あれから一週間
——早朝五時。二階で寝ている凛や康介に気を使わず仕事の準備をするようになって一週間が過ぎた。
物音をなるべく立てずに歯を磨き、顔を洗う水の音に気を遣い、前日に作った味噌汁をご飯にかけ、キッチンでゆっくりと静かに食べる朝食。
もう気を遣うことなく準備ができる。
その事実だけで涙を流していた最初の頃よりも、幾分かはこの状況に慣れた。
今日は仕事に行く前にお掃除ロボットを起動し、動かした。
康介がいたならこんな事絶対に出来ない。
部屋の隅々まで掃除をするロボットを横目に玄関を開け、外で一服をした。
初日とは比べ物にならない程この状況に慣れたなと、素直に実感していた。
車に乗り込み、今はほとんど行かなくなった二階の寝室を見上げる。
閉め切られたカーテンは一週間前と変わらず、新築というのにやけに寂しく見えた。
「はぁ…。」
最近ため息の回数が増えたように思える。
小さい頃から、『ため息したら幸せが逃げるよ。』とよく言われていたが、ため息をしていなくても幸せは逃げた。
会社で点呼を済ませ、トラックに乗り込むいつもの日常。
昔、凛と康介をトラックに乗せて写真を撮った。
二人を乗せて会社の周辺を走った。
思い出し、またため息。
あの頃は、今よりもずっと幸せだった。
凛の事は嫌いだ。
でも、あの日常は好きだった。
世間体的に今の俺がどう見られているか、分からないから外出はまだ苦手だ。
捨てられた?逃げられた?
原因は俺のDV?モラハラ?虐待?
保育園の関係者や、凛の周りの人達。
俺の事がどう伝わっているのか気になるが、誰にも聞けない。
本当の真実は、当事者達しか知り得ない。
トラックを走らせ、今日もいつものように荷物を降ろしに行く。
熱意はそこそこに、ただ事故をしないように淡々と。
会社の人達との関わり方も変化していた。
あまり話さなくなった。
話しかけられ、笑って返す。
俺からは話しかけない。
話す気分になれなかったから。
話したいと、思わない。
家には誰もいないのに、それでも早く家に帰りたかった。
いや…閉じこもっていたかった。
美沙ちゃんから『おはよう』とLINEが来た。
俺も『おはよう』と返し、運転中に少し電話をした。
Bluetoothのイヤホンから、寝起きで気怠そうな美沙ちゃんの声。
淡々と、それなりに楽しく会話をし電話を切る。
今の俺には話し相手が必要だと改めて思った。
女性である必要はないが、女性と話すと気持ちが高まる。
でも女性は怖い。
俺はそう思うようになっていた。
自分でも矛盾していると思う。
俺はこの先、女性と仲を深める事はあるのだろうか。
弁護士に厳しいと言われ、親権を取れない未来を考えてみた。
俺はどう生きていくのだろうか。
子供と毎日過ごす事ができず、建てたばかりの家で孤独に過ごす日々。
今のところ、これから先の人生は楽しくなさそうだ。
…あれからもう、一週間。
今こうして毎日を過ごせているのは俺が強いからではない。
これまでの惰性に突き動かされているから。
…会社に迷惑をかけないように。
世間体を気にしているから。
…嫁と子供が出て行ってあの人は家に閉じこもっていると周りから言われないように。
プライドがあるから。
…弱った俺を見て、凛が笑うのを想像するとはらわたが煮え繰り返るほど悔しいから。
浅ましく、感情的。
本当に親権が欲しいのか?と自分でもたまに疑問に思うほどに浅ましい。
俺は康介を愛している。
産まれた頃は、抱っこをしているだけで俺は涙を流していた。
小さな温もりと、小さな手。
まだ開いていない目と必死に泣く姿。
夜泣きでミルクをあげている時。
背中を優しくさすり、きみが可愛いゲップを出した時。
その時の背中はとても小さく、とても愛おしかった。
沐浴は腰を痛めることもあったけど、心地よさそうなきみの顔を見れば癒されていた。
どこまで見えているか分からない目で外を眺めるきみの横顔。
ほっぺたに吸い寄せられるように指を近づけ、そのまま抱き上げた。
キスをしたら虫歯になると言われ、我慢するのが必死だった。
ハイハイが変だった。
掴まり立ちは、足が震えていた。
テーブルを器用に掴み、横にぎこちなく歩いていた。
初めて一人で立ち上がり、勇気を持って一歩を踏み出した時、きみは満面の笑みを浮かべた。
ここに至るまでのきみは全てが愛おしく、俺の心は満たされていた。
日々の生活には慣れた。
でも、納得は出来ない。
嫌だ。
あのかけがえのない生活が、俺には必要なんだと思い知る。
涙が止まらない。
もう、自分の手で自分を殺すような事は考えない。
この状況もしっかりと受け入れて、生きていく。
