第7話 家族のぬくもりと、ひと目のときめき
第7話 家族のぬくもりと、ひと目のときめき
『ううううううう……』
作者の泣き声は、涼太が校門を出たあとも、まだ完全には止まっていなかった。
「お前、いつまで泣いてるんだよ」
涼太は鞄を背負い、放課後の道をゆっくり歩いていた。
夕陽が道を淡いオレンジ色に染め、道端の電柱が細長い影を落としている。制服姿の生徒たちが、三々五々に前を歩いていた。今日の入学式について話している者もいれば、スマホを見ている者もいる。ようやく学校から解放された、といった顔で大きく息を吐いている者もいた。
涼太も、だいたいそんな顔をしていた。
『僕の先輩……』
「まだそれ言ってるのかよ」
『君にはわからないんだよ』
作者の声は、青春に裏切られた人間みたいだった。
『僕はね、校門の前に先輩たちがいて、チラシを持って、新入生に「うちの部活に入らない?」って笑いかけてくる、そういう場面を期待してたんだよ』
「現実が思い通りにならなくて大変だったな」
『その言い方、同情心がひとかけらもないね』
「今日一日、お前のせいで何回死にかけたかわからない俺が、まだこうして会話してやってるだけでも十分優しいだろ」
『でも最後に泣いてるのは僕だよ?』
「たまにはお前の番でもいいだろ」
『君、本当に性格悪くなったね、涼太』
「反撃を覚えただけだ」
そんなことを言いながら、涼太は見覚えのある交差点まで歩いてきた。
朝、妹と別れた場所だ。
片方は涼太の高校へ続く道。
もう片方は、妹の学校へ向かう道。
涼太はすぐに家へは向かわなかった。
道端のガードレールにもたれ、信号をちらりと見上げる。
『どうして止まるの?』
作者が尋ねた。
「人を待ってる」
『誰?』
「妹」
『ああ』
作者の声が少しだけ止まった。
『朝別れた、あの小さい子?』
「変な呼び方するな」
『じゃあ何て呼べばいいの?』
「妹」
『普通だね』
「普通でいいんだよ」
涼太は鞄の肩紐を少し引き上げ、もう一方の道へ視線を向けた。
そちらから、何人かの生徒がぽつぽつと歩いてくる。
年下らしい子もいれば、違う制服を着た生徒もいた。皆、放課後特有の疲れと気の抜けた雰囲気をまとっている。
『普段から一緒に帰ってるの?』
「いつもじゃない」
涼太は言った。
「ただ、今日は始業日だから」
『だから待ってるんだ?』
「うん」
その返事は、あまりにも自然だった。
特に照れるわけでもなく、慌てて否定するわけでもない。
それが当たり前のことみたいに。
作者は珍しく、少しだけ黙った。
『そっか』
「なんだよ」
『いや。ただ、君もちゃんとお兄ちゃんなんだなって』
「元から兄だよ」
『普段はあんまりそう見えないけどね』
「お前、本当に人を慰めるの下手だな」
『褒めてるんだけど』
「その褒め方がかなり問題なんだよ」
涼太はため息をついた。
そして遠くを見る。
しばらくすると、人混みの奥に見慣れた姿が見えた。
妹が鞄を背負って、ゆっくり歩いてくる。
彼女も涼太に気づいたらしく、少し足を止めた。
それから、小走りで涼太の前までやってきた。
「お兄ちゃん?」
涼太は姿勢を正した。
「おう」
妹は涼太を見て、それから彼の後ろの道を見た。
「待っててくれたの?」
「うん」
「今日はどうしたの? やけに優しいじゃん」
「どういう意味だよ」
妹はぱちぱちと瞬きをした。
何か言おうとしたようだったが、最後には小さく笑っただけだった。
「なんでもない」
彼女は涼太の隣に立ち、二人で赤信号の前に並んだ。
通りの向こうから風が吹いてきて、少しだけ夕方の涼しさを運んでくる。
二人はすぐには話さなかった。
信号が青に変わると、涼太が先に一歩踏み出した。
妹もその隣を歩く。
二人は横断歩道を渡り、家の方へゆっくりと歩いていった。
「高校初日、どうだった?」
妹が聞いた。
「疲れた」
