第6話 青春の一日が終わって、残されたのは苦しむ作者
第6話 青春の一日が終わって、残されたのは苦しむ作者
入学式の内容を、涼太はほとんど聞いていなかった。
校長が何を話していたのか。
生徒会長の白石紗季が何を言っていたのか。
拍手が何回起きたのか。
森川先生が、いつ一年二組を連れて教室に戻ってきたのか。
ほとんど覚えていない。
なぜなら、さっきから彼の頭の中には、たった一言しか残っていなかったからだ。
――さっき、誰と話してたの?
「……」
涼太は自分の席に座り、両手を机の上に置いたまま、まるで冷蔵庫で冷やされた人間みたいに表情を固めていた。
『涼太』
「呼ぶな」
『まだあのショートヘアの子のこと考えてるの?』
「当たり前だろ!」
涼太は声を抑え、歯を食いしばりながら言った。
「見られたよな? 絶対見られたよな?」
『何を?』
「俺がお前と話してるところだよ!」
『うーん……厳密に言うと、君が一人で空気に向かってぶつぶつ言ってるところを見られたんだと思う』
「事態を悪化させる言い方をするな!」
『でも客観的事実だし』
「客観的事実って、そんなに人を傷つけていいものなのか?」
『いいよ』
「この野郎」
涼太は思わず、あのショートヘアの女子のほうを見た。
彼女は通路側に近い席で、机に突っ伏していた。
体育館で見せていた、あのきらきら光る目は今では半分閉じられていて、全身から「今すぐ帰って寝たい」という空気を放っている。
「……さっきはあんなに元気だったのに?」
『人間って不思議だね』
「お前が傍観者みたいな口調で言うな」
そのとき、前の席に座っていた高橋蓮が振り返った。
「相原くん」
「何?」
「さっきから、ずっと真剣な顔してるよ」
「してる?」
「してる」
高橋蓮はショートヘアの女子のほうを一度見てから、涼太へ視線を戻した。
「青山さんと知り合い?」
涼太は固まった。
「青山?」
『おっ』
作者の声が急に明るくなった。
『名前が出た』
「黙ってろ」
高橋蓮はまばたきをした。
「青山千夏。あそこにいるショートヘアの子」
涼太はもう一度彼女を見た。
青山千夏という名前のその女子は、相変わらず机に突っ伏している。
短い髪は少し跳ねていて、制服のブレザーもまだきちんと留まっていない。まるで朝という概念と殴り合いをして、見事に負けた直後みたいだった。
「青山千夏……」
涼太は小さくその名前をつぶやいた。
『いいね』
「満足そうにするな」
『満足してるよ。ショートヘア、変わってる、君をじっと見てる。しかも名前もいい』
「お前、もう偏り始めてるだろ」
『そんなことないよ』
「今の声、絶対そうだった」
涼太がさらに文句を言おうとしたとき、教室の前から森川先生の声が聞こえてきた。
「みなさん、入学式お疲れさまでした」
森川詩織は教壇の前に立ち、手に何枚かの資料を持っていた。
相変わらず穏やかそうに見えるが、自然とクラス全体を静かにさせるような空気がある。
「これから、いくつか資料を配ります。そのあと、みなさんには簡単に自己紹介をしてもらいますね」
教室の中に、小さなどよめきが広がった。
「自己紹介?」
涼太の顔が一瞬で固まった。
『来た!』
作者が興奮した声で言った。
『日本の学園もの定番イベント、自己紹介!』
「他人の高校生活をアニメのイベント扱いするな!」
『でも本当にそれっぽいし』
「黙れ」
森川先生は微笑みながら言った。
「そんなに緊張しなくて大丈夫です。名前、出身中学校、それから趣味を言ってくれれば十分ですよ」
涼太はうつむき、自分の机を見つめた。
名前。
出身中学校。
趣味。
聞くだけなら簡単だ。
けれど今の涼太にとって、その三つは人生の審判みたいに重かった。
『普通でいいよ』
作者が言った。
『名前、相原涼太。出身中学校、適当なところ。趣味、普通』
