第8話 作者:はい!部活です!先輩たち、行きますよ!
第8話 作者:はい!部活です!先輩たち、行きますよ!
『ああ~仕事疲れたあ~』
『仕事が終わったあとに小説の内容を考えて、小説の内容を考えたあとに、読まれているかどうかを確認して、確認したらまた人生を疑い始めるんだよねえ』
『もう今日は、涼太を一話まるごと寝かせておこうかな』
「勝手に俺の人生を休眠させるな!」
朝。
相原涼太の部屋は、まだ完全には明るくなっていなかった。
カーテンの外には淡い青色が透けていて、世界は太陽が昇る前の、夢と現実のあいだみたいな時間の中にあった。
そして涼太の机の上には、正体不明の液体がぐったりと広がっていた。
その液体は、疲れきった声を出しながら、形を失いかけたゼリーみたいに、ゆっくり机の端へ流れていく。
それは作者だった。
認めたくはないけれど、たしかに作者だった。
『でも本当に疲れたんだよお~』
『仕事して、原稿書いて、翻訳して、毎日閲覧数を見て』
『人間はどうして創作なんてするんだろうね。創作しなければ苦しまなくて済むのに』
「このろくでもない作者は何を言ってるんだ!」
涼太はベッドから起き上がり、机の上の液体を指さして叫んだ。
「まだ第八話だぞ!? こんなこと言い出して、俺の恋愛はどうなるんだよ!? 俺の青春は!? それに、この物語を読んでくれている読者はどうなるんだよ!?」
『大事だよ』
液体になった作者が、力なく揺れた。
『全部、大事だよ』
『でも私の仕事って、けっこう体力を使う仕事なんだよね。それに、頭の中に終末核獣世界の話も増えちゃったし。あっちの設定量、私本人を押し潰せるくらいあるんだよ』
涼太の表情が固まった。
「お前……」
『ん?』
「俺がいるのに……別の物語のことを考えてるのか……?」
『その反応は何?』
「俺たち、まだ第八話だぞ!? もう別作品のことを考えてるのか!? じゃあ前の七話は何だったんだよ!」
『連載』
「そんな冷静な声で答えるな!」
涼太は胸に手を当て、裏切られたような顔をした。
「俺、自分があんたの主人公だと思ってたのに」
『主人公だよ』
「じゃあ核獣世界は?」
『あれも私の子ども』
「その答え方、最低だな!」
『仕方ないでしょ。私にも中二病があるんだから』
作者の声が、急に堂々とした。
『それに、私まだそんなに歳じゃないし。十八歳だし』
部屋が半秒ほど静まり返った。
涼太はゆっくりと、机の上の液体を見た。
「お前が? 十八?」
『そうだよ』
「じゃあなんでハゲの筋肉男を外見にしてるんだよ」
『ん?』
「十八歳の人間が、物語の化身にハゲの筋肉男を使うの、どこかおかしいと思わないのか?」
次の瞬間。
涼太の背後から大きな手が伸びてきて、正確に彼の首をつかんだ。
「ぐえっ!?」
『今、何て言った?』
机の上の液体が消えた。
代わりに現れたのは、身長二メートル、ハゲ、そして少年漫画から間違って召喚されたみたいな筋肉量の男だった。
その上半身は、必要のない光を放っていた。
胸筋、背筋、肩、腕。
そのすべてが、世界に向かって宣言しているようだった。
私は合理性など必要としない。
私は筋肉である。
『この外見のどこがよくないの?』
作者の声には、圧があった。
首をつかまれた涼太は、苦しそうに目を上げた。
「どこもかしこも……圧が強い……」
『さあ、よく見なさい』
作者が指を鳴らした。
ハゲの筋肉男が筋肉を見せ始めた。
まずは背中を向けて背筋を見せる。
次に横を向き、胸筋を引き締める。
そして両腕を上げ、涼太が自分の目が汚染されたのではないかと疑うようなポーズを取った。
『見なさい、その背中!』
『見なさい、その肩!』
『見なさい、その胸筋!』
『これが作者の威厳よ!』
「威厳を胸筋に詰め込むな!」
涼太は両手で目を覆った。
けれど無駄だった。
筋肉の光は、手のひらを貫通してくるようだった。
「分かった! 分かったから! もう光るな!」
『ふん』
作者は満足げに筋肉展示をやめた。
『ようやく美を理解したようね』
「俺が理解したのは、人間の想像力には法律の制限が必要だってことだ」
『涼太をいじると、本当に気が楽になるわ』
作者はまた机の上にぐったりと戻り、ふにゃふにゃの液体になった。
涼太は首をさすりながら、大きくため息をついた。
「まあ、初めてじゃないしな」
彼は窓の外を見た。
「そういえば、今日のタイトルって部活だよな?」
『そうだよ』
作者の液体表面が揺れた。
『今日、ついに部活動見学編に入るのです』
「それで、俺はどの部活に入るんだ?」
『え~、教えな~い』
「やっぱりそう言うと思った」
涼太は冷めた目で作者を見た。
「言わないならいい」
『反応が冷たいなあ。つまらない』
「俺はこれから、ちゃんと真面目に生きるんだ」
『何?』
作者の声が一気に高くなった。
『今、何て言った?』
「だから、真面目に生きるって言ったんだよ」
涼太は腕を組んだ。
「前回、あんたが急にいろいろ偉そうなことを言ったせいで、こっちもいろいろ考えたんだからな」
『ああ~、忘れちゃだめだよ、涼太』
作者の声が、迷える少年を諭すような口調になった。
『君はまだ十五歳なんだから、そんなに真面目にならなくていいんだよ』
『青春とは何か』
『青春とは、学校へ行き、友達を作り、部活を見学し、先輩に誘われ、夕日の中を走り、そして時々恋愛で自爆することだよ』
「最後のやつは青春に含めるな」
『いや、あれがメインディッシュ』
「母さんみたいに説教くさいな」
『反抗期が来るの早くない? 君、実際には生まれて一か月くらいだよ』
「さっき俺のこと十五歳って言っただろ?」
『物語内年齢は十五歳、実際の創造時間は一か月』
「へえ~。分からない」
『簡単に言うと、君は私に作られてから、設定補完、家庭生成、学校構築を経て、それから――』
作者の声が、急に元気になった。
どう聞いても、これから誰も聞きたくないメタ設定を長々と語る気満々だった。
涼太はすぐに手を上げて止めた。
「ストップ」
『え?』
「あんた、字数を稼ごうとしてるだろ?」
作者は沈黙した。
部屋の空気が、現行犯で捕まった犯人みたいに静かになった。
『……バレた?』
「本当にそうだったのかよ!」
涼太は窓を指さした。
「早く太陽を昇らせろよ! 今日は部活見学なんだろ!」
『普通の人間なら、朝はもう少し寝ていたいものだけどね』
「普通の人間は、作者が液体になって起こしに来たりしない!」
『君、だんだん口が達者になってきたね』
「読者のみんなと一緒にあんたのこと責めるぞ」
『はいはい。作者を脅すことだけは覚えるんだから』
作者は不満そうにぼやいた。
次の瞬間、窓の外の空がゆっくり明るくなり始めた。
淡い青色の朝日がカーテンの隙間から差し込み、涼太の部屋に入ってくる。
相原涼太の高校生活二日目が、ようやく始まった。
涼太はベッドから降り、制服に着替えようとした。
しかし、制服の上着を手に取った瞬間、机の上の液体がぴたりと止まった。
『……待って』
「今度は何だよ」
『今日は何の日?』
「自分で言っただろ。部活見学」
『部活』
作者の声が震え始めた。
『見学』
涼太は嫌な予感がした。
『つまり……』
机の上の液体が沸騰し始めた。
いや、沸騰ではない。
作者の感情が、物理法則に反して膨張しているのだ。
『先輩』
「おい」
『チラシ』
「落ち着け」
『放課後』
「まず形を保て」
『青春』
次の瞬間、液体が机の上から勢いよく跳ね上がった。
ばぁん!
