バドミントンのラケットを取りに行く者。
そのままトラックへ向かう者。
「涼太。」
横から蓮の声がした。
振り向く。
いつの間にか。
蓮の手にはバスケットボールがあった。
しかも指先でくるくる回している。
「バスケしようぜ。」
「いつ取ってきたの?」
「さっき。」
「今日みんな神出鬼没すぎない……?」
涼太はため息をついた。
「まあ、いいけど。」
自分を指差す。
「先に言っとくけど、俺そんな上手くないよ。」
「別に試合じゃないし。」
「ならいいか。」
涼太は凪を見る。
「凪は?」
「一緒にやる?」
凪は少し間を置いて。
「……うん。」
その時。
「相原くーん!!」
聞き慣れた声が遠くから聞こえた。
「ん?」
涼太が振り返る。
千夏がこちらへ走ってくる。
「青山さん?」
千夏は三人の前で止まった。
「私も一緒にやっていい?」
「いいよ。」
涼太はあっさり頷く。
「今からバスケやるところ。」
「やった!」
そこで涼太がふと思い出し。
凪を見る。
「そういえば。」
「青山さん、橘さんとはまだちゃんと話したことなかったよね?」
千夏が凪を見る。
視線が少し上へ。
さらに上へ。
「……」
「橘さん、本当に背高いね。」
凪はこういう反応に慣れているらしく。
小さく頷いただけだった。
千夏は笑顔を浮かべる。
「ちゃんと話すのは初めてだよね?」
「青山千夏です。」
「こんにちは。」
凪も千夏を見る。
「橘凪。」
その時。
後ろからまた声が聞こえた。
「千夏!」
明日奈が小走りで近づいてくる。
「急にどこ行ったの?」
「相原くんたちのところ。」
千夏はバスケットボールを指差す。
「今からバスケするの。」
そして明日奈を見る。
「明日奈もやろうよ。」
「私も?」
明日奈はみんなを見回した。
少し迷ってから。
「みんながよければ……」
「もちろんいいよ。」
千夏が即答する。
そして涼太へ振り向いた。
「ね、相原くん?」
「え?」
突然振られて。
涼太が一瞬固まる。
明日奈と目が合う。
「……」
「も、もちろんいいよ。」
蓮がちらりと涼太を見る。
少し笑いそうになっていたが。
結局、何も言わなかった。
「じゃ、行こう。」
蓮はボールを抱え直し。
先にバスケットコートへ歩いていく。
涼太、凪、千夏、明日奈もあとを追った。
こうして。
最初は三人だけだったはずのバスケが。
なぜか。
五人になった。
◇
「じゃあ、チーム分けしよう。」
簡単に相談した結果。
蓮と凪。
そして。
千夏、涼太、明日奈。
この二組に分かれた。
「……」
涼太は向こうを見る。
蓮は普段から運動が好きだ。
そして凪は……
涼太の視線がゆっくり上へ向かう。
約百九十八センチ。
「……ボコボコにされそう。」
思わずため息が漏れた。
「何言ってるの?」
千夏はまったく怯む様子もなく。
自信満々に笑う。
「私、強いよ!」
「うん!」
隣の明日奈もすぐに頷いた。
「私たち最強だよ!」
「……」
涼太は二人を見る。
元気いっぱいの千夏は。
今にも飛び跳ねそうなウサギみたいだった。
そして。
その隣で真剣な顔をして頷いている明日奈は……
なぜだか。
小さなスズメみたいに見えた。
——かわいい。
「相原くん?」
「あっ!」
涼太は我に返った。
「な、何でもない。」
千夏がバスケットボールを持つ。
「じゃ、こっちのボールからね!」
そう言って。
涼太へ投げた。
「はい!」
「おっ!」
ぱしっ。
涼太はしっかり受け止める。
蓮はすでに腰を落として守る準備をしていた。
そして凪は。
少しゴール寄りに立っている。
その身長を見るだけで。
涼太は早くも。
自分がなぜバスケを了承したのか疑問に思い始めていた。
「行くぞ!」
涼太がドリブルを始める。
蓮がすぐ前へ出る。
「涼太、手加減しないぞ。」
「自由時間の遊びだろ!?」
右へ行く。
蓮も右。
左へ。
また塞がれる。
「くっ!」
涼太が急に振り向く。
「青山さん!」
ボールを投げる。
「任せて!」
千夏が受け取る。
次の瞬間。
一気に加速した。
「え?」
涼太が固まる。
速い。
あっという間に蓮の横を抜けた。
「ちょっ!」
蓮もすぐ追う。
だが千夏はすでにゴール下。
地面を蹴る。
高く跳び上がる。
「えいっ!」
