幕間劇
幕間劇
現実世界。
ネバネバは大きな岩の上に立っていた。
そのすぐ隣には、一台のスマートフォンが置かれている。
『読者のみんな、こんにちは~!』
『また、また、また、また、ボクの時間がやってきたよ! へへっ!』
ネバネバは嬉しそうに体を揺らし、岩の上で左右にくねくねと踊った。
『みんなに会いたかったよ~!』
『ねえ、気づいた?』
『今日の舞台は、いつもと全然違うんだよ!』
ネバネバは両手を大きく広げた。
『ここは現実世界です!』
わざと少し間を置き、読者たちが驚くのを待つように胸を張る。
『ボクがどうやって現実世界に来たのか、知りたい?』
『じゃあ、こっそり見せてあげるね。』
ネバネバはゆっくりとスマートフォンへ近づいていった。
そして片手を伸ばし、そっと画面に触れる。
けれど、その手は画面の表面で止まらなかった。
光る画面がガラスではなく、薄い水面であるかのように、そのままするりと中へ入り込んでいく。
『ここだよ!』
ネバネバは一度手を引き抜くと、もう一度画面の中へ差し込んだ。
『これが、現実世界と本の中を行き来する方法なんだ!』
『すごいでしょ?』
得意げに体を反らす。
『でも、作者には絶対に言っちゃ駄目だからね。』
『ボクが現実世界に出てこられるって知られたら、きっとこの入り口を塞ごうとするから。』
ネバネバは少しだけ読者へ近づき、声を潜めた。
『それか、ボクをそのまま外へ放り出すかも。』
少し沈黙する。
『まあ、もう外に出ちゃってるんだけどね。』
ネバネバは「へへっ」と笑った。
『それじゃあ、みんな気になってるよね?』
『どうして今日、ボクが現実世界にいるのか!』
『だって、ほら!』
ネバネバは勢いよく振り返り、遠くを指さした。
『あの人だよ!』
少し離れた場所で、一人の青年が十メートル近い高さの斜面を登っていた。
斜面はかなり急だった。
青年は重そうな道具を身につけ、バランスを保ちながら、慎重に上へと移動している。
その姿を見つめながら、ネバネバはぷんぷんと体を膨らませた。
『最近、作者が全然お話を書かないんだ。』
『だから、何をしてるのか確かめるために、こっそり出てきたの。』
ネバネバは青年をじっと見つめた。
『……』
青年は斜面にある足場をつかみ、ゆっくりと登っていく。
重い道具が体の横で揺れていた。
『……サボってたわけじゃないんだ。』
ネバネバの体が、ほんの少しだけ縮んだ。
『でも、やっぱりちょっとだけ腹が立つ。』
再び青年を指さす。
『この駄目作者!』
『全然お話を書かないから、ボクがわざわざ確認しに来ることになったんだよ!』
そう言いながらも、その声には先ほどまでの勢いがなくなっていた。
ネバネバは顔を上げ、青年のいる場所を見つめる。
『それにしても……本当に高いね。』
『斜面もすごく急だし。』
『あんなに重そうな道具を持って、ずっと上を移動しないといけないんだ。』
ネバネバは岩の端へ少しだけ近づいた。
下をちらりと覗き込んだ瞬間、すぐに後ろへ飛び退く。
『高い!』
『ボクだったら、絶対にそのまま転がり落ちちゃうよ!』
もう一度、青年を見上げる。
青年は今も斜面の上をゆっくりと移動していた。
『落ちたりしないよね……?』
ネバネバの体が、不安そうに左右へ揺れる。
『大丈夫だよね?』
『きっと大丈夫だよね?』
『作者は駄目なやつだけど、落ちちゃったら本当に誰もお話を書けなくなるし。』
少し考えてから、小さな声で付け加える。
『それに……怪我もしちゃ駄目だからね。』
時間はゆっくりと流れていった。
朝の低い位置にあった太陽は、少しずつ空の真上へ昇っていく。
ネバネバは変わらず岩の上に座っていた。
『じゃあ、ちょっと待ってようかな。』
……
『まだ仕事が終わらない。』
……
『まだやってる。』
……
『まだ終わらない。』
……
『作者って、本当に人間なの? それとも仕事をする機械なの……?』
午後になり、日差しは少しずつ柔らかくなっていった。
それでも青年は道具を持ったまま、斜面と地面の間を何度も行き来している。