二メートルのハゲ筋肉男が再び部屋の中央に現れた。両目はきらきらと輝き、背後では存在しない青春の光が爆発しているようだった。
『部活です!』
『先輩です!』
『涼太! 私たちの青春がついに来ました!』
「勝手にお前の青春を俺に混ぜるな!」
『行くぞ!』
作者は手にしたペンを高く掲げた。
『学園ラブコメに欠かせない、放課後の部活動見学へ!』
「まだ朝だろ!」
『じゃあ、まず学校へ行こう!』
「感情の切り替えが早すぎるだろ!」
『それが作者というものです』
作者は胸を張った。
『先輩のことを考えれば、昨日休載したくなっていた作者も今日には復活するのです』
「本当に面倒くさい生き物だな」
涼太はため息をつき、制服の上着を手に取った。
机の上には、昨日、青山千夏が丸で囲んだ部活動紹介の紙が静かに置かれていた。
【超常現象研究部】
その文字が、朝の光の中ではっきりと見えた。
涼太はその紙を見つめながら、昨夜作者が言った言葉を思い出していた。
物語は、きっかけを用意できる。
けれど、そこへ歩いていくかどうかは、自分で決めるしかない。
「部活見学か……」
涼太が小さくつぶやく。
作者がすぐに近づいてきた。
『どう? 少しは楽しみになってきた?』
「いや」
涼太は鞄を手に取った。
「今日はたぶん、平穏には終わらないんだろうなって思ってるだけ」
『安心しなさい』
作者の声は自信満々だった。
『私がいる限り、絶対に平穏には終わりません』
「それを保証みたいに言うな!」
こうして。
相原涼太の高校生活二日目。
そして作者が待ち望んでいた部活動見学編は。
とても不安定な空気の中で、正式に始まった。
数十分後。
相原涼太はすでに制服に着替え、鞄を背負って通学路を歩いていた。
朝食、歯磨き、着替え、それから作者が途中で「朝の準備シーン」を一丸ごと水増ししようとした件については、すべて省略する。
本当に書いていたら、第八話は学校に到着する前に終わってしまうからだ。
『もったいないと思わない?』
作者の声が横から聞こえた。
『朝、制服、洗面台の前の主人公、鏡に映る自分――こういうのも全部青春だよ』
「ただ字数を稼ぎたいだけだろ」
『……』
「沈黙は肯定だ」
涼太は冷たく言い、歩き続けた。
隣では小春が鞄を背負い、彼を見上げていた。
「お兄ちゃん、今日の朝、機嫌悪そう」
「悪くない」
「でもさっき、また空気と喧嘩してたよ」
「今日の精神状態を整理してたんだ」
「喧嘩で整理するの?」
「これは高校生の特殊技術だ」
『高校生に責任を押しつけるな』
「黙れ」
小春が足を止め、涼太を見た。
「お兄ちゃん」
「何だよ」
「本当に大丈夫?」
その声は、いつものようなただのツッコミではなかった。
涼太も足を止めた。
二人は、昨日の朝に別れた十字路の前に立っていた。
右へ行けば、小春の学校へ向かう道。
まっすぐ進めば、涼太の高校へ向かう道。
朝の通りにはまだ少し冷たい空気が残っていて、道路脇の電柱の影が斜めに落ちていた。遠くで自転車に乗った学生が通り過ぎ、短くベルの音が鳴って、すぐに消えた。
涼太は小春を見た。
「急にどうしたんだよ」
小春は鞄の肩ひもを少し持ち上げた。
「だって、お兄ちゃん、昨日の夜、何か考え込んでるみたいだったから」
涼太は少し目を瞬かせた。
「そうか?」
「そう」
小春は迷いなくうなずいた。
「それに今日の朝も同じ。いつもどおり変だけど、いつもの変さとはちょっと違う」
「変を俺の基本状態にするのやめてくれない?」
「無理」
小春は即答した。
涼太はため息をついた。
作者が横で小さく言う。
『妹、観察力いいね』
「ナレーションみたいな口調で言うな」
小春が目を細めた。
「まただ」
「違う」
「違わない」
「違う」
「違わない」
兄妹は数秒ほど見つめ合った。
結局、涼太が先に視線をそらした。
「ただ、今日の放課後に部活を見に行くんだよ」
「部活?」
小春の目が少し輝いた。
「お兄ちゃん、部活に入るの?」
「まだ分からない。ただ見に行くだけ」
「何の部活?」
涼太の表情が微妙に固まった。
頭の中に、青山千夏が青いペンで丸をつけた紹介用紙が浮かぶ。
【超常現象研究部】
彼は黙った。
小春はその顔を見た。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「まさか、何かすごく変な部活に入ろうとしてない?」
「まだ決めてない」
「つまり、本当に可能性はあるんだ」
「犯人を確認するみたいな目で見るな」
『超常現象研究部、学園ものっぽくていいじゃない』
作者が楽しそうに割り込んだ。
『神秘の部活、変な先輩、放課後の旧校舎、開かない部室の扉、そして突然消えた部費――』
「最後のはただの会計問題だろ」
小春が首をかしげた。
「お兄ちゃん、今、部費って言った?」
「言ってない」
「最近、本当にどんどん怪しくなってる」
「分かってる」
涼太は反射的に答えた。
小春が固まった。
涼太自身も固まった。
本当は「そんなことない」と言うつもりだったのに、なぜか「分かってる」と言ってしまった。
小春は彼を見て、少し静かな表情になった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「本当に疲れたら、早めに帰ってきてもいいからね」
涼太は目を瞬かせた。
小春は視線をそらし、こういうことを言い慣れていないように見えた。
「昨日、お母さんも言ってたでしょ。友達でも、部活でも、ずっと苦しいなら、少し考えたほうがいいって」
涼太はすぐには答えなかった。
第七話で、母が食卓で言った言葉が、もう一度頭に浮かんだ。
友達でも、好きな人でも。
一緒にいるときに緊張したり、不安になったりするのは普通だ。
でも、ずっと苦しいなら、いったん立ち止まって考えたほうがいい。
涼太は目の前の妹を見た。
小春は普段、彼にツッコミを入れたり、時々わざと無邪気なふりをしたり、プリン事件を何度も掘り返して彼を追い詰めたりする。
けれど今の表情は、とても真剣だった。
真剣すぎて、涼太はどう返せばいいのか分からなかった。
『いい妹だね』
作者が静かに言った。
今回、涼太はすぐに黙れとは言わなかった。
彼はただ手を伸ばし、小春の頭を軽くぽんと叩いた。
「分かった」
小春は目を見開いた。
「お兄ちゃん、急に何で頭をなでるの?」
「兄の権利」
「気持ち悪い」
「反応が早すぎるだろ」
小春は一歩後ろに下がり、両手で頭を守った。
「急に大人ぶらないで。似合ってないから」
「俺はもともと大人だ」
「お兄ちゃん、大人は毎日空気と喧嘩しないよ」
「あれは例外だ」
『例外じゃなくて日常だよ』
「黙れ」
小春は彼を見て、最後には少しだけ笑った。
「じゃあ、私はこっちだから」
「うん」
「お兄ちゃん」
「今度は何だよ」
「変な部活に入るなら、怪しい儀式に巻き込まれないようにね」
「俺をどこへ行く人間だと思ってるんだよ」
「分からない。でもお兄ちゃんって、そういうことに巻き込まれそうだから」
『正確』
「同意するな」
小春は手を振った。
「じゃあ、学校行ってくるね」
「気をつけて」
「お兄ちゃんもね」
彼女は振り返り、自分の学校へ向かって歩き出した。
数歩進んだところで、小春はまた振り返った。
「それと、お母さんがサインした書類、忘れずに出してね」
涼太の体が固まった。
小春はその反応を見て、「やっぱり」という顔をした。
「そうだと思った」
「持ってる」
涼太はすぐに鞄を開けて確認した。
書類はちゃんと入っていた。
小春はふんと鼻を鳴らした。
「ならいいけど」
そう言って、今度こそ本当に走っていった。
涼太は十字路に立ち、妹の背中が遠ざかっていくのを見ていた。
彼女がほかの学生たちの中に混ざって見えなくなってから、彼は改めて鞄を背負い直した。
作者が横で言った。
『はい、お兄ちゃん時間終了?』
「うん」
涼太は学校へ向かう道を見た。
『ここからは高校生時間だね』
「モード切り替えみたいに言うな」
『じゃあ何?』
作者の声が急に楽しそうになる。
『今日は部活見学なんだよ』
『涼太』
『先輩たちが待ってるよ』
「お前を待ってるわけじゃない」
『青春が待ってるよ』
「それもお前を待ってない」
『チラシが待ってるよ』
「チラシは人を待たない」
『そして超常現象研究部は――』
作者がわざと間を置いた。
『空気に向かって話す主人公を、たぶん待ってる』
涼太は黙った。
彼は鞄を見下ろした。
あの部活動紹介の紙は、その中に入っている。
昨日の夜、彼はそれを見つめながら長い時間考えていた。
物語は、きっかけを用意できる。
けれど、そこへ歩いていくかどうかは、自分で決めるしかない。
涼太は深く息を吸った。
「行こう」
『お?』
「学校へ」
彼は歩き出した。
「それで、放課後、部活を見に行く」