「出身中学校まで適当にするな!」
『じゃあ西町中学校』
「今考えただろ?」
『少なくとも考えた』
「最低限を努力みたいに言うな!」
最初のクラスメイトが立ち上がった。
「佐藤真司です。出身は東森中学校です。趣味は音楽を聴くことです。よろしくお願いします」
普通だった。
安全だった。
何の問題もなかった。
涼太は彼が座るのを見ながら、胸の中に妙な敬意が湧いてくるのを感じた。
「普通の人ってすごいな……」
『君の普通の人への崇拝、どんどん深まってるね』
「お前のせいだ」
そのあと、何人かのクラスメイトが順番に自己紹介をしていった。
映画を見るのが好きな人。
ゲームが好きな人。
中学でバスケ部に入っていた人。
声がとても小さい人。
緊張しすぎて自分の名前を忘れかけた人。
みんな少しずつ不安そうだったけれど、それでもまだ普通の範囲内だった。
涼太は、もしかしたら自分にもできるかもしれないと思った。
落ち着けばいい。
作者と言い合いをしなければいい。
変なことを急に口走らなければいい。
『今、またフラグ立てたね』
「言うな!」
「高橋蓮」
森川先生が名前を呼んだ。
高橋蓮が立ち上がる。
彼は軽く制服を整え、自然な口調で口を開いた。
「高橋蓮です。出身は武太中学校です。趣味は格闘技です。よろしくお願いします」
『うわ! 高橋蓮、格闘技が好きなんだ! これから話すとき気をつけないとね~』
「友達を危険生物みたいに紹介するな」
涼太は小声で言い返した。
高橋蓮は席に戻ったあと、涼太の視線に気づいたのか、もう一度振り返った。
「相原くん」
「何?」
「今、また誰かと話してた?」
「……話してない」
「話してないって言うとき、いつも顔に力が入ってる」
「観察力よすぎない!?」
『格闘技に観察力。君よりよっぽど頼りになるキャラだね』
「俺は主人公だぞ!」
『だから余計につらいんだよ』
「この野郎」
森川先生は名簿に目を落とし、次の名前を呼んだ。
「早川明日奈」
涼太の体がわずかに強張った。
早川明日奈が立ち上がる。
彼女はスカートの裾を少し整えると、姿勢よくクラス全体を見た。
「早川明日奈です。出身は東森中学校です。趣味は読書と、散歩です。よろしくお願いします」
声は大きくない。
けれど、はっきりしていた。
特別に大げさな言い方でもない。
キャラクター紹介欄みたいに印象的な設定があるわけでもない。
ただ普通の自己紹介だった。
それなのに涼太には、その普通さが彼女の上に乗ると、どこか静かなものに変わるように思えた。
午後の窓際に差し込む光みたいに。
まぶしすぎる光ではなく。
思わずもう一度見たくなるような光だった。
『お』
作者の声が、珍しく少し静かになった。
『こういうのもいいね』
「……うん」
涼太は思わずうなずいた。
高橋蓮が黙って涼太を見る。
「相原くん」
「今度は何?」
「さっきより顔に出てる」
「毎回的確に刺してくるのやめてくれない?」
「力加減はしてる」
「してるのかよ!」
早川明日奈は席に戻る前に、どうやら二人の会話が聞こえたらしく、振り返って涼太を見た。
涼太はすぐに口を閉じた。
早川明日奈はまばたきをし、少し不思議そうな顔をしたが、何も聞かなかった。
ただ軽く会釈して、自分の席に戻った。
涼太はほっと息を吐いた。
『おめでとう。今回は爆発しなかったね』
「黙れ」
森川先生の指が名簿の下へ移動する。
「青山千夏」
涼太の背筋が一瞬で伸びた。
あのショートヘアの女子は、まだ机に突っ伏している。
反応がない。
教室が半秒だけ静かになった。
森川先生が顔を上げる。
「青山さん?」
早川明日奈が横を向き、そのショートヘアの女子の肩を軽く押した。
「千夏」
「……ん?」
青山千夏がゆっくり顔を上げた。
目は半分閉じていて、髪はさっきよりさらに自由に跳ねている。
