↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
11/26

小劇場 ネバネバ、はじめての家探検

小劇場 ネバネバ、はじめての家探検


『はろー、みんな~。今度はネバネバのお話だよ~。ねば~』


涼太の勉強机の上に置かれていた粘土の小さな怪物が、ゆっくりと体を揺らした。


さっきまで、それはただの小さな置き物にしか見えなかった。


けれど部屋の中に誰もいないことを確認すると、丸い体がふにゃりと柔らかくなり、溶けた餅みたいに机の上からずるりと滑り落ちた。


ぺちゃ。


ネバネバは床に落ちた。


『いたい』


二秒ほど沈黙した。


『違った。ネバネバは粘土だから、たぶん痛くない』


さらに一秒、沈黙した。


『でも、痛い気がする。ねば』


ネバネバは顔を上げ、涼太の部屋を見回した。


ベッド。


勉強机。


椅子。


クローゼット。


床に置かれた通学かばん。


壁際には、完全には閉まっていない引き出しもある。


『今日は作者もいないし、涼太もいない』


『だからネバネバは――』


ネバネバは一生懸命、体を起こした。


胸なんてないのに、なぜか胸を張っているように見える。


『家の中を大探検することにしたのだ!』


ネバネバはゆっくり前へ進み始めた。


その動き方は少し変だった。


歩いているわけでも、跳ねているわけでもない。


まるで、ものすごく志の高い年糕が、自分の体を一生懸命押し出しているみたいだった。


『まずは、涼太のかばん』


ネバネバは通学かばんのそばまで進んだ。


かばんはネバネバよりずっと大きい。


ネバネバの目線から見ると、それはほとんど黒い山脈だった。


『高い』


ネバネバは見上げた。


『人間は毎日、こんなものを背負って学校へ行くんだね。大変だ』


少し考えてから、さらに付け加える。


『だから涼太はいつも疲れてるみたいな顔をしてるんだ』


ネバネバは小さな手を伸ばし、かばんのファスナーをつかんだ。


引っ張る。


動かない。


もう一度引っ張る。


やっぱり動かない。


ネバネバの体は勢いよく後ろへ倒れ、危うく薄い粘土のせんべいみたいになるところだった。


『……』


『今日は、この山の探検はやめておこう』


ごく自然に諦めた。


次に、ネバネバはベッドの下を見た。


そこは、いつもネバネバが隠れている場所だった。


暗くて。


静かで。


少しだけ埃っぽい。


『ベッドの下は安全』


ネバネバは小声で言った。


『でも、ときどき変なものがある』


ベッドの奥をのぞき込む。


中には古いスリッパが片方、いつの間にか転がり込んだ消しゴム、そしてくしゃくしゃになった紙があった。


ネバネバはゆっくり近づき、その紙を引っ張り出した。


紙にはこう書いてあった。


【明日は絶対早起きする】


ネバネバはその文字をじっと見つめた。


『この字は、涼太の字だ』


さらに紙の端に書かれた日付を見る。


『三年前のだ』


ネバネバは沈黙した。


『人間って、決意に満ちていて、失敗にも満ちている生き物なんだね。ねば』


ネバネバはその紙をもう一度ベッドの下へ押し戻した。


黒歴史というものは、暗い場所に置いておくほうがいい。


次に、ネバネバはクローゼットへ向かった。


クローゼットの扉は少し開いていて、細い隙間ができていた。


ネバネバは体をぺたんこにして、その隙間から中へ入り込む。


中には涼太の服が掛かっていた。


制服。


上着。


そして、これ以上ないほど普通のシャツが数枚。


『普通だ』


ネバネバはそれらの服を見上げた。


『さすが涼太。クローゼットまで主人公っぽい』


少し考える。


『違う。主人公のクローゼットなら、もっと個性があるはず』


さらに考える。


『つまり、これはとても涼太っぽい』


クローゼットの奥には、マフラーが一枚落ちていた。


ネバネバはそこまで進み、マフラーの中へ潜り込む。


柔らかい布が、小さな体をすっぽり包んだ。


『わあ』


『ここ、すごく気持ちいい』


ネバネバはマフラーの中で一回転した。


もう一回転した。


三回目で、ぴたりと止まった。


『だめだ』


『このままだと、ネバネバは怠けネバになってしまう』


ネバネバは必死にマフラーから這い出した。


そのときだった。


部屋の外から足音が聞こえた。


ネバネバの体が固まる。


『まずい』


足音はどんどん近づいてくる。


そして、ドアノブが回る音がした。


『まずいまずいまずい』


ネバネバは慌ててクローゼットから這い出した。


机の上へ戻ろうとした。


でも遠すぎる。


ベッドの下にも間に合わない。


もうドアが開いてしまった。


涼太の妹が、部屋の中をのぞき込んだ。


「お兄ちゃん?」


部屋から返事はない。


妹はまばたきをした。


「いないんだ」


ネバネバは床にへばりついたまま、一歩も動けなかった。


今いる場所は最悪だった。


クローゼットと勉強机のちょうど真ん中。


妹が少しでも下を向けば、床に転がる怪しい小さな粘土を見つけてしまう。


『終わった』


ネバネバは心の中で声にならない悲鳴を上げた。


妹は部屋に入ってきた。


どうやら何かを探しているらしい。


彼女は机の前まで行き、上を見た。


「あれ? 前にあった小さい置き物、どこだっけ?」


ネバネバの体がさらに固まった。


『覚えてる』