作者は一瞬、静かになった。
次の瞬間、その声が花火みたいに弾けた。
『来た!』
『部活編、正式スタート!』
「本当にうるさいな」
朝の光がゆっくりと道に降り注いでいく。
相原涼太は鞄を背負い、学校へ向かって歩いた。
高校生活二日目。
そして、人生初めての部活動見学。
それは、不穏な方向へ向かって進み始めた。
「そういえば、この辺で早川さんに会ったりするのかな?」
『誰? どの早川?』
『最近設定をちゃんと見てないから、けっこうキャラ忘れてるんだよね』
「早川明日奈だよ! あと、キャラをけっこう忘れてるって何だよ! 俺は大事じゃないのか!?」
『大事だよ。だから君だけ覚えてる』
「俺、感謝するべきなのか?」
『さあ、讃えなさい。私は君の賛辞を受け入れよう』
「誰が讃えるか! それより質問に答えろ、早川明日奈!」
『ああ~、明日奈のことね。分かんないなあ。今出すのはあんまり気が乗らないんだよね。字数が増えるし』
「本当に適当な作者だな」
『ところで、これって君が物語の中で初めて彼女を苗字で呼んだ場面じゃない? なんで明日奈って呼ばないの?』
「それは……それは、何でだっけ?」
涼太は眉を寄せた。
「いや、違う! 俺が分からないのは、あんたも分かってないからだろ!」
『ち、違うよ! 私は分かってるし!』
作者の声が明らかに慌てた。
『えっと……名前で呼ぶのは、普通かなり親しい人同士がすることなんだよ。そうじゃないと……失礼になるんだよ! そうでしょ? そうだよね!』
「ふーん。やっぱり分からないな」
涼太は少し間を置いた。
「待てよ。分かった。お前、さっきこっそり調べただろ?」
『調べてない!』
作者の声がさらに慌てた。
『早く、早く行こう! 明日奈が前にいるかもしれないよ!』
「話題のそらし方が雑すぎるだろ」
涼太は歩きながら、きょろきょろと周囲を見回した。
けれど学校の近くまで来ても、早川明日奈の姿は見えなかった。
「え、本当に会わなかったな!」
涼太は思わず文句を言った。
「お前、出会いはコントロールできるって言ってなかったか?」
『できるよ』
作者はすぐに答えた。
『でも、もし彼女の家が君の家から遠かったら、通学路で偶然会うのは変じゃない?』
「それもそうか」
涼太はうなずいた。
「じゃあ、あの子の家ってどこ?」
『それは失礼だよ』
作者の声が急に真面目になった。
『女の子の家は、相手が連れて行ってくれるまで待つものです』
「あ……ごめん」
涼太は少し気まずそうに目を伏せた。
けれど次の瞬間、また顔を上げた。
「つまり、早川さんの家は俺の家から遠いってこと?」
『君、私から情報を引き出して、明日奈の家を割り出そうとしてない?』
「違うって!」
涼太はすぐに慌てた。
「そんなことしてない! 本当にしてない!」
彼は慌てて空気を見た。まるで本の外にいる誰かに説明しているみたいだった。
「読者のみんな、信じてくれ! 本当に違うんだ!」
『だめだね』
作者は重々しく言った。
『これで読者にも君が変態だと知られてしまった』
「違うって! 全部お前のせいだろ! 本当に違うんだって!」
『はいはい、余計な弁明はやめよう。説明すればするほど悪化するから』
「お前が原因だろ!」
『早く学校に入りなさい』
その時だった。
早川明日奈が、涼太が今歩いてきた道からゆっくりと現れた。
手には鞄を持ち、いつも通り静かな足取りだった。
朝の光が彼女の桃色の髪に落ち、その姿を校門前の朝の中で、やわらかく浮かび上がらせていた。
涼太はその場で固まった。
「お前、さっき……」
言い終わる前に、作者のハゲ筋肉男の代役が彼の横に現れた。
次の瞬間、その大きな手が涼太の手首をつかむ。
「え?」
『誰? 私には見えないなあ』
作者は乾いた笑いを漏らした。
『行こうか。へへ……』
「お前、この――あああああ!」
涼太が抵抗する前に、ハゲ筋肉男に引きずられ、校門へ向かって走らされた。
『騒ぐな!』
作者が声をひそめる。
『今声を出したら、絶対また社会的に死ぬ! 早く学校へ!』
涼太は引きずられながら前へ走り、叫び声を上げないように歯を食いしばった。
校門前で大声を出すなんて、もう「少し変」では済まない。
二日目にして全校に覚えられる災害になる。
けれど、問題は。
二メートルのハゲ筋肉男に引きずられて走ることも、決して普通ではないということだった。
ほかの人には作者が見えない。
けれど、涼太の姿は見えている。
周囲から見れば、涼太は突然、何か見えない力に引っ張られたかのように、驚くほどの速度で校門へ突っ込んでいったように見えた。
少し離れたところで朝練をしていた陸上部が、動きを止めた。
数人の生徒が、涼太の高速で駆け抜ける姿を見つめる。
その目が、ゆっくりと変わっていった。
それは変人を見る目ではなかった。
「速い人間」を見つけたとき、運動部特有の目だった。
『お』
作者がふと声を出した。
『主線の進行バーが出たね』
「何て言った!? 聞こえない!」
引きずられながら涼太が叫ぶ。
『何でもない!』
作者の声は、妙に楽しそうだった。
『早く学校へ行きましょう!』
場面と場面のあいだにある空白。
そこには何もなかった。
教室もない。
黒板もない。
チャイムもない。
授業を受けている生徒たちもいない。
ただ作者だけが、その真っ白な空間にしゃがみ込んで、何か恐ろしいものから隠れるようにしていた。
『読者の皆さま』
作者は声をひそめ、こっそりと口を開いた。
『作者が少し怠けたいので、本日の授業内容はそのまま飛ばします』
『だって、皆さんも涼太が数学の授業を受けるところを見に来たわけではないでしょう?』
『それから、どうして私が声をひそめて、こんなところに隠れているのかというと』
作者は一度、言葉を切った。
『涼太が――』
「作者~」
空白の向こうから声がした。
作者は一瞬で口を閉じ、その場で固まった。
相原涼太が、どこからともなくゆっくりと現れた。
顔には笑みが浮かんでいる。
けれど、その笑顔には温度がなかった。
「どこにいるのかな~」
「俺、怒ってないよ~」
「早く主線に入りたかったから、授業内容を全部飛ばしたんだよね~」
「分かってる」
「本当に分かってるよ」
涼太はそう言いながら、ゆっくり近づいてくる。
なぜか、彼の体から白い煙が立ち上っていた。
作者はその光景を見て、思わず小声で言った。
『わあ~』
『これ、《アカシア》のロアンと同じ演出じゃん』
次の瞬間、作者ははっとして口を押さえた。
『違う! 今は宣伝してる場合じゃない!』
『読者の皆さん、先に物語を読み進めてください』
『私はちょっと――』
言い終わる前に。
一つの手が、作者の背後から伸びてきた。
「見つけた」
『え?』
涼太が作者をつかんだ。
画面は一瞬で真っ黒になった。
再び画面が明るくなった時、時間はすでに放課後になっていた。
教室には、夕日が窓から差し込んでいた。
相原涼太は、自分の席に静かに座っていた。
表情はとても穏やかだった。
穏やかすぎて、少し怖かった。
そして作者の声は、まるで何事もなかったかのように、横から響いた。
『それでは、放課後の部活動見学、ついに始まります!』
涼太はゆっくりと目を上げた。
「作者」
『ん?』
「家に帰ったら、話がある」
『何の話?』
「帰ったら分かるよ~」
『そうですか~。今は主線だからね! 早く行こう!』
「そうだな」
涼太は立ち上がり、鞄を肩にかけた。
「まずは部活を見に行こう」
『行こう行こう!』
作者の声は、明らかに朝より元気だった。
教室の外の廊下は、いつもよりずっと賑やかになっていた。
放課後の校舎には、チラシを持った先輩たちの姿があちこちにあった。
階段の前に立って「新入部員募集中」と声を張る人。
掲示板にポスターを貼る人。
教室の入口に立ち、通りかかる一年生一人ひとりに、やけにまぶしい笑顔を向ける人。
『部活がいっぱい……』
作者が小さく言った。
『青春だねえ……』
「急に老人みたいにしみじみするなよ」
涼太は横を見る。
「そういえば、お前もそんなに歳じゃないだろ? どうしてこういうものに、いちいち新鮮そうな反応をするんだ?」
『私?』
作者は少し黙った。
『高校で部活に入ったことがないからだよ』
「部活に入ったことがない?」
涼太は少し驚いた。
「でも、俺がお前の常識から知っている限り、台湾の高校にも部活はあるんだろ?」
『あるよ』
作者の声が少し軽くなった。
『でも私は夜間学校だったし、半分働きながら通ってたからね。すごいでしょ?』
「うん……すごいと思う」
涼太は珍しく、すぐにはツッコミを入れなかった。
「仕事がそんなに大変なのに、学校にも行ってたんだろ」
『そうだよ~』
作者は少し間を置いた。
『まあ、高校は卒業してないんだけど』
「どうして?」
『そこは聞かない!』