まるで魂の半分がまだ夢の中に残っているみたいだった。
「あなたの番」
早川明日奈が小声で言う。
「あ」
青山千夏は一瞬ぼんやりした。
そして勢いよく立ち上がった。
椅子が少し大きな音を立てる。
クラス中の視線が彼女に集まった。
けれど彼女はまったく気にしていない。むしろようやく目が覚めたように、明るい笑顔を浮かべた。
「青山千夏です!」
声には勢いがあった。
さっきまで机に突っ伏していた人物と同じ人間とは思えない。
「出身は北川中学校です! 趣味は超常現象、都市伝説、不思議な現象、それから走ることです!」
教室の中で、何人かの生徒が小さく目を見開いた。
涼太も目を見開いた。
『わあ』
作者の声が明らかに明るくなった。
『好きな要素がどんどん増えていく』
「好きになるのが露骨すぎるんだよ!」
青山千夏は止まらなかった。
「勉強はあまり得意じゃないですけど、運動はそこそこできます! よろしくお願いします!」
そう言うと、元気よく頭を下げた。
早川明日奈が横で小さくため息をつく。
「千夏、昨日、自己紹介で最初から都市伝説の話はしないって言ってなかった?」
「でも、それが私の趣味だし」
「だめとは言わないけど……普通はもう少し普通の趣味から言うものだと思う」
「走ることは普通でしょ?」
「その前が普通じゃないの」
青山千夏は笑った。
「でも、私は面白いと思うよ」
そう言ったとき、彼女の視線がふっと涼太のほうへ流れた。
涼太の全身が固まる。
青山千夏は彼を見ていた。
目がまた光っている。
体育館のときと同じだった。
それは怖がっている目ではない。
困惑している目でもない。
面白いものを見つけてしまったときの、隠しきれない好奇心だった。
『涼太』
作者が小声で言った。
「何?」
『今、君のこと見たよ』
「知ってる」
『もっと好きになった』
「これ以上好きになるな!」
森川先生は青山千夏に向かって微笑んだ。
「青山さん、ありがとう。座ってください」
「はーい」
青山千夏は席に戻った。
けれど座る前に、もう一度涼太を見た。
今度は口パクではなかった。
ただ一本の指を伸ばし、そっと涼太の隣の空気を指した。
そして、「見えてるよ」とでも言いたげな笑みを浮かべた。
涼太は自分の血が一気に冷えるのを感じた。
『涼太』
「言うな」
『あの子、やっぱり面白いね』
「言うなって言っただろおおおお!!」
『さて、次はいよいよ君の番みたいだね、僕らの主人公』
「災害待ちみたいな口調で言うな」
涼太は小声で返した。
けれど今回は、すぐに慌てなかった。
次の瞬間、森川先生の声が響く。
「相原涼太」
涼太の肩がわずかに跳ねた。
来た。
名前。
出身中学校。
趣味。
この三つを言えばいいだけだ。
作者と言い合いをするわけじゃない。
クラス中の前で叫ぶわけじゃない。
誰かに変な目で見られるわけでもない。
ただ普通に立って、普通に自己紹介をして、普通に座る。
簡単なはずのことだ。
けれど相原涼太にとって、それは少しも簡単なことではなかった。
『涼太』
作者の声が耳元で響いた。
『普通でいいよ』
「わかってる」
涼太は低く答えた。
今回は反射的に怒鳴り返さなかった。
ゆっくりと立ち上がる。
椅子の脚が床をこすり、小さな音を立てた。
教室中の視線が彼に向けられる。
高橋蓮は前の席で、振り返ってこなかった。
早川明日奈は静かに彼を見ている。
青山千夏は両手で頬杖をつき、目をきらきらさせながら、何か面白いことが起こるのを待っているようだった。
涼太は深く息を吸った。
そして、口を開いた。
「相原涼太です」
声は大きすぎなかった。
震えてもいなかった。
ただ普通に、教室へ届いた。
「出身は西町中学校です」
そこまで言ったとき、涼太は無意識に作者のツッコミを待っていた。