涼太はすぐに答えた。
「もう疲れたの?」
「高校生活、想像より怖い」
妹は彼をちらりと見た。
「また何か変なことしたの?」
涼太は少し黙った。
「……してない」
妹は数秒、じっと彼を見た。
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって何?」
「世の中には、自分ではどうにもできないことがあるって意味」
妹はよくわからなさそうだったが、それ以上は聞かなかった。
ただ鞄の肩紐を直し、涼太の隣をゆっくり歩き続けた。
道沿いの店に明かりがつき始める。
コンビニの自動ドアが開いたり閉じたりして、聞き慣れた電子音が漏れてくる。遠くでは自転車のベルが鳴り、小学生たちが二人の横を走っていった。
妹が空を見上げた。
「私も今日、ちょっと疲れた」
涼太は妹を見た。
「そっちも始業式?」
「うん。先生の話、すごく長かった」
「聞いてたのか?」
「ちょっとだけ」
「ちょっと?」
妹は指でほんの少しの幅を作った。
「これくらい」
涼太は思わず笑った。
「それ、ほとんど聞いてないだろ」
「お兄ちゃんだって、絶対ちゃんと聞いてなかったでしょ」
涼太の笑顔が止まった。
「……なんでわかるんだよ」
妹は当たり前のような顔で彼を見た。
「お兄ちゃんだから」
「どういう理由だよ」
「すごく当たる理由」
涼太は反論しようとした。
けれど、よく考えれば、自分も今日の入学式の内容をほとんど覚えていない。
だから、口を閉じた。
妹は、いつものようにそこを大げさに笑ったりはしなかった。
ただ小さく鼻を鳴らして、少し得意げに歩き続ける。
二人の影が、夕陽に長く伸びた。
涼太は隣を歩く妹の姿を見て、今日起こったいろいろなことが少し遠くなったような気がした。
青山千夏の視線。
早川明日奈の微笑み。
作者の声。
超常現象研究部の紹介用紙。
それらはまだ、彼の鞄の中に、頭の中に、胸のどこかに残っている。
けれど今は、ただ妹と一緒に家へ帰る道を歩いているだけだった。
普通だった。
普通で、少し安心する。
「お兄ちゃん」
妹がふいに口を開いた。
「なんだよ」
「明日も学校でしょ?」
「当たり前だろ」
「じゃあ、明日の朝寝坊しないでね」
「しないって」
妹は彼を見た。
その目には、はっきりと信じていないと書いてあった。
涼太は眉をひそめる。
「その目は何だ」
「普通の目」
「今、絶対疑ってただろ」
「疑ってないよ」
「疑ってた」
妹は笑った。
人を困らせようとする笑いではない。
兄のことがわかりやすくて、少しうれしいだけの笑顔だった。
涼太は彼女を見て、最後にはため息をつくしかなかった。
「もういい」
彼は前を向き直した。
「明日の朝、俺が起こしてやるよ」
妹は少し驚いたように目を瞬いた。
「私、子どもじゃないんだけど」
「朝、よく布団から出ないだろ」
「それは布団が気持ちよすぎるから」
「理由がひどいな」
「お兄ちゃんも同じでしょ」
「俺は違う」
「違わない」
今度は涼太が黙る番だった。
兄妹はゆっくりと角を曲がった。
家のある通りが見えてくる。
夕陽が屋根に落ち、窓が柔らかい光を反射していた。
妹の歩幅は、朝よりも少しだけ遅い。
涼太も急かさなかった。
二人はそのまま、ゆっくり歩いた。
まるで、誰も次の場面へ急いでいないみたいに。
まるで、今日起こったすべてのことを、一度鞄の中にしまって、家に帰ってからゆっくり考えればいいみたいに。
涼太にとって、この帰り道こそが、高校生活初日の中で一番日常らしい時間だったのかもしれない。
「やっと家に着いた~」
妹が玄関の扉を開ける。声には、放課後の疲れが少し混じっていた。
「ただいま」
涼太も続けて言う。
台所から水の音が聞こえた。
次の瞬間、母が台所から玄関へ顔を出した。手には布巾を持っている。
「おかえり。早く手を洗ってきなさい。もうすぐご飯よ」