作者はすぐに声を張り上げた。
『見て! あそこ! 部活勧誘! 青春! チラシ! 先輩!』
「話題のそらし方が早すぎるだろ」
涼太はため息をつき、それでも作者の視線の先を見た。
廊下の前方では、数人の先輩たちが一年生にチラシを配っていた。
『部活がたくさんあるね』
作者はすぐにまた元気を取り戻した。
『涼太、どれから見に行きたい?』
「まだ決めてない」
涼太は、手に押し込まれた何枚かのチラシを見た。
「まずは適当に歩いてみよう」
二人は廊下を歩き出した。
途中、何度も先輩たちに声をかけられた。
「一年生? 吹奏楽部を見ていかない?」
「美術部、今日は自由に見学できますよ」
「漫画研究部、初心者歓迎!」
社団名を聞くたびに、作者は妙に興奮した声を漏らした。
「お前、文化部に特に興味があるみたいだな」
『もちろん!』
作者は胸を張るような声で言った。
『私は日本文化が好きだからね』
「漫画の中の部活シーンを見て好きになっただけだろ」
『だめなの?』
作者はふんと鼻を鳴らした。
『私は日本のものにあまり直接触れられないんだよ。漫画を見るくらいしかできないんだから』
「分かったよ。別にいいって」
涼太は適当に返事をした。
その時、彼は前方に見覚えのある姿を見つけた。
その男子生徒は掲示板の前に立ち、いくつかの部活勧誘ポスターを眺めていた。
「なあ、あの人見覚えある」
涼太は目を細めた。
「あれって……高橋同学か?」
『そうだよ』
作者はとても自然に答えた。
『彼と偶遇させないと、このキャラたちが私に放置されちゃうからね』
「本当に適当だな」
涼太はため息をついた。
「でも、それも事実か」
彼は前へ歩き、その男子に声をかけた。
「なあ、高橋同学」
高橋蓮が振り返った。
「相原」
「何を見てるんだ? もう入る部活を決めたのか?」
「まだ決めてない」
高橋は視線を掲示板に戻した。
「ただ、柔道部を見に行こうかと思ってる」
「柔道部?」
涼太も掲示板を見る。
色鮮やかな部活ポスターの中に、白地に黒文字のチラシが少し下のほうに貼られていた。
【柔道部 新入部員募集中】
その横には、こう書かれている。
【初心者歓迎】
【見学自由】
【放課後、武道場にて】
「柔道か……」
涼太はそのチラシを見ながら、自分が畳の上に投げ飛ばされる光景を思い浮かべた。
なぜか、背筋が少し寒くなった。
『柔道部!』
作者の声が一瞬で明るくなった。
『来た! 先輩による親切な指導! 主人公、初めての武道体験! そして見事に畳へ投げられる!』
「今、ものすごく自然に俺が投げられる展開を入れたよな?」
『安心して。畳は柔らかいから』
「俺の尊厳は柔らかくない」
高橋が涼太を見た。
「また誰と話してるんだ?」
「誰とも」
「今、柔道部のチラシと喧嘩しているように見えた」
「社団文化に敬意を払っていただけだ」
「敬意って、そんな顔でするものなのか?」
高橋は淡々と尋ねた。
涼太は視線をそらした。
「とにかく、俺はあまり柔道部を見に行きたくない」
『どうして?』
作者がすぐに近づいてきた。
『行こうよ、涼太。見に行こうよ』
「嫌だ」
『ただの見学だよ。その場で入部するわけじゃないし』
「お前の『ただの見学』は、たいてい俺が変な事件に巻き込まれる前振りなんだよ」
『そんなことない』
「ある」
『ない』
「朝の陸上部の主線進行バーって何だったんだ?」
『……』
「黙ったな」
『あれは青春の音です』
「面倒事をきれいな言葉で包むな」
作者の声が、急に哀れっぽくなった。
『でも涼太、考えてみて。高橋は君の友達でしょ?』
「友達ではある」
『友達が初めて部活を見に行くのに、君は付き添わないの?』
「子どもじゃないだろ」
高橋が横で静かに言った。
「一人でも行ける」
『ほら!』
作者はすぐに声を上げた。
『一人でも行けると言うからこそ、こういう時こそ友達が付き添うべきなんだよ!』
「普通の会話を友情の試練にするな」
『それに思わない?』
作者は声を低くした。
『高橋くんって、今のところすごく普通なんだよ』
「いいことじゃないか」
『すごくいいことだよ』
作者の声が急に重くなった。
『この作品において、普通の人間は貴重な資源です』
「ようやく自分の書いてるものが普通じゃないって自覚したのか?」
『だからこそ、高橋くんを大切にしないと!』
「大切にする方法が、柔道部の見学に付き合うことなのか?」
『その通り!』
作者の声はやけに確信に満ちていた。
『友情とは、友達と一緒に、投げられるかもしれない場所へ歩いていくことです』
「それは友情じゃなくて共犯だ」
高橋は二人を見ていた。作者の声は聞こえないはずだが、涼太の反応から、また何か奇妙な状態になっていることくらいは察しているようだった。
「相原」
「ん?」
「ほかに見たい部活があるなら、無理に付き合わなくていい」
高橋は自然に言った。
「俺は先に柔道部を見てくるだけだし、そのあと別のところも見に行くつもりだ」
涼太は一瞬、言葉に詰まった。
高橋の言い方には、強制も期待もなかった。
ただ普通に、無理しなくていいと伝えているだけだった。
だからこそ、涼太は少し申し訳なくなった。
『ほら』
作者が小さく言った。
『普通の友達。なんて貴重なんだろう』
「高橋を保護動物みたいに言うな」
涼太はため息をついた。
「分かったよ」
彼は高橋を見た。
「じゃあ、俺も一緒に見に行く」
高橋は少し眉を上げた。
「いいのか?」
「どうせ見学だけだろ」
涼太は作者を見た。
「ただの見学、だよな?」
『そうそう、ただの見学』
作者の返事は早すぎた。
早すぎて怪しかった。
涼太は作者を睨んだ。
『本当だよ!』
作者はすぐに付け加えた。
『誓う。今は君を投げられないようにする』
「今は?」
『……少なくとも武道場に着くまでは』
「その誓い、信用がなさすぎるだろ!」
高橋は急に興奮し出した涼太を見つめ、二秒ほど沈黙した。
「相原」
「何だよ」
「本当に大丈夫か?」
「今日、似たようなことをもう三人に聞かれてる」
「それなら、本当に問題があるってことだな」
「そんな冷静に刺さないでくれ」
こうして、涼太と高橋は掲示板を離れ、武道場へ向かって歩き出した。
放課後の廊下は、朝よりもずっと賑やかだった。
あちこちにチラシを持った先輩たちがいる。
音楽室のほうから顔を出し、吹奏楽部の見学を大声で呼びかける人。
運動服のまま廊下でバレーのレシーブを見せる人。
画板を手にして、一年生を作品展示へ誘う美術部の先輩たち。
『これが部活勧誘か……』
作者は感動したように言った。
『青春って忙しいね』
「お前は何を見ても新鮮なんだな」
『だめ?』
「だめじゃないけど」
涼太は先輩たちを見た。
彼は部活見学なんて、ただ歩いて、見て、それで終わりだと思っていた。
けれど実際にここに立ってみると、学校全体が放課後になった瞬間、別の姿に変わったみたいだった。
朝の教室、点呼、教科書、先生。
それらはまだ少し固い雰囲気を残していた。
でも、今は違う。
廊下には声があふれている。
チラシ、笑い声、呼びかけ、足音。
誰もが新入生に向かって示しているようだった。
ここには、もう一つの学校生活があるのだと。
『どう?』
作者が聞いた。
『少しは楽しみになってきた?』
涼太はすぐには答えなかった。
ただ鞄を背負い直した。
「ただ……」
彼は前を見た。
「学校って、俺が思っていたよりずっと大きいんだなって思った」
『お』
作者の声が珍しく少し静かになった。
『その台詞、いいね』
「急に作者目線で俺の感想を評価するな」
高橋が隣を歩きながら、涼太を見た。
「相原は、部活に入りたいのか?」
「まだ分からない」
涼太は答えた。
「青山同学に誘われて、超常現象研究部を見に行こうかと思ってるだけだ」
「超常現象研究部?」
高橋は少し間を置いた。
「合ってると思う」
「なんでお前までそう言うんだよ」
「空気に向かって話すことが多いから」
「やっぱりそう来ると思った!」
『正確』
「お前も黙れ!」
高橋は涼太を見て、さらに一言付け加えた。
「でも、青山同学がいるなら、退屈はしなさそうだ」
「青山同学のこと、知ってるのか?」
「自己紹介の時に印象に残った」
高橋は言った。
「あの子、目立ってたから」
「目立ってた?」
「授業中に寝て、早川さんに起こされて、それから自己紹介で超常現象が好きだって言ってた」
涼太は少し考えた。
「たしかに目立ってたな」
『私はあの子が好き』
作者が横で力強くうなずいた。
『彼女は異常の価値を分かっている』
「同班同学をそんな口調で評価するな」
しばらく歩くと、二人は武道場の近くに着いた。
武道場の入口には、すでに数人の一年生が集まっていた。
中からは力の入った声が聞こえてくる。
「お願いします!」
続いて、体が畳に落ちる音。
どん!
