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第三章「昔の私なら」

ライブまで、あと3日。


通し稽古は、朝から何度も繰り返されていた。


「はい、頭からもう一回」


振付の先生の声が飛ぶ。


冬城律は、自分の位置へ戻った。


呼吸を整える。


立ち位置。


入りのカウント。


次の移動。


全部、分かっている。


音が始まる。


律は踊る。


腕を上げる。


踏み込む。


視線を切る。


回る。


移動する。


サビ。


少し強く。


強くしすぎない。


隣の凪野乃々香が、同じ振付を踊っている。


でも。


やっぱり少し違う。


乃々香は、決めた形を再現しているというより。


その瞬間ごとに何かを選んでいるように見えた。


律は一瞬だけそちらを見る。


すぐに前へ戻る。


最後のポーズ。


音が止まった。


「……はい」


先生が全体を見渡す。


「かなり良くなってきてる」


何人かが小さく息を吐く。


先生が順番に修正を入れていく。


そして。


「律」


「はい」


すぐに返事をする。


「上手い」


「ありがとうございます」


「かなり」


少しだけ肩の力が抜ける。


ここ数日。


考えた。


練習した。


動画も見た。


自分でも何度も試した。


だから。


少しは前に進んでいる。


そう思った。


「でも」


また。


その言葉。


律の肩が固くなる。


「まだ守ってる」


「……守ってる?」


「うん」


「どこですか?」


「どこっていうより、全体」


「全体」


先生は頷く。


「崩れない。ミスもしない。それは律の強さ」


「はい」


「でも、崩れないように踊ってるようにも見える」


律は黙った。


「ちゃんとやることが、一番前に来てる」


「……」


「もう少し、律が出てもいい」


律はすぐに聞く。


「例えば?」


先生は少しだけ笑った。


「それを私が言ったら、また律の答えじゃなくなるでしょ」


その瞬間。


胸の奥で、何かが引っかかった。


「じゃあ」


声が少し強くなる。


「どうすればいいんですか?」


周りの空気がわずかに止まる。


先生が律を見る。


律は、自分でも分かっていた。


いつもより強い。


止めた方がいい。


でも。


止まらなかった。


「先生が求めてるものがあるなら、言ってもらった方が直せます」


「うん」


「強くなら強くするし、表情なら変えるし、音の取り方なら――」


「律」


「でも、ずっと“自分で決めて”って言われても」


一度、息を吸う。


「分からないから聞いてるんです」


言ってから。


律自身が少し固まった。


強く言いすぎた。


そう思った。


先生は怒らなかった。


ただ、少しだけ律を見て。


「うん」


と頷いた。


「分からないよね」


律は逆に何も言えなくなる。


「でも」


先生は続ける。


「今、ちゃんと“分からない”って言ったよね」


「……はい?」


「そういう律も、もっと見たいんだと思う」


律は眉を寄せる。


「今のは、ただ」


「ただ?」


「……ちょっと、言いすぎただけです」


先生は笑う。


「それでも」


少し間を置く。


「私は、さっきの律の方が見えたよ」


律は答えられなかった。


そんなものまで。


“表現”なのか。


先生は全体へ向き直る。


「じゃあ、もう一回いこう」


音楽が流れる。


律は位置へ戻る。


さっきより。


少しだけ。


胸の内側がざわついていた。


     ◇


レッスンが終わる。


メンバーたちは少しずつ帰り支度を始める。


律は残った。


いつものように。


鏡の前。


音楽を流す。


踊る。


止める。


もう一度。


サビ。


少し強く。


違う。


もう一回。


表情を変える。


違う。


「……何が違うの」


小さく漏れる。


鏡の中には。


ちゃんと踊っている自分がいる。


昔より上手くなった。


動きも安定している。


でも。


先生は言った。


さっきの律の方が見えた。


あれは。


踊っていた時ではない。


苛立って。


分からないと言った時。


「意味分かんない」


律はその場に座り込んだ。


鏡の中にも、自分が座る。


「昔の方が楽だったな」


口に出してから。


少し驚いた。


そんなことを思っていたのか。


デビューした頃。


今よりずっと静かだった。


言われたことをやる。


注意されたことを直す。


迷惑をかけない。


分からなくても。


とりあえず。


「分かりました」


それでよかった。


少なくとも。


今ほど。


自分を出せとは言われなかった。


「楽って何が?」


後ろから声。


律は顔を上げる。


乃々香。


「……まだいたの?」


「充電器忘れた」


「また?」


「また」


「学習しなよ」


「りつまるこっぺに言われたくない」


「私は忘れ物しない」


「そういうとこ」


乃々香は律の近くに座る。


「で?」


「何」


「昔の方が楽だったって」


律は少し黙る。


でも。


今日は。


隠す方が面倒だった。


「言われたことやればよかった」


ぽつり。


乃々香は何も言わない。


「振り覚えて」


「うん」


「間違えたら直して」