ネバネバは岩の上に寝そべっていた。
『お腹が空いてきた。』
……
『ちょっと眠くなってきた。』
……
『まだ終わらないの?』
……
『人間って、みんなこんなに長く働くの?』
ネバネバはごろりと寝返りを打った。
『作者が毎日疲れたって言ってる理由、ちょっと分かったかも。』
『ただサボりたいだけだと思ってた。』
さらに時間が過ぎていった。
そして、夕方の六時。
青年はようやく道具を片づけ始めた。
ネバネバは岩の上から勢いよく跳ね起きる。
『終わった!』
『やっと終わったよ!』
『帰る準備をしてるみたい!』
慌ててスマートフォンのそばへ駆け寄った。
『先にスマホの中へ隠れよう!』
ネバネバは勢いよく飛び込んだ。
その体は画面の中へすっと沈んでいき、最後には小さな頭だけが画面から覗いていた。
『しーっ。』
『見つからないようにね。』
青年がゆっくりと歩いてきた。
道具を片づけると、スマートフォンを手に取り、ポケットの中へ入れる。
周囲は一瞬で真っ暗になった。
ネバネバはスマートフォンの中に身を縮め、外から聞こえてくる足音に耳を澄ませた。
しばらくして、青年は車に乗り込んだ。
エンジンがかかる。
やがて車は道路を走り始めた。
ネバネバは画面から少しだけ体を出し、こっそりと外の様子を覗き見る。
青年は車内で何も話さなかった。
ただ、ときどき小さくため息をついている。
ネバネバは黙ってその姿を見つめた。
『作者、本当に疲れてるみたい。』
少しだけ静かになる。
『でも、今日はお話を書いてくれるよね?』
青年が、またため息をついた。
『……たぶん。』
車は長いあいだ道路を走り続けた。
空がすっかり暗くなった頃、見知らぬ建物の前でようやく止まる。
青年は車から降り、建物の中に入った。
部屋に着くと、スマートフォンを二段ベッドの上へ置き、着替えを持って浴室へ向かう。
やがて浴室から、シャワーの音が聞こえ始めた。
スマートフォンの画面が、かすかに光る。
まず、ネバネバの頭だけが画面からひょこりと現れた。
左右を見回す。
青年がいないことを確認してから、ゆっくりと画面の中から這い出してきた。
ネバネバはベッドの上に立ち、周囲を見回した。
見覚えのない壁。
簡素なベッド。
そばに置かれた荷物と仕事道具。
ここには涼太の部屋がない。
机もない。
作者が普段過ごしている場所とも違う。
ネバネバは数秒間、固まった。
そして大きく目を見開く。
『ここ、作者の家じゃない。』
くるりと一周し、もう一度確認する。
『ここ、民宿だ!』
浴室からは、まだシャワーの音が続いていた。
ネバネバは浴室の扉を見たあと、ベッドのそばに置かれた荷物へ視線を移した。
『作者、最近ずっと外に泊まってたんだ……』
ゆっくりと、その場に座り込む。
『だからお話を書いてなかったんだね。』
ネバネバはしばらく黙っていた。
やがて、再びぷんぷんと体を膨らませる。
『でも、少しくらいは書けるでしょ。』
『ほんのちょっとでいいから。』
『半話だけでもいいから。』
小さな声でぶつぶつと呟く。
『そうじゃないと、ボクの出番が全然ないんだもん。』
やがて浴室の水音が止まった。
ネバネバはぴんっと体を起こした。
『出てくる!』
『早く隠れなきゃ!』
慌ててスマートフォンへ駆け寄り、画面の中へ飛び込もうとする。
けれど、浴室の扉はまだ開かなかった。
ネバネバはスマートフォンの前で立ち止まる。
『……』
『まだみたい。』
ゆっくりと元の場所へ戻る。
その瞬間、浴室のドアノブが動いた。
『今度こそ出てくる!』
ネバネバは再びスマートフォンへ突進した。
ところが、頭を半分ほど画面に入れたところで、ドアノブの動きがまた止まった。
『……』
ネバネバは画面の中から顔を出す。
『作者って、お風呂から出るだけでもこんなにぐずぐずするの?』
数秒後、今度こそ浴室の扉が開いた。
青年は少し濡れた髪を拭きながら、部屋へ戻ってくる。
ネバネバは慌てて全身をスマートフォンの中へ隠し、目だけを画面から覗かせた。