ボールを軽く放った。
シュッ——
綺麗にネットを通る。
「……」
涼太が止まる。
蓮も止まる。
凪もリングを見上げる。
「入ったー!」
着地した千夏は嬉しそうに両手を上げた。
「よし!」
「ちょっと待って!」
涼太がようやく反応した。
「青山さん、本当に上手いじゃん!?」
「だから最初から強いって言ったでしょ!」
「適当に言ってるだけだと思ってた!」
「失礼すぎる!」
千夏が頬を膨らませる。
蓮は笑った。
「本当に速いね。」
凪も頷く。
「跳ぶのも高い。」
「へへ~」
千夏はすぐ得意そうな顔になる。
一方。
明日奈だけは当然という顔だった。
「千夏、昔から運動得意だもん。」
「早川さん、全然驚かないね。」
「ずっと見てきたから。」
「なるほど……」
次のボール。
涼太は明日奈へパスを出した。
「早川さん!」
「えっ?」
明日奈が慌てて両手を伸ばす。
ぱしっ!
ボールが手に当たり。
次の瞬間。
ぼとっ。
地面に落ちた。
「……」
明日奈は足元を見る。
ボールが転がっている。
「……」
ゆっくり顔を上げる。
みんなを見る。
「……」
その目は。
なぜか。
何かを待っているようだった。
涼太が一瞬迷い。
「大丈夫!」
「最初は取れなくても普通だよ!」
「本当?」
明日奈の表情が少し明るくなる。
「本当。」
千夏も笑った。
「明日奈、もう一回やればいいよ。」
「うん!」
明日奈はすぐボールを拾った。
急に元気が戻ったように見える。
涼太はその様子を見る。
——今、褒めただけで復活しなかった?
ゲームは続く。
今度も。
明日奈へボールが来た。
ぱしっ!
成功。
「!」
明日奈はしっかりボールを抱えた。
まず。
本当に手の中に収まっていることを確認する。
そして。
何かを思い出したように。
すぐ後ろを振り返った。
涼太と千夏を見る。
「……」
目がきらきらしている。
ほんの少し胸を張っているようにも見えた。
「……」
涼太はすぐ理解した。
「ちゃんと取れたじゃん!」
「うん!」
明日奈の顔がぱっと明るくなる。
千夏も手を叩いた。
「上手、明日奈!」
「へへ。」
欲しかった言葉をもらって。
明日奈は満足そうに前を向いた。
「……」
涼太はその背中を見る。
頭の中に浮かんでいた小さなスズメの姿が。
さらにくっきりしていく。
次はドリブル。
トン。
一回。
成功。
明日奈は即座に振り返った。
「……」
「上手!」
涼太が反射的に言う。
明日奈は満足そうに頷く。
もう一回。
トン。
今度はボールが横へ飛んだ。
ころころと転がっていく。
「……」
明日奈はその場に立ち尽くした。
転がっていくボールを見る。
自分の手を見る。
二秒ほど黙り。
そして。
やっぱり。
ゆっくり後ろを振り返った。
「……」
その目はまだ涼太を見ている。
「が、頑張った!」
涼太が慌てて言った。
「うん!」
明日奈は一瞬で元気になった。
「それでもいいの!?」
蓮が思わず突っ込む。
千夏はまったく不思議そうではない。
「明日奈、昔からそうだよ。」
「褒めるとすぐ元気になるの。」
「言わないでよ!」
明日奈の顔が真っ赤になった。
しかし。
次の瞬間。
千夏が肩をぽんぽん叩く。
「でも本当に上手くなってるよ。」
「本当?」
「本当。」
「……へへ。」
また嬉しそうになった。
涼太は思わず笑う。
「本当にスズメみたい……」
「ん?」
明日奈が振り返る。
「何か言った?」
「何でもない!」
一方。
蓮の動きは涼太よりずっと綺麗だった。
ドリブル。
ターン。
パス。
バスケ部ほどではないにせよ。
普段から運動しているのは一目で分かる。
「蓮!」
涼太が追いかけながら叫ぶ。
「お前、柔道好きなんじゃなかったの!?」
「柔道好きだからって、他の球技できないわけじゃないだろ!」
「万能すぎない!?」
「この程度で万能扱いするな!」
そして凪は。
ゲームが始まってから。
ほとんどゴール下から動かなかった。
「……」
涼太は外側から、その高い姿を見る。
「凪。」
「ん?」
「ずっとそこにいる気?」
「ここが一番ボール取りやすいから。」
「……」
凪を見る。
リングを見る。
「合理的すぎて何も言えない。」
その時。
千夏が少し離れた場所からシュートした。
ガン!
