第九話 大慌ての作者
第九話 大慌ての作者
『やっほ~、みんな~』
何もない真っ白な空間に、見慣れた作者の姿がゆっくりと浮かび上がった。
禿頭。
筋骨隆々。
どう考えても作者というより、少年漫画の最終決戦に出てきそうな大男である。
その巨体が両手を合わせ、これ以上ないほど申し訳なさそうな顔をしていた。
『いや~、本当に申し訳ありませんでした~』
『なんと丸々一ヶ月、新しい内容を一文字も増やしておりません!』
『ですが!』
作者は勢いよく顔を上げる。
『今回は本当にサボってたわけじゃないからね!』
『現実の生活がめちゃくちゃ忙しかったんだよ。毎日仕事して、帰ってきた頃にはもうクタクタで、小説を書く体力なんて残ってなくて――』
「嘘つけ!」
横から鋭い声が飛んできた。
作者の体がぴたりと固まる。
相原涼太がスマホを片手に、ものすごく冷たい目で作者を見ていた。
「お前、普通に暇だっただろ!」
『……涼太?』
「さっき、お前のスマホの使用時間を見た」
『ちょっと待って』
作者の額に汗が浮かぶ。
「この一ヶ月、仕事してない時間のほとんどゲームしてるじゃねえか!」
『し、してない!』
作者は慌てて両手を振った。
『適当なこと言わないでよ! 僕はちゃんと仕事を頑張ってたんだから!』
「じゃあこれは何だよ?」
涼太がスマホの画面を作者に向ける。
「ゲーム、平均一日三時間」
『それは……』
作者は一秒だけ黙った。
『資料収集』
「やってるのFPSだろ」
『戦闘描写の資料収集』
「六時間やってる日もあるぞ」
『徹底的な研究』
「夜中の二時までログインしてる」
『夜間研究』
「課金までしてるじゃねえか」
『……研究費』
「ただ遊んでるだけだろ!」
『うるさい! 創作者の事情を知らないくせに!』
「知りたくもないわ!」
涼太は腹立たしそうにスマホをしまった。
「お前、この一ヶ月、俺がどう過ごしてたか分かってんのか!」
『ん?』
「物語が一ミリも進まない!」
「朝起きても何も起きない!」
「昼になっても何も起きない!」
「夜になっても何も起きない!」
『平和でいいじゃん』
「よくねえよ!」
涼太が作者を指さして叫ぶ。
「しかも食べ物すら用意してないだろ!」
「俺、危うく餓死するところだったんだからな!」
作者がきょとんとした。
『食べ物?』
「そうだよ!」
『用意してあるよ?』
「どこに!」
作者は当然のように涼太の背後を指さした。
『冷蔵庫の中』
「……冷蔵庫?」
涼太が振り返る。
そこには、ごく普通の壁しかなかった。
もう一度作者を見る。
「どこに冷蔵庫があるんだよ」
『そこ』
「どこだよ」
『だから、そこ』
「壁じゃねえか!」
『はぁ……』
作者は呆れたように首を振る。
『最近の若者は想像力が足りないねえ』
「想像力で冷蔵庫が生えるか!」
作者は涼太を無視して、そのまま壁へ向かった。
そして手を伸ばす。
何もないはずの壁を。
まるでそこに取っ手があるかのように、ぎゅっと掴んだ。
涼太が固まる。
「待て」
作者が軽く引く。
ガラッ――
平らだった壁が、まるごと扉のように開いた。
その向こうには。
巨大な冷蔵庫。
「……」
涼太は黙った。
作者は得意げに冷蔵庫を指さす。
『ほら』
『ここ』
「なんで俺ん家の壁の裏に冷蔵庫があるんだよ!」
『僕が置いたから』
「いつ!」
『一ヶ月前』
「なんで俺は知らなかったんだよ!」
『聞かなかったじゃん』
「自分の家の壁の中に冷蔵庫があるかなんて誰が聞くんだよ!」
作者が冷蔵庫を開ける。
ひんやりとした冷気が溢れ出した。
中には大量の食べ物が詰め込まれていた。
カップ麺。
冷凍食品。
飲み物。
おにぎり。
お菓子。
さらには、涼太が見たこともないパッケージの商品まで混ざっている。
涼太は無言で冷蔵庫を眺めた。
「……」
その中から一袋のお菓子を取り出す。
「これ何?」
『僕の』
「なんでお前の食べ物が俺の冷蔵庫に入ってるんだ?」
『一時保管』
「ここ俺の世界だよな?」
『僕の小説でもあるよ』
「それを理由に人ん家の冷蔵庫を私物化するな!」
涼太はもう一度中を覗いた。
そして徐々に表情が怪しくなる。
「……待て」
『なに?』
「なんでカップ麺と冷凍食品とお菓子ばっかりなんだよ」
『楽だから』
「俺は小説の主人公!」
涼太は自分を指さした。
「寮で雑に飼われてる大学生じゃねえ!」
『食べ物があるだけありがたいと思いなよ。注文多いなあ』
「一ヶ月消えた奴が言うな!」
作者は小さく咳払いした。
『と、とにかく』
『一ヶ月更新しなかった件についてはですね――』
「話を逸らすな!」
『大事なのは過去じゃない。未来を見ることだよ』
「その前に自分のゲーム時間を見ろ!」
『過ぎたことは水に流そう』
「それ昨日の記録だからな!」
作者の動きが再び止まった。
『……』
「……」
二人はしばらく無言で見つめ合った。
数秒後。
作者が突然、パンッ! と両手を叩く。
『よし!』
涼太がびくっとする。
「なんだよ!」
作者の雰囲気が一変した。
『一ヶ月も無駄にしたんだ!』
『こうなったら遅れた分を一気に取り戻す!』
「……は?」
『部活見学!』
『青山千夏!』
『超常現象研究部!』
『部員紹介!』
『キャラクター交流!』
『放課後!』
『帰宅!』
『全部!』
作者はどんどん早口になっていく。
『今日一日で全部やる!』
涼太の表情が徐々に引きつった。
「待て」
『待ってる暇はない!』
「いや、お前ちょっと落ち着け」
『一ヶ月も更新止めたんだよ!?』
『ここから一気に巻き返さないと!』
「止めたのお前だろ!」
涼太が作者の肩を掴む。
「俺の人生で連載ペースを取り戻そうとするな!」
その瞬間。
作者が片手を上げ、空中を掴んだ。
何もないはずの場所から、一本のレバーが現れる。
「……なんだ、それ」
『新しい場面転換』
「新しいって何が――」
作者がレバーを一気に引き下ろした。
轟――ッ!