涼太の肩がぴくりと震えた。
「……今の音、人間が出していい音なのか?」
高橋はむしろ少し興味を引かれたようだった。
「たぶん受け身だ」
「受け身?」
「投げられた時に、体を守る動き」
「なんで知ってるんだ?」
「格闘技の試合を見ていた時に調べた」
『頼もしい』
作者は感動したように言った。
『高橋同学、キャラ設定が少しずつ立ってきたね』
「友達を設定が今ロードされたみたいに言うな」
その時、柔道着を着た先輩が武道場から出てきた。
彼は高橋と涼太を見ると、爽やかに笑った。
「一年生? 見学?」
高橋がうなずいた。
「はい」
「歓迎するよ。靴はあそこに脱いでおいて。今日は見学だけだから、急に練習させたりしない。安心して」
涼太はその言葉を聞いて、少しほっとした。
作者は小さく舌打ちした。
「今、がっかりしただろ?」
『してないよ』
「絶対しただろ」
『柔道部の先輩の判断を尊重しているだけです』
「よく言うよ」
高橋が涼太を見る。
「相原、一緒に入るか?」
涼太は武道場の中を見た。
何人かの柔道部員が畳の上で練習している。
受け身をしている人。
二人一組で足運びや組み手を練習している人。
そこには普通の教室とはまったく違う緊張感があった。
怖いわけではない。
でも、真剣だった。
その真剣さに、涼太は一瞬、足を踏み入れにくくなった。
「俺は……」
『涼太』
作者が急に口を開いた。
『友達を入口まで送るのも友情だよ』
「さっきは中まで付き合えってしつこく言ってただろ」
『計画は変わるものです』
「便利な言葉だな、作者」
涼太は高橋を見た。
「俺は外で少し待ってるよ」
「分かった」
高橋は深く聞かなかった。
「じゃあ、見てくる」
「急に投げ飛ばされるなよ」
「今日は見学だけだ」
「その言葉、物語の中だとあまり信用できないんだよな」
高橋は涼太を見て、少し沈黙した。
「相原の人生って、大変だな」
「やっと分かってくれたか?」
高橋は軽く笑い、靴を脱いで、柔道部の先輩について武道場に入っていった。
涼太は入口の外に立ち、高橋の背中が中に消えていくのを見ていた。
武道場の中から、先輩が部活の説明をする声が聞こえる。
「うちは普段、週四日練習していて、初心者も歓迎で……」
涼太は廊下の壁にもたれ、ようやく少し息をついた。
「結局、高橋だけ入っていったな」
『それでいいんじゃない?』
作者が言った。
『高橋には高橋の興味があって、君には君のルートがある』
「いかにも今思いついたことを合理化してるように聞こえる」
『創作とは、その場で思いついたことを合理化することです』
「そんなことを自信満々に言うな」
涼太は手元のチラシを見下ろした。
さっき歩いている間に、いくつも押し込まれていた。
吹奏楽部。
美術部。
漫画研究部。
陸上部。
そして、いつの間に混ざったのか分からない茶道部のチラシ。
「本当に部活って多いな」
『でしょ?』
作者の声がまた楽しそうになる。
『次は演劇部でも見に行く? 漫画研究部? それとも、直接超常現象研究部に行っちゃう?』
「落ち着け」
涼太はチラシを整理した。
「まずは高橋を待つだけだ」
『でも――』
作者の声が急に止まった。
涼太は顔を上げた。
「どうした?」
『……』
作者は答えなかった。
涼太は廊下の先を見た。
夕日が窓から斜めに差し込み、廊下をあたたかい橙色に染めている。
その光の中を、一人の少女が何冊かの本を抱えて、階段のほうから歩いてきた。
桃色の髪が夕日の中でふわりと揺れる。
静かな足取り。
やわらかな表情。
早川明日奈だった。
涼太の心臓が、誰かに軽く触れられたみたいに鳴った。
「早川さん……」
彼は小さくつぶやいた。
明日奈も彼に気づいたようだった。
足を止め、少し目を見開く。
「相原くん?」
涼太は一瞬で背筋を伸ばした。
「あ、うん。その……放課後、こんにちは」
『放課後こんにちはって何その挨拶』
作者が小声でツッコんだ。
涼太は必死に無視した。
明日奈は武道場のほうを見て、それから涼太の手元のチラシを見た。
「相原くんも部活見学?」
「まあ、そんな感じ」
言ってから、自分でも曖昧すぎると思い、慌てて付け加える。
「高橋くんが柔道部を見たいって言ってたから、一緒に来たんだ。今はあいつが中に入ってて、俺は外で待ってる」
「そうなんだ」
明日奈は軽くうなずいた。
「高橋くん、運動系の部活が似合いそうだね」
「格闘技を見るのが好きらしいから」
「そうなんだ」
明日奈の視線が、涼太の持っているチラシに落ちた。
「相原くんは?」
「俺?」
「うん」
彼女は少し首をかしげた。
「見たい部活はある?」
それは、どんな同級生でも部活見学の日に口にしそうな、ごく普通の質問だった。
けれど早川明日奈にそう見つめられると、涼太は急に、手の中のチラシが重くなったように感じた。
頭の中に、青山千夏が丸で囲んだ紹介用紙が浮かぶ。
【超常現象研究部】
それを口にした瞬間、自分が本当に、何か変な方向へ歩いていくのを認めるような気がした。
しかも、早川明日奈の前で。
『言いなよ』
作者が小声で言った。
『ただの普通の会話だよ』
「そんな簡単に言うな……」
涼太はつい小さく返してしまった。
明日奈が目を瞬かせる。
「え?」
「あ、違う!」
涼太はすぐに慌てた。
「まだ完全には決めてないって言おうとしたんだ!」
声が少し大きくなった。
廊下の向こうにいた生徒がこちらを見た。
涼太は固まった。
けれど明日奈は、ただ軽く笑った。
からかう笑いではない。
彼の反応を少し面白いと思ったような、やさしい笑みだった。
「そうなんだ」
彼女は言った。
「私も、まだ決めてないよ」
「早川さんも見学してるの?」
「うん」
明日奈は手元の本を見た。
「さっき文芸部を見てきたの。このあと、図書委員のほうにも少し聞きに行こうかなって」
「文芸部……」
涼太はうなずいた。
「早川さんに、すごく合ってると思う」
言ったあとで、自分のほうが先に驚いた。
とても自然に言えた。
自然すぎて、少し怖くなった。
明日奈も少しだけ目を見開いた。
それから、薄く笑った。
「ありがとう」
『おお』
作者の声が急に低くなる。
『涼太、今のはよかったよ』
「こんな時に採点するな……」
涼太は小声で言った。
明日奈がまた少し困ったように彼を見る。
「相原くん?」
「な、何でもない!」
涼太は慌てて姿勢を正した。
「文芸部、いい感じだなって思っただけ」
明日奈は彼を見つめ、何か考えるような顔をした。
数秒後、彼女は静かに聞いた。
「相原くんって今日……昨日より忙しそうだね」
「忙しい?」
「うん」
明日奈は彼の顔を見た。
「いつも何かが、あなたの周りで起きているみたい」
涼太はすぐには答えられなかった。
作者も珍しく黙った。
廊下の向こうから、武道場の掛け声が遠く聞こえる。
「お願いします!」
どん!