何度もそう思った。
その度に打ちのめされた。
親権はきっと無理。
弁護士は淡々とそう告げた。
相当難しいのは分かる。
でも諦めきれない。
死ぬ事はない。
でも、きっとこれからも打ちのめされる。
いくら状況を受け入れ前を向いて生きようが、必ず心に黒い影は落ちる。
その度に俺は…。
仕事は呆気なく終わり、家へと帰る道中にもまた考える。
胸の内は、誰にも理解されない。
近ければ近いほど、人は遠ざかる。
気を遣い、遠ざかる。
話を聞いて欲しい時、顔も知らない人に話す事はとても楽だと知った。
ふと思った。
今日からちゃんとご飯を食べよう。
炊飯器を買おう。食材や調理器具も揃えよう。
携帯のメモを開き、大型の店舗へと向かった。
以前康介と二人で買い物に来た時、保育園の保護者と遭遇したなんでも揃う大型のお店へ。
下を見ながら店へ入り、大きなショッピングカートを押した。
誰にも会いたくない。
見られたくない。
気付かれたくない。
足りない調理器具をカートに入れていき、炊飯器は在庫限りの一点物。一番安い物をカートに入れた。
足早にレジに向かう。
まだ誰からの視線も感じない。
絶対に顔をあげない。
誰の目も見ない。
セルフレジ。顔を上げるのは嫌だったから目線を下に向けつつバーコードに商品を読み込ませていく。
店員がいらっしゃいませ。と言うたびに周りが気になった。
会計を済ませ、足早に店を出た。
足早に車に乗り込み大きな袋を無理やり助手席に乗せた。
早くこの場を立ち去りたかった。
食材も足早に買った。
牛乳と豆腐、小松菜と豚肉の小間切れ肉と鶏の胸肉。
もやしも買った。
顔をあげず、誰とも視線を合わさずレジへと向かい、足早に店を出た。
俺はもうダメだと何度も思ったが、それでも買い物ができた。
家に帰り、買った商品をキッチンに並べた。
残されていたジップロックに肉を小分けし冷凍庫に入れ、野菜は野菜室に入れた。
調理器具を簡単に水で洗い、炊飯器の説明書を読んだ。
突然手が止まった。
涙が出てきたから。
タオルを取りに行った。
涙が止まらなかったから。
何故か笑えてきて、おもむろに携帯を手に取った。
康介との思い出が詰まった写真と動画のフォルダに、たくさんの表情を見せるきみ。
キッチンに立つ俺を内側カメラで撮った写真には康介がニヤリと笑い、一緒に写っている。
切った野菜を康介にお願いして洗ってもらった。
俺が包丁を使って肉や野菜を切るところをずっと眺めていた。
フライパンで炒める様子を抱っこで見せてあげた。
鍋に沈んでいくパスタの麺を、抱っこされながら興味深そうに見ていた。
携帯を閉じ、俺は涙を拭き続けた。
心が抉られるようだった。
あれからもう、一週間。
慣れろ…慣れろ…。
泣いても康介は帰ってこない。
…慣れろ。
深呼吸をし、炊飯器の説明書を読んだ。
視界は涙で滲んでいたが、タオルで拭きながら何とか読めた。
お米は少し残っていたので早速炊飯器を使うことにした。
今日使う分の豚肉を冷蔵庫から取り出し、フライパンに油を引いて炒めた。洗ったもやしも入れ、味付けは塩こしょう。
小さな鍋には豆腐と切った小松菜を入れた。
沸騰し、火を弱めて味噌を溶き入れる。
ご飯はまだ炊けないので、フライパンと鍋に蓋をし、コーヒーを淹れることにした。
挽かれたコーヒーのいい香りが鼻を抜け、心を落ち着かせていく。
ため息を吐き、キッチンから見えるリビングに目を向ける。
テレビ台に雑に置かれたおもちゃ。
この一週間、毎日目にしていた。
整理する気にはなれず、見て見ぬ振りをし続けた。
ぼーっと立ち尽くし、コーヒーメーカーの電子音が鳴るとすぐにマグカップへコーヒーを入れた。
今はただ目の前のコーヒーに意識を向ける。
牛乳を入れカフェオレを楽しみ、ご飯の炊き上がりを待つ。
LINEの通知音が鳴り、携帯を見ると美沙ちゃんからだった。
今は誰とも話す気にはなれず、既読はつけない。
お金の不安。
建てたばかりの家のこと。
この期に及んでも尚気になる、近所の目や世間体。
一番頭にのしかかるのは、康介と一緒に暮らせない寂しさ。
炊飯が終わり、フライパンと鍋の蓋を取った。
おかずを少しだけ加熱し、ご飯をお椀によそい味噌汁もよそった。
一週間ぶりのまともな食事だった。
枯れることのない涙を拭いながら一人でテーブルに座る。
「いただきます。」
虚しく響くその声に、涙が出そうになり俺は慌ててテレビをつけた。
賑やかなテレビの中の世界。
こうしている間にも世界は変わらず進み続けている事に改めて気付かされた。
あれから一週間。
将来の俺はこの一週間をどう振り返るのだろうか。