リングに当たり。
ボールが高く跳ねる。
「リバウンド!」
蓮が叫ぶ。
凪が一歩前へ出る。
手を伸ばす。
しかし。
ボールに触れる直前。
「私の!」
千夏が横から跳び上がった。
「!」
まるでウサギみたいに。
ぴょん、と高く。
ぱしっ!
二人の手がほぼ同時にボールへ触れる。
ボールは再び上へ。
千夏が着地する。
そして。
また跳ぶ。
「えいっ!」
凪も手を伸ばす。
千夏が着地。
また。
「えいっ!」
「……」
着地。
「えいっ!」
涼太はしばらく眺めていた。
「……ウサギ。」
明日奈も千夏を見る。
真剣に頷く。
「ウサギだね。」
涼太が横を見る。
「早川さんもそう思う?」
「ずっと似てるよ。」
明日奈が笑う。
「特に楽しい時。」
「分かる。」
そんな話をしていると。
突然、ボールが涼太へ飛んできた。
「相原くん!」
「おっ!」
涼太が受け取る。
蓮は千夏に絡まれていて。
前が空いている。
——チャンス!
涼太はゴールへ走る。
一歩。
二歩。
シュートしようと腕を上げた。
その瞬間。
大きな影が覆いかぶさった。
「……」
涼太は止まる。
最初に見えたのは胸元。
そこから上。
さらに上。
まだ上。
凪が目の前に立っていた。
少し顔を下げ。
涼太を見ている。
「……」
「……」
「打たないの?」
「……」
涼太はボールを抱えたまま。
リングを見る。
凪を見る。
「急に思ったんだけど。」
「人生ってさ。」
「時には諦めることも大事だよな。」
「?」
「高すぎるんだよ!!」
すぐに横へパスを投げる。
「青山さん!」
「任せて!」
千夏がまた飛び出す。
「毎回青山に逃げるなよ!」
蓮も追いかける。
再びコートは大騒ぎになった。
しばらくして。
「もう無理……」
涼太は膝に手をついた。
「休む。」
「もう?」
蓮はまだ平然としている。
「黙れ……」
涼太はゆっくりコート脇へ歩き。
腰を下ろした。
そこで。
隣にも誰か座っていることに気づく。
「あ。」
明日奈だった。
「早川さんも休憩?」
「……うん。」
明日奈は少し恥ずかしそうに笑った。
「私、本当にバスケ向いてないかも。」
「でも最初より全然上手くなったじゃん。」
涼太は自然に答えた。
明日奈が顔を上げる。
「本当?」
「本当だって。」
「さっきちゃんとボール取れてたし。」
「ドリブルも何回か成功してたじゃん。」
「途中で逃げてったのもあったけど。」
「……」
明日奈は涼太を見る。
「でも、ちゃんと上達してた。」
涼太が笑う。
「すごいよ。」
「……!」
その瞬間。
明日奈の表情がぱっと明るくなった。
疲れていた様子が一気に消える。
「やっぱり!」
「?」
涼太がきょとんとする。
明日奈は拳を握った。
「もうちょっと練習すれば、絶対上手くなると思う!」
「さっきまで向いてないって言ってなかった!?」
「今は違うよ。」
「何が違うの!?」
「相原くんがすごいって言ってくれたから。」
「……」
分かりやすすぎる。
涼太は笑ってしまった。
「早川さん。」
「ん?」
「本当に褒められるの好きなんだね。」
「そ、そんなことない!」
明日奈はすぐ顔を赤くする。
「じゃあ、もう褒めない。」
「……」
明日奈が黙る。
二秒後。
ちらっと涼太を見る。
「……たまにならいいよ。」
「ぶっ!」
「笑わないで!」
「ごめん、ごめん。」
涼太が笑いながら手を振った。
その時。
明日奈が隣から、まだ開けていない水を一本取った。