けれど、作者は何も言わなかった。
それに少しだけ驚いた。
だが、本当に少しだけだった。
彼はそのまま続けた。
「趣味は小説を読むことと、散歩です」
教室は静かだった。
誰も笑わなかった。
誰も変な顔をしなかった。
涼太は前を見ながら、胸の奥に張りつめていたものが、少しだけほどけるのを感じた。
「少し緊張しやすいところはありますが」
彼は一度言葉を切った。
「これから、よろしくお願いします」
そう言って、頭を下げた。
とても普通の自己紹介だった。
爆発もない。
社会的死亡もない。
おかしな言い訳もない。
作者が変な設定をねじ込むこともなかった。
ただ相原涼太が、このクラスで初めて、きちんと自分の名前を言えた。
森川先生がやわらかく微笑む。
「相原くん、ありがとう。座ってください」
「はい」
涼太は席に戻った。
体が椅子に触れてから、ようやく手のひらに少し汗をかいていることに気づく。
『……』
作者はすぐには何も言わなかった。
涼太はその沈黙に少し慣れなかった。
「なんでツッコまないんだよ」
『ん?』
そこでようやく作者の声が聞こえた。
『いや、別に』
「じゃあ、なんで黙ってたんだ?」
『ただ、こういうのもいいなって思っただけ』
涼太は少し驚いた。
『毎回何かが起きる必要はないからね』
作者の口調は珍しくやわらかかった。
『たまには主人公がちゃんと立つところを見るのも、悪くないよ』
「……」
涼太は言い返さなかった。
ただ、少しだけ前のほうへ視線を向ける。
早川明日奈が彼を見ていた。
二人の目が、短い時間だけ合う。
彼女は小さくうなずいた。
さっきの自己紹介、よかったよ。
そう言っているように見えた。
涼太の心臓が、ゆっくりと一拍遅れた。
今度は焦ったからではない。
社会的に死にかけたからでもない。
自分が今、本当に一歩前に進めたような気がしたからだ。
けれど、その静かな時間はすぐに別の視線によって破られた。
涼太は横を向く。
青山千夏が彼を見ていた。
相変わらず目はきらきらしている。
けれど今回は、すぐに口パクをすることも、彼の隣の空気を大げさに指すこともなかった。
ただ頬杖をつき、何かを確信したように、小さく笑っているだけだった。
『涼太』
作者が小声で言った。
「何?」
『あの子、もっと興味を持ったみたいだね』
「……なんで俺が普通に自己紹介したのに、余計興味を持つんだよ」
『さっきの君が、変な人に見えなかったからじゃない?』
作者は少し間を置いた。
『だからこそ、君の隣に何がいるのか、もっと知りたくなったんだと思う』
涼太の背筋がじわじわ冷えていく。
「……それ、もっと面倒なことになってない?」
『うん』
作者は楽しそうに言った。
『でも面白い』
「こういうときに喜ぶなよ……」
『まあまあ、そんなに緊張しないで』
作者の声は、珍しくやさしかった。
『ゆっくり高校生活に慣れていけばいいよ』
「お前がそんな普通のことを言うなんて……」
『君をずっとツッコませてばかりだと、読者も疲れるからね』
「自覚あったんだ」
『これは恋愛物語であって、ただのギャグ物語じゃないし』
作者は少し間を置いた。
『だから、たまには君の頑張るところも見せてよ』
涼太は少しだけ目を見開いた。
その言葉は、いつもの作者が言うようなものではなかった。
悪ふざけもない。
爆発エフェクトもない。
彼を社会的火葬場へ突き落とす気配もない。
ただ普通に、主人公が前に進むのを見ているみたいだった。
「……なんか違う」
涼太は小さく言った。
「本当に作者か?」
『当たり前でしょ! じゃなかったら何? 急に入り込んできた誰か? それとも怪物?』
その瞬間。
どこかから、とてもとても小さな音が聞こえた気がした。
「くしゅん」
『……ん?』
作者の声が止まった。
涼太は顔を上げる。