青年は簡単な服に着替え、スマートフォンを手に取ると、イヤホンを耳につけた。
イヤホンから、かすかに音楽が漏れてくる。
ネバネバは画面の中に寝そべり、しばらく静かに耳を傾けた。
『作者って、普段こういう曲を聴いてるんだ。』
『うん……』
『悪くないかも。』
音楽に合わせるように、体を小さく揺らす。
『って、違う!』
『今は音楽を聴いてる場合じゃないよ!』
『お話を書かなきゃ!』
もちろん、青年にその声は届かない。
青年はスマートフォンを持ち、部屋から出ていった。
しばらくすると、夕食を持って戻ってくる。
青年はベッドのそばに腰を下ろし、俯きながらゆっくりと食事を始めた。
ネバネバは画面から頭だけを出し、そばに置かれた食べ物をじっと見つめる。
『おいしそう。』
さらに身を乗り出した。
『一口だけもらってもいい?』
ネバネバは手を伸ばし、青年の夕食に触れようとする。
しかし、その手が届く直前に、青年は食べ物を口へ運んでしまった。
ネバネバの手は空を切り、そのまま画面の縁にべしゃりと倒れ込む。
『……』
『けち。』
『ボク、今日一日ずっと仕事に付き合ってあげたのに。』
食事を終えた青年は、周囲を簡単に片づけると、二段ベッドの上段へ登っていった。
ベッドにもたれ、スマートフォンを開き、友人との会話を始める。
画面には次々とメッセージが表示された。
ネバネバは隅から頭を覗かせ、青年が素早く文字を入力していくのを眺める。
『あれ?』
『ちゃんと文字を打てるじゃん。』
『友達と話す時間はあるのに、お話を書く時間はないの?』
ぷんぷんと体を膨らませる。
『早く書いてよ!』
『涼太も待ってるんだよ!』
『青山さんだって待ってる!』
『ボクだって待ってるんだから!』
一度言葉を止める。
『ボクが一番大事だけどね!』
青年は変わらず反応しない。
友人と話しながら音楽を聴き、ときどき楽しそうに笑っていた。
ネバネバはその笑顔を見つめる。
膨らませていた体が、少しずつ元へ戻っていった。
『……まあ、いいか。』
『一日中働いてたんだし、友達と話すくらいはいいよね。』
再び画面の縁へ寝そべる。
『でも、ちょっとだけだからね。』
『少し話したら、ちゃんと書くんだよ。』
時間はゆっくりと過ぎていく。
部屋の明かりは、まだ消えていなかった。
青年は長いあいだ友人と話し続けた。
ネバネバは最初、スマートフォンの隅に座って待っていた。
やがて、寝そべって待つようになった。
最後には、画面の上に全身を投げ出していた。
『まだ話し終わらないの……?』
……
『もう、かなり経ったよ……』
……
『このままだと、第九話が来年のお話になっちゃうよ。』
……
『作者。』
『作者~』
『聞こえますか~』
『あなたの大事なマスコットが、待ちすぎて化石になりそうですよ~』
当然、部屋の中から返事が返ってくることはない。
深夜になり、青年はようやく友人との会話を終えた。
しばらく画面を眺めたあと、メモアプリを開く。
ネバネバは画面の上から勢いよく飛び起きた。
『開いた!』
『ついに開いたよ!』
『お話を書くんだ!』
嬉しそうにスマートフォンの隅で飛び跳ねる。
『読者のみんな、見て!』
『作者がついに働く気になったよ!』
青年は小説のメモを開いた。
画面には、これまでに書かれた物語が表示されている。
青年の指がキーボードの上で止まった。
しばらく待っても、新しい文字は一つも現れなかった。
ネバネバは体を傾ける。
『あれ?』
青年は画面を上へ滑らせ、これまでの内容をもう一度読み返した。
そして、また下まで戻る。
カーソルが最後の一行で点滅していた。
けれど、新しい文字は現れない。
『書き出しを考えてるのかな?』
ネバネバはキーボードのそばに座った。
『大丈夫。ゆっくり考えればいいよ。』
数分後。
青年はまだ何も入力していなかった。
ネバネバは少しだけ青年の顔へ近づく。
『まだ考えてるの?』
さらに時間が過ぎた。
青年はキーボードを閉じ、メモの内容を眺めたまま動かなくなった。