「はーい、お母さん」
「わかった」
妹と涼太の声が、ほとんど同時に重なった。
二人は顔を見合わせる。
先に妹が笑った。
涼太も思わず視線をそらし、口元を少しだけ動かした。
『いい家族だね~』
作者の声が、そのときになってようやく戻ってきた。
涼太は靴を脱ぎながら、小さく言った。
「普通だろ。お前が自分で書いた、普通の家族じゃないか」
『そうだね』
作者の声が、珍しく少し柔らかくなった。
『普通で、きれいだ』
涼太の手が止まった。
彼は台所の方を見上げる。
母が夕飯を食卓へ運んでおり、妹は鞄を置いて手を洗いに行っていた。
玄関には、まだ少しだけ夕方の光が残っていた。
「なんだよ」
涼太は小さく言った。
「急にしんみりして」
『誰がしんみりしてるって?』
作者はすぐに言い返した。
『早く手を洗ってご飯食べなさい!』
「はいはい」
涼太はため息をついたが、本気で怒ってはいなかった。
彼は靴をそろえ、家の中へ入っていく。
今日起こったことは、まだ何一つ整理できていない。
明日奈のこと。
青山千夏のこと。
超常現象研究部のこと。
そして、いつも騒がしい作者のこと。
それでも、少なくとも今、彼は家に帰ってきた。
夕飯の匂いが、食卓の方からゆっくり流れてきていた。
涼太が手を洗って食卓に戻ると、夕飯はほとんど並び終わっていた。
白いご飯。
味噌汁。
焼き魚。
それから、千切りのキャベツ。
茶碗から立ちのぼる湯気が、普通の夕飯の匂いを運んでくる。
普通で、安心する匂いだった。
「小春、お箸持ってきてくれる?」
母が味噌汁を置きながら、自然に言った。
妹はすぐに返事をする。
「はーい」
涼太は椅子に座ろうとして、動きを止めた。
「……小春?」
妹は箸を持ってこちらへ来ると、不思議そうに彼を見た。
「なに?」
涼太はゆっくりと空中へ視線を向けた。
「作者」
『ん?』
「こいつ、小春って名前なのか?」
『そうだよ』
「今思いついただろ」
『……』
作者は黙った。
涼太の目が、とても冷たくなった。
「絶対今思いついたよな」
『相原小春』
作者は無理やり厳かな声で言った。
『涼太の妹。明るくて、たまに少し意地悪だけど、本当は兄のことを気にかけている』
「設定紹介で、今名前を足した事実をごまかすな」
『名前は大事だからね。ふさわしいタイミングで出すものなんだよ』
「ただ忘れてただけだろ」
『忘れてたんじゃない。発表を後回しにしていただけだ』
「思いついてなかったことを、やたら高級に言うな」
妹は眉をひそめる。
「お兄ちゃん?」
涼太はすぐに姿勢を正した。
「なんでもない」
「また斜め上見てたよ」
「人生について考えてた」
「お兄ちゃんの人生って忙しそうだね」
妹は箸を食卓に置き、涼太の向かいに座った。
母もちょうど席に着く。
彼女はエプロンを少し整え、穏やかに笑った。
「さあ、先に食べましょう。今日は学校初日で疲れたでしょう?」
涼太は箸を取ろうとして、また止まった。
彼は母を見る。
「……お母さん」
「どうしたの?」
『あ、そうだ』
作者が何かを思い出したように言った。
『お母さんの名前もそろそろ出さないとね』
涼太の指に力が入った。
「本当に度胸あるな、お前」
『相原美咲』
作者は涼太の怒りを無視して続けた。
『涼太と小春の母親。優しくて、頼りになって、料理が得意。普段はとても普通に見えるけれど、この家の空気の多くは彼女が支えている』
「今さら真面目にキャラ設定してますみたいな顔するな」
『僕は最初から真面目だよ』
「名前、今思いついたくせに」
『真面目に今思いついたんだ』
「その言い方でもよくならないからな」
母、つまり相原美咲は、涼太がなかなか箸を取らないのを見て、少し首を傾げた。
「涼太?」
「あ、なんでもない」
涼太は慌ててうつむいた。
「今日の夕飯、おいしそうだなって思っただけ」
