小劇場 ネバネバ、はじめての家探検
小劇場 ネバネバ、はじめての家探検
『はろー、みんな~。今度はネバネバのお話だよ~。ねば~』
涼太の勉強机の上に置かれていた粘土の小さな怪物が、ゆっくりと体を揺らした。
さっきまで、それはただの小さな置き物にしか見えなかった。
けれど部屋の中に誰もいないことを確認すると、丸い体がふにゃりと柔らかくなり、溶けた餅みたいに机の上からずるりと滑り落ちた。
ぺちゃ。
ネバネバは床に落ちた。
『いたい』
二秒ほど沈黙した。
『違った。ネバネバは粘土だから、たぶん痛くない』
さらに一秒、沈黙した。
『でも、痛い気がする。ねば』
ネバネバは顔を上げ、涼太の部屋を見回した。
ベッド。
勉強机。
椅子。
クローゼット。
床に置かれた通学かばん。
壁際には、完全には閉まっていない引き出しもある。
『今日は作者もいないし、涼太もいない』
『だからネバネバは――』
ネバネバは一生懸命、体を起こした。
胸なんてないのに、なぜか胸を張っているように見える。
『家の中を大探検することにしたのだ!』
ネバネバはゆっくり前へ進み始めた。
その動き方は少し変だった。
歩いているわけでも、跳ねているわけでもない。
まるで、ものすごく志の高い年糕が、自分の体を一生懸命押し出しているみたいだった。
『まずは、涼太のかばん』
ネバネバは通学かばんのそばまで進んだ。
かばんはネバネバよりずっと大きい。
ネバネバの目線から見ると、それはほとんど黒い山脈だった。
『高い』
ネバネバは見上げた。
『人間は毎日、こんなものを背負って学校へ行くんだね。大変だ』
少し考えてから、さらに付け加える。
『だから涼太はいつも疲れてるみたいな顔をしてるんだ』
ネバネバは小さな手を伸ばし、かばんのファスナーをつかんだ。
引っ張る。
動かない。
もう一度引っ張る。
やっぱり動かない。
ネバネバの体は勢いよく後ろへ倒れ、危うく薄い粘土のせんべいみたいになるところだった。
『……』
『今日は、この山の探検はやめておこう』
ごく自然に諦めた。
次に、ネバネバはベッドの下を見た。
そこは、いつもネバネバが隠れている場所だった。
暗くて。
静かで。
少しだけ埃っぽい。
『ベッドの下は安全』
ネバネバは小声で言った。
『でも、ときどき変なものがある』
ベッドの奥をのぞき込む。
中には古いスリッパが片方、いつの間にか転がり込んだ消しゴム、そしてくしゃくしゃになった紙があった。
ネバネバはゆっくり近づき、その紙を引っ張り出した。
紙にはこう書いてあった。
【明日は絶対早起きする】
ネバネバはその文字をじっと見つめた。
『この字は、涼太の字だ』
さらに紙の端に書かれた日付を見る。
『三年前のだ』
ネバネバは沈黙した。
『人間って、決意に満ちていて、失敗にも満ちている生き物なんだね。ねば』
ネバネバはその紙をもう一度ベッドの下へ押し戻した。
黒歴史というものは、暗い場所に置いておくほうがいい。
次に、ネバネバはクローゼットへ向かった。
クローゼットの扉は少し開いていて、細い隙間ができていた。
ネバネバは体をぺたんこにして、その隙間から中へ入り込む。
中には涼太の服が掛かっていた。
制服。
上着。
そして、これ以上ないほど普通のシャツが数枚。
『普通だ』
ネバネバはそれらの服を見上げた。
『さすが涼太。クローゼットまで主人公っぽい』
少し考える。
『違う。主人公のクローゼットなら、もっと個性があるはず』
さらに考える。
『つまり、これはとても涼太っぽい』
クローゼットの奥には、マフラーが一枚落ちていた。
ネバネバはそこまで進み、マフラーの中へ潜り込む。
柔らかい布が、小さな体をすっぽり包んだ。
『わあ』
『ここ、すごく気持ちいい』
ネバネバはマフラーの中で一回転した。
もう一回転した。
三回目で、ぴたりと止まった。
『だめだ』
『このままだと、ネバネバは怠けネバになってしまう』
ネバネバは必死にマフラーから這い出した。
そのときだった。
部屋の外から足音が聞こえた。
ネバネバの体が固まる。
『まずい』
足音はどんどん近づいてくる。
そして、ドアノブが回る音がした。
『まずいまずいまずい』
ネバネバは慌ててクローゼットから這い出した。
机の上へ戻ろうとした。
でも遠すぎる。
ベッドの下にも間に合わない。
もうドアが開いてしまった。
涼太の妹が、部屋の中をのぞき込んだ。
「お兄ちゃん?」
部屋から返事はない。
妹はまばたきをした。
「いないんだ」
ネバネバは床にへばりついたまま、一歩も動けなかった。
今いる場所は最悪だった。
クローゼットと勉強机のちょうど真ん中。
妹が少しでも下を向けば、床に転がる怪しい小さな粘土を見つけてしまう。
『終わった』
ネバネバは心の中で声にならない悲鳴を上げた。
妹は部屋に入ってきた。
どうやら何かを探しているらしい。
彼女は机の前まで行き、上を見た。
「あれ? 前にあった小さい置き物、どこだっけ?」
ネバネバの体がさらに固まった。
『覚えてる』