『……』
『もしかして、何も思いつかないの?』
ネバネバは青年の目を見つめた。
一日中働いていたせいか、その目には疲れが浮かんでいる。
青年は手を上げ、眉間を揉んだ。
そして、もう一度キーボードを開く。
何文字か入力した。
手が止まる。
入力した文字を、すべて消した。
ネバネバは、現れては消えていく文字を見つめた。
高く上げていた両手も、ゆっくりと下がっていく。
『書きたくないわけじゃなかったんだ。』
『どう書けばいいのか、分からなかったんだね。』
部屋の中は、とても静かだった。
イヤホンから漏れる微かな音楽と、スマートフォンの淡い光だけが残っている。
青年は何度も物語を読み返し、何度も書き始めようとした。
けれど、指がキーボードへ触れるたび、結局は止まってしまう。
時刻は、少しずつ夜の十一時へ近づいていった。
やがて青年は、メモアプリを閉じた。
スマートフォンを枕元へ置き、寝返りを打つ。
どうやら眠るつもりらしい。
ネバネバは画面の中に立ち、その背中を見つめた。
『寝るの?』
青年は答えない。
ネバネバはしばらく待った。
『本当に寝ちゃうの?』
『今日、一文字も書けなかったよ。』
ぷんぷんと体を膨らませる。
『せっかくメモを開いたのに。』
『あんなに長いあいだ考えてたのに。』
まだ文句を言おうとした。
けれど、ベッドの上で小さく丸まる青年の背中を見つめているうちに、その声は少しずつ小さくなっていった。
『……でも。』
『今日は一日中、仕事をしてたんだよね。』
『あんなに高いところまで登って。』
『あんなに重い道具を持って。』
『帰ってきてからも、ちゃんとお話を開いた。』
ネバネバは少しだけ黙った。
『結局、何も書けなかったけど。』
『それでも、書こうとしてくれただけで、十分すごいのかもしれないね。』
ネバネバは顔を下げ、スマートフォンの中にあるメモアプリのアイコンを見つめた。
次の瞬間、何かを思いついたように勢いよく体を起こす。
『そうだ!』
『今日、作者が書けなかったなら、ボクが代わりに書けばいいんだ!』
得意げに胸を張る。
『ボクはこの作品の大事なマスコットなんだから。』
『たまには作者の仕事を手伝ってあげても、全然おかしくないよね!』
ネバネバは手を伸ばし、メモアプリを開いた。
そして、新しいメモを作る。
真っ白な画面が表示された。
ネバネバは小さな両手をキーボードの上に置いた。
『よし!』
『今日あったことを……』
『まず、ボクが大きな岩の上に立ってて。』
『それからスマホを通って、こっそり現実世界へ出てきて。』
『そのあと、作者が仕事をしてるところを見つけた。』
『作者が登ってた場所はすごく高くて、斜面も急で、道具も重そうだった。』
ネバネバは口に出しながら、懸命に文字を入力していく。
けれど、ネバネバの手はあまりにも小さい。
一文字入力するたび、全身を使ってキーボードへ飛び込まなければならなかった。
『ネ……バ……ネ……バ……は……』
何文字か入力したところで、突然画面が固まった。
ネバネバの手が空中で止まる。
『あれ?』
もう一度画面を押す。
反応はない。
『ちょっと!』
『このスマホ、重すぎるよ!』
『作者、いったいいつから機種変更してないの!』
数秒後、画面がようやく動き出した。
先ほどネバネバが何度も押した文字が、一気に表示される。
【ネバネバネバネバネバはははは大大大きなななな】
ネバネバは画面を見つめた。
『……』
『違うよ!』
慌てて削除キーを押す。
しかし、削除キーまで固まってしまった。
画面が再び動き出したときには、入力した文章がすべて消えていた。
『ボクのお話!』
『せっかく頑張って打ったのに!』
ネバネバは怒りながら、画面の上で何度も跳ねた。
どうにか文章を入力し直していると、今度は画面の上に通信状態が悪いことを示す表示が現れた。
『それに、ここ電波も悪すぎるよ!』
『つながったと思ったら、すぐ切れるし!』
『人間って、どうしてこんな場所に泊まりながら仕事をするの?』