次の瞬間。
旧校舎の景色そのものが、空から巨大な壁のように落ちてきた。
「うわっ! なんか落ちてきた!」
涼太は反射的に頭を抱え、目を閉じた。
「助けてええええ!」
……
数秒。
何も起きない。
涼太は恐る恐る片目を開けた。
そしてもう片方も。
さっきまでの真っ白な空間は消えている。
目の前には、見覚えのある旧校舎。
自分はその入口に立っていた。
涼太は数秒固まった。
『どう? カッコいいでしょ?』
作者は腰に手を当て、得意げだった。
『最近考えた新しい場面転換アニメーション!』
『まあ読者のみんなには、結局想像してもらうしかないんだけどね』
「どこがカッコいいんだよ!」
涼太が勢いよく振り返る。
「危ないだろ! せめて先に言え!」
「いきなり建物が空から落ちてきたら、普通は潰されると思うだろ!」
『大丈夫だって。主人公なんだから』
「その説明が一番信用できない!」
涼太は作者を指さした。
「しかも一ヶ月ぶりの第一話だぞ!」
「もうちょっと主人公に優しい再開の仕方とかないのかよ!」
作者は首を傾げる。
『十分優しかったけど?』
「どこが!」
『元々は大爆発を起こす予定だった』
「……は?」
『ドカーン! って僕たち二人をここまで吹き飛ばして』
作者は楽しそうに両手を広げる。
『涼太は地面をゴロゴロ何回転もして』
「待て」
『僕だけ爆煙の中から華麗に着地して、めちゃくちゃカッコいいポーズを決める』
「なんでお前だけカッコよく着地するんだよ!」
『作者だから』
「その理由、便利すぎるだろ!」
涼太は額を押さえ、深く息を吐いた。
「……もういい」
「それと比べたら、今ので感謝すべきなのか?」
『どういたしまして~』
「本気で感謝してねえよ!」
涼太は目の前の旧校舎を見る。
「で……この後、何するんだっけ?」
『えーっと……』
さっきまで得意げだった作者の顔が固まった。
『たぶん……』
空を見上げる。
『……見学?』
「……」
涼太がゆっくり顔を向けた。
『なに?』
「お前……」
目を細める。
「前回どこまで書いたか忘れてるだろ」
『忘れてない!』
作者は即答した。
『ちゃんと色々覚えてるよ!』
「そうか?」
『もちろん!』
涼太は何も言わない。
一歩。
また一歩。
作者へ近づく。
最後には顔が触れそうな距離まで近づいて、じっと睨みつけた。
『……』
「……」
『そんな近くで見ないで』
「なんで?」
『気持ち悪い』
「誰が気持ち悪いんだ!」
『君』
「この野郎!」
『はいはい! もうふざけるのやめよう!』
作者が涼太の顔を手で押し返す。
『一ヶ月も止まってたのに、ここでずっと言い争ってたら読者が耐えられないよ』
「誰がふざけてるんだ!」
涼太は作者の手を払いのけた。
「最初から最後までお前が原因だろ!」
『はいはい、主人公様。僕が悪かったです~』
作者が両手を合わせる。
『そろそろ物語を進めませんか?』
涼太は腕を組んだ。
「……最初からそうしろ」
歩き出そうとする。
しかし一歩踏み出したところで、また止まった。
「待て」
『今度はなに?』
涼太は周囲を見回す。
そして作者を見る。
「なんで俺、一人なんだ?」
『ん?』
「高橋は?」
『ああ、高橋?』
作者は当然のように答えた。
『さっき帰したよ』
「……ああ~」
涼太は頷く。
「なるほど」
『うん』
「……」
もう一度頷く。
「そっか~」
『そうそう』
「……いや、待て」
『ん?』
涼太が勢いよく顔を上げる。
「なんで帰したんだよ!」
『もう遅い時間だから?』
「一緒に見学する予定だっただろ!」
『いやいや~』
作者は涼太の肩に手を置き、妙に人生経験豊富そうな顔をする。
『涼太』
「なんだよ」
『男というものはね、自分の足で成長しなければならないんだよ』
『いつまでも友達に頼ってちゃ駄目』
「……」
涼太は作者をじっと見る。
『だから勇気を出して、一人で踏み出すんだ』
「この後、高橋に何させればいいか分からないから、とりあえず帰しただけだろ」
『……』
作者の手はまだ涼太の肩にある。
二人は見つめ合った。
数秒後。
作者が感慨深そうに微笑む。
『一ヶ月会わないうちに賢くなったね~』
「やっぱりそうじゃねえか!」
涼太はその手を振り払った。
「脇役を出すなら、この後何させるかくらい考えとけよ!」