『この子、ネバネバのこと覚えてるううう』
妹は机の上の本を少し動かし、それから床を見た。
ネバネバは反射的に目を閉じた。
目を閉じても透明になるわけではない。
これは非常にひどい生存戦略だった。
けれどネバネバには、それ以上いい方法がなかった。
妹の視線が床をなぞる。
そして止まった。
「……」
見つかった。
ネバネバは動かなかった。
妹はしゃがみ込み、ネバネバをそっと拾い上げた。
ネバネバは必死に体を固くした。
本物の粘土の小さな置き物になりきる。
妹はそれを手のひらに乗せ、左右から眺めた。
「こんなところに落ちてたんだ」
『……』
ネバネバは息を止めた。
そもそも息をする必要はないけれど。
妹はネバネバを見て、ふっと笑った。
「けっこう可愛いじゃん」
ネバネバの心が、小さく跳ねた。
『可愛い』
『可愛いって言った』
妹はネバネバを元の机の隅には戻さなかった。
彼女は窓辺へ顔を向けた。
午後の日差しがカーテンの隙間から部屋に入り込み、窓際の小さな場所を照らしていた。
そこは明るすぎるわけではない。
熱すぎるわけでもない。
ただ、ほんの少しだけあたたかい光が落ちている場所だった。
妹はまばたきをした。
それから、何か悪いことを思いついたみたいに、口元をゆっくり上げた。
「お兄ちゃんなら、気づかないよね」
『……?』
ネバネバは急に嫌な予感がした。
妹は、いたずらが成功したときのような笑みを浮かべながら、ネバネバを窓際の光がそっと当たる場所に置いた。
「うん。こっちのほうが可愛い」
彼女は一歩下がり、窓辺の小さな粘土の怪物を眺めた。
陽の光が、ネバネバの体に落ちる。
あたたかい。
やわらかい。
小さな体の中へ、何かがゆっくり染み込んでくるみたいだった。
固まっていたネバネバの体が、危うく気持ちよさでふにゃりと緩みかける。
『……』
『太陽』
ネバネバは初めて知った。
太陽の光が体に当たるというのは、こういう感じなのだと。
まぶしすぎない。
うるさくない。
作者みたいに急に変なこともしない。
ただ静かに、あたたかく、自分を包んでくれる。
『ネバネバ……ここ、好き』
妹は、手の中にいた小さな置き物が心の中で感動していることなど、まったく知らない。
ただ自分のしたことに満足したように、少し意地悪そうな笑みを浮かべていた。
「お兄ちゃんの部屋にも、たまには可愛いものがあったほうがいいよね」
彼女は指先で、ネバネバの頭を軽くつついた。
「今日から、ここにいなさい」
『……!』
ネバネバは必死に動かないようにした。
けれど心の中では、もう小さく揺れていた。
『今日から、って言った』
『ネバネバに、新しい場所ができた』
妹はもう一度ネバネバを見た。
その笑顔は、いつも涼太にいたずらするときほど強いものではなかった。
けれど確かに、少しだけ悪いことに成功したような得意げな表情だった。
「お兄ちゃんに聞かれたら、自分で置いたんでしょって言えばいいか」
彼女は自分の計画に満足したように、うなずいた。
「どうせお兄ちゃん、ちょっと抜けてるし。信じるでしょ」
『涼太……妹に見抜かれてる』
妹は部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
部屋は再び静かになった。
しばらくして、窓辺の小さな粘土の怪物は、ゆっくりと力を抜いた。
陽の光はまだ、やわらかく体に降り注いでいる。
ネバネバはすぐには動かなかった。
ただ、そこにいた。
妹が選んでくれた場所に。
『あったかい』
小さな声で言った。
『ネバネバ、太陽が好き』
少し間を置いて、ドアのほうを見る。
『それから……』
『ちょっとだけ、妹も好き』
そう言うと、ネバネバは照れたように、また小さな置き物の形へ戻っていった。
ただ、その顔には、ほんの少しだけ笑みが浮かんでいるように見えた。
そのとき、部屋の外から別の声が聞こえた。
「ただいま」
涼太だった。
ネバネバの体が、もう一度固まった。
『まずい』
すぐに、元の小さな置き物の姿へ戻る。
一秒後、部屋のドアが開いた。
涼太が部屋に入り、通学かばんを床に置く。
彼は机を見た。
それから、窓辺を見た。
「……あれ?」
涼太は眉をひそめた。
「あの小さい置き物、あそこに置いてたっけ?」
ネバネバは一切動かない。
涼太は数秒、じっとそれを見つめた。
そして首をかしげる。
「まあいいか。たぶん俺の勘違いだろ」
彼はかばんの中身を整理し始めた。
窓辺のネバネバは、誰にも気づかれないように、こっそり安心した。
『読者のみんな』
『今日のことは、秘密にしてね』
『特に作者には絶対言っちゃだめ』
『涼太にもだめ』
ネバネバは少しだけ止まった。
『妹は……』
小さな声で言う。
『もう少しだけ、ネバネバを褒めてもいいよ』
ネバネバはもう一度、静かな置き物の姿に戻った。
部屋には、涼太が資料を探す音だけが響いている。
そして、小さな粘土の怪物が、初めての家探検を終えた満足感をこっそり抱えていた。
『次は、もっと遠くまで行ってみよう』
『ねば~』