美咲は笑った。
「それなら、たくさん食べなさい」
「うん」
「いただきます」
「いただきまーす」
「いただきます」
三人の声が、食卓で重なった。
涼太は焼き魚を箸で取り、口に運ぶ。
味はとても普通だった。
高級料理でもないし、感動して涙が出るほど大げさなものでもない。
けれど、温かい。
塩加減もちょうどいい。
ご飯と一緒に食べると、体の力が少しずつ抜けていった。
『普通で、きれいだ』
作者が小さく言った。
このとき、涼太はすぐにはツッコまなかった。
ただ、うつむいてご飯を一口食べた。
小春が味噌汁を一口飲み、それから涼太を見上げる。
「お兄ちゃん、高校で友達できた?」
涼太は危うくご飯をのどに詰まらせかけた。
「げほっ」
美咲がすぐに彼を見る。
「ゆっくり食べなさい」
「うん」
涼太は水を飲んでから答えた。
「まあ、一応」
小春の目が少し明るくなる。
「本当に?」
「その反応は何だよ」
「いや、初日から友達できるなんて、お兄ちゃんすごいなって」
「俺が友達できないと思ってただろ」
小春はすぐには答えなかった。
彼女はうつむいてご飯を一口食べる。
「言ってないよ」
「その沈黙がもう言ってる」
美咲が隣で小さく笑った。
「どんなお友達なの?」
涼太は少し考えた。
高橋蓮の顔が頭に浮かぶ。
普通で安心できて、そしていつも正確に追い打ちをかけてくる同級生。
「すごく普通の人」
小春は瞬きをした。
「それ、褒めてるの?」
「俺にとっては褒め言葉だ」
『確かに』
作者が横から同意した。
『君の周りだと、普通の人は希少資源だからね』
「黙れ」
小春がすぐに顔を上げる。
「お兄ちゃん?」
「なんでもない」
涼太は黙ってキャベツの千切りを箸でつまんだ。
「今、心の中の自分に黙れって言っただけ」
小春は数秒、彼を見つめる。
「お兄ちゃん、今日は本当に疲れてるんだね」
「そう理解してくれるなら助かる」
美咲は焼き魚の皿を少し涼太の方へ寄せた。
「初日は疲れるものよ。新しい教室、新しい先生、新しい同級生。慣れるだけでも大変なんだから」
涼太は皿の上の焼き魚を見つめ、箸を持つ手を止めた。
「うん」
小さく返事をする。
「確かに……新しいものがたくさんあった」
新しい教室。
高橋蓮。
青山千夏。
早川明日奈。
超常現象研究部。
そして、今、鞄の中に入っているあの部活紹介の紙。
そう考えたとき、涼太の視線は自然と玄関脇の鞄の方へ流れた。
小春はそれに気づいた。
「お兄ちゃん、鞄の中に何かあるの?」
「ない」
「今見た」
「鞄がちゃんとそこにあるか確認しただけ」
「鞄は勝手に逃げないでしょ」
『逃げるものもあるかもしれないよ』
作者が小さく言った。
「伏線みたいなこと言うな」
涼太はすぐに言い返した。
小春と美咲が同時に彼を見る。
食卓が一秒だけ静かになった。
涼太は固まった。
「……鞄は逃げないと思うって言ったんだ」
小春はしばらく彼を見つめてから、最後にはため息をついた。
「お兄ちゃんって、本当に変な友達ができそう」
「なんでだよ」
「お兄ちゃん自身が変だから」
「それは言わなくていい」
小春は笑った。
嘲笑ではない。
やっぱりお兄ちゃんはお兄ちゃんだ、と思っているような笑顔だった。
美咲は兄妹のやり取りを見つめ、表情を少し柔らかくした。
「でも、お友達ができたならよかったわ」
彼女は言った。
「普通のお友達でも、少し変わったお友達でも、一緒にいてあなたが傷つかない相手なら、それでいいの」
涼太はすぐには答えなかった。
彼は茶碗の中のご飯を見下ろす。
なぜか、その言葉で早川明日奈のことを思い出した。
彼女は、彼に選択肢を残してくれた。
自己紹介のあと、軽くうなずいてくれた。
それは別に、大げさな出来事ではない。
けれど涼太にとっては、ずっと心に残っていた。
『涼太』
作者の声がふいに響いた。