『でも今日、高橋けっこう出番あったし』
「出番の量の問題か!?」
『それにほら』
作者は旧校舎を指さす。
『今は君一人なんだから、青山さんと交流しやすいじゃん』
涼太が少し固まる。
「……また何か企んでるだろ」
『何も~』
「その声がもう怪しい!」
『分かった分かった』
作者が手を叩く。
『今回は本当に何もしないから』
「本当?」
『本当』
「絶対?」
『絶対』
「急に爆発させない?」
『しない』
「空から何か落とさない?」
『落とさない』
「勝手に場面変えない?」
『変えない』
「変なところに飛ばさない?」
『飛ばさない』
『君ほんと細かいね』
「誰のせいだよ!」
作者は面倒そうに手を振った。
『分かったって~。約束する』
『僕も日本の高校の部活見学って、実際何するのか気になるし』
涼太は怪しそうに作者を見る。
「……お前、作者だよな?」
『だからこそ見に行くんじゃん』
「書く前に調べてないの?」
『今から調べる』
「俺の人生を使って現地調査するな!」
『フィールドワークだよ~』
「主人公を実験台にするな!」
作者は旧校舎を指さした。
『ほら、早く入ろう』
『超常現象研究部の見学がどんなものか、見に行こうよ』
涼太は少し古びた校舎を見つめる。
しばらくして。
小さく息を吐いた。
「……行くか」
数分前まで、高橋も一緒だった。
今、隣にいるのは自分にしか見えず、自分にしか声が聞こえない禿頭筋肉男だけ。
どう考えても戦力ダウンである。
「はぁ……」
『なんでため息?』
「急に高橋が恋しくなった」
『別れてまだ数分だけど?』
「少なくとも高橋は、空から校舎を落としてこない」
『人生には刺激も必要だよ』
「その刺激、人が死ぬからな」
涼太はぶつぶつ文句を言いながら旧校舎へ入った。
夕陽が斜めから廊下に差し込み、古い木の床を淡い橙色に染めている。
『ところでさ』
「なんだよ」
『本当に高橋にいてほしかった?』
「帰したのお前だろ!」
つい声が大きくなる。
前を歩いていた生徒が、不思議そうに振り返った。
涼太は慌てて口を閉じる。
その生徒が離れてから、声を落とした。
「お前のせいで、また俺が空気に話しかけてる変な奴に見られただろ」
『でも実際、空気に話しかけてるよね』
「面白いか?」
『かなり』
「殴りたい」
『毎日言ってるね、それ』
三階。
第三資料室。
扉の下には、前回と同じ少し端の浮いた紙が貼られている。
【超常現象研究部】
涼太は扉を開けた。
部屋の中は前回より少し明るかった。
上映していた映画は終わったらしく、スクリーンは片づけられ、机の上のお菓子もかなり減っている。
杉浦は何枚かの紙を整理していた。
青山千夏は机に突っ伏すような姿勢で、怪談本を眺めている。
そして、ほかに四人。
女子の先輩が二人。
男子の先輩が二人。
涼太が入ってくると、千夏が真っ先に顔を上げた。
「相原くん」
「うん。戻った」
千夏は涼太の後ろを見る。
「高橋くんは?」
「先に帰った」
「そっか」
それだけ言って、自然に頷く。
杉浦もこちらへ歩いてきた。
「ちょうどよかった。次の見学を始めようと思ってたんだ」
「次?」
涼太の頭に、前回最後の作者の台詞が蘇った。
――部活見学、第二段階へ突入。
横では作者が得意げに胸を張っている。
『ほら』
「黙れ」
杉浦が一瞬止まる。
「ん?」
「あ、いや。なんでもないです」
千夏は涼太の横の何もない空間を見た。
「また空気のお友達?」
「そいつにそんな可愛い名前つけないで」
『僕は好きだけど』
「本人は全然可愛くないから!」
部員たちの視線が一斉に集まった。
「……今のは忘れてください」
千夏は静かにノートを手に取る。
「待って。なんでノート出したの?」
「記録」
「俺を記録するな!」
杉浦が軽く咳払いした。
「とりあえず、次は簡単な度胸試しだ」
「度胸試し?」
作者の目が輝く。
『度胸試し!』
涼太は作者を指さした。
「興奮するな!」
杉浦がまた不思議そうな顔をする。
涼太は静かに手を下ろした。
「……自分に言いました」
「そ、そうか」
杉浦は追及しないことにしたらしい。
「隣の小さな資料室を使って、簡単な脱出ゲームみたいなものを作ってある」
千夏が横から補足する。
「難しくないよ」