涼太はその音を聞きながら、自分が今、武道場で投げられている人よりも緊張している気がした。
「たぶん……今日は部活見学の日だから」
最後に、そう答えるしかなかった。
明日奈は彼を見て、それ以上は聞かなかった。
「そうだね」
彼女は軽くうなずいた。
「今日は学校の中が、昨日よりずっとにぎやか」
彼女は本を抱え直し、少し横に避けた。
「じゃあ、私は図書室のほうに行ってみるね」
「うん」
涼太はすぐにうなずいた。
「気をつけて」
言った瞬間、彼は自分の舌を噛みたくなった。
学校の中で「気をつけて」って何だ。
それはさっき小春に言ったばかりの台詞で、今ここでそのまま使うのは、兄モードがまだ切れていないみたいだった。
けれど明日奈は、おかしいとは思わなかったようだ。
彼女はただ、やわらかく笑った。
「相原くんも」
そう言って、彼女は涼太の横を通り過ぎた。
淡い香りと、本の紙の匂いが、廊下に短く残った。
涼太はその場に立ったまま、明日奈の足音が少しずつ遠ざかるまで動けなかった。
『どう?』
作者がようやく口を開いた。
『偶遇成功』
「さっきは今出したくないって言ってただろ」
『計画は変わるものです』
「今日それ、二回目だぞ」
『便利だからね』
涼太は手元のチラシを見下ろした。
文芸部。
図書委員。
超常現象研究部。
一枚一枚が、別々の場所へつながっているように見えた。
今日の部活見学は、ただ放課後にどこへ行くかを選ぶだけではないのかもしれない。
誰のほうへ歩いていくのか。
どんな高校生活へ向かっていくのか。
それを選ぶことでもあるような気がした。
『涼太』
作者が静かに言った。
『さっき、ちゃんと早川さんって呼べてたね』
「それが何なんだよ」
『別に』
作者は少し笑った。
『ただ、少し進歩したなって思っただけ』
涼太は答えなかった。
ただ明日奈が去っていった方向を見て、それから武道場の中にいる高橋のほうを見た。
最後に、手元の部活チラシを握った。
「高橋が出てくるのを待とう」
『それから?』
「それから……」
涼太は、昨日の青山千夏の誘いを思い出した。
そして、青いペンで囲まれていた部活の名前を。
「超常現象研究部を見に行く」
「俺は、ただ見に行くだけだからな」
涼太は小さく言った。
その時、武道場の扉が開いた。
高橋蓮が中から出てくる。
表情はいつもとほとんど変わらない。けれど、目だけはさっきより少し明るく見えた。
「高橋くん、どうだった?」
「悪くなかった」
高橋は靴を履きながら、武道場を振り返った。
「先輩はいい人だった。練習も真面目だった」
「じゃあ柔道部に入るのか?」
「まだ決めてない」
高橋は涼太を見る。
「候補の一つだな」
『普通。冷静。安定』
作者が横で感動していた。
『高橋くん、君はこの作品における貴重な秩序だよ』
「俺の友達を世界平和の最後の砦にするな」
涼太はため息をつき、手元のチラシを整理した。
「じゃあ次は……」
彼は廊下の向こうを見た。
昨日、青山千夏が丸で囲んでいた部活名が、また頭に浮かぶ。
超常現象研究部。
「青山同学が言ってた部活を見に行こうと思う」
「超常現象研究部?」
高橋が聞いた。
「うん」
涼太はうなずいた。
「どうせ見学だけだし」
『来た!』
作者の声が一瞬で元気を取り戻した。
『ついに来た! 青山千夏! 超常現象! 不可思議! 旧校舎! 神秘の部室!』
「さっきまで柔道部も青春だって言ってたじゃないか」
『柔道部は青春』
作者はとても真剣な声で言った。
『でも青山千夏は、作者が期待する異常です』
「同級生に対してその期待の仕方は怪しすぎる」
涼太と高橋は廊下を歩き出した。
武道場の近くを離れ、文化部の活動場所へ向かおうとしたその時、横から声が聞こえた。
「あっ!」
その声ははっきりしていて、明るくて、何か獲物を見つけたような興奮を含んでいた。
涼太は足を止めた。
「……嫌な予感がする」
『振り返っちゃだめ』
作者がすぐに言った。
『涼太、振り返ってはいけない。我々の目的は青山千夏です』
「お前がそう言うほど、もう手遅れな気がする」
涼太はゆっくり振り返った。
廊下の反対側に、運動服姿の生徒が数人立っていた。
そのうち、背の高い、先輩らしき男子生徒が涼太をじっと見ている。
それは同級生を見る目ではなかった。
試合に出せるかもしれない素材を見つけた時、運動部が浮かべる目だった。
『終わった』
作者が小さく言った。
『朝の主線進行バーが読み込みを始めた』
「今、主線進行バーって言ったよな?」
「君!」
陸上部の先輩が歩いてきた。
「朝、校門のあたりですごく速く走ってた一年生って、君だよね?」
涼太は固まった。
高橋が彼を見る。
「朝?」
「誤解だ」
涼太はすぐに言った。
「俺は速く走ってない」
『正確には、私に引きずられて速かった』
「黙れ!」
陸上部の先輩には作者の声が聞こえない。ただ、ますます興味深そうに涼太を見た。
「今のは発声練習?」
「違います」
「とにかく、陸上部を見学してみない?」
「いえ、俺は別に――」
「見学だけだから!」
先輩はすぐに言った。
「すぐ入部しろってわけじゃない。ちょっと走ってみるだけでもいいし。初心者歓迎!」
隣の先輩らしき女子も近づいてきた。手には陸上部のチラシがある。
「一年生でしょ? 走り方はちょっと変だったけど、速度は本当に速かったよ」
「走り方が変って部分は言わなくてもいいと思います」
涼太は小さくツッコんだ。
『だめ!』
作者が横で崩れ落ちそうな声を出した。
『だめだめだめ! 今は青山を見に行くところなの! 一話分待って、ようやく青山千夏が見られるのに! 陸上部は割り込まないで!』
「さっきはどの部活も青春だって言ってただろ」
『陸上部は今は青春じゃない!』
「青春判定が自分勝手すぎる」
陸上部の先輩は涼太を見る。
「友達も一緒に見学していいよ。本当に少しだけだから」
高橋は涼太を見る。
「相原、朝そんなに速かったのか?」
「違う」
「でも陸上部の人がそう言ってる」
「それは作者が――」
涼太はそこで、無理やり口を閉じた。
危うく高橋の前で言ってはいけないことを言うところだった。
高橋は二秒ほど黙った。
「作者が?」
「……朝の精神状態が複雑だったんだ」
「複雑だと速く走れるのか?」
「高校生にはいろいろ複雑な事情があるんだよ」
『また高校生に責任を押しつけた』
陸上部の先輩はまったく諦める気配がなかった。
「来て来て。ただ測るだけだから」
「測るって何を?」
「五十メートルとか、百メートルとか」
「どうして見学が突然測定になるんですか?」
「陸上部の見学ってそういうものだから」
『罠だ!』
作者が悲鳴を上げた。
『涼太、行っちゃだめ! 青山が待ってる! 青山千夏がオカルト部で待ってる!』
「本当に待ってるみたいに言うな」
涼太は、目の前の熱意が少し怖い陸上部の先輩たちを見て、それから高橋を見た。
高橋は止めるわけでもなく、淡々と言った。
「見学なら、少し行ってみてもいいんじゃないか」
「お前までそう言うのか?」
「部活見学って、いろいろ見て回るものだろ」
「さっき柔道部から出てきたばかりのお前が言うと妙に説得力があって悔しい」
結局、涼太は陸上部に連れられて校庭の端まで来てしまった。
夕日の下で、校庭は橙色に染まっている。
陸上部員たちはそれぞれ練習をしていた。
短距離のスタート動作をしている人。
軽く走っている人。
ストレッチをしている人。
涼太はトラックのそばに立ち、まるで裁判席に連れてこられたような顔をしていた。
「先に言っておきますけど、俺は本当に陸上部に入るつもりはありません」
「大丈夫、大丈夫!」
陸上部の先輩は爽やかに笑った。
「一回走ってみるだけだから」
『この「ちょっと試してみる」が一番怖いんだよ!』
作者は横で頭を抱えた。
『人間はどうして、軽い口調で他人を面倒事に突っ込むの?』
「お前がそれを言う資格あるのか?」
涼太は上着を脱ぎ、高橋に渡した。
高橋はそれを受け取り、涼太を見る。
「頑張れ」
「そんな自然に送り出すな」
「走るだけだろ」
「俺にとっては違うんだよ」
陸上部の先輩女子が、涼太をスタートラインへ案内した。
「緊張しなくていいよ。五十メートルだけだから、自分の感覚で走ってみて」
「自分の感覚で……」
涼太はスタートラインに立った。
自分は運動が得意ではない。
少なくとも、自分ではそう思っている。
身長は普通。
体力も普通。
運動神経も普通。
作者が最初にそう設定したのだ。
『安心して』
作者が不満げに言った。
『君に運動天才設定はつけていないから』
「じゃあ何でちょっと残念そうなんだよ」
『もし君がいきなりすごい記録を出したら、陸上部が君を離さなくなるでしょ。そうしたら青山千夏の出番がまた遅れる』
「お前はどっちの味方なんだ?」
『青山の味方』
「俺の同級生側につくな」
「位置について」
陸上部の先輩が手を上げた。
涼太は少し体を低くした。
姿勢は標準的とは言いがたい。
周りの陸上部員たちが彼を見て、小さく話し始めた。
「スタートの姿勢、普通だな」
「朝、本当に速かったの?」
「見間違いじゃない?」