今回は笑っていなかった。
すぐにからかうような調子でもなかった。
『今、誰のことを考えた?』
涼太の箸が宙で止まる。
「……別に」
『本当に?』
「食事中にそういうこと聞くなよ」
『そっか』
作者の声が少しだけ止まった。
『じゃあ、食べ終わってから聞くね』
涼太は、急に嫌な予感がした。
小春が彼の硬い表情を見て、不思議そうに尋ねる。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「なんでもない」
涼太は魚を口に入れた。
「ただ……今日はまだ終わってない気がしただけ」
美咲は笑って言った。
「ご飯を食べて、お風呂に入って、ゆっくり休めば、今日は終わりよ」
涼太は母の言葉を信じたかった。
本当に信じたかった。
けれど、耳元で静かになった作者の声の方が、かえって不安だった。
これまでの経験上、作者が静かなときは、だいたい物事が終わったときではない。
もっと面倒な質問を用意しているときだ。
『安心して』
作者が小さく言った。
『今回は君を困らせるためじゃないよ』
涼太は何も答えなかった。
ただ黙ってご飯をかき込む。
食卓の明かりは温かい。
母の声は優しい。
妹は向かい側で、味噌汁を少しずつ飲んでいる。
すべてが普通だった。
普通すぎて、少し壊すのが惜しくなるくらいに。
けれど涼太は知っていた。
夕飯が終われば、いくつかの問いが自分を待っている。
たとえば。
どうして自分は、あんなにも早川明日奈のことが気になるのか。
夕飯が終わると、涼太は自分の茶碗と箸を流し台まで持っていった。
「置いておいていいわよ。あとで洗うから」
美咲が横から言った。
「大丈夫。ただ持ってきただけだから」
涼太は茶碗を流し台に置いた。
小春も自分の茶碗を持ってきた。
「お兄ちゃん、今日は勤勉だね」
「茶碗を持ってきただけで、模範児童みたいに言うな」
「でも珍しいし」
「それはそれで傷つくな」
小春は笑って、それ以上は追撃しなかった。
茶碗を置くと、彼女は大きく伸びをした。
「私、先にお風呂入るね」
「おう」
「冷蔵庫のプリン、勝手に食べないでよ」
「食べないって」
小春は入口まで行くと、ふいに振り返った。
「前もそう言ってた」
「前のは事故だ」
「プリンは勝手に消えないよ」
「知ってる」
小春は数秒、彼を見つめたあと、小さく鼻を鳴らした。
「食べるなら自分のにしてね」
「わかってるって」
美咲が隣で困ったように笑った。
「はいはい、二人ともそのくらいにしなさい。涼太、今日は疲れたでしょう? 早めに休みなさいね」
「うん」
涼太はうなずいた。
本当は、まだ考えなければならないことがたくさんある気がしていた。
けれど、最後まで口にはしなかった。
彼はただ鞄を持ち、食卓を離れて階段へ向かった。
階段を踏むたび、木が小さく音を立てる。
家の音が、少しずつ背後へ遠ざかっていく。
台所の水音。
小春が浴室前でタオルを探している音。
母が食卓を片づけるときの、食器の小さな音。
それらが混ざり合って、涼太に安心感を与えた。
『本当に普通だね』
作者の声が耳元に響く。
「また普通で美しいとか言うつもりか?」
『先に取られた』
「さっき自分で言っただろ」
『じゃあ、別の言い方にしよう』
作者は少し止まった。
『ちゃんと、家って感じがする』
涼太の足が、階段の途中で少しだけ遅くなった。
「……家だろ」
『うん』
作者の声は珍しく静かだった。
『だから、そう言ったんだよ』
涼太は答えなかった。
そのまま階段を上っていく。
二階に着くと、自分の部屋の扉を開けた。
部屋には明かりがついていない。
カーテンは半分閉じていて、外の空はもう暗くなりかけていた。窓辺には、夕方の最後の光が少しだけ残っている。
涼太は手を伸ばし、照明のスイッチを押した。
ぱちん。
白い明かりが灯る。