「本当?」
「たぶん」
「なんで最後に『たぶん』つけた?」
杉浦がほかの部員たちを紹介しようとした、その時。
作者が一歩前へ出た。
『先輩女子一号』
「……」
『先輩女子二号』
「待て」
『先輩男子一号』
「おい」
『先輩男子二号』
涼太はゆっくり作者へ顔を向ける。
「……本気?」
『分かりやすいでしょ?』
「どこが!」
涼太は四人を指さした。
「名前あるだろ!」
『あるよ』
「じゃあ名前で紹介しろよ!」
作者は人差し指を左右に振る。
『急に四人分も名前増えたら、読者が覚えられないでしょ』
『ちゃんと出番が来たら、その時に名前を公開するから』
「せめて本人たちを尊重しろ!」
涼太は四人を見る。
「っていうか、その紹介本人たちには一切聞こえてないからな!」
四人が一斉に不思議そうな顔をした。
作者は肩をすくめる。
『だから問題ないじゃん』
「もっと問題だよ!」
先輩女子一号は机のお菓子を片づけている。
先輩女子二号はノートをまとめている。
先輩男子一号は段ボール箱を運んでいる。
先輩男子二号は部屋の隅で何かを調整していた。
作者は彼らを指さした。
『ほら』
『まだ台詞すらない』
「現実的すぎるだろ、この作者!」
杉浦は空中に向かって熱くなっている涼太を見て、眼鏡を押し上げた。
「相原くん」
「はい」
「……水、飲む?」
「大丈夫です。ありがとうございます」
千夏はものすごく真剣な目で涼太を観察していた。
「やっぱり面白い」
「青山さん、未知の生物を見るみたいな目で俺を見ないで」
「だって、誰もいないところと喧嘩してる」
「いるんだよ!」
部屋の空気が止まった。
涼太も止まった。
杉浦が見る。
千夏が見る。
名前をまだ与えられていない四人の先輩たちも見る。
涼太はゆっくり視線を逸らした。
「つまり……」
「俺の想像の中には、いるんです」
『苦しいなあ』
涼太は小声で歯を食いしばる。
「全部お前のせいだ……」
杉浦が咳払いする。
「じゃ、じゃあ始めようか」
「お願いします。早く始めてください」
このままだと、高校生活より先に社会的評価が終わりそうだった。
数分後。
涼太は杉浦に連れられ、隣の小さな資料室の入口に立っていた。
元々は物置だったらしい部屋が、簡単に改装されている。
横向きに並べた机が狭い通路を作り。
天井から垂らした黒い布が視界を区切り。
段ボールが壁代わりになっている。
隅には弱いライトが数個。
どう見ても。
「高校生が限られた予算で一生懸命怖がらせようとしました」
という空気がすごい。
「……これが脱出ゲーム?」
杉浦が頷く。
「自分たちで作った」
『なるほど』
作者が顎に手を当てる。
『圧倒的な低予算感』
「手作りなんだから十分すごいだろ」
杉浦は説明を続けた。
「ルールは簡単」
「中に三枚のヒントカードが隠してある」
「全部見つけて、そこに書かれた内容から最後の鍵を探す」
「その鍵で出口を開けられたらクリア」
「それだけ?」
「それだけ」
涼太は少し安心する。
「なんだ。意外と普通――」
杉浦は続けた。
「途中で少し驚かせる仕掛けがあるけど」
「……」
涼太は入口を見直す。
「今の『普通』って発言、撤回していいですか?」
千夏が頷く。
「いいよ」
「じゃあ撤回する」
作者が笑う。
『怖がり』
「お前が先に入れよ!」
『僕は作者であり観察者だから』
「ただ怖いだけだろ」
作者の筋肉がぴんっと張る。
『僕がこんなの怖がると思う?』
「じゃあ前歩け」
『嫌』
「ほら!」
『僕は主人公の背後を守る役だから』
「後ろに隠れる言い訳だろ!」
杉浦には当然、作者の声は聞こえない。
涼太がひとりでどんどん熱くなっているようにしか見えなかった。
「相原くん、本当に緊張してるなら無理しなくてもいいぞ」
「怖がってるわけじゃありません!」
涼太は作者を指さす。
「こいつに腹が立ってるだけで!」
全員が指の先を見る。
何もない。
涼太はそっと手を下ろした。
「……もういいです」
杉浦は何も聞かなかったことにした。
「それと、中ではスマホのライトは禁止」
「本当に無理だと思ったら『リタイア』って言えば、すぐ照明をつける」
涼太は頷く。
「そこはちゃんとしてるんですね」
『じゃ、行ってらっしゃい』
作者が背中を押した。