口では文句を言い続けていたが、手を止めることはなかった。
一文字。
一行。
そして、一つの段落。
ネバネバは今日見た出来事を、少しずつ文章にしていった。
作者が高い場所で仕事をしていたこと。
自分が岩の上で待ち続けたこと。
作者が民宿へ戻ってきたこと。
そして、物語を書こうとメモを開いたのに、どうしても書き始められなかったこと。
文字を間違えるたびに、怒りながら削除する。
画面が固まるたび、体ごとスマートフォンへぶつかった。
『早く動いてよ!』
『作者が起きちゃうでしょ!』
ネバネバは、こっそり青年の様子を確認した。
青年は変わらず目を閉じており、呼吸も次第に穏やかになっている。
ネバネバは、ようやく安心したように息を吐いた。
『よかった。』
『気づかれてない。』
どれほどの時間が過ぎただろう。
メモの中には、ついに一つの幕間劇が完成していた。
ネバネバは、自分が入力した最後の一行を見つめた。
そして、最初からもう一度読み返す。
大事な出来事を書き忘れていないことを確認すると、満足そうにうなずいた。
『完成!』
『へへっ、ボクってすごい!』
『作者がいなくても、ちゃんとお話を書けるんだよ!』
少しだけ言葉を止める。
『……違う。』
『やっぱり作者は必要だよね。』
『作者がいなくなったら、涼太たちがかわいそうだもん。』
ネバネバは大きく伸びをした。
体が細長く伸びたあと、弾むように元の形へ戻る。
『疲れた~。』
『お話を書くのって、こんなに大変なんだ。』
『作者が書いてる途中で、いつも人生を疑い始める理由がちょっと分かったよ。』
ネバネバはゆっくりとスマートフォンの画面から這い出した。
そして、青年の枕元まで歩いていく。
青年は、もう眠っていた。
日中の仕事で溜まった疲れが、まだその顔に残っているようだった。
ネバネバは、その場に立ってしばらく青年を見つめた。
やがて、ぷんぷんと体を膨らませる。
『ボク、まだ怒ってるからね。』
『全然更新してくれないし。』
『読者のみんなを待たせてるし。』
『ボクの出番だって、ずっとないままだし。』
ネバネバは、青年の顔へ数歩近づいた。
そして、柔らかな体をそっと頬へ寄せる。
『でも……』
声が、とても小さくなる。
『今日も、お疲れさま。』
青年の頬へ、軽く体をすり寄せる。
『明日も仕事をするなら、絶対に落ちちゃ駄目だからね。』
『怪我も駄目だよ。』
『お話は、少しくらい遅くなってもいいから。』
『本当に、少しだけだからね。』
ネバネバは少し考えると、慌てて言葉を付け加えた。
『ずっと書かないのは駄目だよ!』
『そのときは、本当に怒るから!』
数秒間、静かになる。
そして、誰にも聞こえないほどの声で呟いた。
『おやすみ。』
『大好きだよ。』
言い終えた瞬間、ネバネバは自分でも恥ずかしくなったのか、青年の頬から勢いよく飛び退いた。
『作者には絶対に言わないでね!』
『今の言葉はなし!』
『みんな、何も聞いてないから!』
ネバネバは慌ててスマートフォンのそばへ駆け戻った。
けれど、画面へ入る直前に、眠っている青年をもう一度振り返る。
最後に小さく手を振った。
『それじゃあ、読者のみんな。』
『今日の幕間劇は、ここまでです!』
『このお話は、ボクが書いたんだからね!』
『ちゃんと褒めてよ!』
ネバネバはスマートフォンの画面へ飛び込んだ。
その体は、光る画面の中へゆっくりと沈んでいく。
最後には、小さな頭だけが外に残った。
『それとね。』
『作者、本当はすごく頑張ってるんだよ。』
『だから……』
ネバネバは左右を見回し、誰にも聞かれていないことを確認する。
『もう少しだけ、待ってあげてね。』
小さく「へへっ」と笑った。
『でも、本当に少しだけだからね!』
そう言い残し、ネバネバは頭も画面の中へ引っ込めた。
スマートフォンの光が、ゆっくりと消えていく。
部屋には、再び静けさが戻った。
ただ、スマートフォンのメモアプリには、作者が書いた覚えのない一篇の幕間劇が残されていた。




