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第一章「正解をください」

翌日。


冬城律は、いつもより少し早くレッスン場に来ていた。


誰もいない鏡の前に立つ。


スマートフォンを床に置き、昨日撮った振付動画を再生する。


音は小さく。


まだ他のメンバーも来ていない。


律は画面と鏡を交互に見ながら、昨日の振りを確認した。


右。


左。


一歩前。


腕を上げる。


目線。


止まる。


もう一度。


今度は、少し表情を強くする。


昨日、振付の先生に言われた言葉が頭に残っていた。


――律は、この曲をどう踊りたい?


分からない。


だから、まず考えることにした。


分からないことがあるなら、調べればいい。


できないことがあるなら、練習すればいい。


今までも、そうやってきた。


律は動画を止める。


ノートを開く。


昨日の夜から、すでに何ページか埋まっていた。


『Aメロ 抑える』


『サビ 視線を強く』


『2番 1番より感情を上げる』


『ラスサビ 腕を大きめに』


その下に、小さく書き足す。


『表情――笑いすぎない』


少し考える。


消す。


『表情――強め』


また考える。


それも消した。


「……強めって、何」


自分で書いたのに、自分で分からなくなった。


その時、ドアが開いた。


「おはよー」


凪野乃々香だった。


まだ少し眠そうな顔で入ってくる。


律を見つけて、足を止めた。


「早」


「おはよう」


「何時からいるの?」


「そんなに前じゃない」


乃々香は、床に置かれたノートを見る。


「また書いてる」


「またって何」


「律、何でも書くじゃん」


「忘れるよりいいでしょ」


「それはそう」


乃々香はあくびをしながら、律の横を通り過ぎた。


荷物を置く。


そして戻ってくる。


「何書いてんの?」


「新曲」


「見せて」


「やだ」


「なんで」


「自分用だから」


「じゃあ覗く」


「もっとやだ」


乃々香は笑いながら、律の肩越しに見ようとする。


律はノートを閉じた。


「だから見ないで」


「秘密主義」


「普通」


「そこまで書くことある?」


「あるよ」


「振り覚えればよくない?」


「それだけじゃダメって昨日言われたから」


乃々香が少し黙った。


律はノートを持ったまま、鏡に向き直る。


「昨日言われたこと、考えてた」


「どう踊りたいか?」


「うん」


「分かった?」


「分かんない」


即答だった。


乃々香が笑う。


「早」


「だから調べてる」


「何を?」


「この曲に合う見せ方」


「それ、昨日の質問の答え?」


律が振り返る。


「違う?」


「知らない」


「じゃあ聞かないで」


乃々香はまた笑った。


「でも律って、こういう時すぐ勉強するよね」


「悪い?」


「褒めてる」


「ほんとに?」


「半分くらい」


「残り半分は?」


「ちょっと怖い」


「何が」


「ノート」


「ただのノートでしょ」


「字が細かい」


「関係ない」


少しずつメンバーが集まり始める。


挨拶が飛び交う。


音楽が流れる。


いつものレッスン前の空気になっていく。


律はノートを鞄にしまった。


まだ答えはない。


でも。


昨日よりは近づいている。


そんな気がしていた。


     ◇


「じゃあ、頭から通します」


振付の先生が手を叩く。


16人が位置につく。


律も鏡の前に立つ。


音楽が始まる。


昨日と同じ振り。


でも今日は、少し違う。


Aメロ。


抑える。


サビ。


目線を強く。


2番。


少し感情を上げる。


律は、考えた通りに踊る。


鏡の中の自分を確認する。


悪くない。


昨日より表情がある。


動きにも強弱をつけた。


サビで手を伸ばす。


大きく。


視線。


正面。


最後のポーズ。


音が止まる。


息を吐く。


先生が全体を見回す。


何人かに細かな修正を入れる。


そして。


「律」


来た。


「はい」


律は背筋を伸ばした。


先生は少し考えるように律を見る。


「昨日より変わったね」


胸の奥で、小さく安心する。


「ありがとうございます」


「たぶん、いろいろ考えてきた?」


「はい」


「何した?」


律は答える。


「歌詞をもう一度読んで、似た雰囲気の曲も見ました。振付も動画で確認して、Aメロとサビで見せ方を変えて――」


「うん」


先生が頷く。


「すごく律らしい」


褒められた。


そう思った。


でも。


先生の顔は、まだ何か言いたそうだった。


「ただ」


律の肩に少し力が入る。


「それって全部、“どう見せたら正解か”を考えた結果じゃない?」


「……」


言葉が止まる。


先生は続ける。


「昨日より良くなってる。そこは本当」


「はい」


「でも、律自身は何を感じてる?」


律は黙った。


また。


同じだ。


聞かれている意味が分からない。


「歌詞のことですか?」


「歌詞をどう解釈したか、じゃなくて」


「じゃあ……」


言葉を探す。


先生が待っている。


律は焦る。


何か答えなければ。


「切ない曲だと思います」


「うん」


「でも、強さもあるというか」


「うん」


「だからサビは強くして――」


先生が少し笑った。


「また戻った」


「……」


律は口を閉じた。


「ごめん。いじめたいわけじゃないよ」


「分かってます」


分かっている。


だから余計に困る。