見慣れた部屋が目の前に現れた。
ベッド。
机。
クローゼット。
床には、まだ片づけていない本が数冊置かれている。
「……俺の部屋も、本当に普通だな」
『君にぴったりだね』
「今、けなした?」
『違うよ。君の部屋の個性を尊重したんだ』
「全然褒めてるように聞こえない」
涼太は机の横に鞄を置き、力が抜けたように椅子へ座った。
その瞬間になって、ようやく今日が本当に終わった気がした。
入学式。
自己紹介。
明日奈。
青山千夏。
超常現象研究部。
それらの場面が、ひとつずつ頭に浮かんでは、いったん押し込められていく。
「今日……本当に長かった」
『初日だからね』
作者は言った。
『主人公の初日って、だいたい楽じゃないんだよ』
「そんな残酷なことを当然みたいに言うな」
涼太は椅子にもたれ、窓辺へ視線を向けた。
そして、少し眉をひそめる。
窓辺の小さな隅に、あの粘土の小さな怪物の置物が置かれていた。
カーテンの隙間から差し込む光が、ちょうどその上に落ちている。
「……変だな」
『どうしたの?』
「あの置物、もともとあそこにあったっけ?」
『置物?』
作者の声には少し疑問が混じっていた。
涼太は立ち上がり、窓辺へ向かった。
彼はその小さな粘土の怪物を見下ろす。
丸い体。
少し間の抜けた顔。
見た目は、ただの小さな置物だ。
けれど涼太は、どうしても位置が朝と違う気がした。
「机の上にあった気がするんだけど」
『君の部屋、こんなものまであったんだね』
「俺もいつからあるのか知らない」
『それ、もっと変じゃない?』
「お前が書いたんじゃないのか?」
『書いてないよ』
「また知らないのかよ」
『そういう知らないじゃない』
作者は少し間を置いた。
『本当に記憶にない』
涼太はその小さな置物を見つめた。
光の角度のせいか、その顔が少し笑っているように見える。
とても小さく。
とてもわかりにくく。
けれど、確かに少し得意げに。
「……まあいいか」
涼太は手を伸ばし、その置物の頭を軽くつついた。
「たぶん小春が勝手に動かしたんだろ」
小さな置物は何の反応もしない。
涼太も深く考えなかった。
彼は机へ戻り、鞄を開ける。
資料を一枚ずつ取り出した。
緊急連絡票。
保護者の署名欄がある紙。
年間行事予定表。
そして最後に、青山千夏が青いボールペンで丸をつけた部活紹介の紙。
【超常現象研究部】
涼太はその文字を見つめ、黙り込んだ。
部屋が静かになる。
階下からは、母が食器を片づける音がかすかに聞こえた。
浴室の方からは、小春が鼻歌を歌っている声もする。
すべてはいつも通りだった。
けれど手元の一枚の紙が、そのいつも通りに小さなひびを入れている。
『涼太』
作者の声が響いた。
今回は泣いていなかった。
先輩が見たいと騒いでもいなかった。
いつもより少しだけ静かな声だった。
『そろそろ、話してもいい?』
涼太は机の上の資料を見下ろした。
「何を?」
作者はすぐには答えなかった。
けれど、涼太はなんとなくわかっていた。
青山千夏のことではない。
超常現象研究部のことでもない。
窓辺に置かれた、なぜか作者も知らない小さな置物のことでもない。
早川明日奈のことだ。
涼太はゆっくりと椅子に座り直した。
「……何が聞きたいんだよ」
部屋の照明は静かに灯っている。
窓辺の小さな置物も、静かにそこにあった。
そして作者の声は、この普通の夜には珍しく、笑っていなかった。
『どうして、そんなに彼女のことが気になるの?』
「誰? 誰のことが気になるって?」
『とぼけても無駄だよ』
作者の声は落ち着いていた。
『早川明日奈』
涼太の肩がわずかに固まる。
「俺は別に気にしてない」
『そう?』
作者は少し間を置いた。
『じゃあ、今後は特別に君たちを会わせる場面を作らなくてもいいね』
「えっ!」
涼太はほとんど反射的に顔を上げた。