『この子、ネバネバのこと覚えてるううう』


妹は机の上の本を少し動かし、それから床を見た。


ネバネバは反射的に目を閉じた。


目を閉じても透明になるわけではない。


これは非常にひどい生存戦略だった。


けれどネバネバには、それ以上いい方法がなかった。


妹の視線が床をなぞる。


そして止まった。


「……」


見つかった。


ネバネバは動かなかった。


妹はしゃがみ込み、ネバネバをそっと拾い上げた。


ネバネバは必死に体を固くした。


本物の粘土の小さな置き物になりきる。


妹はそれを手のひらに乗せ、左右から眺めた。


「こんなところに落ちてたんだ」


『……』


ネバネバは息を止めた。


そもそも息をする必要はないけれど。


妹はネバネバを見て、ふっと笑った。


「けっこう可愛いじゃん」


ネバネバの心が、小さく跳ねた。


『可愛い』


『可愛いって言った』


妹はネバネバを元の机の隅には戻さなかった。


彼女は窓辺へ顔を向けた。


午後の日差しがカーテンの隙間から部屋に入り込み、窓際の小さな場所を照らしていた。


そこは明るすぎるわけではない。


熱すぎるわけでもない。


ただ、ほんの少しだけあたたかい光が落ちている場所だった。


妹はまばたきをした。


それから、何か悪いことを思いついたみたいに、口元をゆっくり上げた。


「お兄ちゃんなら、気づかないよね」


『……?』


ネバネバは急に嫌な予感がした。


妹は、いたずらが成功したときのような笑みを浮かべながら、ネバネバを窓際の光がそっと当たる場所に置いた。


「うん。こっちのほうが可愛い」


彼女は一歩下がり、窓辺の小さな粘土の怪物を眺めた。


陽の光が、ネバネバの体に落ちる。


あたたかい。


やわらかい。


小さな体の中へ、何かがゆっくり染み込んでくるみたいだった。


固まっていたネバネバの体が、危うく気持ちよさでふにゃりと緩みかける。


『……』


『太陽』


ネバネバは初めて知った。


太陽の光が体に当たるというのは、こういう感じなのだと。


まぶしすぎない。


うるさくない。


作者みたいに急に変なこともしない。


ただ静かに、あたたかく、自分を包んでくれる。


『ネバネバ……ここ、好き』


妹は、手の中にいた小さな置き物が心の中で感動していることなど、まったく知らない。


ただ自分のしたことに満足したように、少し意地悪そうな笑みを浮かべていた。


「お兄ちゃんの部屋にも、たまには可愛いものがあったほうがいいよね」


彼女は指先で、ネバネバの頭を軽くつついた。


「今日から、ここにいなさい」


『……!』


ネバネバは必死に動かないようにした。


けれど心の中では、もう小さく揺れていた。


『今日から、って言った』


『ネバネバに、新しい場所ができた』


妹はもう一度ネバネバを見た。


その笑顔は、いつも涼太にいたずらするときほど強いものではなかった。


けれど確かに、少しだけ悪いことに成功したような得意げな表情だった。


「お兄ちゃんに聞かれたら、自分で置いたんでしょって言えばいいか」


彼女は自分の計画に満足したように、うなずいた。


「どうせお兄ちゃん、ちょっと抜けてるし。信じるでしょ」


『涼太……妹に見抜かれてる』


妹は部屋を出ていった。


ドアが閉まる。


部屋は再び静かになった。


しばらくして、窓辺の小さな粘土の怪物は、ゆっくりと力を抜いた。


陽の光はまだ、やわらかく体に降り注いでいる。


ネバネバはすぐには動かなかった。


ただ、そこにいた。


妹が選んでくれた場所に。


『あったかい』


小さな声で言った。


『ネバネバ、太陽が好き』


少し間を置いて、ドアのほうを見る。


『それから……』


『ちょっとだけ、妹も好き』


そう言うと、ネバネバは照れたように、また小さな置き物の形へ戻っていった。


ただ、その顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいるように見えた。


そのとき、部屋の外から別の声が聞こえた。


「ただいま」


涼太だった。


ネバネバの体が、もう一度固まった。


『まずい』


すぐに、元の小さな置き物の姿へ戻る。


一秒後、部屋のドアが開いた。


涼太が部屋に入り、通学かばんを床に置く。


彼は机を見た。


それから、窓辺を見た。


「……あれ?」


涼太は眉をひそめた。


「あの小さい置き物、あそこに置いてたっけ?」


ネバネバは一切動かない。


涼太は数秒、じっとそれを見つめた。


そして首をかしげる。


「まあいいか。たぶん俺の勘違いだろ」


彼はかばんの中身を整理し始めた。


窓辺のネバネバは、誰にも気づかれないように、こっそり安心した。


『読者のみんな』


『今日のことは、秘密にしてね』


『特に作者には絶対言っちゃだめ』


『涼太にもだめ』


ネバネバは少しだけ止まった。


『妹は……』


小さな声で言う。


『もう少しだけ、ネバネバを褒めてもいいよ』


ネバネバはもう一度、静かな置き物の姿に戻った。


部屋には、涼太が資料を探す音だけが響いている。


そして、小さな粘土の怪物が、初めての家探検を終えた満足感をこっそり抱えていた。


『次は、もっと遠くまで行ってみよう』


『ねば~』

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。