「押すな!」
涼太の体が突然前へよろけた。
杉浦が目を丸くする。
「相原くん?」
「大丈夫です!」
涼太は振り返り、作者を睨んだ。
「覚えてろよ」
パチン。
杉浦がスイッチを切った。
室内の照明がすべて消える。
「……」
暗闇。
涼太が最初に感じたのは恐怖ではなかった。
見えない。
本当に、何も見えない。
入口に立ったまま、目を大きく開く。
「作者」
『ん?』
「どこ?」
『隣』
「見えない」
『そりゃそうでしょ』
「普段は人間照明みたいにテカってるくせに!」
『あれは筋肉の艶』
「今だけ胸筋光らせてくれない?」
『それはズルだから駄目』
「こういう時だけルール守るな!」
涼太は手を伸ばし、慎重に前を探る。
すぐに指先へ段ボールのざらついた感触が伝わった。
壁沿いにゆっくり進む。
足元の床が、ときどきギシッと鳴る。
全部部員たちが作った仕掛けだと知っている。
外にはちゃんと人がいる。
ただの学校の資料室だ。
全部分かっている。
なのに。
視界を闇に奪われるだけで、その「分かっている」が急に頼りなくなる。
パチッ。
どこかで音がした。
涼太が止まる。
「……今の何?」
『仕掛けじゃない?』
「それくらい分かってる!」
ササッ……
右側の黒布が不意に揺れた。
涼太の肩がびくっと縮む。
『ぷっ』
「今笑っただろ」
『今の動き、驚いた猫みたいだった』
「黙れ!」
涼太は歯を食いしばって進む。
不思議なことに。
一人だったら、もっと怖かったかもしれない。
でも横で禿頭の筋肉男がずっと笑っているせいで、恐怖の半分くらいが怒りに置き換わっていた。
「ただの脱出ゲームだろ」
『お? 強くなった?』
「今は早く出て、お前を殴りたいだけ」
『僕が勇気の源なんだね』
「怒りの源だ!」
少し進むと、目が暗闇に慣れてきた。
前方に机らしき輪郭が見える。
その上に白い何か。
涼太はゆっくり近づいた。
「カード?」
手を伸ばす。
次の瞬間。
机の下から、真っ白な手が勢いよく伸びてきた。
「うわあああっ!」
涼太は思いきり飛び退く。
作者が腹を抱えて笑った。
『あははははは!』
『ちゃんと叫んだ!』
「机の下から急に手が出てきたら誰でも叫ぶだろ!」
白い手は数回動いて、そのまま黒布の向こうへ消える。
作者が顎を撫でた。
『先輩女子一号と見た』
「分かるの?」
『いや、適当』
「じゃあ言うな!」
涼太は第一のカードを手に入れた。
【白が黒を見る時、扉は開く】
「何これ」
『謎解き』
「それは分かってる」
『じゃあなんで聞いたの?』
「考えてる途中なんだよ!」
二人はさらに進む。
黒布の向こうから、途切れ途切れのすすり泣きが聞こえてきた。
「うぅ……ううぅ……」
涼太の足が少し遅くなる。
作者は数秒間、じっと聞いた。
『この音源、ループの繋ぎ方失敗してない?』
「え?」
「うぅ……ううぅ……」
少し間が空く。
そして。
「うぅ……ううぅ……」
まったく同じ。
涼太は黙った。
「……ほんとだ」
『フリー素材感すごいね』
「せっかくの雰囲気壊すなよ!」
恐怖がまた半分減った。
二枚目のカードはすぐに見つかった。
三枚目は、穴の開いた黒い箱の中。
手が一本だけ入るサイズだった。
涼太は箱の前に立った。
「……」
作者も横に立つ。
『入れなよ』
「お前が先に入れろ」
『君の試験でしょ』
「絶対変なの入ってるだろ」
『絶対入ってる』
「断言するな!」
涼太は覚悟を決め、ゆっくり手を穴に入れる。
冷たい。
柔らかい。
少し濡れている。
表情がどんどん固まった。
「作者」
『なに?』
「これ何」
作者も横から手を入れて触ってみた。
『こんにゃくっぽい』
「こんにゃく?」
涼太が探ってみる。
最終的に三枚目のカードと一緒に、細かく切られたこんにゃく入りの袋まで引っ張り出した。
作者がそれを見る。
『食べ物を粗末にしてる』
「これ食えると思う?」
『食べたら勇者って呼んであげる』
「やめとく」
三枚のカードを組み合わせる。
白。
黒。
赤。
最後のヒントが指していたのは、部屋の隅に置かれた白い人形だった。
涼太はそれを凝視する。
「絶対動く」
『八割動く』
「近づきたくない」
『じゃあ今夜ここ泊まる?』
「……」
涼太はゆっくり人形へ近づいていく。
一歩。
二歩。
パッ!