涼太には聞こえていた。
しっかり聞こえていた。
「……急に恥ずかしくなってきた」
『大丈夫』
作者が言った。
『たとえ遅くても、私がナレーションで隠してあげる』
「隠すな! それは余計に恥ずかしい!」
「スタート!」
声が落ちた瞬間、涼太は走り出した。
最初のスタートは、たしかにきれいではなかった。
むしろ少しぎこちなかった。
けれど、数歩走るうちに、速度は少しずつ安定していく。
風が耳元を通り抜ける。
赤いトラックが視線の下で、どんどん後ろへ流れていく。
涼太には自分の呼吸音が聞こえた。
そして遠くで、陸上部員たちの声が少し驚いたように変わるのも聞こえた。
「え?」
「速度、悪くないじゃん」
「専門でやってないんだよな?」
五十メートルはあっという間だった。
涼太はゴールを抜けたあと、数歩先まで走ってから止まった。
呼吸は少し乱れ、額には汗がにじんでいた。
陸上部の先輩はストップウォッチを見て、目を少し輝かせた。
「いいじゃん」
涼太は息を整えながら振り返った。
「いい、ですか?」
「うん。すごく化け物みたいに速いってわけじゃないけど、未経験にしてはかなり速い」
隣の先輩女子もうなずいた。
「それに後半、速度をちゃんと維持できてたよ。スタートとフォームを練習したら、もっとよくなると思う」
涼太は固まった。
「そ、そうなんですか?」
『まずい』
作者が低く言った。
『飛び抜けてはいないけど、部活が興味を持つには十分な成績だ』
「数値表を見てるみたいに俺を分析するな」
陸上部の先輩がチラシを涼太に渡した。
「相原くん、だよね? 陸上部、考えてみない?」
「いえ、俺は見学だけで」
「大丈夫。仮入部だけでもいいから」
「いえ、本当に見学だけで」
「初心者も歓迎だから」
「分かってます。でも本当に――」
『もう勧誘しないで!』
作者が横で泣きそうな声を出した。
『私たちは青山千夏を見に行くんです! 青山の待機時間が一段落を超えました!』
「黙れよ。俺だって今は帰りたいんだ」
高橋が上着を持ってきて、涼太に渡した。
「成績、よかったな」
「お前、最初から知ってたみたいに言うなよ」
「朝、陸上部に目をつけられたなら、悪くはないんだろうと思っただけだ」
「あれは本当に事故だ」
「うん」
高橋はうなずいた。
「今日の事故は多いな」
「俺の人生を総括するな」
涼太は上着を受け取り、汗を拭った。
陸上部の先輩女子がまた言った。
「興味があったら、いつでも校庭に来てね」
「は、はい。ありがとうございます」
涼太はなんとか礼儀正しく笑った。
「考えてみます」
『考えません!』
作者が即座に言った。
『彼は考えません!』
「勝手に答えるな」
『じゃあ、考えるの?』
「考えない」
『ほら』
「でも勝手に答えるな!」
とにかく、涼太は何とか陸上部の包囲から逃げ出した。
高橋と一緒に校舎へ戻った頃には、空の色はさっきより少し暗くなっていた。
夕日はまだ窓の外に残っているが、廊下の光はやわらかくなり始めている。
涼太は歩きながら、制服の襟元を手であおいだ。
「暑い……」
たった一回走っただけだった。
けれど、緊張と突然囲まれた圧力のせいで、かなり汗をかいていた。
額、首、背中がべたついている。
彼は自分の匂いを少し確認し、表情を固まらせた。
「……まずい」
『どうしたの?』
「汗の匂いがする気がする」
『おお』
作者は少し黙った。
『汗の匂いをまとってオカルト部へ向かう。これもまたリアルな青春だね』
「そんなリアルはいらない」
高橋が彼を見た。
「洗面所で少し整えてくるか?」
「いや、たぶんそこまでひどくはない……と思う」
涼太自身にも自信はなかった。
『もう戻るには遅いよ』
作者の声が、ついにまた明るくなった。
『前方には超常現象研究部!』
『青山千夏!』
『神秘の部活!』
『ついに本当の目的地の番です!』
「さっき陸上部ではずっと文句を言ってたくせに、今になって生き返ったな」
『作者は期待で生きる生き物だからね』
「俺は、お前が面倒事で生きる生き物に見える」
二人は校舎の中でも静かなほうへ歩いていった。
奥へ進むほど、周囲の音は少なくなる。
さっきまでの賑やかな勧誘の声、笑い声、楽器の音、運動部の掛け声は、少しずつ背後に置き去りにされていく。
廊下は静かになった。
壁に貼られたポスターも少ない。
掲示板には、色あせた部活のお知らせが何枚か貼られているだけだった。
涼太はその廊下を見て、無意識に歩みを遅くした。
「本当にこっちに部活があるのか?」
『あるんじゃない?』
作者が言った。
『怪しい部活ほど、こういう場所に隠れるものだよ』
「怪しさを合理性みたいに扱うな」
高橋は近くの表示を見た。
「文化部の部室は、このあたりみたいだな」
「超常現象研究部は?」
涼太は、昨日青山千夏が丸で囲んだ部活動紹介の紙を取り出した。
そこには小さく一行、こう書かれている。
【活動場所:旧校舎三階・第三資料室】
涼太はその文字を見て、沈黙した。
「旧校舎」
『来た!』
作者の声が輝いた。
『旧校舎! 第三資料室! この名前だけで普通じゃない!』
「どうして学校は、そんな場所で部活させてるんだよ」
「人数が少ないんじゃないか」
高橋が冷静に言った。
「あるいは、ほかの部活が使いたがらなかったとか」
「その説明、逆に怖いんだけど」
涼太はチラシを握った。
ただ見学に行くだけのはずだった。
青山同学が言っていた部活を、少し見に行くだけ。
けれど、さっき走ったせいで汗の匂いを気にしながら、陸上部のチラシまで持たされて、旧校舎三階へ向かっている今の自分は、どう考えても恋愛喜劇の主人公らしくない。
どちらかといえば、妙な事件に巻き込まれる通行人だ。
『涼太』
作者が静かに言った。
『準備はいい?』
「できてない」
涼太は即答した。
『いいね』
「どこがだよ」
『本物の超常現象は、人の準備なんて待ってくれないから』
「急に予告ナレーションみたいなことを言うな」
涼太はため息をつき、旧校舎へ向かって歩いた。
制服の背中には、走ったあとの熱がまだ残っている。
手には陸上部のチラシ。
鞄の中には超常現象研究部の紹介用紙。
そして前方には、さっきまでよりもずっと静かな廊下。
彼はふと後悔した。
せめて、さっき洗面所で顔くらい洗っておけばよかった。
『今になって見た目を気にするの?』
作者が言った。
『安心して。青山千夏なら、こういう小さなことは気にしないと思うよ』
「なんで分かるんだよ」
『彼女は超常現象が好きだから』
「超常現象が好きなことと、汗の匂いを気にしないことには何の関係もない!」
高橋が横から淡々と付け加えた。
「でも、それも異常の一種だと思うかもしれない」
「作者の屁理屈を補強するな!」
涼太のツッコミの声とともに。
三人は、ついに旧校舎へ向かった。
旧校舎三階。
第三資料室。
涼太は扉の前に立ち、扉の札を見た。
【超常現象研究部】
その文字は、古びた名札の下に、後から紙で貼り足されたように見えた。
紙の端は少しめくれている。
テープの貼り方も、あまりきれいではない。
どう見ても、学校から大事に扱われている正式な部活には見えなかった。
『来た』
作者の声が低くなった。
『神秘の部室。旧校舎。第三資料室』
『涼太、この扉の向こうには、学園ラブコメに欠かせない怪異イベントが隠れているかもしれないよ』
「さっきまで青春は先輩とチラシだって言ってただろ」
『青春は多面的なのです』
「お前が見たいものを増やしすぎてるだけだろ」
高橋は涼太の横に立ち、扉を見た。
「ノックするか?」
「するべきだよな」
涼太は手を上げ、扉を叩こうとした。
けれど、その手が扉に触れる前に、中から悲鳴が聞こえた。
「きゃあああああ!」
涼太は固まった。
高橋も少し動きを止めた。
作者の声だけが、一瞬で明るくなった。
『来た!』
『これが超常現象研究部なの!?』
『扉を開ける前に悲鳴で新入生を迎えるなんて、雰囲気あるね!』
「こんな時に興奮するな!」
涼太は喉を鳴らした。
もう一度手を上げ、軽く扉を叩く。
こんこん。
中の悲鳴が一瞬止まった。
続いて、扉の向こうから慌てた声が聞こえた。
「ま、待って! 一回止めて! 新入生が来た!」
「誰が開ける?」
「千夏、一年生知ってるんでしょ?」
「私が行く」
その声を聞いて、涼太は少し目を開いた。
次の瞬間、扉が開いた。
青山千夏が扉の向こうに立っていた。
今日もどこか眠たそうで、緑色の髪は少し跳ねている。けれど涼太を見た瞬間、その目は少しだけ明るくなった。
「相原同学」
彼女は涼太を見て、それから高橋を見た。
「本当に来たんだ」
「うん……」
涼太は少しぎこちなくうなずいた。
「昨日、見に来てもいいって言ってたから……」
「歓迎」
青山千夏は横に身を引いた。
「入って」
涼太と高橋は部室に入った。
そして、完全に予想外の光景を目にした。
第三資料室は、別に陰気な場所ではなかった。
少なくとも、涼太が想像していたほど陰気ではなかった。
部屋の窓にはカーテンが半分ほど引かれていて、少し薄暗い。
前方にはプロジェクターが置かれている。