「うん」


「できなかったら練習して」


律は膝を抱える。


「それなら分かるから」


「うん」


「何すればいいか分かる」


「うん」


「でも今は」


少し間。


「自分で決めろって言われる」


乃々香は鏡を見る。


律も鏡を見る。


二人並んで座っている。


「正解ないのに」


「うん」


「間違ったらどうするのって思う」


「直せばいいじゃん」


「簡単に言うけど」


「簡単じゃないよ」


律が乃々香を見る。


乃々香はいつもの調子ではなかった。


「私だって、間違えたら嫌だよ」


「……そうなの?」


「そりゃそうでしょ」


「見えない」


「ひど」


少しだけ笑う。


乃々香が続ける。


「怖くないわけじゃない」


「じゃあ、なんでできるの?」


「何が?」


「好きとか、なんとなくとかで選ぶの」


乃々香は少し考える。


「やってみないと分かんないから」


律は黙る。


「正解分かるまで待ってたら、ずっとできなくない?」


「……」


「だから、とりあえず選ぶ」


「違ったら?」


「直す」


「やっぱりそれ」


「それしかないじゃん」


律は眉を寄せる。


でも。


否定できなかった。


     ◇


少し沈黙。


乃々香が先に口を開いた。


「でもさ」


「何」


「今日の律、ちゃんと律だったよ」


律が止まる。


「何それ」


「先生に言った時」


律の顔が曇る。


「あれは言いすぎた」


「そう?」


「絶対言いすぎた」


「でも」


乃々香は律を見る。


「前の律なら、あんな顔もしなかったじゃん」


律は黙る。


「昔だったら、“はい”って言ってたでしょ」


「……」


「分からなくても」


否定できない。


「たぶん」


「で、帰って一人で悩んでた」


「今も悩んでるけど」


「でも今は言った」


乃々香が少し笑う。


「“分からない”って」


律は鏡を見る。


自分。


今の自分。


「怒っただけじゃん」


「それでも」


乃々香は軽く肩をすくめる。


「前は怒った顔すら見せなかったでしょ」


律は答えない。


先生の言葉が蘇る。


――さっきの律の方が見えた。


「……表現って」


律が呟く。


「踊る時だけじゃないのかな」


乃々香が首を傾げる。


「知らない」


「そこは知らないんだ」


「でも」


少し考えて。


「律が何考えてるか分かるようになったのは、今の方」


律はゆっくり乃々香を見る。


それは。


少し前に楓花から言われた言葉と似ていた。


前より。


律が何を考えているか分かる。


「みんな同じこと言う」


「じゃあ本当なんじゃない?」


「……そうかな」


「たぶん」


「なんとなく?」


「今回はちゃんと理由ある」


「何」


乃々香は笑う。


「毎日ちょっとずつだから、本人だけ気づかない」


律は少しだけ笑った。


「たまにまともなこと言うね」


「失礼」


「褒めてる」


「半分くらい?」


「半分」


「残り半分は?」


律は少し考える。


「なんとなく」


乃々香が目を見開く。


「今言った!」


「言ってない」


「言った!」


「聞き間違い」


少し。


笑えた。


     ◇


帰り支度。


律はノートを開いていた。


乃々香は隣で充電器を鞄にしまっている。


律はページの端に書く。


『昔の私――間違えないようにする』


少し下。


『今の私――』


ペンが止まる。


乃々香が覗く。


「何書いてんの」


「見ないで」


「今の律、空欄?」


「まだ」


「じゃあ書けば」


「何を」


乃々香は少し考えた。


「分からないって言える」


律が止まる。


「それ、強み?」


「知らない」


「また」


「でも昔できなかったんでしょ?」


律はしばらくその言葉を見る。


そして。


『今の私――分からないと言える』


と書いた。


少し恥ずかしい。


でも。


消さなかった。


     ◇


翌日。


また通し。


律は鏡の前に立つ。


音楽が始まる。


サビ。


いつもより強く踏み込もうとして。


一瞬。


怖くなる。


これでいい?


やりすぎ?


違う?


戻る?


結局。


いつもの強さに戻した。


曲が終わる。


レッスン後。


乃々香が近づいてくる。


「今日」


「何」


「なんかやろうとしたでしょ」


律が止まる。


「……見てた?」


「なんとなく」


「禁止」


「でも分かった」


律は少し黙る。


「やめたけど」


「うん」


「怖くなって」


「うん」


「結局いつも通り」


乃々香は少しだけ笑う。


「でも、選ぼうとはしたんでしょ」


律は答えない。


乃々香も、それ以上言わなかった。


先に帰っていく。


律は鏡を見る。


外から見れば。


昨日と何も変わっていないかもしれない。


でも。


自分だけは知っている。


一瞬。


自分で決めようとした。


昔の自分なら。


きっと。


その一瞬すらなかった。


答えを持っているから進むんじゃない。


答えがなくても。


少しずつ。


自分を外へ出そうとしている。


それが今の。


冬城律だった。



ーー続く

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