「どうした?」
『今、変な字幕が一瞬出たような気がする』
「字幕?」
『うん。何か小さいものがくしゃみしたみたいな』
「何言ってるんだ?」
『僕にもわからない』
作者の声には、少しだけ困惑が混じっていた。
『まあいいや。あとで確認しよう。今は君に今日一日を乗り切ってもらうほうが先だ』
「なんで今日死ぬみたいな言い方なんだよ……」
『死なないよ』
作者は笑った。
『たぶん』
「最後のたぶんが余計だろ!」
『ところで、入学式も終わったし、今日はこのあと何をするの? 授業? それとももう帰れる?』
「うーん……わからないな」
涼太は小声で答えた。
『君、学生でしょ?』
「今日から学生になったばかりの学生だ!」
『妙に筋が通ってる』
「通ってるだろ!」
まるで二人の疑問を聞いていたかのように、森川先生が教卓を軽く叩いた。
「これから、今日持ち帰る資料を配ります。そのあと、学校生活の注意事項と、明日からの時間割について簡単に説明しますね」
涼太はすぐに安心した。
「よかった、授業じゃない」
『勉強への拒否反応、出るの早すぎない?』
「今日はもういろいろありすぎたんだ。これ以上知識を吸収するのは向いてない」
『君が一番吸収したのは社交ストレスだと思うけど』
「それも人生の知識だ」
森川先生は前の列の生徒に資料の束を渡し、後ろへ回すように指示した。
白い紙が、一枚また一枚と後ろへ渡っていく。
学校生活のしおり。
緊急連絡票。
部活動紹介プリント。
健康診断のお知らせ。
それから、日付がびっしり書かれた年間行事予定表。
涼太は机の上に置かれた紙を見て、だんだん真剣な顔になっていった。
「高校生活って……こんなに紙が多いのか?」
『青春は、紙と書類と持って帰り忘れたプリントでできてるんだよ』
「急に人生の名言みたいに言うな」
前の席の高橋蓮が振り返り、小声で言った。
「相原くん、この紙は保護者のサインが必要だから、今日持って帰ったほうがいいと思う」
「お、ありがとう」
涼太はすぐにその紙を抜き取り、丁寧にかばんの横へ置いた。
『わあ、君が普通に資料を整理してる』
「俺だって普通にできることくらいある!」
『普通に自己紹介したあと、今度は普通に資料整理』
作者の声には、少し感慨がこもっていた。
『涼太、成長したね』
「子どもが初めて自分で靴下を履けたときみたいな言い方をするな」
高橋蓮は涼太を見て、少し沈黙した。
「相原くん」
「何?」
「今、また誰かと話してた?」
「……」
涼太は資料をゆっくり机に置いた。
「高橋くん」
「うん?」
「知らないほうが幸せなこともある」
高橋蓮は少し考えた。
「その言い方、普通の高校生っぽくないね」
「俺も普通の高校生っぽくありたい」
『感動的だね』
「黙れ」
涼太がそう言った瞬間、横から視線を感じた。
明日奈ではない。
高橋でもない。
ゆっくり顔を向ける。
青山千夏が机に突っ伏したまま、手に部活動紹介プリントを持っていた。
けれど、目はまったく紙を見ていない。
彼女は涼太を見ていた。
それも、かなり真剣に。
涼太の体が固まる。
青山千夏はまばたきした。
そして、先生に見つからないようにするためか、部活動紹介プリントを立てて自分の顔を隠した。
次の瞬間、紙の端から、光る二つの目だけがゆっくり覗いた。
「……」
涼太は無言で前を向いた。
『あの子、本当に君を観察してるね』
「知ってる」
『部活動紹介プリントで隠れるの、ちょっと可愛いね』
「褒め始めるな」
『でも創意工夫があるし』
「偏るの早すぎるだろ!」
そのとき、森川先生が黒板に書かれた日付を丸で囲んだ。
「今日の正式な予定はここまでです。資料を確認したら、今日は放課となります。明日からは授業と部活動説明が始まります」
教室の中から、ほっとしたような声がいくつか漏れた。