「なんでそうなるんだよ? 彼女、女主角じゃないのか?」
部屋がふいに静まり返った。
窓辺の小さな置物も動かない。
机の上の部活紹介の紙も、静かにそこにある。
そして作者は、今回はすぐに笑わなかった。
『涼太』
作者の声は、いつもより少し低かった。
『僕は一度も、彼女が女主角だなんて言ってないよ』
「……どういう意味だよ?」
涼太は眉をひそめた。
「恋愛物語って、男主人公と女主角がいるものじゃないのか?」
『普通の物語なら、そうかもしれない』
作者は言った。
『でも、僕たちの物語は少し違う』
「どこが違うんだよ」
『君は僕の存在を知っている』
作者はゆっくりと言う。
『そして、自分が物語の中の人間だということも知っている』
涼太は反論しなかった。
それは事実だったからだ。
『だから、もし僕が勝手に誰かの女の子を女主角に指定して、当然のように君を好きになるようにしたら、それは恋愛じゃない』
「恋愛じゃない?」
『それは、作者が主人公に与える景品だ』
涼太の表情が固まった。
作者は彼を責めなかった。
声にも、いつものようなからかう響きはない。
ただ静かだった。
そして、とても真剣だった。
『早川明日奈でも、青山千夏でも、これから君が出会う誰かでも、その人たちは君の恋を完成させるために存在しているわけじゃない』
「……」
『彼女たちは景品じゃない』
作者は言った。
『人間だよ』
涼太は机の上の資料へ視線を落とした。
丸で囲まれた【超常現象研究部】の文字が、なぜか少しぼやけて見えた。
『僕は君たちを出会わせることはできる』
作者は続ける。
『同じクラスにすることもできる。近い席にすることもできる。放課後のどこかで、同じ道を歩かせることだってできる』
「それって、すごいことじゃないか」
『そうだね』
作者は否定しなかった。
『でも、それは出会いでしかない』
涼太は顔を上げる。
『彼女が君を見るかどうか』
作者は言った。
『君を知りたいと思うかどうか』
『君を好きになるかどうか』
『そういうことは、僕が君の代わりに決められることじゃない』
部屋が静かになった。
涼太は口を開きかけたが、すぐには言葉が出なかった。
彼は、早川明日奈が女主角なのだと思っていた。
だから、自分の近くに現れるのだと思っていた。
だから、自分と物語があるのだと思っていた。
作者さえその気になれば、二人はきっとどんどん近づいていくのだと思っていた。
けれど今、作者本人がそれを否定した。
「じゃあ、俺は……」
涼太の声は、自分で思ったよりも小さかった。
「俺はどうすればいいんだよ」
『彼女を知ればいい』
作者の答えは、とても簡単だった。
『女主角としてじゃなくて』
『早川明日奈として』
涼太は固まった。
その名前が、部屋の中にそっと落ちた。
早川明日奈。
女主角ではない。
作者が自分のために用意した恋愛相手ではない。
今日の朝、教室に入ってきて、椅子をしまい忘れていると教えてくれて、自己紹介のあとに軽くうなずいてくれた女の子。
「……だから聞いたのか」
『うん』
作者の声が少し柔らかくなる。
『だから聞いたんだ』
『君は、どうしてそんなに彼女のことが気になるの?』
涼太は机の上の部活紹介の紙を見下ろした。
早川明日奈の名前は、その紙には書かれていない。
けれど彼女の姿は、そこに印刷された文字よりもはっきりと、彼の頭の中に残っていた。
椅子をしまい忘れていると教えてくれた声。
自己紹介のあと、軽くうなずいてくれた姿。
青山千夏の隣に立ち、彼に選択肢を残してくれたときの口調。
どれも、大したことではない。
それなのに、なぜか忘れられなかった。
「わからない……」
涼太は小さく言った。
今回は、強がらなかった。
すぐに否定もしなかった。
「本当に、わからない」
『大丈夫』
作者は言った。
その声に笑いはなかった。