人形の首が勢いよくこちらを向いた。
「うわっ!」
肩が跳ねる。
作者がまた笑った。
「いい加減にしろ!」
どうにか人形の背後から小さな鍵を見つける。
カチャ。
出口が開いた。
外の光が入り込む。
涼太はほとんど飛び出すように部屋を出た。
「終わった……」
杉浦が時間を見る。
「七分四十二秒」
千夏も横に立っていた。
「思ってたより早い」
涼太は息を整えながら彼女を見る。
「青山さん」
「なに?」
「俺、何分くらいかかると思ってた?」
千夏は少し考えた。
「途中でリタイアすると思ってた」
「俺、そんなに怖がりに見える?」
作者がすぐに口を挟む。
『実際ちょっと危なかったよね』
「黙れ!」
部員たちの視線がまた涼太へ向く。
「……今の、皆さんに言ったんじゃないです」
その時、仕掛けを担当していた部員たちも部屋から出てきた。
一人の女子の先輩は、さっきの白い手をまだ装着していた。
涼太が指さす。
「やっぱり先輩だったんですね!」
作者が胸を張る。
『ほら、当たった』
「四人しかいないのに何を得意げになってんだよ!」
反対側では、先輩男子二号が人形の仕掛け用の糸を片づけていた。
先輩女子二号は音響機器を止める。
先輩男子一号は、こんにゃく入りの箱を抱えている。
涼太は四人を眺める。
「……待て」
作者へ振り返る。
「もう誰が何担当か分かるようになってきたよな?」
『うん』
「そろそろ名前出してもいいだろ?」
『まだ』
「なんで!」
『仕事があることと、物語上の出番があることは別』
「基準厳しすぎない!?」
『安心して』
作者は涼太の肩を叩く。
『誰かが本格的に物語へ絡み始めたら、僕がカッコよく名前を公開するから』
「一番目立ちたがってるのお前だろ!」
杉浦は、また空中と揉め始めた涼太を見て、何も見なかったことにした。
これが部長としての包容力なのか。
単に理解を諦めただけなのかは分からない。
「相原くん」
「はい?」
「どうだった?」
涼太は少し考える。
振り返って、手作り感たっぷりの小さな脱出ゲームを見る。
正直。
怖かった。
一度どころではない。
ただ、耐えられないほどではない。
何より、作者が横で馬鹿みたいに笑うせいで、途中から恐怖より怒りの方が勝っていた。
「面白かったです」
涼太は答えた。
「でも毎回こんなのやってたら、寿命が縮みそうです」
杉浦が笑った。
「毎日やるわけじゃないよ」
「それなら安心しました」
「普段は都市伝説とか怪談の資料を調べたり、ホラー映画を見たりする方が多い」
涼太は頷く。
その辺りは前回すでに見ている。
思っていたほど怖い場所ではなかった。
むしろ、少し居心地がいいくらいだ。
杉浦が少し間を置く。
「じゃあ」
机の上から一枚の紙を取った。
【入部届】
「相原くん、入ってみる?」
涼太は紙を見る。
千夏もこちらを見ている。
ほかの四人の先輩たちも、少しだけ視線を向けていた。
涼太はしばらく黙った。
そして首を横に振る。
「すみません」
作者の頭が勢いよくこちらを向いた。
『は?』
涼太は無視する。
「ここ、結構面白いと思います」
「皆さんも話しやすいし」
杉浦は黙って聞いている。
「でも……」
涼太はさっきの脱出ゲームを見る。
「たまに遊びに来るくらいならいいかなって」
「本当に入部するのは……やめておきます」
千夏が一度瞬きをする。
涼太を見ていた視線が、ほんの少しだけ止まった。
「そっか」
それだけ。
引き止めたり、理由を聞いたりはしなかった。
杉浦も頷く。
「別にいいよ」
「見学っていうのは、そのためにあるんだから」
「あとで気が変わったら、また来てくれればいい」
「ありがとうございます」
涼太は少し安心した。
そう。
これだ。
これが普通の部活見学。
見て。
体験して。
自分で決める。
なんて平和なんだ。
人権がある。
素晴らしい。
感動すら覚えそうだった。
その時。
作者の声が横から聞こえた。
『駄目』
涼太の笑顔が止まる。
「……何?」
『駄目って言った』
作者は腕を組んでいた。
『君は入部する』
「なんでだよ」
『物語の都合』
「そこまで堂々と言うな!」
杉浦が、急に横を向いて喋り始めた涼太を見る。
「相原くん?」
「なんでもないです」
涼太は声を落とした。
「俺が入る部活くらい、俺に決めさせろよ」
作者は千夏を指さす。
『青山千夏がいる』
次に杉浦。
『杉浦部長がいる』
さらに四人。
『先輩女子一号、二号。先輩男子一号、二号』
『これだけ揃ってるのに、君が入らないとかある?』
「あるよ!」
涼太は声を抑えながら言う。
「俺の高校生活だろ!」
作者は二秒ほど黙った。
それから、にっこり笑う。
『涼太』
「なんだよ」
『一つ忘れてない?』
「何を?」
作者がゆっくり後ろへ回る。
大きな両手が涼太の肩に乗る。
『僕は、君が誰を好きになるかは決められない』
涼太が少し固まる。
作者の笑顔がさらに明るくなる。
『感情は君のもの』
『でも物語の進行くらいなら……』
作者が涼太の右手首を掴んだ。
『ちょっと背中を押してもいいよね?』
「……待て」
涼太の右手が勝手に上がった。
「え!?」
引っ込めようとする。
動かない。
作者が後ろから腕を引っ張り、強引に入部届へ近づけていく。
「何してんだよ!」
『入部』
「嫌だ!」
『ほら、いい子だから』
「誰がいい子だ!」
ほかの人たちから見れば。
誰も涼太に触れていない。
なのに右腕だけが、まるで見えない何かに引かれるように机へ近づいていく。
涼太は慌てて左手で右手首を掴んだ。
左右の手が、自分同士で引っ張り合う。
杉浦の表情が変わった。
「相原くん?」
「俺じゃないです!」
「え?」
「今、右手が俺のものじゃないんです!」
千夏がすぐに立ち上がる。
涼太の右腕を凝視した。