先生は答えを持っているわけではない。


わざと教えないのでもない。


本当に。


律に決めさせようとしている。


「次までに答えを出せって意味じゃないから」


「はい」


「ただ、ちょっと考えてみて」


「……はい」


返事はした。


でも。


律の中では、また新しい問題が増えただけだった。


     ◇


休憩。


律は壁際に座って、ペットボトルの水を飲んでいた。


隣に乃々香が座る。


何も言わず。


しばらく二人で前を見ていた。


他のメンバーたちは、それぞれ話したり、振りを確認したりしている。


乃々香が言った。


「難しそう」


「何が」


「律」


「私?」


「うん」


律は少し眉を寄せる。


「何それ」


「顔が難しい」


「顔は普通」


「じゃあ中身」


「もっと失礼」


乃々香が笑う。


少し間が空く。


「先生に言われたこと、分かる?」


律が聞いた。


乃々香は天井を見る。


「半分くらい」


「半分?」


「たぶん」


「じゃあ教えて」


「えー」


「分かるんでしょ」


「分かるっていうか」


乃々香は少し考える。


「律って、正解ある時めちゃくちゃ強いよね」


律が乃々香を見る。


「急に何」


「振りとか。立ち位置とか。ここ直してって言われたらすぐ直すし」


「普通じゃない?」


「普通じゃないと思う」


「そう?」


「うん。ちゃんとできる人って強いよ」


乃々香はそこで一度言葉を切る。


「でも」


律は嫌な予感がした。


「でも?」


「正解ないと、急に止まるよね」


律の眉がぴくっと動く。


「……悪い?」


「悪いって言ってない」


「言い方」


「でも今も止まってるじゃん」


「考えてるの」


「それを止まってるって言うんじゃない?」


「違う」


「どう違うの?」


「答えを探してる途中」


乃々香が首を傾げた。


「答えって、あるの?」


律は黙った。


「あるでしょ」


「どこに?」


「……」


また黙る。


乃々香は悪意なく聞いている。


それが分かるから、余計に腹が立つ。


「先生が聞いてるんだから、何かあるでしょ」


「でも先生、律に決めてほしいって言ってたじゃん」


「だから決めるために考えてるの」


「ふーん」


その「ふーん」が妙に引っかかった。


「何」


「別に」


「言って」


「律ってさ」


乃々香が笑う。


「正解くださいって顔してる」


「してない」


「してる」


「してない」


「昨日からずっと」


「乃々香」


「はい」


「うるさい」


乃々香は声を出して笑った。


律は水を飲む。


少し強めにキャップを閉める。


でも。


乃々香の言葉は、先生の言葉とは違う形で残った。


――正解ある時めちゃくちゃ強い。


それは褒め言葉のはずだった。


実際、律自身もそう思う。


何が足りないか分かれば直せる。


必要なものが分かれば準備できる。


時間が足りないなら増やせる。


苦手なら練習する。


だから。


「答えがない」という状態が、一番困る。


     ◇


レッスンが終わった後。


メンバーたちは次々と帰り支度を始めた。


律はまた鏡の前にいた。


今日言われた部分を何度か踊る。


サビ。


止める。


もう一度。


今度は少し強く。


止める。


「違う」


自分で呟く。


何が違うのかは分からない。


でも。


正解ではない気がする。


もう一度。


今度は表情を変える。


「……違う」


後ろから声がした。


「何点?」


律が振り返る。


乃々香。


「まだいたの?」


「忘れ物した」


「何」


「イヤホン」


乃々香は鞄の近くを探しながら言う。


「で、何点?」


「何が」


「今の踊り」


律は鏡を見る。


「分かんない」


「珍しい」


「何が」


「律が点数分かんないって言うの」


「私、いつも点数つけてるわけじゃないけど」


「心の中でつけてそう」


「つけてない」


少し考える。


「……たぶん」


「ほら」


乃々香が笑う。


そしてイヤホンを見つける。


「あった」


「よかったね」


「うん」


乃々香は帰ろうとして、ふと律を見る。


「ねえ」


「何」


「今日の律、昨日より好きだったよ」


律が止まる。


「……何が?」


「踊り」


「どこが?」


「んー」


乃々香は考える。


律は待つ。


数秒。


「分かんない」


「は?」


「でも昨日より好き」


「理由は?」


「なんとなく」


律は目を細める。


「それ一番困る」


「そう?」


「そう」


「でも好きだった」


それだけ言って、乃々香は手を振る。


「おつかれー」


「……お疲れ」


ドアが閉まる。


律だけが残る。


鏡を見る。


先生は言った。


律が見えない。


乃々香は言った。


昨日より好き。


どちらも。


数字にできない。


理由もはっきりしない。


ノートにも書けない。


律は鞄からノートを出す。


開く。


『Aメロ 抑える』


『サビ 視線を強く』


『2番 感情を上げる』


その下にペンを置く。


しばらく考えた。


そして。


『乃々香――昨日より好き』


と書く。


すぐに眉を寄せた。


「……何これ」


自分で書いて、自分で呆れる。


消そうとして。


少し迷って。


そのまま残した。


正解かどうかは。


分からなかった。



ーー続く

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