『それが普通だよ。最初から理由がわかることばかりじゃない』
涼太は黙っていた。
『どうして誰かのことが気になるのか』
『どうして、またその人と話したいと思うのか』
『どうして、その人に少し見られただけで、胸の中が少し騒がしくなるのか』
作者は少しだけ止まった。
『そういうことは、すぐに言葉にできるものじゃないんだよ』
涼太は手にした紙をゆっくり握りしめた。
「じゃあ、俺はどうすればいい?」
『急いで僕に答えを言わなくていい』
作者は言った。
『誰が君の心の中の女主角なのか、急いで決めなくていい』
『ただ、ゆっくり彼女を見ればいい』
『ゆっくり彼女を知ればいい』
『そして、どうして自分が彼女のことを気にしているのか、ゆっくりわかっていけばいい』
部屋の中が、しばらく静かになった。
窓辺の小さな置物は、静かにそこにある。
階下からは、美咲が食器を片づける音が聞こえてきた。
浴室の方からは、小春の鼻歌も聞こえる。
どれも、とても普通の音だった。
けれどこの普通の夜の中で、何かがひっそりと変わり始めている気がした。
『だからさ、涼太』
作者の声が、また少しだけ柔らかくなった。
『僕たちは、ゆっくりやっていこう』
涼太は顔を上げた。
「……今日はずいぶん普通の作者みたいだな」
『おい』
作者はすぐに不満そうな声を出した。
『僕はもともと普通の作者だよ』
「普通の作者は、禿げた筋肉男に主人公を廊下で運ばせたりしない」
『あれは必要な演出だったんだよ』
「どこが必要だったんだよ」
『とにかく!』
作者は、さっきの真面目な雰囲気をごまかすように咳払いした。
『恋愛なんて、急いだって仕方ないんだ』
『どうせ君は急いでも自爆するだけだし』
「最後の一言はいらなかった」
『でも真実だから』
涼太はため息をついた。
けれど今回は、本気で怒ってはいなかった。
『それじゃあ、今日はここまでにしようか』
作者の声が、ふいに軽くなった。
『珍しく少ししんみりしたし、読者もそろそろ慣れなくなってきた頃だろうしね』
「自覚はあるんだな」
『でも、たまにはこういうのも悪くないでしょ?』
涼太はすぐには答えなかった。
彼は机の上の部活紹介の紙を見つめ、それから窓辺の静かな小さな置物へ目を向けた。
部屋の明かりは普通だった。
階下の音も普通だった。
けれど今日、何かが本当に始まったような気がした。
「……まあな」
『というわけで、読者の皆さん』
作者はふと思い出したように、少しだけ改まった声になった。
『恋愛っていうものは、急いで答えを見つけなくてもいいものです』
『自分の人生の女主角や、男主人公を急いで決めなくてもいい』
『ゆっくり知って、ゆっくり近づいて、ゆっくり自分の気持ちを確かめればいい』
『それから、好きという気持ちを理由に、誰かを傷つけたり、自分を傷つけたりしないように』
涼太は顔を上げた。
「今日、本当に普通の作者みたいだな」
『うるさいな。僕だってたまには真面目なことを言うんだよ』
「本当にたまにだけどな」
『とにかく!』
作者は照れ隠しのように、わざと声を大きくした。
『今夜はここまで』
『おやすみなさい。皆さんを気にかけている作者と、今日は自爆に成功しなかった涼太でした』
「勝手に俺を署名に入れるな」
『君は主人公なんだから逃げられないよ』
「こういうときだけ主人公扱いかよ」
涼太はため息をついた。
そして、ふと何かを思い出したように顔を上げる。
「そういえば……父さんの名前は?」
部屋の中が静かになった。
窓辺の小さな置物も静かだった。
作者は答えない。
「作者?」
声はない。
「おい、作者?」
やはり声はない。
涼太は誰もいない部屋を見つめ、目つきをだんだん冷たくしていった。
「逃げたな」
答えは返ってこなかった。
作者は、すでに逃げていたからだ。
そして父親の名前は、いまだ未定事項のままだった。