「自分で動かしてない?」
「そう!」
千夏の目が輝く。
「へえ……」
「『へえ』じゃない! 今は観察してる場合じゃない!」
作者がどこからともなくペンを取り出し、涼太の手に押し込んだ。
「作者!」
杉浦が反応する。
「作者?」
涼太が凍りつく。
しまった。
作者の声は聞こえなくても。
自分の声は普通に聞こえる。
「い、いや!」
右手がさらに机へ引っ張られる。
「ああもう! 今はそこ気にしないでください!」
ペン先が紙に触れる。
一画目。
「やめろ!」
二画目。
「俺は入らないって言ってるだろ!」
作者は後ろで楽しそうに笑っている。
『ちゃんと綺麗に書いてね~』
「黙れ!」
一画。
また一画。
そしてとうとう。
【相原涼太】
「やめろおおおお!」
最後の一画が書き終わった。
作者がようやく手を離す。
涼太の右手が、ぱんっと机に落ちた。
部屋が静まり返る。
杉浦が入部届を見る。
それから涼太を見る。
「……確かに、相原くんの字だね」
「でも俺の意思じゃないです!」
千夏はまだ涼太の手を見ていた。
「今の、ほんとに憑依みたいだった」
「そんな嬉しそうに言わないで!」
涼太はすぐに入部届を掴む。
「とにかく、これは無効だからな!」
『有効』
「無効!」
『名前書いてあるし』
「今から破る!」
涼太は両手で紙を掴む。
左右へ引き裂こうとした。
作者が後ろからまた腕を押さえる。
「またかよ!?」
『大事なストーリーアイテムを壊しちゃ駄目』
「俺の入部届だよ!」
数秒間、自分の腕と格闘する。
最後に作者がぐっと押し込んだ。
ぱん。
入部届が再び机へ置かれた。
作者はすぐに手を離す。
涼太は慌てて両手を胸元へ引いた。
「この野郎……」
『おめでとう~』
作者が両手を広げる。
『今日から君も超常現象研究部の一員だ!』
「まだ受理されてないからな!」
『名前書いたんだからほぼ同じでしょ』
「全然違う!」
涼太は作者へ飛びかかった。
「取り消せ!」
『やだ~』
作者は軽く避ける。
涼太の拳は空を切った。
ほかの人たちから見れば。
涼太が突然、何もない空間へ殴りかかったようにしか見えない。
振り返る。
もう一発。
「止まれ!」
『捕まえてみなよ~』
「逃げるな!」
杉浦は静かに一歩下がった。
先輩女子一号も下がる。
二号も半歩下がる。
先輩男子一号は段ボール箱を抱き締めた。
先輩男子二号は自然に壁際へ移動する。
千夏だけは数秒間じっと観察して。
そっとノートを取り出した。
「青山さん!」
千夏はすぐにノートを閉じる。
「書いてない」
「今絶対書こうとしてただろ!」
数分後。
涼太は息を切らしながら椅子へ座っていた。
作者は無傷で隣に立っている。
『まあまあ』
「話しかけるな」
『まだ怒ってるの?』
「怒るだろ普通!」
『青春を進めてあげただけなのに』
「今のは普通に俺の選択権を侵害してるだろ!」
『大げさだなあ』
「大げさじゃない!」
作者は禿頭をぽりぽり掻いた。
『じゃあさ』
「何だよ」
『お詫びする』
涼太は横目で見る。
「……何を?」
作者が意味ありげに笑う。
『能力を一つあげる』
涼太が固まる。
「能力?」
『そう』
作者は人差し指を立てる。
『超常現象研究部に入ったら、これから暗い場所に行く機会も増えるでしょ?』
「確定事項みたいに言うな」
『だから――』
作者が指先を伸ばす。
涼太の額を軽く突いた。
ぽん。
次の瞬間。
涼太にしか見えない半透明のウィンドウが視界に浮かんだ。
【特性を獲得しました】
【暗所適応】
【効果:低照度環境に入った際、通常より早く暗闇へ順応する】
涼太は目を見開いた。
「……」
もう一度読む。
「マジ?」
『マジ』
「俺、能力手に入れたの?」
『うん』
さっきまでの怒りが半分ほど吹き飛んだ。
「待って」
涼太は立ち上がる。
「じゃあ暗闇でも見えるようになる?」
『そこまでじゃない』
「でも普通の人よりはすごいんだよな?」
『ほんのちょっと』
涼太は表示をじっと見る。
なぜか。
妙にわくわくしてきた。
能力。
特殊能力である。
恋愛コメディの主人公だったはずなのに。
まさか自分が能力持ちになるとは。
「杉浦先輩」
「ん?」
「ちょっと電気消してもらえます?」
杉浦が目を瞬く。
「急に?」
「ちょっと試したいことがあって」
「何を?」
「……目を」
杉浦の表情がさらに怪しくなる。
それでも最後には、壁際のスイッチを押した。
パチン。
部屋が暗くなる。
最初。
涼太には何も見えなかった。
けれど。
少し経つと。
机の端。
椅子の輪郭。
カーテン。
少し離れて立っている千夏。
ぼやけた形が、さっき密室に入った時より早く浮かび上がってくる。
「見える」
『でしょ?』
「ほんとだ」
涼太は少し興奮しながら、自分の手を見る。
輪郭だけではある。
けれど確かに、さっきより早い。
「俺、本当に超能力手に入れたんだ」
作者は黙った。
『……』
涼太の笑顔がゆっくり止まる。
「なんで黙る?」
『いや……』
作者は頬を掻く。
『厳密に言えば』
「何?」
『超能力じゃない』
涼太の笑顔が消えた。
「は?」
「相原くん?」
暗闇の中から杉浦の声がする。
「もうつけていい?」
「……お願いします」
パチン。
照明が戻る。
涼太は作者を睨んだ。
「説明」
『人間の目って元々暗闇に慣れるようにできてるんだよ』
「……」
『明るい場所から暗い場所に入ったら、時間が経てば少しずつ見えるようになる』
「……」
『暗順応ってやつ』
「……」
作者が親指を立てる。
『僕はそれをほんのちょっと強化しただけ』
部屋が妙に静かに感じられた。
涼太は作者を見る。
「つまり」
『ん?』
「お前が俺にくれた能力って」
『うん』
「普通の人よりちょっと早く、暗い場所に目が慣れるだけ?」
『正解!』
バッ!
