プロローグ「全部、合ってる」
「はい、もう一回いきます」
振付の先生の声が飛ぶ。
音が頭から流れ直す。
冬城律は、鏡の中の自分を見た。
右足。
左足。
ターン。
視線。
腕を上げる高さ。
全部、さっき確認した。
次の移動も、その次の立ち位置も分かっている。
音が進む。
律の身体も、それに合わせて動く。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
数えなくても、身体が覚えている。
それでも頭の中では、ずっと確認している。
ここは少し大きく。
次は抑える。
半歩だけ内側。
目線は正面。
遅れない。
早すぎない。
「はい、止めます」
音楽が切れた。
メンバーたちが、それぞれ息を吐く。
律も肩で小さく息をしながら、鏡越しに先生を見る。
「律」
「はい」
反射みたいに返事が出た。
「振り、大丈夫」
「ありがとうございます」
少しだけ肩の力が抜ける。
振入れ初日。
まだ全体としては細かい修正が多い。
その中で「大丈夫」と言われた。
それだけで、とりあえず今日やってきたことは間違っていなかったと思える。
先生は手元の資料を見ながら続けた。
「立ち位置も問題ないし、音もちゃんと取れてる。細かいところもよく見てるね」
「はい」
「うん。全部合ってる」
律は小さく頷いた。
その言葉は好きだった。
全部、合ってる。
分かりやすい。
できているのか。
できていないのか。
直すところがあるのか。
ないのか。
そういうのは、はっきりしている方がいい。
「でも」
先生が言った。
律の顔が上がる。
「まだ、律が見えない」
「……はい?」
一瞬、聞き間違えたのかと思った。
先生は鏡越しではなく、律の方を直接見ている。
律も向き直った。
「すみません。どこの動きですか?」
「動きじゃない」
「じゃあ、表情ですか?」
「それも含むけど、そういうことじゃなくて」
律は眉を少し寄せた。
分からない。
分からない時は、確認すればいい。
「もう少し具体的にお願いします」
近くにいた凪野乃々香が、ちらっと律を見る。
けれど何も言わない。
先生は少し考えてから、律に聞いた。
「律は、この曲をどう踊りたい?」
律は黙った。
「……どう、ですか?」
「うん」
「強く、とかですか?」
「それを聞いてるんじゃない」
「じゃあ、可愛く?」
「それも違う」
また、分からない。
律は少しだけ視線を落とした。
床に貼られた立ち位置の目印が見える。
そこにはちゃんと答えがある。
ここに立てばいい。
次はあそこへ行けばいい。
間違えたら、直せばいい。
でも。
「この曲をどう踊りたい?」
その問いだけは、どこを見ても印がない。
律はもう一度先生を見る。
「……先生は、どう踊ったらいいと思いますか?」
「私は、それを律に決めてほしい」
「……」
返事が止まる。
先生は責めるような言い方ではなかった。
むしろ静かだった。
だから余計に困った。
「全部合ってるんだよ」
先生は続ける。
「だから次は、合ってるかどうかじゃないところを見たい」
律は何も言えない。
その横で乃々香が、小さく首を傾げている。
意味が分かっているのか、いないのか。
たぶん本人も分かっていない気がする。
「じゃあ、5分休憩」
先生の声で、その場の空気が動いた。
メンバーたちが一斉に水分を取りに散っていく。
律はその場に残った。
鏡を見る。
いつもの自分が映っている。
髪も崩れていない。
衣装ではなくレッスン着。
汗は少しかいている。
呼吸も戻ってきた。
もう一度、さっきの振りを頭の中でなぞる。
タイミングは合っていた。
腕の高さも。
足の位置も。
ターンも。
先生も言った。
全部、合ってる。
それなのに。
律が見えない。
意味が分からない。
鏡の中の自分に向かって、少しだけ腕を動かしてみる。
さっきと同じ振り。
同じ角度。
同じ速さ。
悪くない。
むしろ、合っている。
「……何が違うんだろ」
思わず声が漏れた。
「何が?」
横から声がした。
乃々香だった。
いつの間にか戻ってきていたらしい。
ペットボトルを片手に、律の横に立つ。
「別に」
「絶対なんかあるじゃん」
「ない」
「ある顔してる」
「どんな顔」
「答え合わせしてる顔」
律は乃々香を見る。
「何それ」
「知らない」
「知らないんだ」
「なんとなく」
律は一瞬だけ黙る。
そして、すぐ返した。
「なんとなく禁止」
乃々香が笑った。
「出た」
「何」
「律っぽい」
「どういう意味?」
「それも今度ね」
「今言って」
「休憩終わっちゃうから」
そう言って、乃々香は先に戻っていく。
律はその背中を見てから、もう一度鏡を見る。
律っぽい。
それなら。
自分はちゃんと映っているはずなのに。
先生は、見えないと言った。
鏡の中の冬城律は、相変わらず正しい姿勢で立っている。
でも。
その自分が、何をしたいのか。
どんなふうに踊りたいのか。
そこだけは。
鏡をどれだけ見ても、書いていなかった。
ーー続く