涼太もつられて肩の力を抜いた。
放課。
その二文字は、今の彼には救いのように聞こえた。
『おめでとう、涼太』
作者が言った。
『もうすぐ放課まで生き延びられるよ』
「放課を生存任務達成みたいに言うな」
『でも今日は本当に頑張って生きてたよ』
「それは否定できない」
森川先生は明日の集合時間や注意事項について説明を続けていた。
涼太はペンを持ち、ぎこちなく資料にいくつか丸をつける。
そのとき、ふと変な感覚がした。
今日はいろいろなことが起きた。
作者の暴走。
高橋の的確なツッコミ。
明日奈の微笑み。
青山千夏の視線。
そして、どこからか現れた奇妙な字幕。
それなのに今、自分は一年二組の教室で、担任の先生が明日の予定を説明しているのを聞いている。
手元には資料がある。
前にはクラスメイトがいる。
窓の外には陽の光がある。
それらすべてが、急に本物の高校生活のように感じられた。
作者が用意した笑いどころではなく。
物語の舞台でもなく。
本当に自分がここに座っている。
相原涼太が、一年二組の教室に座っている。
『涼太』
「今度は何?」
『今、感動してた?』
「してない」
『本当に?』
「……少しだけ」
作者は笑わなかった。
ただ、静かに言った。
『ならよかった』
涼太はうつむき、机の上の資料を見た。
そして小さく言う。
「明日から……本当に授業が始まるんだな」
『うん』
「俺も、どうやって普通に高校生活を送るか考えたほうがいいのかな」
『いいんじゃない?』
作者は少し間を置いた。
『でも、ちょっと難しいと思うよ』
「なんで?」
涼太がそう聞いた瞬間、背後から小さな声がした。
「相原くん」
涼太の背筋が固まった。
ゆっくり振り返る。
いつの間にか、青山千夏が彼の席の横に立っていた。
手には部活動紹介プリント。
目は新大陸を発見したみたいに輝いている。
彼女は声を潜め、笑顔で尋ねた。
「超常現象研究部に、興味ある?」
涼太は彼女を見た。
そして、彼女の手にある部活動紹介プリントを見た。
最後に、耳元で作者が楽しそうに言った。
『ほらね』
『難しいって言ったでしょ』
「こういうときだけ当たるなよ……」
『とりあえず、考えておくって言いなよ』
「なんで?」
『日本の漫画によくある、先輩たちが新入生を部活に勧誘する場面が見たいから。それに、一話ぶん引き延ばせるし』
「うーん、悪くない……いや、待て! 現実の日本の高校にそんな流れがあるとは限らないだろ?」
『いやいや、絶対あるって! 漫画は嘘をつかない!』
「その発言自体が信用できないんだよ」
涼太は小声でツッコんだ。
青山千夏が首をかしげる。
「相原くん?」
「あ、いや。何でもない」
涼太はすぐに姿勢を正した。
「部活のことを考えてただけ」
「本当?」
青山千夏の目がさらに輝く。
「じゃあ、やっぱり興味あるんだ?」
「いや、まだあるとは言ってない」
「でも考えたよね?」
「考えたからって興味があるとは限らないだろ!」
『相原涼太、初日にして超常現象系女子にロックオンされる』
「ナレーションするな!」
高橋蓮が振り返った。
「相原くん」
「何?」
「今、また誰かと話してた?」
「……運命と」
高橋蓮は二秒ほど沈黙した。
「君の高校生活、大変そうだね」
「理解してくれてありがとう」
「理解はしてない」
「じゃあ、そんな優しい声で言うな!」
青山千夏は二人を見て、ふっと笑った。
「相原くんって、本当に面白いね」
「そういう方向で面白がられたくない」
「でも、向いてるよ」
「何に?」
青山千夏は手に持っていた部活動紹介プリントを、涼太の机の上へ押し出した。
紙にはたくさんの部活名が並んでいる。
野球部。
バスケットボール部。
吹奏楽部。
美術部。
文芸部。
そして隅のほうに、青いボールペンで丸をつけられた一行があった。