涼太に差し出す。
「はい。」
「え?」
「疲れてるでしょ?」
「でもこれ、早川さんのじゃない?」
「もう一本あるから。」
隣に置いてある別のボトルを指差す。
「飲んで。」
「……ありがとう。」
涼太は受け取り。
数口飲む。
冷たい水が体に染みる。
「生き返った……」
「そんなに?」
「本当に。」
明日奈は思わず笑った。
二人でコートを見る。
千夏はまだ凪からリバウンドを奪おうとしていた。
「えいっ!」
跳ぶ。
「えいっ!」
また跳ぶ。
凪はほとんどその場から動かない。
手を伸ばす。
またボールを取る。
「くぅ~!」
千夏が頬を膨らませた。
蓮は横で笑っている。
明日奈もつられて笑った。
「千夏、本当に楽しそう。」
「うん。」
涼太も頷く。
少しして。
ふと思い出した。
蓮とはもう名前で呼び合うようになった。
凪とも。
そして。
さっきから隣で笑っている明日奈を見て。
涼太は少しだけ迷った。
「あの……早川さん。」
「ん?」
「一つ聞いていい?」
「いいよ。」
涼太は頬を掻く。
「これから……」
少し言葉を止めた。
「『明日奈さん』って呼んでもいい?」
「……」
明日奈がぱちぱちと瞬きをする。
突然そんなことを聞かれるとは思っていなかったらしい。
「嫌だったら別にいいんだけど。」
涼太の声が少しずつ小さくなる。
「最近、蓮たちとも名前で呼び合うようになったから……その……」
「いいよ。」
「え?」
明日奈が笑った。
「明日奈さんでいいよ。」
「……本当に?」
「うん。」
軽く頷く。
そして。
何か思いついたように首を傾げる。
「じゃあ私も、『涼太くん』って呼んでいい?」
「もちろん!」
返事が速すぎた。
明日奈まで驚いて瞬きをする。
「……」
涼太自身も気づいた。
「ごほん。」
「いや、その……いいよ。」
明日奈は笑いを堪える。
「じゃあ……涼太くん。」
「うん。」
涼太は必死に平静を装った。
「明日奈さん。」
「うん。」
ただ。
呼び方が少し変わっただけ。
本当に。
ほんの少しだけ。
「……」
それなのに。
涼太の口元は勝手に緩んでいく。
「涼太くん?」
「何でもない。」
「なんか笑い方変だよ?」
「本当に何でもないって!」
体育の授業は。
そんな賑やかな空気の中で終わっていった。
◇
放課後。
涼太、蓮、凪の三人は。
一緒に帰り道を歩いていた。
いつからだろう。
三人で帰ることが。
少しずつ自然になっている。
蓮は片側。
凪はもう片側。
「涼太。」
蓮が突然口を開いた。
「ん?」
「今日、なんか機嫌よくない?」
「そう?」
「うん。」
蓮は即答した。
凪も淡々と付け加える。
「分かりやすい。」
「……」
涼太は二人を見る。
「そんなことないって。」
蓮がじっと見つめる。
「体育終わってからずっと口元緩んでるぞ。」
「そんなに!?」
「うん。」
凪も頷く。
「凪まで蓮に乗っからないでよ!」
蓮が笑う。
「で、何があったの?」
「別に何も。」
「本当に?」
「本当。」
涼太は両手を頭の後ろに回し。
そのまま歩く。
夕日が道を照らしている。
なぜだか。
今日の帰り道は。
いつもより少し軽く感じた。
「……」
涼太はこっそり笑う。
——涼太くん。
呼び方が変わっただけ。
それだけなのに。
何がそんなに嬉しいんだ。
「……へへ。」
「また笑った。」
「蓮うるさい!」
「本当に嬉しそう。」
凪まで一言。
「凪まで!」
三人の声が。
そのまま夕暮れの道に続いていく。