涼太が作者の顔へ拳を振るう。
作者はすぐ横へ避けた。
『危なっ!』
「俺の期待返せ!」
『便利だって!』
「どこが!」
『暗い場所に入った時、ほかの人より少し早く見えるんだよ?』
「どれくらい早い!」
『ちょっと』
「ちょっとってどれくらい!」
『だから……ちょっと』
「数値すら考えてないだろ!」
『細かいこと気にしすぎだよ』
「俺の能力だぞ!」
二人はまた言い争いを始める。
もちろん。
ほかの人たちから見れば。
さっきまで消灯実験に興奮していた涼太が、突然また誰もいない方向へ怒り始めただけだ。
千夏はしばらく静かにその様子を見ていた。
そして。
小さく笑った。
肩がほんの少し揺れるくらい。
涼太が止まる。
「青山さん?」
「なに?」
「今、笑った?」
「ちょっとだけ」
「何が面白かったんだよ」
千夏は、涼太の横にある何もない空間へ一度視線を向ける。
それから、机に置かれた名前入りの入部届を見る。
「ただ……」
少しだけ間を置く。
「相原くんが本当に入ったら、ここ、もっと面白くなりそうだなって」
涼太は黙った。
作者がすぐ横へ寄ってくる。
『ほら』
「喋るな」
『千夏、歓迎してくれてるよ』
「分かってる」
『じゃあ入ってもいいかなって思った?』
「思わない」
『え?』
涼太は作者を睨む。
「まだ怒ってるからな」
『根に持つなあ』
「お前が無理やり名前書かせたんだろ!」
杉浦は机に置かれた入部届を手に取った。
「で……」
涼太を見る。
「これは本当に出さなくていいんだな?」
涼太は勢いよく立ち上がった。
「出さないでください!」
同時に作者が叫ぶ。
『出して!』
「出さない!」
『出して!』
「出さない!」
『出して!』
当然、杉浦に聞こえているのは涼太の「出さない」だけだった。
杉浦は入部届へ視線を落とす。
そして涼太を見る。
最終的に。
この世界で最も安全な選択をした。
「……じゃあ、とりあえず預かっておく」
「はい!」
涼太は即座に頷いた。
「まだ提出しないでください!」
杉浦は紙を机の端へ置いた。
「本当に入りたくなったら、その時に出そう」
「ありがとうございます」
涼太はようやく安心した。
作者は不満そうに腕を組む。
『惜しかった』
「何が?」
『あと少しで正式入部だったのに』
「俺はまだ一度も同意してない!」
『まあ時間の問題だよ』
「勝手に決めるな!」
作者はもう涼太を無視し、指を折りながら数え始めた。
『度胸試し完了』
『部員交流完了』
『青山千夏との交流完了』
『入部届への記名完了』
「名前書いただけだし、しかも強制だからな」
『新特性獲得』
「しかも超地味」
作者は満足そうに頷いた。
『一ヶ月止まってた分、少しは取り戻せたね』
涼太は作者を見る。
「つまりこれが、お前の言ってた――」
作者を指さす。
「一ヶ月分の遅れを取り戻すってやつ?」
『その通り』
作者は得意げに胸を張る。
『今日、いっぱい進んだでしょ?』
涼太は机の上の入部届を見る。
さっきの簡易脱出ゲームを見る。
そして。
自分にしか見えない禿頭筋肉男を見る。
最後にゆっくり椅子へ座った。
両手で顔を覆う。
「……一ヶ月止まってた頃がちょっと恋しくなってきた」
『え?』
「少なくとも、あの時はお前に振り回されなかった」
『でも餓死しかけてたよ?』
涼太が勢いよく顔を上げた。
「うるさい!」
旧校舎三階。
超常現象研究部の部室に、また涼太の怒鳴り声が響いた。
部員たちは互いの顔を見る。
涼太が一体誰と喧嘩しているのか。
誰にも分からない。
ただ一人。
青山千夏だけが、そっとノートを開いた。
新しいページに書く。
【相原涼太】
少し考える。
ペン先がもう一度動く。
【やっぱり変。】
千夏はその一文を眺め。
ほんの少しだけ口元を緩めた。
一方。
自分がすでに超常現象研究部の観察対象になっていることなど知る由もない涼太は。
まだ作者との口喧嘩に忙しかった。
机の隅には。
【相原涼太】
そう書かれた入部届が、静かに置かれている。
まだ提出されてはいない。
正式に受理もされていない。
少なくとも。
今のところは。
この先、本当に超常現象研究部へ入るのか。
涼太本人としては。
当然、自分で決めたいと思っている。
ただし。
残念ながら。
彼の物語には一人。
作者という、非常に面倒な存在がいる。
高校生活二日目。
相原涼太は、生まれて初めて真剣に思った。
特殊能力なんてない。
変な部活にも入らない。
主人公を勝手に入部させようとする作者もいない。
そんな人生こそ。
もしかしたら、一番幸せなのかもしれない。