【超常現象研究部】
涼太はその文字を見て、眉を小さく動かした。
「この部活、本当にあるんだな」
『わあ、漫画は僕を裏切らなかった!』
「感動するな!」
青山千夏はうなずいた。
「あるよ。部員はあまり多くないみたいだけど」
「それ、ほとんど廃部寸前ってことじゃないか?」
「だから新入部員が必要なの」
「その誘い方、罠っぽいな」
「罠じゃないよ。運命だよ」
涼太の表情が固まった。
作者が耳元で小声で言う。
『運命って言ったね』
「台詞に反応するな」
『でも主線っぽいし』
「黙れ」
そのとき、早川明日奈がこちらへ歩いてきた。
彼女も手に何枚かの資料を持っている。どうやら自分のぶんを整理し終えたところらしい。
「千夏」
青山千夏が振り返る。
「明日奈!」
涼太は少し驚いた。
「二人、知り合いなの?」
早川明日奈は涼太を見て、軽くうなずいた。
「うん。千夏とは前から知り合いなの」
『お、関係が補完された』
「今知ったみたいに言うな」
早川明日奈は机の上の部活動紹介プリントを見て、それから青山千夏を見た。
「まさか、入学初日に相原くんを超常現象研究部に誘ってるの?」
「うん!」
青山千夏は迷いなくうなずいた。
早川明日奈は小さくため息をついた。
「せめて、相手が本当に行きたいか聞いてからにしようね」
「聞いたよ」
「その顔は、もう決定済みって顔だった」
「そう?」
「そう」
涼太は黙って二人のやり取りを見ていた。
青山千夏は、いつでも変な方向へ走っていきそうなくらい明るい。
一方で早川明日奈は、彼女に慣れているようで、呆れながらも本気で責めるわけではない。
二人が並んでいると、不思議なバランスがあった。
片方は晴れた空。
もう片方は、幽霊を追いかけに行きそうな晴れた空。
『その比喩、変だね』
「俺の心の中にまでツッコむな」
早川明日奈は涼太を見る。
「相原くんが興味ないなら、断って大丈夫だからね」
彼女は自然にそう言った。
青山千夏みたいに人を前へ押し出すわけでもない。
作者みたいに設定を持って背後から追いかけてくるわけでもない。
ただ普通に、涼太に選ぶ余地を残してくれていた。
涼太は彼女を見て、少しだけ安心した。
「俺は……」
そう言いかけた瞬間、青山千夏が少し身を乗り出した。
彼女は声を潜め、涼太の近くにいる人にだけ聞こえるくらいの音量で言う。
「でもね、相原くん」
視線が、涼太の隣の空気へわずかにずれた。
「もし君のそばに本当に何かいるなら、超常現象研究部はぴったりだと思うよ」
涼太の背筋が一瞬で固まった。
作者も黙った。
高橋蓮は涼太の反応を見て、ゆっくり眉を寄せる。
「相原くん、また顔色が変わったよ」
「変わってない」
「今回はさっきより強めに変わった」
「いちいち観察するな!」
早川明日奈は千夏の言葉を完全には理解していないようで、不思議そうに二人を見た。
「千夏、また変なこと言ってる」
「でも、面白いから」
青山千夏は笑いながら、部活動紹介プリントを涼太の机に残した。
「今日は資料配布だけで、正式な部活動説明は明日からみたいだね」
彼女は指先で、丸で囲まれたその一行を軽く叩いた。
「相原くん、明日の放課後、一緒に見に行かない?」
涼太はその紙を見た。
超常現象研究部。
青山千夏。
早川明日奈。
高橋蓮。
それから、隣にいる、自分にしか聞こえない作者。
普通に高校生活を送りたいという願いは、初日からすでにひび割れ始めている気がした。
『涼太』
作者が小声で言った。
「何だよ」
『行ってみてもいいと思う』
「お前、先輩が見たいだけだろ」
『それも少しある』
「認めるの早すぎるだろ!」
『でも』
作者は少し間を置いた。
『これは君の主線の一つになるかもしれないよ』
涼太はすぐには答えなかった。
早川明日奈を見る。