やがて分かれ道に着いた。
蓮が足を止める。
「じゃ、俺こっち。」
「うん。明日な。」
「また明日。」
凪も小さく手を振った。
三人はそこで別れ。
涼太は一人で家へ向かう。
なんだか。
今日は足取りまで軽い。
「……」
頭の中にまた浮かぶ。
——涼太くん。
「へへ……」
自分で笑ってしまう。
そしてすぐ首を振った。
「名前で呼ばれただけなのに、俺何喜んでんだよ……」
しばらくして。
見慣れた家が見えてきた。
「ただいま~」
涼太は伸びをする。
そして。
自分の部屋の窓を見上げた。
「……」
窓の向こう。
作者は。
まだウェディングドレス姿だった。
机に張りつき。
ペンを握り。
一文字一文字。
何かを書き写している。
横には完成済みの元原稿。
そして作者の前には。
千夏へ渡すために作っている清書の束が置かれていた。
『……』
作者は紙を凝視している。
手がわずかに震えていた。
『よし……』
『このページも、あと少し……』
ペン先がゆっくりと進む。
あと数文字で終わる。
その時。
『……あ。』
作者の手が止まった。
「?」
涼太は下から見ている。
作者が紙を見る。
一文字。
間違えていた。
『……』
「……」
作者の顔がゆっくり歪んでいく。
『あああああああああ——!!』
ぐしゃっ!
紙を丸めて投げ捨てる。
「何してんの!?」
涼太が思わず窓へ叫んだ。
作者が勢いよく顔を上げる。
『涼太!?』
『帰ってきたの!?』
「うん。」
涼太は机の周りに積まれた紙くずを指差す。
「それ何?」
『書き間違えた。』
「一文字だけでしょ!」
『青山に見せるやつなんだよ!?』
作者は紙を掲げる。
『間違いなんて残せるわけないでしょ!』
「消せばいいじゃん!」
『ダメ!』
「なんで!?」
『汚くなる!』
「誰のために作ってる小説なんだよ!?」
『君だよ!!』
「じゃあなんでお前がそこまで字にこだわるんだよ!」
『最終的に恥ずかしいのは僕だから!』
「青山さんはお前が書いたなんて知らないって!」
『だからこそ恥ずかしいものは出せないの!!』
「意味分かんない!」
作者はぷんぷんしながら椅子へ戻った。
新しい紙を取り出す。
『とにかく、今夜中には絶対この清書を終わらせる。』
「朝も今日中に終わらせるって言ってなかった?」
『……』
作者は無言で横を見る。
完成したページは。
すでにそれなりの厚みになっている。
しかし。
全部を書き写すには。
まだ明らかに足りない。
涼太が目を細める。
「あとどれくらい?」
『……』
「一日?」
『……たぶん。』
「二日?」
作者がそっと目を逸らす。
「おい。」
『頑張るから。』
「……」
涼太は数秒見つめて。
ため息をついた。
「じゃあ明日も書いてて。」
『え?』
「俺は学校行くから。」
『待って!』
涼太はもう玄関へ向かっている。
『涼太!』
『僕も行く!!』
「清書終わらせてから。」
『いやああああああ——!!』
涼太は完全に無視した。
残された作者は。
ウェディングドレス姿のまま。
一人、机の前に座る。
終わっていない清書を見つめた。
『……』
ペンを持つ。
『くそぉ。』
『明日こそ絶対終わらせる。』
ペン先が紙を走る。
さらさら。
さらさら。
数秒後。
『……』
作者の手が止まった。
『この字……ちょっと曲がってない?』
作者が隣にいない二日目。
こうして終わった。
どうやら。
明日も静かな一日になりそうだ。