白いスクリーンには、ホラー映画の一場面が停止されていた。
画面の中では、髪の長い女が、暗い廊下の奥からゆっくり顔を上げようとしている。
部屋の中央には、いくつかの机。
その上にはお菓子、紙コップ、ノート、怪談本が何冊か、それから少し古そうな録音機が置かれていた。
何人かの先輩たちが椅子に座っている。
抱き枕を抱えている人。
ポテトチップスを持っている人。
その中の一人の先輩女子は、顔色が少し白かった。明らかにさっき悲鳴を上げた人だ。
涼太は黙った。
作者も黙った。
数秒後、作者が口を開いた。
『……これ、映画部じゃない?』
「入ってすぐ人の部活にツッコむな」
『だって鬼映画を見てるよ』
「超常現象研究部がホラー映画を見てるのは、むしろ自然だろ」
『自然ではあるけど』
作者の声は、とても不服そうだった。
『でも私が期待していたのは、もっとそれっぽいものだったんだよ。赤いろうそく、古い巻物、記号だらけの黒板、それに部屋の隅に座って「君を待っていた」と言う神秘的な先輩とか』
「ここは高校の部活だ。お前の頭の中の予算無限オカルト番組じゃない」
「相原同学?」
青山千夏が首をかしげた。
「誰と話してるの?」
「誰とも」
涼太はすぐに答えた。
「感想を整理してただけ」
「空気に向かって?」
「これは高校生の特殊技術だ」
高橋が横で淡々と言った。
「今日、それもう使ってたぞ」
「そういうことを覚えるな!」
青山千夏は涼太を見て、目を少し輝かせた。
「やっぱり面白い」
「未知の生物を見るみたいな目で俺を見るな」
その時、眼鏡をかけた先輩が立ち上がった。
彼は部室の中では比較的落ち着いた雰囲気で、手にはリモコンを持っていた。
「君たち、一年生の見学者?」
高橋がうなずいた。
「はい」
涼太も続いてうなずく。
「相原涼太です。こっちは高橋蓮です」
「ようこそ」
眼鏡の先輩は笑った。
「二年の杉浦。今は一応、超常現象研究部の見学説明を担当してる」
彼はスクリーンを指した。
「今日はちょうど、ホラー映画観察会をしていたところなんだ」
「ホラー映画観察会?」
涼太は繰り返した。
「うん」
杉浦先輩はうなずいた。
「ホラー映画を見て、作中の霊的演出、民俗要素、都市伝説の原型、それから視聴者の反応を記録するんだ」
さっき悲鳴を上げていた先輩女子が小さく言った。
「ついでに、誰が一番怖がりかも確認する」
「それは正式な研究内容ではない」
杉浦先輩が冷静に補足した。
『いや、これは映画部です』
作者が再び断言した。
『少なくとも七割は映画部』
涼太は必死に無視した。
青山千夏は空いている椅子のところへ行き、椅子の背を軽く叩いた。
「相原同学、高橋同学。座る?」
「いいの?」
「今日は見学だから。座って見るだけでいいよ」
座って見るだけでいい。
その言葉に、涼太は一瞬固まった。
放課後になってから、彼は高橋に付き合って柔道部へ行き、陸上部につかまって走らされていた。
途中でチラシに囲まれ、先輩たちに声をかけられ、作者にいろいろな青春の罠へ押し込まれそうにもなった。
超常現象研究部はもっと怖いものだと思っていた。
少なくとも、何か怪しい儀式くらいあるかと思っていた。
あるいは入ってすぐ、「あなたは見えないものの存在を信じますか」と聞かれるとか。
けれど今、青山千夏はただ椅子を指して、こう言った。
座って見るだけでいい。
涼太はその椅子を見て、それからスクリーンに停止されたホラー映画の画面を見た。
部屋の中には、お菓子の匂いがした。
古い本の紙の匂いもある。
そして、カーテンが半分閉められているせいで残る、ほんの少しの薄暗さ。
にぎやかではない。
うるさくもない。
先輩たちが必死に勧誘してくるわけでもない。
ただ何人かが集まって、ホラー映画を見て、時々記録して、時々ツッコんで、時々怖がっている。
涼太は、ふと、こういうのも悪くないと思った。
走らなくていい。
投げられなくていい。
廊下で大量の部活に囲まれなくてもいい。
自分がどこへ向かうべきか、すぐに答えなくてもいい。
ただ座って、映画を見るだけ。
「……なんか、悪くないかも」
涼太は小さく言った。
『何?』
作者が驚いた声を出した。
『涼太、本気? ここは超常現象研究部だよ? 今のところ、普通すぎない?』
「普通じゃだめなのか?」
涼太が聞き返した。
作者は一瞬、何も言えなかった。
涼太は椅子に座り、鞄を足元に置いた。
走ったあとの体は、まだ少し熱かった。
制服の背中は汗で張りついていて、不快だった。
けれど座った瞬間、ずっと押されて進んできたような感覚が、ようやく少しだけ止まった。
高橋も隣に座った。
「思っていたより静かだな」
「だよな」
涼太は小さく言った。
「もっと変な場所かと思ってた」
青山千夏は反対側に座り、その言葉を聞いて目を上げた。
「今は、比較的普通の活動だから」
「今は?」
涼太は彼女を見た。
「うん」
青山千夏はほんの少し笑った。
「昼間の活動は、比較的普通」
なぜか、涼太はその言葉に少し不穏なものを感じた。
『昼間?』
作者もすぐにその単語を拾った。
『今、昼間って言った?』
「こういう時だけ反応が早いな」
涼太は声をひそめた。
青山千夏は涼太の動揺にはまるで気づいていないように、机の上のノートを手に取った。
「見学だけなら、今日は感想を書かなくてもいいよ」
「感想も書くの?」
「正式部員は時々書く」
彼女はノートを開いた。
そこには映画のタイトル、出てきた怪異、恐怖シーンの時間、それから感想らしき文字がびっしりと書かれていた。
涼太は少し覗き込む。
そのうちの一行には、こう書かれていた。
【鏡の中の女が出る前、画面左下に変な影。伏線かもしれないし、スタッフかもしれない。】
涼太は黙った。
「すごく真面目だ……」
「研究は真面目にするもの」
青山千夏は当然のように言った。
『映画研究部』
作者が小さく言い張った。
『絶対に映画研究部』
「黙れ」
杉浦先輩が新しく来た二人を見る。
「じゃあ、続き流してもいいかな?」
高橋がうなずいた。
涼太もうなずく。
青山千夏がリモコンを押した。
スクリーンの映像が再び動き出す。
暗い廊下の奥で、髪の長い女がゆっくりと顔を上げる。
部屋にいる全員が、同時に静かになった。
次の瞬間。
映画の中で、扉が勢いよく開いた。
「きゃっ!」
さっきの先輩女子がまた声を上げた。
高橋は平然としている。
青山千夏は目を輝かせている。
涼太は肩をびくっと震わせた。
作者は横で、楽しそうに笑った。
『涼太、反応いいね』
「観察するな!」
青山千夏は彼を見て、何か新しい資料を見つけたような顔をした。
「相原同学、ここに向いてる」
「なんで?」
「反応が本物だから」
「それは褒め言葉なのか?」
「褒め言葉」
彼女はすぐに答えた。
涼太は、喜べばいいのかどうか分からなかった。
けれど、何にせよ。
彼はこの場所が嫌いではなかった。
薄暗い部屋。
変だけれど、押しつけがましくない部活動。
超常現象が好きな青山千夏。
隣で落ち着いて座っている高橋。
そして、うるさいけれど、今は横でツッコむくらいしかできない作者。
涼太は椅子の背もたれに身を預け、ゆっくり息を吐いた。
「見学なら……」
彼は低く言った。
「もう少し見てもいいかも」
青山千夏はそれを聞いた。
彼女は顔をこちらに向け、少し嬉しそうに笑った。
「うん」
彼女は言った。
「ゆっくり見ていって」
涼太はうなずいた。
彼はまだ知らない。
この部活の昼間の活動は、たしかに普通だった。
ホラー映画を見る。
怪談を読む。
都市伝説を記録する。
心霊番組のどこまでが編集なのかを話し合う。
けれど。
いくつかの夜。
学校が静まり返り。
旧校舎の明かりが数えるほどしか残らず。
超常現象研究部の部員たちが、懐中電灯と録音機とノートを持って、扉の前に集まる時。
この部活は、もう一つの活動を始める。
使われなくなった教室の夜間調査。
校内怪談の現地検証。
録音機に紛れ込む、あるはずのない声。
そして、気のせいかどうか分からない足音。
もちろん、今の涼太はまだそんなことを知らない。
知っていたら、さっきあんなに簡単には座らなかっただろう。
けれど残念ながら。
物語の主人公というものは、だいたいこういうものだ。
「ただの見学」だと思った時点で、もう片足は面倒事に踏み込んでいる。
そして作者は、横で小さく一言つぶやいた。
『へへ』
「今、ものすごく怪しく笑わなかったか?」
『笑ってないよ』
「絶対笑った」
青山千夏がスクリーンを見つめながら、静かに言った。
「相原同学」
「ん?」
「次の場面、すごく面白いよ」
スクリーンの中で、暗い廊下の奥に、何かがゆっくり動いた。
涼太は椅子の端をぎゅっと握った。
「今から帰っても間に合うかな?」
青山千夏は微かに笑った。
「見学の途中で帰ってもいいよ」
彼女は少しだけ間を置いた。
「ただ、ちょっともったいないけど」
涼太は彼女の笑顔を見て、またスクリーンを見た。
最後に、ため息をついた。
「じゃあ……もう少しだけ」
作者が横で低く言った。
『よし』
『部活見学、第二段階へ正式突入です』
「勝手に俺の人生を段階分けするな」