早川明日奈はその視線に気づいたらしく、そっと尋ねた。
「相原くん、どうしたの?」
「何でもない」
涼太はうつむき、その部活動紹介プリントを見た。
そして小さく言った。
「少し、考えてみる」
青山千夏は満足そうに笑った。
「うん! 返事、待ってるね」
森川先生が教壇の前で手を叩く。
「はい、みなさん。資料の確認が終わったら、今日は下校して大丈夫です。帰り道には気をつけて、明日は遅刻しないようにしてくださいね」
教室の中に、帰り支度を始める音が広がった。
涼太は部活動紹介プリントをかばんにしまった。
ただの紙のはずなのに、なぜか他の資料よりも少し重く感じた。
『おめでとう』
作者が言った。
『君は無事、放課まで生き延びたよ』
「俺の一日を生還記録みたいに言うな」
『でも、明日からが本当の高校生活だよ』
涼太は窓の外を見る。
夕暮れの光が教室に差し込み、机の上を淡い金色に染めていた。
明日、何が起こるのかはわからない。
青山千夏がどこまで気づいているのかもわからない。
早川明日奈がまた自分に話しかけてくれるのかもわからない。
けれど、少なくとも今日、彼は逃げなかった。
きちんと自己紹介をした。
そして、初日を放課まで歩き切った。
相原涼太にとって、それだけでも十分すごいことだった。
「作者」
『ん?』
「明日は、本当に変なことするなよ」
『できるだけね』
「またできるだけって言った」
『だって、明日何が起こるか、僕にもわからないし』
涼太はかばんを整理する手を止めた。
「それ、すごく嫌な予感がするんだけど」
『そう?』
作者は笑った。
『僕は、青春っぽいと思うけどね』
涼太は少し沈黙した。
そして最後に、かばんを背負いながら小さく言う。
「青春が全部こんな感じなら、保険が必要かもしれない」
『安心して。分厚いやつを書いてあげるよ』
「それ、余計に不安になるだろ!」
教室の外で、放課を告げるチャイムが鳴った。
相原涼太の高校生活一日目は、ようやく終わった。
そして彼のかばんの中では、丸で囲まれたあの部活動紹介プリントが、一番上に静かに入っていた。
まるで、明日めくられる次のページを待っているように。
『待って』
作者の声が急に響いた。
『僕の先輩は?』
「何?」
『僕の先輩はどこ?』
「何言ってるんだよ」
『日本の部活って、先輩たちが勧誘に来るものじゃないの!? チラシを持って、校門に立って、新入生に青春全開の笑顔で“ぜひうちの部に入ってください!”って言うやつ!』
涼太はしばらく黙った。
「お前の日本の高校生活に関する知識って、どれくらい漫画由来なんだ?」
『九割くらい』
「残り一割は?」
『アニメ』
「もっと悪いだろ」
涼太はかばんを背負い、崩壊していく作者の声を完全に無視した。
「とにかく、今日はもう終わり」
『だめ! 僕はまだ先輩たちの勧誘を見てない!』
「明日見ればいいだろ」
『でも今見たい!』
「それはお前の問題だ」
『なんでそんなに冷たいの!? 僕は作者だよ!?』
「だったら次の話を書けば?」
『……』
作者が黙った。
涼太は淡く笑った。
「読者のみなさん、今日はここまでです」
『待って! それは僕の台詞でしょ!?』
「一日目は終わりました」
『だめ! 心の準備がまだできてない!』
「明日、たぶん超常現象研究部を見に行きます」
『涼太! 勝手に締めないで!』
「それでは、また次の話で」
『無視しないで! 僕の先輩! 僕の青春の部活勧誘イベントがああああ!!』
作者はどこか見えない場所で頭を抱え、泣き出した。
一方、涼太はただかばんを背負い、教室を出ていく。
今回、ページが閉じるときに取り残されたのは涼太ではなかった。
学長姐の登場を見られなかった作者だった。
「たまにはお前の番でもいいだろ、作者」
『ううううううう……』




